千葉県富里市

1.中沢城(冨里市中沢字城山)

 中沢城は、昌福寺の東500m、ウッディゴルフの西500mほどの位置にある。ウッディゴルフの北東の信号の所から西側に進み、左に曲がる2本目の道を進むと、道は次第に降って行く。この時正面に見える台地先端部が城址である。

 中沢城は、北西端に張り出した台地の先端部を利用して築かれた単郭の城館である。北に突き出したひし形状の形態をしており、規模は60m×80mほどある。

 城内をざっと見回していて目立つのは(あ)の虎口である。この虎口はあがって来る所で左側に導入路が曲げられており、内部は枡形的な空間となっている。ここへの登城路であるが、(あ)の虎口を降りていくと(い)の平場に出る。(い)より下にも道が続いていたのだろうが、現在ではちょっと分からなくなっている。この(い)の平場は下の切り通し道を見下ろす位置にあるが、この下の道との関係も理解しにくい。この下の切り通し道も上がっていくと1郭下の堀底と連絡しており、これももともとあったものだったことは間違いない。つまりここでは登城路が2本、2段構造で平行しているのである。(い)の部分には、下の切り通し道を監視するという役目もあったのであろうか。

 この他にも郭内に虎口らしい所は3ヶ所ある。(う)の虎口は土塁を切り通しにしたもので、台地基部の方から土橋を通って入ってくるようになっている。これも本来の登城路であったものだろう。虎口東側の土塁は高さが郭内からでも2mはあり、上端幅も割と広くしっかりと積まれている。東側が台地続きになるので、こちら側を厳重にしているのであろう。土塁の外には(か)の堀切を入れて隔絶を図っている。この堀は城内側で深さ3m、城外側で2m、幅は6mほどある。この部分の堀底にはいくつか段差があるが、もともとは畝があったのかもしれない。また、堀の北端に落とし穴のような窪みがあり、その先が(う)につながる土橋となる。この土橋の脇に落とし穴を置くというのは防御的な観点から有効なことであると思われるが、この中はゴミ捨て場にもなっているようで、ゴミを捨てるために掘られたものである可能性もある。

 (え)と(お)の虎口は、それぞれ下の腰曲輪、あるいは平場との間と接続するものであるが、どちらも造作が小規模で、後世の改変による可能性が高いと思う。

 郭内は削平がそれほど十分であるとはいえず、特に西側半分はかなり地勢が傾いている。ことに一番西に寄った辺りは段差をつけて下の部分を腰曲輪にしようとしたのではないかという感じもするが、この段差もそれほど明瞭なものではない。いずれにせよ、居住空間として長い間使用することを意識してはいなかったのではないかという印象が強い。伝承では三谷氏の居館ということであるが、実際には一時的に取り立てられた砦であるだけなのかもしれない。単郭構造の簡素な砦であろう。

 城址の下は水田地帯である。これらはもともとは泥田堀として利用されていた可能性がある。














北側から見た中沢城。比高15mほどの台地先端部を利用している。 (あ)の虎口を下から見たところ。内部に入ると進路は左側に曲がっている。
(か)との間にある堀切。右側が城内側で、高さは3mあまりある。 南側の横堀。堀底道は切り通しの通路となって台地の下まで続いている。右側の城塁は高さ7mほど。
中沢城は、富里町で唯一、遺構が良く残っている城址である。中沢区野馬木戸の城山(じょうやま)と呼ばれている、比高15mほどの台地上にある。戦国時代の城で、城主として三谷氏が推定されているが、詳細は不明である。






  

2.立沢城(冨里市立沢字八つ堀)

 立沢城は高崎川の南側の低地に突き出した比高6mほどの台地上にあった。八つ堀と呼ばれている台地である。観照院の東南400mほどの位置で、台地の東側の向かいには青年館がある。

