獅子ヶ城(川原田城・東福城・・新潟県佐渡郡佐和田町石田)

*獅子ヶ城(河原田城)は、現在、新潟県立佐渡高等学校の敷地となっており、城の遺構はまったく分からなくなってしまっている。しかし、この場所には幕末に、海防のための番所が置かれており、それについては、古図が残っていて、その形態を知ることができる。

 その古図は佐渡高等学校の校長室に飾られているもので、そこを訪れる機会がなければ目にすることのできないものである。しかし、たまたまその図を写真に撮って送ってきてくれた方がいたので、その古図を元にした復元鳥瞰図を作成して掲示しておくことにした。それが、右の図である。







 佐渡は鎌倉時代に大佛(おさらぎ)北条氏が守護となったが、実際に佐渡に来て権力を握ったのは、守護代の本間氏であった。戦国時代になると本間氏が何家かに別れ、佐渡島内を分割支配するようになるが、北佐渡を支配した本間宗家の居城が、ここ獅子ヶ城である。本間氏の本宗家は雑田城の本間氏であるが、そこから分家した河原田本間氏は、戦国期には最大の勢力を持っていたようである。最後の城主は本間佐渡守高統で、天正17年(1589)の上杉景勝による佐渡攻めの際に、島内の兵をこの城に集めて決戦したが、敗れて、城に火を放って自刃したという。この時生き延びた本間一族が、後に酒田へ移って有名な豪商本間氏となったという。転んでもただでは起きないとはこのことだ。城跡は佐和田の町を臨む独立台地上にあり、周囲を石田川や水田に囲まれた要害の地である。台地上はかなり広いが、県立佐渡高等学校(私の母校だ!)の敷地となっているため、遺構の多くが失われてしまっている。かつて台地上には4郭ほどあり、堀や土塁等もよく残っていたと言うが、現在はほとんど見るかげもない。





 この城は歴史的には「河原田城」と呼ばれており、これが正式名称であると思われるが、地元では獅子ヶ城と呼ばれている。「河原田城」と言われてピンとこない地元の人でも「獅子ヶ城」といえばすぐに分かるのである。私自身にとってもやはりこの城は「獅子ヶ城」というイメージで捉えられている。

 獅子ヶ城の名の由来は、本間家の家紋から来ているという。本間家の家紋というのは十六目結いなのだが、十六は四かける四・・・つまり「しし」である。しし=十六の紋章の城というのを引っかけて獅子ヶ城と言うようになったということだ。別 にライオンを飼っていたと言う訳ではないようだ。ちなみに佐渡高校で毎年出している文集のタイトルも「獅子ヶ城」である。

 もう1つの東福城という名の由来ははっきりしないのであるが、昔、二の丸のことを「西福丸」と呼んだらしい事が史料から分かるので、本丸のことを「東福丸」と呼んでいたのではないかと推測され、それにちなむものであるという。(「佐渡古城史」)

 
 石田川から見た獅子ヶ城。比高20mにも満たない台地であるが、東側には石田川、南は城下町と海、西側は蓮池、観音寺堀などの沼沢地。北側は現在石田堤という池になっているが、元はおそらく天然の沼であったろうといった独立した地形であった。

 さて、この城についても復元ができないかどうか考えてみたのだが、破壊がひどすぎてちょっと無理であった。「佐渡古城史」に載っている地籍図や小字名をみてもイメージが湧いてこない。というわけで、今回は鳥瞰図はなしである。















 佐渡高校のグランド。1周400mもある広いグランドである。もちろんここも郭であったはずである。しかし、現状がこれでは・・・・・・。グランドの向こうの山林の中も削平地で、郭がどれだけ広かったのかは想像に余りある。

 「佐渡古城史」によると、台地先端の現在校舎の立つところが本丸、グランドが二の丸であるという。本丸は南北200mほどのひょうたん型の地形であるが、これが1つの郭だったと言うのはどうかなという気がする。本丸と二の丸との間には幅20mの堀があったという。東側と西側の下に腰曲輪があったが、西側には出丸のような部分もあり、ここを「馬出し」と呼んでいる。その下が蓮池と観音寺堀となる。

