鳥越城(新潟県佐渡郡畑野町小倉鳥越字城ヶ平)

 鳥越城は私にとって最もなじみの深い城であった。佐渡の小倉の私の実家の目の前にある山が、その城であったからである。故郷にいた頃、私は毎日この山城を見ながら暮らしていた。

 鳥越城は規模の小さな山城であり、小倉城の見張りのための出城であったと言われている。城の前を流れる小倉川は、この辺りでは谷を形成し、前面のこの谷が天然の要害となっていた。川の先には北陸街道が通っており、この街道を押さえるという機能をも持っていたものと思われる。

 ただ、最近、この城の出城としての機能にやや疑問も感じるようになってきた。というのも、小倉城とこの城との間にはかなりの距離もあり、連絡機能がきちんと働いていたのかどうかよく分からないからである。烽火をあげるにしても、お互いが見える位置関係にもない。また、この城は麓に「屋敷」と呼ばれる居館の跡もある。もしかすると、単なる出城というより、この土地を支配した豪族の城と見たほうがよいのかもしれない。
 山上は詰めの城であり、主体は山麓の「屋敷」にあったものであろう。


 また、対岸の山の中腹には、中近世、この地の名主であった余湖氏の蟹穴屋敷がある。その麓には「なこや(根小屋?)」という屋号の家もある。この蟹穴屋敷との関係もいろいろと考えさせられる。








 左の図は、中学校2年の時の自由研究で城跡を実測調査したときの図面である。私が人生で最初に描いた縄張り図がこれである。

 夏休みの自由研究で私の家の目の前にあるこの城のことを調べて、「鳥越城の研究」として原稿用紙100枚ほどにまとめて提出した。先生は「よくこんなに調べたねえ」と感心しつつも「でもね、自由研究は理科関係のものじゃなくてはならないんだよ。悪いけど、別にもう1つ自由研究やってきて」と言われて愕然としてしまったのであった。何のための自由研究なのか・・・・・・・・。

 測量も、当初友人のO君に声をかけて2人で巻尺を持って図っていたのであるが、彼は「なんで真夏に薮に中に入って、こんなつまらんことをするのか!」と言って、一度で退散。結局私一人になってしまった。昔も今も、そういう仲間を探すのは大変だ。

 後ろに屏風のように立ち並ぶ山塊が背後の城壁となり、左右には沢、前面には小倉川があり、小さいながらもなかなかの要害である。

 頂上は長軸50mほどの長方形になっており、北側(図の右側)に土塁が残り、櫓台のようになっている。主郭と下の腰郭に、直径1mほどの窪みがあり、かつての井戸の痕跡とも思われる(と当時書いたのだが、これは後世何かで穴を掘っただけのものかもしれない)。

 主郭から下に向かっていくつかの小さな郭が連なっていき、山の下には堀に囲まれた平坦地があり、ここには現在民家が1件建っている。この家は古くからの屋号を「屋敷」というので、平時の居館の跡だったと思われる。そこの門の跡あたりに、大きな石がごろごろしているのだが、かつての門の礎石か何かなのかもしれない。そのさらに1段下の河原近くにも郭のような平坦地があったということだが、そこは今ではダムの底に沈んでしまっていて確認できない。






 

 

 私の実家の登り口の下から見た城址。比高100mほどだが、標高は200mほどある。それだけ山の中だってことだなあ・・・・。現在、城と手前の県道との間には小倉ダムがある。私が物心つくかつかない頃にできたダムである。いまや1年に一度しか帰ることはないが、こう見ているだけでも懐かしさがこみ上げてくる。















 東南方向から見た所。下に小さく見える家のあるところが「屋敷」である。屋敷の周囲は一段低く水田となっており、かつては泥田堀があったと思われる。私は毎日この風景を見ながら小学校に通っていた。

 上でも述べているが、対岸の私の家の北の上にはうちの分家があるのだが、そこの屋号は「なこや」という。これは「根小屋」がなまったものかとも思われるのだが、この位置に根小屋があるというのもなんだか変だ。語源は別の意味なのかもしれない。












 私の家の裏山の水田から見た鳥越城と背後の山塊。右手の奥は柳平と呼ばれる水田地帯になっている。手前中央に見える水田が「蟹穴屋敷跡」である。












 ところで、鳥越の名の由来は、畑野からここへ向かう途中の峠に白山神社の鳥居がかつてあり、鳥居を越えたら小倉だ、というところからつけられたということである。

 鳥越城の本城であったという小倉城は天正17年の、上杉景勝による佐渡大攻撃の際に、さんざん抵抗したあげく落城したということになっているが(その際のエピソードは今も残っている。楠正成の千早城さながらの籠城戦が行われたということになっているのだが、ちと怪しい。)鳥越城もその時落城して、そのまま廃城になったのではないかと思われる。それにしても、この城跡を写真付きで紹介するのは、私が日本で最初だろうなあ・・・(最後かも)。