 北側の川に向かって、いくつかの台地が突き出しているが、その中央の一番細長い台地上に城はあった。しかし、台地上は耕作地となって久しいらしく、遺構のほとんどは失われてしまっている。それもずいぶん昔の話らしく、地元の方のお話を伺っても「城があったという伝承はあるが、跡は残っていない」というように言われてしまう。耕作地化した城址ではよく「ああ、昔は堀があったんだけど、埋めてしまったんだ」という話を聞くことがあるのだが、ここでは「昔埋めたという話だ」という話すら伺うことができなかった。今でも城があったという伝承も一部のお年寄りにしか知られていないようだ。しかし、部分的ではあるが、城館を思わせる遺構はちゃんと残っている。

 この台地上はかなり広大だが、台地の一番南側には深さ1mにも満たないような浅い堀の跡(か)と、その城内側には土塁が残っている。これは城の堀としてはかなり浅いので、遺構と見てよいのかどうか迷ってしまう所であるが、ここに城があったことは間違いないので、もともとあった深い堀と高い土塁が埋められて浅くなってしまったというように一応、考えておく。ただし、この堀はまったく直線的であり、これだけの規模の城の堀としては構造が単純すぎるという点が不自然であるという気もする。この台地は「八つ堀」と呼ばれていて、地元の方のお話だと、屋号や苗字を言わなくても「八つ堀の家といえばみんな分かる」そうなのだが、「この浅い堀ゆえに八つ堀と呼ばれているのではないか」ということであった。

 城館遺構として確実なのは、台地先端に近い所にある(あ)と(い)の土塁であろう。これらは高さ2mほどのものだが、分断され大部分は埋められてしまっており、やっと部分的に残っているどいう状態に過ぎない。だが、もともとはこれが四周していたのではなかろうか。特に(い)の土塁の東側には深さ5mほどの堀が一部分だけだが残っている。本来はこれと同程度のものが巡らされていたのであろう。

 その他に、(え)の部分辺りにある虎口状の部分と土塁の一部も遺構であるのかもしれない。(土塁の方は後世の風よけ土塁の可能性もある。) また(う)の部分も堀の名残と見てもよさそうに見える。この(う)の堀の南側には凸凹した窪みがいくつか見られるが、これは何だろうか。この場所が八つ堀という地名であるということは、八本ほどの堀があったと一応想定できる。(谷津堀、あるいは八の字の堀であったとも考えられるが) この辺の複数の凸凹は「八つ堀」という名称となんらかの関係があるのかもしれない。

 ざっと見たところ、立沢城の現況はこのような感じであるが、これをどのような城郭と見ればよいのであろうか。台地上のほとんどが一面の耕作地となってしまっているので、細かい形状はさっぱり把握できない。

 まず、全体の規模がどの程度のものであったかということである。南側の(か)の部分までを城域とするなら、この城は広大な台地全体を取り込んだ、かなり大規模な城郭ということになる。城内の広さは坂田城(横芝町)にも匹敵するほどの面積であり、兵揃えを行うことも可能である。先に述べたように(か)の堀はかなり浅いものではあるが、台地基部から切り離すとしたら、この位置が最もふさわしい場所である。この辺りから南側にかけて次第に地勢が高くなっていくし、幅も広くなっていくので、ここに堀を入れないと城域の区画性を保てない。また台地中央部にある(う)の堀跡や(え)の虎口なども城の構造の遺構の名残であるというように捉えれば、台地全体に4,5郭ほどが配列された巨大城郭であったということになる。台地基部に近い所に「八つ堀」という地名が残っていることも、ここまで城域であったことの証左といえるであろうか。

 しかし、一方、そのような大きな城郭がこの地域に存在するだけの理由があるだろうか、という疑問点もある。地元の豪族の居館であるとしたら、台地先端の(あ)、(い)の堀、土塁で囲まれた、方100mほどの館的部分だけで十分である。現状で明確に城郭遺構と言えるのは、この部分だけであるので、残りの遺構らしきものを「城」と切り離して考えれば、水田地帯に臨む、台地先端の豪族館として整合性はある。

