天神台城(木更津市真里谷)
















 03.1.18の「真里谷オフ」で真里谷城の次に訪れたのが、この天神台城である。天神台城は「真里谷新地の城」に比定されている城の1つである。昼食に時間がかかりすぎるというトラブルがあって(適当な食事場所がなく久留里城下の食堂まで行ってしまったのであった)ゆっくり見ることができなかったため、未確認の部分が多くなってしまったが、ざっと歩いた部分だけとりあえず図にしてみた。(後日、03.12.28、ヤブレンジャーツアーとして、再度この地を訪れ、ほぼすべての部分を描くことができた。というわけで、以前の縄張り図と鳥瞰図を交換しておくことにする。)

 上は天神台城の遠望。比高50mほどの山上にある。山上の2郭と思われる空間には浄水場の施設があるために、上まではいい道がついている。この道の途中、(お)の竪堀状の部分が見られたが、幅7mほどと、この城の造作規模からするとやや大きすぎる。これは自然地形か、あるいは旧道であろう。

 浄水場のある2郭はかなり広い平坦地になっているが、傾斜が見られ(南側に段々高くなっていく)、ところどころ凸凹な地勢で、削平が甘い感じがする。北西側には、高さ1m未満の低い土塁が残っている。

 2郭の南側は下に一段の腰曲輪を備え、それから下の沢に落ち込んでいく。この腰曲輪の部分までは削り落としの斜面になっており、この削り落としを造作したためにできた腰曲輪なのであろう。

 2郭東北部に進むと、3の郭と4の郭がある。その手前にはクランクした溝状の堀切があり、その先に空堀と土橋がある。空堀の深さは1,5m、幅3mほどと規模は小さい。4の郭の空堀の東側がやや盛り上がっており、土塁と見ることができそうだが、城外側のほうに土塁があるというのはどういうことなのだろう。ここから先部分は、元々独立した物見台であったのかもしれない。これを過ぎさらに東に進むと長さ40mほどの3の郭が続き、再び空堀がある。この空堀は規模がさらに小さく、深さ1m、幅2mほどのものである。その先は長さ5,6mほどの4の郭であり、そのさらに先端は段に連なって山下へ下っていく。

 2郭から南に進んでいくと、2段の2mほどの段差があり、(い)の空堀に突き当たる。深さは最大で3m、幅は4mほどである。空堀内部は東側に向かって3段に高くなっていき、東のほうに行くと、2郭からの深さはたいしてないものとなる。この空堀は1郭の東側に行くと腰曲輪状になり、1郭を囲繞し、1郭南部に行くと再び堀底となっている。空堀の深さは1郭南部では1郭塁上から6mほどあり、かなり高くなっている。しかし、その南の郭からの深さは1m未満と、わりと浅い。幅はこの辺りで4mほど。さらにこの空堀はここから西に向けて地勢が低くなり、西側の腰曲輪に接続する。この腰曲輪は北側に向かって途中から中央部が深くなり、横堀のようにもなっている。この横堀的な状態は(い)の辺りまで続いて終わる。この西側に竪堀のようなものが見られるが、単なる水流の跡とも取れる。おそらくは後者であろう。

 1郭には2ヶ所に祠がある。が、もはや誰も訪れるものがないのだろう。すっかり、埋もれてしまっている。1郭は東西30m、南北60mほど。南側に櫓台状の高まりがある。といっても城内側からは1mほどの高さしかないのだが、この部分が南側に張り出していて、両側に横矢がかけられるようになっている。この辺りがこの城で最も技巧的な部分ということになろう。というか、この城できちんと造られているのはこの1郭周辺だけで、後はどうも自然地形が多く、未完成の部分が多いような気がする。

 この南側にさらに郭や空堀などの遺構があるらしいが、竹の倒木がひどい。また時間もなかったので、結局先に進むのは断念した。これというのも、食事に行くのに2時間も取られてしまったからであろうか・・・・・。(しかし、後日、この先端までもすべて確認した。鳥瞰図の通りである。)

 天神台城の全体の印象としては、郭の面積はそこそこ広いが、全体に土塁・空堀などの造作は小規模で比較的単純な構造であるといえる。城域の広さに対する造作の小規模さからして、戦国末期までは機能してはいなかったのであろうと推測される。あるいは「臨時に急造し、未完成に終わった城」とも取れる。そういったことからすると、「真里谷新地の城」がここであるとする発想は的を得ているのかもしれない。




