臼井城と周辺城郭群(佐倉市臼井田字城内)

 (臼井城、臼井田宿内砦、稲荷台砦、田久里砦、仲台砦、洲崎砦 + 謙信一夜城(王子台砦))

 臼井城は下総地方でも、本佐倉城などと並び、有数の巨城であった。また、大田道灌、上杉謙信といった著名な人物に攻められたことでもよく知られている。臼井氏の時代、原氏の時代、徳川家臣酒井家次の時代と、さまざまな領主の変遷をみており、それぞれの時期ごとに拡張されてきた様子も想像される。最終的には南北1km、東西600mもある台地全体を城郭に取り込んでいるという点でも画期的な城郭である。

 臼井城は地図にもよく載っているし、国道296号線から城址が見えるので一見すぐいけそうなのだが、ちょっと入り口がわかりにくい。

 佐倉の方から国道296号線を八千代方面に走ると、臼井の辺りで信号を左折する「中宿」の交差点がある。この交差点を国道に沿って左折するのではなく、まっすぐ進み50m先の「保育園入口」とか書いてある次の信号を左折、そして20mほど進んで細い道を右に入っていく。そうすると、城址が目の前に迫り、駐車場が見えてくる。
 

 駐車場のあるところは本丸の堀が竪堀のように台地下に切れていったところである。この辺りは堀がとても深く、本丸の土塁上からだとざっと20m近くある。本丸虎口だけあって守りはとても堅い。

 写真の堀は、土橋の北側部分である。幅は20mほどあり、とても広い。この規模は佐倉城などとも似ており、近世になってから拡張されたもののような印象がある。

 土橋は、かつては幅2mほどであったが、公園化するに当たって、重機を入れるため広げられた。現在では5mほどある。この土橋を入ると、両脇に巨大な土塁がある。どちらもかなりの大きさがあり、櫓台のようでもある。(実際、左側の土塁の上には何かの祠が建っている) 

 本丸は、私が初めて訪れた1985年ころには、一面の畑地や藪であったが、90年代になって公園化が進められ、現在は城址公園となって市民の憩いの場となっている。

 本丸は東北、北西が馬出し状に出っ張った変形雑角の三角形のような形をしており、郭の一辺は長いところで150mほどある。また、東南、南西側には高さ60cmほどの低い土塁が取り巻いている。この上に土塀があってのではないかと思われる。

 本丸の南側は断崖となっているが、北側は少し傾斜が緩かったようだ。そのため、一段下に腰曲輪のような郭を設けることによって、防備を固めている。

 北側の入り口には写真のような石垣がある。小規模なものだが、下総地方では珍しいものである。虎口付近の土砂の崩落を防ぐために、近世になってから積まれたものであろう。同様のものは二の丸の堀にも見られるが、こちらはすでに半ば崩落してしまっている。

 二の丸も公園となっている。一面の芝生面である。発掘調査によると、この二の丸は土盛をして平地面を増やしており、その下にはかつては墓地があったという。というわけで、二の丸以降が築かれたのは後世のことであり、臼井氏や原氏の頃には、実城(本丸)だけの構造であったと最近では言われるようになってきた。しかし、少し疑問も残る。本丸だけでは、たいした兵力を駐屯させることができないと思われるし、数千の兵を率いた謙信が、その程度の城を攻めあぐねるであろうかと思うのである。(永禄9年、謙信は臼井城を囲んだが、結局、犠牲を出しただけで退却している。)

 本丸の土手越しに、田久里砦方面を見る。前方の岡の先端近くが、田久里砦のあった所である。この先端部から左に降りた所に全体の大手口があったと言われる。その場所は、国道296号線と王子台方面から来る通りとが交わる交差点になっている。現在も大きな交差点だが、当時も交通の要所であったろう。

 このさらに左手には、宿内砦や稲荷台砦のあった台地がそびえている。この2つの間に成田街道(国道296号線)が通っている。この街道を通る人はこの間は両側の台地からの攻撃にさらされてしまう。台地の両端の入り口を押さえたら、中に入ってきた敵は袋のねずみとなってしまう(といったことを狙っていたのかもしれない)。










 本丸の虎口から土橋越しに二の丸を見たところである。右側の堀は幅20mほどと実に広い。かつては、畑地になっていたので、このように平坦であるのだが、実際の堀底はこの何mも下なのかもしれない。掘ってみれば、障子や畝などが出てきそうな気がする。

 この外が二の丸、二の丸にも、大きな堀がある。その外側に、臼井城攻めで戦死したという太田図書の碑が建っている。また星宮神社もある。このあたりから、西側がいわゆる外郭部ということになるが、外郭関連の遺構は現在では見られない。かつては空堀などがあったと思われるが・・・・。各所の出城群もあらかた湮滅している。

