*参考資料  『新潟県中世城館等分布調査報告書』 『日本城郭体系』 『佐渡古城址』 

下畑城(波多城・はざまの城・畑野町下畑字城ノ前他)

寺田城(畑野町寺田字城田)

 下畑城は畑野と金井を結ぶ金畑線の途中、下畑集落の北西端辺りにあった。しかし、大規模耕地整理が行われたために、現在では遺構は消滅している。しかし、地元には「はざまの城」が存在していたという伝承が残っている。

 城址周辺には「堀田」地名があり、また北側には「道場の後、稲葉」、南側に「馬場、唐崎」、付近に「城ノ前、堀崎、梶屋敷」などの地名を残している。

 すぐ隣接して北側に、県指定史跡の下畑玉造遺跡があり、この一角は、耕地整理されずに残っている。そのため、この遺跡が城址だったのではないかという印象を受ける。

 玉造遺跡については発掘調査が行われているが、その結果、古代のものしか出土しておらず、中世城館があった痕跡はなかったようだ。城址は隣接する南側にあったと考えられる。

 下畑地区は、かつて国府に関連するかと思われる条里制の集落があったところで、古くは波多郷と呼ばれていた。下畑城は、この条里制の区画を利用し、周囲に堀を廻らせた単郭長方形の城館で、土塁などは築いていなかったという。

 『中部地方の中世城館』(東洋書林)によれば、下畑城は、元享3年に北条惟貞から波多郷内の代官所を安堵された本間有綱の居館であったという。そのため資料に出てくる波多城とは、この城のことであったと考えられている。

 大永4年、波多城主は、雑田本間氏と羽茂本間氏との抗争の中で、雑田本間氏に援軍を派遣している。

 城址に隣接して下畑の集落が営まれているが、周囲は水田に囲まれており、集落自体が環濠集落のような形状をなしていた可能性があると思われる。





 寺田城は、下畑集落の南側、安国寺の東南側にあった。方50mほどの城館であったと考えられているが、現在は宅地化や耕地整理で遺構を残していない。周囲の水田がかろうじて堀跡らしい雰囲気を見せているくらいである。

 城址の周辺には「屋敷」「住屋」「堂の前」などの地名が残る。

 寺田城は、雑田本間氏に属した土豪渡部氏の城館であったと考えられている。
















 

 

 安国寺。周辺の水田はみな、堀跡のように見えたりする。





































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