 1郭北側の空堀の土橋。といってもこれでは何が何だが分からない。堀底が段々になって上がっていき、先が西側からだと土橋のように見える状態と言っておこう。















 1郭にあった何かの祠。祠は2つあったが、これは北側のもの。倒れていたので、ちゃんと起こして拝んでおいた。















 1郭南側の櫓台。現状では不整形としかいいようがないが、一応高くなっているのが分かる。
















 1郭南側の櫓台を堀底から見上げた所。こちら側から見るとそれなりの威圧感を持って迫って見える。高さ5mほどはあるであろう。また、分かりにくいがこの右側の部分が横矢状に張り出している。

 今私の立っている所は竹の倒木がひどい。竹林は歩きやすくて好きなのだが、こうまで複雑に倒れていると、歩きにくい事といったらない。













 1郭西側の横堀状腰曲輪。中央部がわずかに窪んでいるが、その西側は土橋といえるほどしっかりとした造作ではない。しかし、まあこれは横堀と見てもよいであろう。
















 1郭東側の土手と腰曲輪を上から見る。こちらはガサがひどくなくてよく見える。1郭塁が切岸となって下の腰曲輪に続いているのがよく分かるであろう。
















 3の郭手前の堀切。中央部から西側を見たところである。規模は小さい。この空堀の城外側が虎口のようになっている。

















 5の郭南側にある櫓台。比高3mほどの高さであるが、一応横矢も掛けられ、堀も掘られている。しかし、この5の郭というのは一風変った郭である。というのは、郭の内部が平坦でなく、渦を巻くように東側中央部が窪んでいるのである。これは単に、平坦地を十分に造り出す前に、工事が中断したと言うことなのかもしれない。つまりこの城は未完成で終わったかもしれないと言うことである。

 それとも、下から上ってくる敵を、蟻地獄のように擂鉢状の部分に閉じ込め、それを迎撃するシステムなのか・・・・ということはないのであろうが、いろいろ考えさせられる部分である。













 6の郭の一番南にある、堀切的な部分。しかし、現状では遺構は明瞭ではなく、倒竹がなかったとしても、それほどはっきりしたものではない。とはいえ、この先は、尾根状の部分が伸びているだけになるので、実質、ここが城外との区画部分である。もう少ししっかり堀切を入れるのが普通であると思うが、なんだかよく分からない遺構である。6の郭自体もよく分からない。というのは、この郭は5の郭同様、削平が非常に甘く、地勢が斜めのままである。やはり未完成の郭なのであろうか。














 さて、天神台城と言えば、「真里谷新地の城」であったかどうかということが問題になる。当日渡された資料(「千葉城郭研究3号」掲載の論文)では、この天神台城こそ、「真里谷新地の城」であろうとしている。こちらが、かつての真里谷城で、現真里谷城が新地の城であったのではないかという説もあるようだが、その説にももっともな理由があるのである。というのも現真里谷城は「真地」という所にあるからである。現真里谷城がやはり武田信長の取り立てた真里谷城であるとしたなら(もちろんこれが常識的な説なのだが)、新地の城はこの天神台城あたりに比定するのが妥当であるとは言えると思う。ざっと遺構を見た印象として、確かにあまり時間をかけて造作された城とは思えない。急遽築かれ、長期間使用されることはなかった城という感じはする。ただ、素朴な疑問を感じるのは、当時真里谷氏の勢力範囲は真里谷だけに限定されたものではなく、「新地の城」を対立している真里谷城からこんなに近い所に築かなければならない必然性があるのかどうかということである。こんな近くでは、築いている最中にすぐに攻撃されてしまうであろう。北条氏綱書状に出る「真里谷新地」は、真里谷という狭い地域の新地ではなく、真里谷氏にとっての新地の城という意味であったかもしれない。とすると「新地」の範囲はかなり広げて考えることもできるかもしれない。また、すぐ向かいの要害城との関連をどう考えるかというのも、面白い話題である。

 といった興味は尽きないが、余り時間がなく、十分に踏破することができなかった。残念! あの昼食が悔やまれてしまうのであった。。。。。。

 その後12/28のヤブレンジャーツアーで再びここを訪れた。今回は全部を見ることができたのであった。しかし、「新地の城」については未だ自分なりの結論は下せていない。























大竹屋旅館