大崎城(矢作城・佐原市大崎字城の内)

 
 大崎城鳥瞰図。西側上空から描いてみた。城内は現在、両総用水によって所々分断され、地形が改変されているので、ある程度、旧状を想像して描いている。

 手前の部分は現在は水田となっているが、かつては沼沢地であったと思われる。かつては船着場などもあったと思われ、護岸工事の跡が発見されている。先端部の「浜島」と呼ばれているところでは、発掘調査が行われて、その報告会もあった(03.1.24)。それによると、先端部下の場所から住居跡や井戸の跡、土間などが発見されており、この辺りにも城下集落があったと考えられ、先端部の先が全部沼地であったというわけでもなさそうである。

 城域は広大で、1郭、2郭、3郭、4郭はそれぞれ独立した城のような規模を持つ。城域の拡大にしたがって、先端部からしだいに南のほうに郭を拡張していったものだろう。(この部分、後で書いたのだが、以下の部分と内容が重複しているかもしれない)。














 矢作城(大崎城)竟成小学校の東300mほどの所にある。この東側に広がる山塊すべてが大崎城址である。城址の中央部分の下に本命寺があるので、これを目標としていけば城址にたどり着けるであろう。本名寺の入り口脇に矢作城についての朽ちかけた案内板があり、また東側には「大崎城跡」の標柱がある。

 千葉氏5代常胤の5男胤通は、佐原地方を領し 国分氏を名乗った。以降戦国末期まで、国分氏は連綿として続いていくが、5代泰胤は、本矢作の地から、この大崎の地に居城を移してきたという。本矢作城は防御力が弱かったので、本格的な築城 を目指したものであろう。矢作城は、20−30mほどの独立台地上に複数の郭を配置し、何本もの空堀で掘りきった多郭雑形の城となっている。

 大崎城は大きく分けて、4つの郭群から成っている。先端の1郭群だけでも1つの城郭とするだけの規模がある。それが後には国分氏の発達段階に応じて、南側に徐々に防御ラインを増やしていったのであろう。最終的に4郭群までをも含む巨大な城郭となったのである。

 城址の中央には、現在両総用水が通っている。結構大きな用水で、これが通ることにより1郭や、2郭と4郭の間の尾根などの地形がかなり改変されてしまっている。その辺りは想像をもって補うしかないだろう。

 また、現在、北側の護岸工事跡と呼ばれる部分(い)で発掘調査が行われており、現地説明会も行われた。この北側の「はましま」と呼ばれる部分には3時代に渡る生活面があり、井戸や土間、住居跡などが検出されている。また堀の跡も見られるという。このような先端の下の部分にまで、住居があったというのはどういうことなのだろう。かつての城下集落が、この辺りまで続いていたということなのだろうか。先端周辺はただ泥田堀が広がっている空間だったのだろうと思っていただけに、ちょっと意外な報告であった。

























 

 

 1郭の(く)の辺りから南側を見たところ。1郭の下の郭といったところで、現在は畑地である。この右手の奥に、古墳のような櫓台がある。郭内からの高さ5m、長さ10mほどはある巨大なものである。(く)の部分は緩やかに高くなり、1郭の中心部に上がっていく。左側の両総用水は想像よりも大きく(周辺の土手なども含めると幅10m近くある)この建設によって1郭自体もかなり改変されている可能性がある。

 実に不思議なことなのだが、この用水は比高20m近いこの台地まで上がってきて流れていくのである。水は高い所から低い所に流れるはずだが・・・・。岡ちゃんによると「逆サイフォンの原理」ということなのだが、どうも感覚的に不思議なものだ。この用水が遠く茂原まで流れて、上総の平野部を潤していくのである。












 

 1-a郭から、1-b郭の方向を俯瞰したところ。間に一段低い畑があり、その先に一段高くなった1-b郭がある。(中央の一段高い部分) この郭の先が二重の大堀切になっている。

















 1郭内部。80m×40mほどの、居住性が十分な郭である。その周囲は切岸によって守られ、下から取り付くのは難しい。ただし、この郭群には土塁は見られない。北側の下にはさらに北側に向かって尾根が延びており、その途中には堀切が1つある。

 1郭には1mほどの高さの段差があり、その下側が(け)の郭となっている。この段差が往時からのものか、後に耕地整理が行われたときのものか、あるいは両総用水建設のために土取りがされた跡なのかどうかはっきりとはわからない。もし、往時からのものとしたら、主郭より一段身分が低いものの居住空間だったのかもしれない。










 (あ)の櫓台を下から見たところ。岩肌が向き出ていて、かなりの威圧感がある。現在、この下側を回るようにして1郭に上がるいい道がついているのだが、この道は両総用水の工事のために造られたもののようである。しかし、この辺りの字名を「戸張」といい、また少し北側に「木戸」という字名があることから、往時からここに途城道があったとも考えられる。とすると、この櫓台は登城路を上から監視する位置にあることになり、その存在意義が伺える。

 櫓台の上は2段になっている。一番上が4m×7mほどの小郭、その東側1mほど下に幅3mほどの空間がある。この櫓台への登り道らしいものはない。はしごでも架けていたのだろうか。















 (え)の空堀。幅8m、深さは10mほどもある。垂直切岸のように削られているが、ここは用水の工事をするための自動車道が造られており、かつての堀底よりも少し掘り下げられている可能性がある。ここを進んでいくと2郭の虎口がある。