蟹穴屋敷(畑野町小倉鳥越)

 蟹穴屋敷は、鳥越城の向かいにある中世の居館の跡である。下の道からの比高は30mほどある。写真の中央の土手状の高まりがそれで、前面が高さ10mほどの急な土手になっている。館跡は現在「おおぜまち」と呼ばれる水田になっており、その周辺には「乳母田」「太郎」「次郎」など関連地名を冠した水田がいくつもある。館跡の水田の中にはかつての庭石と伝えられる巨石が2個残されている。

 蟹穴屋敷は中世、近世を通じてこの地の名主であった余湖氏の居館の跡である。蟹穴の余湖氏は中世の古文書にも何度か登場する。また宝暦の大飢饉の際には、この館で炊き出しを行ったが、飢餓のためこの館までの道の途中で飢えて倒れ死す者、粥を食べてから降りる途中で死んでしまう者などが続出したと伝えられている。


 ところで、この宝暦の大飢饉では小倉や猿八で多くの死者が出た。小倉ではそのうちの200人ほどをまとめて大穴を掘って埋葬し、そこに碑を建てた。それを人よんで餓死塔婆という。この餓死塔婆について次のような話がある。

 小倉に住んでいた駐在さんがある日、夕暮れになって帰ってみると、自宅の奥に何か人影のようなものが立っている。

 泥棒かと思った駐在さんが、身構えながら「何者だ!」と声をかけると、影の主はゆっくりと姿を現した。

 それは白い着物を着た老人だった。

「まあ、こわがらんでもええ、わしは餓死塔婆にいるものだ」
「餓死塔婆!? それは何だ!」
「後ろの空き地に碑が建っておろう。それが餓死塔婆じゃ」

 確かに後ろの空き地には、何かの碑のようなものが建っていたことを駐在さんは思い出した。

「ああ、あれのこと・・・・」
「あんたは知らないことかもしれないのう。宝暦年間に、佐渡では大変な飢饉が来た。それはもうひどいもので、食べ物を食べられずに飢え死にしたものが何人もいたのじゃ。小倉だけでも何百人という死者が出たもんでなあ・・・。そのうちの200人を穴を掘って埋めたんじゃ。そして、そこに碑をおったてた。それが餓死塔婆じゃ。昔は毎日、ご飯を供えてくれたものじゃが、このところ、そういうことも忘れられてしまったものらしい。今ではご飯を供えてくれるものもなくなってしもうた。お前さんや、時々でかまわんから、白い飯を備えては下さらんか・・・・・」
「ああ・・・・。そのくらいのことならお安い御用だが・・・・・・」

 あなたは何者かと聞こうとしているうち、はっとすると、老人の姿はいつの間にか消えてしまっているのだった。

「あれ・・・・ご老人、 どこに行ったのか」

しかし、もはや老人の姿はどこにも見えない。

 次の朝、駐在さんは、近所の空き地にある碑をたずねてみた。碑の文字は長年の風化作用で読みにくくなっていたが、そこには確かに「餓死塔婆」とあった。
「すると、あの老人は・・・・・・・!」

 そのことがあってから、餓死塔婆には時々白いご飯が備えられるようになったという。私がまだ生まれる前の話である。




 

木石(もくせき)城

 これはいわば「秘密基地」の類である。男の子というのは小さい頃から秘密基地を造るのが大好きであり、私も友達とあちこちの山の中などに秘密基地を造っていたものである。

 これは小学生の時に仲間たちと造った秘密基地の一種である。古いノートを見ていたら図面が載っていて懐かしくなったので掲載してみることにした。

 当時、学校の通学路の途中に採石場があった。といっても、すでに採石は行われておらず、そこはただ石が乱雑に置かれているだけの場所であった。そんな格好の場所にわれわれが目をつけないはずがない。

「ここに俺たちの城を造ろうぜ!」ということになった。石がたくさん転がっているのだから、それを適当に積み上げていけば石垣造りの城が造れるのではないかと思ったのである。

 最初は西側(図の左側)を自分たちの城にしようと考えた。そこには直径2〜3mくらいの岩が海辺のテトラポット状にたくさん積み上げられており、その岩の間には隙間があって、中に入り込めるようになっていたのである。当初はそこにもぐりこむのが楽しくて、中で隠れんぼをしたりしていた。石の山だったのでそれを「石山城」などと呼んでいた。

 しかし、それで遊んでいるのを誰かに見られてしまったらしい。後で学校の先生に呼び出されて「そんな危険なところで遊んではいけない!」と怒られてしまった。確かに今考えると、その通りで、乱雑に積んだ岩の隙間にもぐりこんでいたのだから、いつそれが崩れて下敷きになってしまうかもしれない。そこで遊ぶのを禁止するのが大人の感覚では常識である。実際、それからしばらくたって、その岩が崩れてしまっていたので、運が悪ければ下敷きになっても仕方がないところだった。