 また、河原田の商店街には道が大きくクランクしている部分があるが、これが大手道の名残の地形であるという。











 本丸下の腰曲輪にある学生ホール跡。現在は使用されていないようだが、ここは私が学生の頃は学食であり、昼食時は生徒たちでにぎわっていたものである。
















 河原田城そのものの古図等は存在していない。旧状を知ろうと思って、戦後直後の航空写真などを探してみたのだが、早い時代から城址には佐渡高校が建設されており、古い航空写真において旧状を知ることはできなかった。

 そこで、上記の近世の絵図、現状の地形、地形図などを基にして旧状を想像して書いてみたのが右の図である。大きく分けて2郭構造の城郭であったかと思われる。2郭とはいっても、それぞれの郭はかなり広い。1郭と2郭との間には堀切があったことが、上の図から理解できる。

 1郭は、現在佐渡高校の校舎が建っている部分であり、中世城郭1つ分の面積は優にある。2郭はグラウンドとなっていて、最も遺構が破壊されてしまっていると思われる部分であるが、ここは400mグラウンドが造成されているだけあって、非常に広い場所である。

 この2郭と台地続きの西側との間には堀切があったはずである。これも現在は痕跡がないのであるが、おそらく台地が最も窪んで幅が短くなっている地点に存在していたと想定できそうである。

 2郭の北側には八幡堤と呼ばれる大きな池がある。これがいかにも天然の堀といったように見えるものなのであるが、八幡堤そのものは、近世に入ってから灌漑用水の必要性ゆえに築造されたものであり、城があった時点では存在していなかった。ただし、窪んだ地形であるので、もともと沼沢地のような場所であったものと思われる。となれば、天然の堀のような地形であったことには変わりがなかったであろう。

















 以前房総の城郭のたかしpart3さんに「マンガの『花の慶次』に出てくる河原田城って本当にあるんですか?」と聞かれて、「そんな場面が出てくる本があるのか!」と思い、さっそく私もその本を買って読んでみた。確かになかなか面白い。

 ところで、この本についてだが、実際に前田慶次郎があのような活躍をしたかどうかは別として、史実と比べて気になる点がいくつかあったので、ちょっとまとめてみる。

*まず、沢根本間氏が上杉軍を手引きしたという点だが、これは合っている。佐渡の本間氏の中で、沢根と潟上の本間氏が上杉軍に通じて先鋒となっており、戦後この両家は正式に上杉家臣団に編入されている。ただし、上杉軍団に所属してからは「本間」を名乗るのは遠慮し、沢根家、潟上家となり、会津、米沢へと転封し、今も子孫は米沢に在住しているという。

*景勝や兼続が「早く国府川を渡って河原田城を攻めよ」と再三命令しているのはおかしい。位置的に言うと、相川町との境近くに沢根城があり、その東4kmほどの所に河原田城、その河原田城の4kmほど南が国府川である。上杉軍は沢根本間氏の手引きでニ見の港(沢根のさらに西)から上陸したといわれているから、ここから河原田城に向かうと、国府川は反対側になるので、この川を渡ることはない。それに河原田城の近くにある川は国府川ではなく、石田川である。

*河原田城の主将がなぜか、羽茂城主本間高茂になっている点。これは決定的におかしい。確かに、天正17年の佐渡攻めで上杉軍の攻撃の眼目は、河原田城主本間高統と羽茂城主本間高茂の両者であり、実際この2城では激しい攻城戦が行われ、両城とも落城した。しかし、羽茂と河原田は20kmも離れた所にあるまったく別々の城なのである。それにこの両者は長く反目しあい、戦い続けていた。上杉景勝の佐渡攻めの根拠がもともと「この両者が争いあっていて言うことを聞かない」ということだったのだから、この両者がごっちゃになっていては話がめちゃくちゃであろう。というわけで、結局作者は佐渡に来たことがない人なんだなあと思ってしまった次第である。

 なお、城の遺物として次のようなものがあるという。
*城の大門の土台石・・・・・・河原田諏訪神社の鳥居の礎石。
*城の土台石・・・・・・・・・・・諏訪神社の記念碑の礎石と庭石。本間操家の庭石。矢田求家の庭石。
*城の大手門の礎石・・・・・・妙経寺鳥居の礎石。
*城の虎口門・・・・・・・・・・・本田寺の総門(山門脇の門)
*城の坪石・・・・・・・・・・・・・・中山家の九山八海石。
*城地出土の調度品・・・・・・長木堂坂家の茶の湯釜。石塚甚吾家の天目茶碗。(この2つは今はないという)
*城主使用の陣鐘・・・・・・・・青柳寺の陣鐘。