 さて、臼井城に関する歴史を簡単にまとめてみよう。

 平安から鎌倉・・・・・臼井氏が開発領主として勢力を浸透させる。

              いつの頃か臼井城を築く。元弘元年(1331)「尼しょういん譲り状」に「臼井の堀の内」が見える。

 文明11年(1479)・・・・・古河公方、上杉氏との抗争の中で、上杉氏の家臣太田道灌は、千葉孝胤らの籠る臼井城を攻める。道灌の弟太田図書討ち死に。

 天文末頃・・・・・原氏は臼井氏を追い、臼井城を居城とする。

 永禄9年(1566)・・・・・上杉謙信来攻。北条方の千葉氏を攻めるため、前線の臼井城を攻撃。しかし、落城せず。

 天正18年(1590)・・・・・豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏滅亡。同時に北条方の千葉氏、原氏らも没落。臼井城は徳川方の酒井家次3万石で与えられる。
 慶長9年(1604)・・・・・酒井氏は高崎に移封。臼井城は廃城となった。

    



臼井田宿内砦(佐倉市臼井田字宿内)

 宿内砦は、臼井城周辺城郭群のなかで唯一、城郭としての遺構を残している城である。郵便局の西側の比高30mほどの台地である。現在宿内公園となって整備されている。公園の登り口は南側と、西側にある。(北側の民家のほうからも上がれるかな?)

 主郭部は、100×60ほどの郭で、南側に腰曲輪がある。また郭内には1mほどの段差があり、2つに区画されている。写真は虎口で、両脇の土塁は櫓台のように高く盛ってある。現在虎口は2ヶ所あるが、かつては左側の1ヶ所だけであったと思われる。右側手前には空堀があるが、これは幅10mほどの大きいものである。深さは浅くなっているが、かつてはかなり深いものであったろう。規模の大きさからみて、戦国時代に構築されたものであろうと思われる。

 その外側も郭とすべきか判断しかねる。写真の手前側も平坦地で、1mほどの段差があるが、衛星的な砦で、そこまで巨大なものが必要とも思えないのである。というわけで、とりあえず、単郭の砦であったと考えておこう。









 

稲荷台砦(佐倉市臼井田字稲荷台) 

 宿内砦と同じ台地上、南に500mほどの台地の最東南端に稲荷台の砦があったという。しかし、この辺りは完全に宅地化されてしまっている。比高20mほどの写真の台地の南端の崖面はやや、城塁のように見えなくもないが、よく分からない。北側から上がってくる道がやや切り通し状になっているが、台地全体の形が変わっていると思うので、旧状はしのべない。台地の片隅に、稲荷台の地名のもとになったかと思われる小さな神社がぽつんと建っている。















  

南側大手口(佐倉市南臼井台) 

 稲荷台砦の西500mに、前述の大手跡がある。臼井城は最盛期に、この広い台地の各隅に砦を置き、台地上に家臣団の屋敷を配置していと言われる。そのころの台地全体の大手口とも呼べる場所がこの写真の部分である。臼井城の台地の南端と、稲荷台砦の台地が両側から迫り、成田街道(国道296号線)を関所のように威圧している。(というか、大手というより関所の跡といった感じの地形である)

 写真の土手は円能遺跡と呼ばれている虎口の跡で、ここに大手の構造物があったと考えられている。この場所から左手の坂道を上がっていくと、600m先に臼井本城がある。













田久里砦(佐倉市南臼井台字田久里)

 大手口の北西300mの比高20mほどの台地の先端部に田久里砦があったという。ここも宅地化が進んでいて、城址としては見る影もない。しかし、写真の土手道を上がった辺りの家が郭内のように見える。まだ山林が残っている南側の斜面には城塁が残っているかもしれない。(しかし個人の宅地の中だ)

 切通し道を挟んで、北側の墓地などがある平坦地にも何か施設があってもよさそうな感じだ。この田久里砦から北に500m行くと、原氏の菩提寺でもあった実蔵院という寺院がある。













仲台砦(佐倉市臼井台字仲台)

 中台砦は宅地造成で湮滅してしまった。すでに1970年代の航空写真では山が削られてしまっている様子が見えるが、戦後直後の航空写真を見ると、細長く北側に向かって突き出した台地がはっきりと見えている。

 その写真では遺構は明瞭ではないが、なんとなく台地基部側に堀のラインが見えるような気がする。印旛沼に面する台地先端部であり、確かに臼井城の出城を置くのにはよさそうな場所である。

 この大きな台地の北西側には東南に大きく入り込んでいる沢があるが、この進入部の左手先端部に仲台砦があったという。台地の下の方は宅地化が進んでいて、地形そのものが変わってしまっているが、上のほうまで上がると、旧地形が残っている。特に写真の畑地の辺りはまだ何かありそうだ。畑の土手は周囲から数m高くなっており、比高差はあまりないが、土手は崖状である。また、台地の西側の斜面はコンクリートで補強されており、城塁かどうか確認はできないが、切り立った地形であった感じはする。宿内砦以外にもそこそこの遺構が残っているとしたら、ここであろう。しかしやはり民家の敷地内だ・・・・・。

