千葉県山田町

*関連サイト  北総の秘めたる遺跡

*鳥瞰図作成に当たっては「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」所収の図面を参照した。

府馬城(山田町府馬字茶畑)

 府馬城は府馬地区の、台地が一番北側に突き出した部分にある。台地全体を城域に取り込み、南北には500mほどもある、かなり規模の大きな城郭である。しかし、畑の跡と思われる段々が数多くあり、このうちのどこまでを城として見たらいいのかが分かりにくい。茶畑という地名の示す通り、畑の造成によってかなり改変されていると思われる。現状ではかなり求心性に欠ける構造であったように見えてしまうのである。

 城の中心となるのが、城全体の背骨とも言うべき、中央部を南北に連なる郭群であろう。1郭から、要害と呼ばれる8の部分まで、直線連郭式に郭が連なっている。この中では要害部分が最も広く居住性に富んでいるが、ここは最も台地基部に近い所であり、ここを主郭部と見ることはできない。7の北側の6の部分も割合と広く、南北に腰曲輪を持っているが、しかし、ここが主郭部であるとしてもどうにもまとまりが悪い。やはり主郭部は1,2,3の郭辺りに求めるべきであろう。ただし、これらの郭はみな狭いもので、1郭は長軸30mほどしかない。しかし、城全体の構造からすれば、ここら辺に主郭を置くのがバランスのいい形となる

 このように、南北に背骨のように連なっている部分を取りだしてみると、城らしい形態に連郭式の城らしい形態にはなっている。とはいえ、それだけでは防御力も劣るし、第一、居住性というものがほとんどない。このラインを中心として周囲に郭を配置した城というように理解するのがよいのであろう。そう考えると、「千葉県所在・・・・」でも指摘している通りに、図の5の部分がまとまって広く、ここが主郭であったと見るのが最も良いように思われる。その他、地形なりに段々の郭らしきものは多数存在しているが、上記の通り、長い間、畑として利用されていたものである。その間には、畑にふさわしく地形が改変されてしまったと言うこともかなりあったはずである。現在の城の縄張りにまとまりが欠けているように見えるのは、そうしたこともあったからではないだろうか。しかし、南北を中央に走る郭のラインを中心として、周辺に段々の郭を配置した城、という理解は当たっていると思われる。

 城内に上がる道は何カ所かあるが、一番わかりやすいのが、集会所から南側に少し登ったAのところから、台地に上がる道を通るコース(途中で道が2つに分かれて、道なりに右に進んでいくと民家に突き当たってしまうので、左手の切通しの方に進まなければならない)か、Bの所から岩盤切通しの道を経由して台地上に上がっていくコースのいずれかであろう。5の主郭部は畑として耕作されていたために、軽トラが進んで行けそうな道がずっと付いている。

 ただし、これらのコースからでは要害地区に登ることはできない。7の北側の岩盤堀切はほとんど登攀不可能な状態である。要害地区へは、Cの所からわりとちゃんとした道が付いているので、ここから上がっていくと良いであろう。

 永禄3年、里見氏の意志を受けて正木時忠は、小見川から香取方面への侵攻を開始した。この正木氏の下総攻略戦は永禄9年まで、足かけ6年にも及んだ。これに対して北総の千葉一族は協力して正木氏を迎え撃ったのであるが、その中にも、逆に正木氏と結んで、自己の勢力拡大を目指す者がいた。府馬城の城主であった府馬時持は、まさにそうした行動を取った人物であり、彼は正木軍の先頭に立って合戦に臨んだ。どうして府馬氏が、正木方を先導したのか、その理由は史料の上で明らかにすることはできない。しかし、府馬時持はおそらくは野心的な人物であったのであろう。正木氏とともに香取地域の覇権を確立した暁には当地域でそうとうの実力者となれると思っていたのだろうと思う。