 そんなわけで、岩山で遊ぶのをやめて、すぐ隣の小丘に新しく自分たちの城を造ることにした。採石場の中の小丘で、本丸の大きさは方5mほどあった。本丸をここに移転したのである。そういうわけで石山城の所に「旧本丸」と書いてあるわけ。その小丘に石を運んでは、積み上げていった。といっても小学生のやることだから本格的に石積みができるわけでもない。ただ、テキトーに積んだだけなのだが、それでもかなりの労力をかけて、自分たちの「城」が次第に出来上がっていった。といっても、一緒に作業をしていた友達たちはすぐに飽きてしまったようで、最後のほうは結局自分ひとりだけで、毎日毎日石を積み、並べたものである。

 ある日曜日なんかは一日中、石を積んでいた。この採石場は道路からすぐに近いところにあるので、脇を走っている車がみんな「何をしているのだろう」というような目で見ていく。それでも気にしないで、ひたすら石を積み上げ続けた。「石って重いんだなあ」ということを実感で感じた。

 まあ、そんな風にして造った秘密基地「木石(もくせき)城」の構造図が上の図である。「天守」などと書いてあるが、実際にそんなものを建てられようはずもなく、実際には方形の区画に石を並べただけのものである。

 ところで、木石城を造っているときに、気になっていたことがあった。この採石場は崖の下にあったのだが、崖の上の方に、直径5mほどの岩がせり出していたのである。ちょうど本丸の上あたりで、城を造りながらわれわれは「あれが落ちてきたら、ここ、つぶれちまうよなあ」なんていったものである。

 それから何日かたったときのこと。ある朝、みんなで登校している途中に、木石城の前を通りかかって、みんなは「あっ」となった。例の、崖の上にそびえていた岩が下に転がり落ちていたのである。そして、その岩は本丸を完全に潰してしまっていた。これでは本丸は使用できない。完全に落城である。それどころか、もし作業中にその岩が転がり落ちてきたなら、本丸にいた全員が即死間違いなしであったろう。

 木石城遊びは、それをきっかけとして終わってしまったのであるが、あそこに城を造っていた日々はけっこう楽しいものであった。石で造ったものはけっこう長持ちするので、本丸こそは完全につぶれてしまっていたが、その後何年も、城の形状はわりと維持されていた。

 それから10数年たって、近くで工事が行われたので、その時にここが資材置き場に使用されたようで、城の形状は完全に破壊されてしまっていた。今でも、採石場跡は残っているが、30年以上前に造ったわれわれの木石城は完全に隠滅してしまっている。もっとも、発掘でも行われたら、何か出てくるかもしれない・・・・・・。

 ちなみに場所はここであった。




隠れ城

 中学生1年生の頃、夏になるとわれわれはよく川で泳いでいた。当時、近くにプールなどというしゃれたものはなく、海もけっこう遠かったので、ちょっと泳ぐには近くの川が一番手っ取り早かったのである。そんなこともあって、大人からは「危ないから泳いではいけない」などといわれた淵などにこっそり行っては泳いでいたものであった。

 その中で「八代淵」というところがあった。昔小学生が溺れて死んだといったこともあり、そこで泳いでいるのがばれると、大人に怒られてしまう。でも、けっこう上の道からは陰になっていて見えにくいところにあるので、友達とそこに降りて行っては泳いでいた。

 ということで、毎日毎日そこに泳ぎに行っていたのだが、そのうち泳いでいるだけでは物足りなくなった。例によって「城を造りたい」虫がうずいてきたのである。

 そして気がついたときには川原に石を積んで並べ始めていた。築城開始である。そんなわけで、水遊びの一環で、石を積んで造った秘密基地がこの隠れ城であった。その名の通り、小倉川でもこの辺りは道路からだいぶ降ったところで見えにくいところにあったので、以前の木石城とは違い、人に見られる心配もなかった。だから人目を気にすることもなく、ひたすら石を積み続けた。何しろ川原であったから石材に困ることはなかった。その図面は上にあるやつであるが、出枡形をつけるなど、けっこう技巧的である。要するにプロであろうと、子供であろうと、防備を固めるための工夫というものの発想は似たようなものになるということであろう。石を積むと言っても、せいぜい高さ1m未満である。それでも少年にとってはそれは立派な「城」であった。

 隠れ城は夏の水遊びの片手間に造ったものだったので、夏休みが終わってしまえばもう、ここに行くこともなくなった。そしてある台風の次の日、ちょっと気になって隠れ城を見に行って見ると、城は完全に破壊されてしまっていた。自然の猛威の前には、こんなちっぽけな城など、まさに風前の灯である。

 その後10年以上も形跡を残していた木石城とは異なり、わずか数ヶ月の寿命であった。

 場所はここだったなあ。






































大竹屋旅館