 仲台砦は部屋城とも呼ばれ、臼井城の家臣の屋敷であったという。一説によると城主は小竹五郎高胤であったという。

 この沢の向かい側には八幡神社のある「八幡台」がある。台という地名が城のある場所を指す場合もあるので、この八幡台にも何らかの施設があった可能性はある。








洲崎砦(佐倉市八幡台字洲崎)

 洲崎砦もすっかり湮滅しているが、戦後直後の航空写真を見ると、師戸城と向かい合う辺りに現在は削られてしまった台地があるのが分かる。台地の西側付近に折れを伴ったラインが見えるのだが、これが城塁であったものではないかと推測される。

 1960年代の航空写真では城址の東半分が削られ、1970年代となると、城址はほぼ湮滅してしまっているように見える。

 洲崎砦は、八幡台の台地の東端にあった。現在この台地は削られてしまっており、城のあった地形そのものが湮滅してしまっている。ただし、北側の端にはガサが結構残っており、この中に多少の遺構がある可能性はある。

 城址だった辺りは写真の公園になっているが、案内板に洲崎砦の説明が書いてある。宅地化が行われる前は、城址は一面の松林であった。台地の下まで印旛沼が来ており、印旛沼を遠くまで見通せる景勝の地であったという。台地の裾に洲があり、船着き場もあったらしい。洲崎と言われるゆえんである。

 臼井城の家臣の屋敷があったところでここも「部屋城」も呼ばれている。部屋城という名称が、家臣団の城館をさしていたものと思われる。

 洲崎砦と東に向かいある台地は「寺台」という。ここにも砦があった可能性がる。
 

 まあ、こんな感じで、宅地化が進んでいるため、出城群はあらかた湮滅してしまっている。地元の人に聞いても「住宅地ができてから越してきたので、よくわからない」という答えばっかり(砦を破壊した跡にできた宅地に住んでいるのだから、そりゃそうだ)で、旧状を教えてもらうこともかなわなかった。

 ところで、この出城群はいつごろ整備されたものであろう。宿内城の遺構を見ると、戦国末期くらいのものかと思われるので、そのころ原氏によって築城されたのものだろうか。謙信のような敵に攻められたときのために、徐々に整備されていったのかもしれない。とすれば、原氏時代の臼井城が実城だけのものであったとしても、出城群を生かすことによってある程度の防御性を発揮することができたとも考えられる。とすると長尾景春書状の「臼井の地、実城堀一重に致し・・・・」といった表現は、出城群を落とし、堀一重の実城だけにしたことを指すということになろう。

 南の大手口(円能遺跡)といった、総構え的に全体を構成する部分は、徳川が入って以降整備されたもののように思える。







  

謙信一夜城(佐倉市王子台4丁目) 

*『千葉県の歴史』(資料編 中世T 考古資料)の図を参考にしてラフを描いてみるとこんな感じ。掻き揚げの単郭の陣城である。ただし、発掘時にはすでに北西側以外の土塁は取り払われていた。これは近世に、佐倉藩士が鉄砲演習場として使用されていた時期の改変によるものと思われ、本来は土塁はこの図のように全周していたはずである。

 東南側の虎口も、不自然に土塁が折れて開口しているが、これも後世の改変によるものなのではないだろうか。

 南西側の虎口からは門跡を示す柱穴も見つかっており、これが本来の虎口であったものだろう。そこから入った先に十字の溝があるのは、道の名残か何かであろうか。
















 京成臼井駅の南西300ほどの所に、方100mほどの何の変哲もない公園がある。しかし、ここは一夜城公園と呼ばれており、上杉謙信が臼井城攻めのときに一夜で城を築いたところであるという。

 かつて、方形の土塁と空堀とが残っていたというが、昭和40年代の都市開発で、ろくに調査もされないままに破壊されてしまったらしい。謙信にちなんだ遺跡といえばかなりの名所的な要素がありそうだが、当時は開発最優先だったのであろう。公園全体は周囲から1mほどの高台になっているが、これは城址ゆえの名残なのであろうか。このように公園として残すのであるなら、最初から保存して史跡公園にしてほしかったものである。

 方100mほどの単郭の掻上の城であるので、城攻めの本拠として一日で築いたとしても何の不思議もない。陣城としては大きさも手ごろで、伝承通りの城と見てよいであろう。

 城址の隅に「一夜城史跡」と書いた立派な石碑が建っている。








王子台砦(佐倉市王子台3丁目)

 王子台砦は、謙信一夜城の500mほど東にあったという。宅地開発の際の工事で発見された単郭の居館の跡であったという。しかし、宅地開発によって駅前の住宅街の中に埋もれてしまった。こちらは公園になっているわけでもなく、名残すらないようだ。この砦も、臼井城攻めの際に造られたものであるかもしれない。



























大竹屋旅館