 正木氏と北総の千葉一族とは何度も抗争を繰り返していったと思われる。初めは劣勢であった北総勢もしだいに勢力を盛り返し、やがて、正木勢を追いつめていく。やがて大須賀氏らの反撃を受けた府馬時持はあえなくも討ち死にしてしまう。彼の野望はむなしく潰えてしまったのであった。

 府馬時持の墓所は小見川の来迎寺にある。上記の話からすると、地元の人間にとって府馬時持は、正木方を先導した裏切り者ということになるのだが、彼の墓は「府馬時持公の墓」という看板付の立派な墓なので、地元ではそれほど嫌われてはいなかったのであろうか。




東側から見た府馬城。北側に長く突き出した比高20mほどの台地上にある。 Aのところから上がっていき、右側の民家に上がらずに、左側の道を進むと、この切り通しにさしかかる。これも虎口の一種であったものか。
6の郭の周囲を道が通っているが、6の郭が突き出しているために、道も横矢折れのようになっている。途中に虎口らしき切れもある。 先端はかなり広い畑になっている。5の部分であるが、この辺りが主郭であったものだろうか。
2の辺りから1の郭を見たところ。段々に郭が配置されている。 6の郭の城塁。
7の郭との間の切り通しである。深さは6mほどであるが、粘土質の岩盤を削ったもので、とても登ることはできないであろうか。 城址の南端の堀切。
8の要害部分(左側上)とその下の腰曲輪を見たところ。 要害にはピンク色のつつじがきれいに咲いていた。

(以前の記述)府馬城は国分氏の一族、府馬氏の居城である。府馬氏は、里見と同盟し、正木軍がこの地方に侵攻してきた祭に、鏑木城、米野井城などを攻め落としている。城域は広く、台地上のあちこちに土塁や堀の跡が見受けられる。府馬城の本丸とでもいうべきでもいうべき居館の跡は、東側の公民館から切り通しの道を上がっていった所にある。ここには土塁などがあり、中心的な郭であったと思われるが、あちこちに空堀の跡や、郭らしいものが見うけられ、かなり広い城域をもっていたのではないかと思われる。南側には相当大きな切り通しがあり、このあたりが大手だったのではないだろうか。

また、城域の一角にある宇賀神社のあたりは山ノ下城とよばれている。境内には樹齢1300年というクスが残っており、国の天然記念物となっている。写真がそのクス。1300年前と言えば奈良時代だ。そんな前から城の歴史を見てきた木なのかと思うと、気が遠くなるような気がする。

 府馬城の中心部分は、府馬の北端に突きだした比高20mほどの半島状台地の先端部にあった。20アールほどの居館の跡だが、周辺には小さな郭が段階的にいくつもある。


山ノ下城(香取市府馬字鯨波台、奥の堆)

 谷津を挟んで府馬城のすぐ東側の比高20mほどの台地が山ノ下城の跡であるということになっている。樹齢1300年以上という府馬の大クスのある宇賀神社のすぐ北側一帯である。

 前回来た時には遺構など分からず、場所がそこでいいのどうかさえも分からなかったのだが、近年公園化が成されたということを聞き再訪してみた。公園化されている場所がこの辺りではここしかなかったので、これが城址ということでいいのであろう。ただし、相変わらず遺構と思われるようなものはなかった。

 城であるのかどうかも確信が持てないが、城であるとすれば、府馬城の出城以外のものではないだろう。府馬城は城域がとても広く、このような出城を持つ必要があるのかどうかという疑問も出てきそうであるが、実は府馬城の構造をよくよく考えてみると、この位置が重要な場所であったことが分かる。

 府馬城の台地の東側は谷津になっており、現在そこに南北に走る道が通り、谷戸に沿って民家が何軒も立ち並んでいる。この谷津部分は府馬城に付属する城下集落を配置するのには適当な場所であり、実際、ここを歩いていると確かにそんな気分になるのである。宿などがここに置かれていた可能性は高いのではないかと思う。