 結局、どちらが正しいのか断定するだけの材料には欠けている。(か)の堀がもっと明確なものであったら迷うことはないのであるが、こちらが痕跡に近いものになってしまっているので、判断を鈍らせるのである。とはいえ立沢城がこの地域の拠点となるべき巨大城郭であったという可能性も検討には値しよう。

水田越しに北側から見た立沢城。比高6mほどで、それほど高い台地ではない。 (え)の虎口のようなもの。後世の通路に過ぎないのかもしれない。
(う)の部分に一部だけ残る土塁と堀。現状では深さ2m未満にしか過ぎないが、もとはもっと大きかった可能性は十分にある。 (か)の堀に面している土塁。高い所では2mほどの高さがあるが、その先(城外側)の堀は、現状では深さ1m程度の痕跡的な状態になっている。しかし地元の方は「これが八つ堀の由来の堀なのではないか」と言っていた。
(い)の土塁の脇から(あ)の土塁を見たところ。この二つはつながって、方形の郭を成していたらしいことが伺える。 (い)の土塁の裏に残る、深さ5mほどの堀。残存部分はほんのわずかであるが、この遺構を見れば、ここが城であったことが間違いないということに確信がもてる。
 上記の通り、この城を拠点的な大城郭であったと見るのか、土豪の居館であったと見るのかによって評価はまったく違ってしまう。台地上の耕地整理はそうとう早い時期に行われてしまったようで、地元のお年寄りですら「堀を埋めたなどという話は昔から聞いたことがない」とおっしゃるほどである。近世段階で、耕地化がある程度進んでしまったのかもしれない。(あ)の土塁の脇にあるお宅に住んでいるおばあさんは、すぐ近くに堀が残っていると言うことすらご存じでなかった。伝承についても「城があったらしいということは聞いているが、どんな殿様がいたのかは知らない」という程度にしか残っていないと言うことである。ただし、たとえば「北条氏が拠点城郭として一時的に取り立てたが、北条氏の滅亡とともに比較的早く廃城になってしまったところ」であったと仮定するならば、もともと地域に根付いていた城郭ではなく、伝承が残っていないことも仕方がないと言えるかも知れない。いずれにせよ、確実なことは分からない。






3.日吉倉城(冨里市日吉倉字ゆーげ山)

 

 久能カントリークラブの北西端を東関東自動車道が通っているが、高速の高架を抜けたすぐ北側の比高15mほどの東台の台地先端部を「ゆうげ山」と呼んでいる。これは「ゆうがい山」すなわち「要害山」の転であると考えられる。また、南側の麓には「城の越」と言う地名も残っており、こうした関連地名からも城があったことは間違いないと考えられる。根木名川をはさんですぐ東側には川栗館が向かい合っており、根木名川沿いに展開する城館ネットワークに属した城の1つであったのであろう。

 台地の途中を成田駅に向かう道が南北に走っている。この道の西側には円勝寺と大子幼稚園があるが、この道よりも東側が高くなっており、ここが城域を区画する堀の名残であったと想像される。

 台地の全域は宅地が立て込んでしまっているために改変がひどく、現在では遺構は認められない。もしかしたら民家の庭の内部に土塁が残っている所もあるのかもしれないが、城内を歩くためには必ず民家の庭奥に入らなければならないので、現状では確認するすべもない。

 2500分の1地形図を見てみると、台地上に南北に二つの郭(ただしどちらが主郭であるのかは分からない)、北東側に下にもう1段の郭を配していたらしい様子が伺える。しかし、それ以上のことは分からない。

 台地の南側の土手、東側の土手はわりと城塁のように見えるので、これが切岸であったとすれば、唯一の遺構ということになるであろう。ただし、南側の土手は、やや近代的な感じがするので、後世の手が入っているのかもしれない。
 



