 これがその虎口。単純に土手を斜めに登っていく構造だが、登り口が左右に分かれている。この北側は(え)の空堀、さらに北側に(う)の空堀があり、ここは二重空堀になっている。しかもどちらも深い。この辺りが大崎城最大の見所であるかもしれない。(う)と(え)の空堀の間には細長い郭があるが、ある意味、これが馬出し的な役目を果たしていたのかもしれない。この細長い郭の南側には土塁が盛られている。空堀の幅が結構あり、連結をどうしていたのかが気になるところだが、この細長い郭の土塁は中央に切れがあり、どうやら、橋で連結していたのではないかと思われる。左衛門尉殿は「下に橋脚を架けて木橋を置いたのかもしれない」と言っていたが、私だったら吊り橋を架けたくなる所だ。













 2郭は長さ70mほどの郭だが、北側から50mほどの所に高さ1mほどの段があり、2段に構成されている。そういえば、1郭も2段になっていた。国分氏の城に共通する構造なのだろうか。

 2郭の西側と北側には高さ2m〜5mの土塁がある。写真は南側の土塁である。その形態からして、盛り上げたものではなく、土手を削り残したものであろう。

 南側からの連絡を考えると、この土塁の中央辺りに虎口があってもよさそうなのであるが、それはない。2郭の南西に土塁がない所があるが、ここから連絡していた可能性もある。














 2郭西側の土塁は、土橋状に西側に延びている。その南側は削りたてられた斜面で、その下をさらに深く掘り、空堀にしている。この空堀は屈曲しながら南側に延びて行くが、最後のほうが不明瞭になっている。2郭と4郭の間の用水の土手を建造する際に改変されてしまったのかもしれない。
















 (う)の空堀を塁上から見たところ。やはり幅8m、深さ10m近くある。両脇は切岸が厳しくよじ登るのは困難だ。この切岸下に、やぐらのような岩穴があった。かなり埋まってしまっていたが、切り方が直線的であったので、近代に防空壕や倉庫用の穴として開けられたものであるのかもしれないが、その正体は不明だ。













 2郭と4郭の間は、尾根のような、高さ6mほどの土橋で結ばれている。(お) これはすべて用水を通すために盛られたものか、それとももともとあった尾根を利用したものか。とても迷う所だが、この尾根状部分の南端に掘切りのように切られた跡がある。この堀切は城本来のものであると思われることから、もともと、ここには何らかの尾根状のものがあり、それが通路として利用されていたのではないかと考える。

 右の写真の右側が両総用水。左側が尾根。土塁のように見える。下の道からの高さは6mほど。


















 4郭に上がると、そこは平坦で広い郭である。城内で最大の郭となる。この城は年次的に、南に拡大されていった様子が見て取れるが、この4郭まで築造した段階で城の発展は終了したものと思われる。この広い郭は何のためのものであるのか。城のある台地の周囲は沼沢地であったと思われることから、この4郭あたりに家臣団の屋敷を配置していたのかもしれない。

 写真は4郭南側の空堀(き)。これと、白幡神社の南側の切り通し道が城域の終了を示すものであろう。この空堀は幅6m、深さ4mと、2郭辺りのものと比べると小規模ではあるが、横矢掛に2段ほどにクランクしている。そのため、なかなか技巧的なものに見える。

 この空堀の南側は自然地形のように下り、南の白幡神社にいたる。













 

 2郭と4郭との間のやや東寄りに3郭がある。比高20mほどで本命寺の脇から切り通し道を通って上がっていける。この郭は東西に長く、墓地になっている。郭内はたいして平坦に削平されてはおらず、居住性はよくない。おそらく人の住む郭ではなく、単に城壁として利用されたものだと思う。この郭の南側には土塁があり、その下は垂直切岸のような急斜面となっている。墓地のある辺りの土塁は50cmほどの高さしかないが、幅は3mほどある。これはどうやら墓地の造成か何かで、土塁の上の部分を削ってしまった跡らしい。墓地より西側では土塁の高さは2mほどある。(写真) 土塁はこの郭の西端まで続き、端で直角に曲がっている。その先は自然地形を利用した天然の空堀、そして(か)の部分をはさんで、二重の空堀となっている。また南側には最大幅20mほどの大きな腰曲輪がある。













 これは本命寺前に立つ「大崎城跡」の標柱。大崎城はこの標柱の北の山も南の山も城域とする大城郭なのだが、知らないと、標柱の南側が城址なのか、北側が城址なのか、迷う所であろう。さらに混乱した人は前面の水田中に城があったと思うかもしれない。実際そう思っていたという人の話を聞いたことがある。。














  

 本命寺から、1郭先端の発掘現場に向かう途中に見えた、1郭北側尾根に切られた堀切。













 

 矢作城の歴史で有名なのは、里見の家臣正木氏との攻防戦である。永禄年間、里見氏の命を受けた正木氏は、兵を率いて下総の城を次々に攻略していった。が、矢作城のみは、よく持ちこたえて正木軍を撃退した。しかし、翌年正木軍は再び来襲し、その時はさすがに持ちこたえられず、城は落城し、城主国分氏はかろうじて脱出、城将伊能信月は討ち死にした。後、正木氏が矢作城を放棄して帰って行くと、国分氏は城を取り戻すことができたという。

 後、天正18年の小田原の役で、北条側についた矢作城は開城し、ついに国分氏は下総から逃走した。だが、その頃は国分氏の本城は岩ヶ崎に移っていたとも言われる。
 



大崎番城(佐原市牧野字番城)

 番城は、大崎城と北側に向かい合った比高15mほどの台地上にあったらしい。番城という地名なので、大崎城の北側を監視する番所のようなものがあった所ではないかと思われる。しかし、昭和40年代にはここに、し尿処理場が建設され、現在では遺構は失われてしまっていると思われる。当時は発掘調査も行われていないようで、何がしかの遺構があったのかどうかも、今となっては分からない。























大竹屋旅館