 間の谷戸部に集落が営まれていたとするなら、その東側の台地も、その集落防衛のために重要なポイントということになる。すなわち山ノ下城のある位置がまさに防御のために必要な空間であったのであろう。

 とはいえ、遺構がないのが気になる。本当に城であったかどうかの疑問は解消されておらず、なんともすっきりしない。しかし城であったとするなら、築城当時には樹齢1300年以上といわれる府馬の大クスはすでに大木となって成長していたはずであり、城にとって象徴的な存在であったことであろう。大クスは、城や城下町の歴史をずっとここでみていたのである。




宇賀神社境内にある国指定文化財(ただし大正年間)の府馬の大クス。樹齢1300〜1500年という。 宇賀神社。
農村公園と展望台。ここが山ノ下城であったというが、遺構は何もない。 展望台から城内の様子を見たところ。
(以前の記述)府馬城の東に向かいあっているやはり比高20mほどの宇賀神社のある台地は山之下城と呼ばれている。これは、府馬城の出城の1つだろう。府馬城とは200mほどしか離れておらず、とても近い位置にある。郭の跡や腰曲輪が残っている。




  

愛宕城(香取市府馬字小保内)

府馬城と南に向かい合った比高30mほどの切り立った台地上に愛宕神社がある。府馬城の500mほど東南にあたるが、この神社の境内には土塁や堀切が見受けられるので、ここも府馬城の出城であったかもしれない。




















神生城(香取郡山田町神生字身城)

 八都第二小学校と北側に向かい合う比高20mほどの台地上が神生城の跡である。城内には星宮神社があり、これは地図にも掲載されているので、これを目印にしていけばよいと思う。

 星宮神社のある1郭が主郭であろう。長軸80mほどの郭で、南西隅に神社が祭られている。神社の周囲には土塁が巡らされているが、これは神社に伴うものであろうか。神社から郭の中央部を仕切るようにして一本の土塁が延びているが、これは城郭遺構であろう。堀を伴わないただの土塁であるが、造りはしっかりとしており、これによって郭内を分割していたようである。

 1郭の周囲には横堀が巡らされている。ことに西側はとても大規模で、深さ7mほどはある薬研堀となっている。その西側を2郭としたが、この郭は削平はきちんとされており、かなり広さもあるにもかかわらず、西の端の方は自然地形のような傾斜になっている。ここはあまり加工されていない郭である。

 Aの所には、土塁の切れがあり、その先には土橋がついている。ただし、この土橋は不自然に幅が広く、堀との間の段差も切岸状にはなっていない。土塁の開口部もとても狭い。それに接続している外側の部分が2の郭ではなく、台地下に直結するようになっている。どうもこの虎口と土橋は後生のもののようである。

 1郭と東側の台地基部との間の接続部分は細くなっている。Bの部分の北側は深い崖となっており、南側は切り通しの道となっている。この辺りも虎口であったものだろう。

 この東側の部分はやはり平坦地が広がり、ここに数件の民家がある。民家の奥なので確認できていないが、北側の縁部には土塁があるらしい。この土塁は東側に回り込んで、Cの虎口近くまで延びている。実際、Cの付近には土塁と切岸のセットがあるので、これらの民家のある部分も郭内であったとみてよいであろう。つまりCの辺りが大手口であったと考えられる。この部分が台地基部との接続部であるので、ここを大手口とするのは理にかなっている。この部分の切り通しの道は、堀切としても利用されていたものであろう。

 このように考えると、神生城は3連郭構造の城であったということになる。横堀の規模などからして戦国期の城郭としてみてよいだろう。下総地域で、これだけの横堀を巡らせている城とすると、大須賀氏関連の城郭を思い浮かべるのであるが、実際に大須賀氏と関係があったかどうかは明らかではない。