日吉倉区城ノ腰の「ユーゲ山」という台地にある。「ユーゲ山」は要害山がなまったものだと考えられる。久能区からダイエー方面に向かう道の途中で、東関道の高架のすぐ先にある。川栗館、東和田城と近く、同じ支城網の一角を担っていたものと思われる。  主郭部の土手を東方から見たところ。台地上はすっかり宅地化されており、改変が著しく、土塁状のものも残ってはいるが、どこまでが城としての遺構なのか、確認できない。
歴史についても未詳であるが、連絡用の砦と言った程度のものだったのではないだろうか。

 






4.新橋(にっぱし)城(冨里市新橋字郷辺田)

 

 新橋城は富里町新橋の麻賀多神社のある台地上にあったといわれる。台地は比高20mほどの南に突きだした半島状のもので、下の道から石段を上がっていくと、神社の敷地が2段になっており、郭の一部のような形状をしている。土塁が残っているといわれるが、その上の部分は山林化しているので、はっきりとは分からなかった。城主等も明らかではないが、西に本佐倉城、東に中沢城、南に上勝田城などの要害があり、これらを結ぶ位置にあるところから、つなぎの城と考えてよいのかもしれない。しかし、この城は千葉県の悉皆調査でも採用されておらず、明確な遺構もない所から、城ではない可能性もあるというべきである。






5.堀ノ内館(冨里市新橋字堀之内)

 堀ノ内館は、新橋城の南400m、堀ノ内と呼ばれる辺りにあった。新橋観音堂や公民館のある辺りだ。水田地帯に突きだした比高3mほどのごく低い台地上であるが、観音堂の裏手の畑地との間にはわずかながら土塁や空堀のような遺構が見られる。この畑の辺りが館の跡なのだろうが、ここはきれいに整地されてすっかり畑となっているので、他には特に遺構らしきものを見ることはできない。



6.久能城(冨里市久能字竹ノ下)

 久能城は城郭であるとはいえないかもしれないが、一部地元の人から「久能城」と呼ばれているので、一応紹介しておこう。位置は久能地区の北部、潮音寺のある台地のすぐ東側に隣り合っている台地上である。この辺りは、根木名(ねこな)川の周囲の低湿地に半島状の台地が入り組んでいる所で、すぐ対岸には、神崎氏の川栗館が見える。また、1km下流には日吉倉城がある。比高は6〜7mと高いものではないが、周囲は懸崖で、低湿地に囲まれているので、要害の地であることは間違いない。北側の道沿いには整った石垣があり、これを遺構と考える人もいるようだが、石の積み方からして明らかに中世城郭のものではない。

 富里町の教育委員会で聞いたところ、かつてあった酒蔵の遺構であるということであった。したがって、ここが城址であるのかどうかも怪しいところなのだが、気になるのは、今この辺りを「竹ノ下」と呼んでいることである。「竹」は「館(たて)」の転として、よく見られる城郭関連地名である。地形から考えても、中世の居館があったところと言って良さそうなところではある。




7.立沢二重堀(参考)

 立沢地区の南端近くに「二重堀」という小字がある。富里工業団地から立沢地区に入ってくると、道は一度沢に降り、次の比高10mほどの緩やかな台地に上がっていく。この台地の南端辺りを二重堀と呼ぶのである。

 なんらかの城郭遺構かもしれないと思って歩き回ってみたが、はっきりと城館を思わせるようなものはなかった。ましてや二重の堀がどこにあるのかも分からない。家がまばらで歩いている人もおらず、尋ねることもできない。

 この台地は東西250m、南北800mほどの大きなもので、台地のほとんどは畑地となって改変されている模様である。ところどころに土塁のようなもの、切通しの道などが見られるが、なんともいえない。また、この付近は牧の遺構の土手も数多く残されているので、土塁=城館とも言えないのである。後日また調査してみたい。


























大竹屋旅館