1郭内部にある星宮神社。妙見神社と同じもので、千葉氏関連の城址にはよく見られる。 2郭との間の堀。深さ7mほどある実に見事なものである。
Aの虎口を土橋側から見たところ。 1郭内部の土塁。L字型になっている様子がよく分かる。
1郭の東側入口(B)の堀切跡の切り通し。 Cの城内入口部分。
(以前の記述)比高20mほどの舌城台地にあり、中央部には星宮神社がある。もとは武石三郎胤盛の居城であったが、室町時代の初期には、千葉左京という者の城であったという。米野井城主の木内氏が代々左京を称していたことから、彼は木内氏の一族で、神生城も、米野井城の有力な支城の1つであったと考えられる。 

 写真は主郭と見られる郭を取り囲む土塁であるが、高さは3mほどと結構高く構築されている。また、土塁の外側は、深さ7mはあろうかと思われる空堀が構築されており、堅固な造りがうかがえる。遺構の保存状況は極めて良好である。


神生堀ノ内館(香取郡山田町神生字堀ノ内)

 堀ノ内館は神生城の北500mの所にある。県道114号(八日市場山田)線の神生のバス停のすぐ北辺りの位置である。平地の居館で、郭が残っていると言うが、表面観察では遺構らしきものを見ることはできない。城主等も未詳であるが、「妙見堂」といった地名があることなどから、やはり木内氏関連の居館であったろうと想像できる。

















小見城(山田町小見大屋敷)

 八都小学校の東側にある徳星寺が小見城の跡である。周囲の宅地化が進んでいることもあってか、遺構の大部分は失われているが、寺院の背後にわずかに土塁と堀とが残っている。しかし残存部分はこれだけで、これだけではどの程度の規模の城館であったのか掌握することはできない。しかし、かつて下の道までが寺院の境内であり、北側の道路の先が水田となっているといったことから、だいたい寺院の境内部分に一致する規模の館であったのではないかと思われる。小学校の敷地ももともとは寺院の土地であったというが、西側の範囲はどの程度まであったものであろうか。

 北側の堀は途中から水路になってしまっているが、これは昔は土塁の内側に入り込んで内部の池と接続していたのだという。土塁の内側に水堀というのは館の形状の上であまりにも不自然である。この「堀跡らしかった水路」というのも、近世段階など早い時期に改変されていた部分であったのかもしれない。

 寺院の南側の県道近くにもかつては池があって、それも堀らしかったという話を伺った。しかしその池の跡も現在では宅地となって失われてしまっている。

 現地案内板を読むと「徳星寺が小見城跡大屋敷に移ってきたのは北朝時代の貞治年間のことであった」というように書いてある。とすると、ここは南北朝時代以前の城館跡ということになるのだが、それほど古い城であるのなら、ほとんど遺構が残っていないのも仕方がないといったところであろうか。







徳星寺本殿。赤くて目立つ建物である。 本殿の背後の方には一部だけだが、水堀らしいものが残っている。
上の水堀の内側にある土塁。高さ2mほどである。 本殿背後にある、かつての水路の跡。堀の跡であるのかどうか、はっきりしない。
(以前の記述)小見城は、山田町の北端にある平城で、現在は天台宗徳星寺の境内となっている。東氏一族の木内胤朝の二子胤時が鎌倉時代に築城して居城、のち小見氏と称するようになったという。川上城に移るまで、小見氏の拠点となった。写真は徳星寺の本堂で、文化財に指定されている。城址には水堀が残っていると言われるが、すでに埋められてしまったのか確認できなかった。本堂の裏手にわずかに土塁上のものが見られたが、遺構の一部かどうかははっきりしない。





川上城(山田町川上字永信)

 川上区民センター(地図では川上青年館となっているのが多い)のある所が城址で、ここも大規模整理事業ためにほとんど遺構は破壊されてしまったように見えるが、東南の一部には水堀が残っている。南側は特に規模が大きく、幅20mほどもある。さすがにこの規模の城館の堀としては規模が大きすぎるようであり、後世広げられている可能性もなしとはしない。東側の堀は幅6mほどであり、こちらは規模的にリアルな感じがする。本来、東側に残っている規模の堀が全周していたのではないだろうか。

 川上区民センターの手前には「川上城址之碑」という立派な石碑がある。あまりにも古い形式のもので、一見した所、忠魂碑か何かにしか見えない碑である。字も読みくいのだが、城に関する説明が書かれている。

 かつては堀を何重にも巡らせた大きな平城であったともいわれるようだが、現在では、民家の東南の水堀くらいしか遺構は見られない。周囲は大規模整地事業が行われた後の一面の水田地帯となってしまっているのである。








川上城址の立派な石碑。背後にあるのが川上区民センター。以前は「青年会館」となっていたが、最近立て直したらしく、新しくなり名前も変わったようだ。 東側の水堀跡。これはほぼ旧状通りなのであろう。
(以前の記述)写真は川上城の水堀の一部で、この区画だけ旧態をとどめている。堀を何重かに巡らせた平城であった。他の部分の堀は、水田と化しているが、一段低くなっており、かつて堀であったことが偲ばれる。城内には一軒の民家と、川上青年会館、墓地などがあり、青年会館の入り口あたりに、大正年間に建てられたという「川上城の碑」という立派な碑がたたずんでいる。また、墓地の脇に土塁が一部残っているが、これは何かの塚かもしれない。築城者は木内氏6代の木内胤光で、鎌倉時代末期に築かれたという。後、代々木内氏が居城したが、小田原の役以降廃城となったという。 





長岡城(山田町長岡字城ノ台)

 長岡城はどういうわけか地図にもよく掲載されている。県道125号線の北側で、大経院の寺院の西側300m程の位置にある。山田町役場の東南1.5kmほどで、北西750mほどの所には長岡出城というのもある。

 県道の北側は比高6、7mほどの広大な台地になっている。この台地の周辺部は、いかにも城塁といってもよさそうな切り立った土手になっているが、これらのほとんどは近代の重機によるものではないかと思う。本来の城塁がかつては存在していたとしても、現在ではほとんど削られてしまっているのではないだろうか。

 南側から台地に上がる道は切り通しとなっており、上がった所にお堂が1つある。観世音菩薩を祭ったお堂であるようだが、これが城と関係があるのかどうかもよく分からない。

 といったように見ていくと、格別城らしい遺構は見られず、これが本当に城であったのかどうかも疑問に思われる。「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」にも、遺構として「郭」としか書いていない。ということは削平地があるだけということであり、これは遺構が存在しないというのとほとんど変わりない表現なのである。台地上は確かに削平地となっているが、もともと畑であるので、削平されたのは、耕作化に伴うものである可能性もあるのである。

 しかし「城ノ台(しろんでい)」という字名が残っているらしく、そういう意味ではある時期、それほど人工的に手の入っていない城館が存在していたのかもしれない。とにかくよく分からない城である。

 下の以前の記述でも書いているが、幕末にはこの地に天狗党が立て籠もったことがあったという。そういう意味では幕末に陣所として取り立てられた陣城という範疇に属することになるのかもしれない。





東側の土手下から上がる道。いかにも城塁のようにも見えるが・・・・。 城内。ただ、だだっぴろいだけで城郭的なまとまりには欠けている。中央にお堂が見える。
南側からお堂のところに上がっていく切り通しの道。 南側の城塁。といってもこれは重機によって削られたものであろう。

(以前の記述)長岡城は、千葉氏族の木内氏に属する城の1つで、城と言うより居館といったほうがいいだろう。ここでは守りが弱いので、戦闘用の出城も近くにある。写真は、台と呼ばれている居館の跡に建つ持仏堂で、台地上のほとんどは畑地になっている。高さ5〜6mらいの低い土手状になっている単郭の居館であり、方100mほどの広さがあって、土手は数カ所で屈曲している。幕末の頃には、この地に天狗党の一味が立て籠もり、その時の死者を弔った墓石等が残っていると、地元の古老が言っていた。

 一説によると、長岡城は戦国時代末期には鎌形氏の城であったという。



長岡出城(山田町長岡字城山)

 長岡出城は、旧山田町役場(現山田出張所)の東南700mほどのところにある。県道114号線を進んでいくと、南からの道が県道に合流する地点があるが、そこから北側に民家の間を抜けて入っていく道がある。その一番先まで進んだ台地先端部を城山(じょうやま)といい、そこが長岡出城となる。入口はビニールハウス群よりもやや西側である。

 この城については地元の方にも周知されており、城山とみなさん呼んでおられたが、歴史等伝承についてはご存じないということであった。千葉一族で長岡に住んだ地元豪族の居城であったものではなかろうか。

 この城の東南600mほどのところに長岡城があることと、この城が単郭で小規模であることから、「長岡出城」という名称を付けられているが、長岡城と本城、出城の関係があったかどうかははっきりせず、こちらは「城山」と呼ばれていることから、出城というよりも「長岡城山城」とでも呼ぶ方がふさわしいのではないかと思われる。あるいは長岡城よりも城らしい地形にあることから、長岡城とは関係のない独立した城郭であるかもしれず、そうなるとむしろこちらを「長岡城」と呼ぶべきであるのかもしれない。

 台地は北に延びた比高20mほどのものであるが、途中の道が細長く、先端だけがまとまった広さを有している。図を見るとおたまじゃくしのような形の台地である。

 細長い尾根部分と、城山との間には当然堀切があったはずである。しかし城山までに古い車道が付けられており、そのせいで、堀切は埋められてしまったようだ。だが注意深く藪の中を確認してみると、図の「堀切跡」の左右に、かつて堀切があったのではないかという痕跡を見ることができる。ここら辺にかつては虎口があったのであろう。

 その先の城山は楕円形状をしていて、長軸100m近くある。居館を構えるには適当なスペースであったということができる。といっても内部は一面のヤブであり、見通しはよくない。

 『千葉県所在・・・・』には土塁も残るとあるが、それがどこなのか分からない。城山の内部は杉が植林されており、その際にでも改変されているのであろうか。かつては耕作も行われていたのかと思ったのであるが、地元の古老に確認してみたところ、「わしが小さい頃からここは山林じゃった」ということなので、耕作が行われていたとしても、そうとう古い時代のことであったと思われる。

 ただ、先端に腰曲輪が存在しており、これがかろうじて城址らしさの証左となっている。とはいえ、城塁はさほど急峻に削ってはおらず、「城山」という名称にもかかわらず、現状ではなんだかメリハリの利いていない城である。










城址への入口。民家の間をすりぬけて台地の先端まで進んでいったところが城山である。 堀切跡と思われる部分。両脇の藪の中にかすかに痕跡が残っている。この辺りは道もすっかりヤブと化している。
郭内部の様子。 先端の腰曲輪から見た城塁。
(以前の記述)長岡出城は、長岡城の700mほど北西、北に突きだした比高20mほどの半島状台地の先端部にある。山田町役場の東南700mほどの所である。城山と呼ばれている山で、単郭の遺構であるらしい。長岡城が平素の居館であったのに対して、こちらは戦闘地区であったと考えられている。土塁、空堀、腰曲輪などが残っているという。

 というわけで、城内に入っていってみた。この辺りビニールハウスが建ち並んでいるが、その一番西側の端辺りから、民家の脇を通って、北側の台地先端部まで行くことができる。

 ところが・・・冬場だったというのに、ヤブがひどいことといったら・・・。腰まで埋もれてしまうような草が一面に茂っており、何がなんだかわからない。台地の先端の方が少し盛り上がって見え、そこが土塁のようにも見えるが、とても到達できない。結局遺構はよく分からなかった。そして藪から出てくると、ズボンにはやたらと植物の種が張り付いている。冬場でもこれでは、どうしようもないといった感じである。

 長岡出城は、椎名胤氏の六男、飯倉胤貞の長男、行胤の城であったという。

 


























大竹屋旅館