千葉県八街市

根古谷城(印旛郡八街町根古谷字丸の内)

*根古谷城の遺構について、渡辺さんに案内していただいた。ありがとうございます。

*鳥瞰図の作成に際しては渡辺さん作成の図と「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」の図を参考にした。渡辺さんと歩きながらざっとスケッチしていったのだが、なにしろ、地図も地形図も持っておらずフリーハンドで書いたので、だいぶ形が違っている所があるかもしれない。まあ、だいたいのイメージといったように見ていただきたい。

 根古谷地区の天満宮が1郭である。方50mほどの区画で、天満宮の建つ部分が櫓台状に高くなっている。ここと2の部分を合わせたものが主郭であるかと思ったのであるが、渡辺さんに伺ったお話ではAの虎口の部分辺りからかつては堀が延びていたのを埋めてしまったということであった。天満宮の建つ櫓台というのもかつてはもっと高かったという。昭和24年に火災があって神社などが焼けてしまった。それで再建する際に地面を削ったということである。天満宮の北側の斜面には大きな杉の木の切り株があるが、これは本殿再建の際に切り倒して木材として使用した杉の名残であるという。

 1郭の南側と東側には大堀と呼ばれる、深さ6,7mほどもある堀が存在していた。その堀のさらに外側には二の堀と呼ばれる堀が一部残存している。Bの虎口を出た角辺りでは堀が存在していないが、この辺の堀は埋めてしまったのだという。したがって、大堀、二の堀は本来、1郭の周囲を二重に囲むようにめぐらされていたのだと考えられる。ところで西側の大堀と二の堀との間に囲まれた部分は「物見曲輪」という、とのことであった。

 大堀はいずれの方角でも、竪堀状に台地下に接続している。南側の大堀は幅がずいぶん広くなっているが、この堀底には炭窯の跡がある。ここの土が、炭窯を築くのに適当なものであったということで、塁を削って炭窯を造っていたのである。この堀の幅が広げられているのにはそんな事情もある。

 炭窯の所から降りていくと右側に腰曲輪がある。この腰曲輪は、現在では一部出っ張っただけのような構造となっているが、本来はもっと北側に延びていたという。それが後世、削られてしまってこのような形状となっているのである。さらにその外側には水堀が存在していた。現在では所々に池の跡となっている窪みが見られるだけにすぎないが、もともとは水堀を伴った城郭だったのである。

 1郭の北側下のお宅は「ゆうげのうち」と呼ばれている。これは「要害の家」がなまったものであると考えられ、要害の下にあったことを示している。要害とはもちろん1郭部分を指しているのである。また、これらの家には周囲に土塁のようなものが見られるが、これは「馬屋の跡を示しているのではないか(渡辺氏)」ということであった。確かにこれだけの城であるから、馬屋の跡がそのように残っていても不自然ではない。しかし、馬屋に限らず、家臣団屋敷の区画を示すものであるという見方もできるであろう。

 明瞭に遺構が見られるのは以上の部分であるが、2郭の東南側の渡辺家のある所が3郭であったという。この一帯を「丸の内」と呼んでいるが、中世の城郭で「丸の内」地名は珍しい。渡辺氏も、3郭を「3の丸」と呼んでいたが、そのような近世城郭的な呼び名がこの城には存在していたのであろうか。もしそうであったとするなら、この城は何らかの理由で近世にも使用されていた可能性があるのではないだろうか。すぐ近くの岩富城が近世初期まで使用されていたことと、なんらかの関連があるのかもしれない。

 図のEの部分にも土塁が残っている。ここは切り通しの道になっているのだが、これはもともとの堀底道であったという。この道は何度かクランクしながら北側の台地下まで続いている。このように道が何度もクランクしているのも、城の構造と関係しているのであろう。3郭は一番広大な郭ということになるが、このクランクする道が、3郭の塁線となっていた可能性が高いと思われる。

 以上が城址の主要部分である。しかし、この外側にも「堀の内」「ミタチ(御館)」「シメ戸」といった地名が周辺に残っており、城域はけっこう広かった可能性がある。(シメ戸は処刑場のことであるという。)現状をみると、現在の農免道路は、かなり大きな切り通しになっていて、これもかつての堀を利用したもののように見えるのだが、しかし、これは農免道路の建設に伴って生じたものであり、かつては台地続きになっていた場所であるという。ということになると、やはり上記のクランクする道が、城内と城外とを区画するものであったと見てよいであろう。Dの所には権現山と呼ばれる部分がある。かつてはここにちょっとした高台があり、土塁や堀なども残っていたという。つまり出城の1種であったと思われるのであるが、現在では削られてしまって隠滅している。

 Cの部分は佐倉市との境界に当たる部分である。よく見ると、この辺りにも土塁などが各所に見受けられる。特に満願寺跡と呼ばれる部分はやや独立した半島状の台地であり、その形状からしてまさに出城といった雰囲気である。城の西側を守るための出城であったというべきであろうか。

 その他にも、城址のすぐ西側の台地が用草城(なえぎ屋敷)、北東側の台地が岡田砦、北側の台地が向砦、西側の先には西御門砦、南側の奥には丸山砦があったという。それぞれ、遺構なども見られるというが、今回は詳しくは観察していない。

 いずれにせよ、現状で遺構がよく残っている1郭付近だけから見る根古谷城はそれほど大規模な城であったとは思えないが、本来遺構は後半に存在していたようで、そのように考えると、かなり規模の大きな城郭であったということがなんとか理解できるであろう。

東側の用草城の下から見た根古谷城の全景。沼沢地に突き出した比高10mほどの低い台地である。 1郭にある天満宮。本殿の建っている所は、まさに櫓台といった雰囲気の場所である。
2の南側の城塁。郭内からの高さは2m程度であるが、郭外では、7〜8mほどある。 1郭東南側の大堀。深さ6mほどで、台地下まで接続している。堀底道としても使われていたのであろう。
2郭南西側の大堀。こうしてみると、やはり堀切であることがよく分かる。 満願寺脇の切り通しの道。この右側の上が満願寺跡である。ここも出城であった可能性は高いと思われる。
Cの辺りの農免道路。右側の土塁も遺構の一部であろう。 これも農免道路。いかにも堀切跡のように見えるのであるが、ここは堀切ではなく。農免道路を作ったときに生じたものであるに過ぎない・本来は左側の土手まで台地続きになっていたのだという。
Cの辺りの様子。左側には土塁も残っている。また、この辺りには井戸の跡もあるというところである。 1郭東南側の2の堀。大堀に比較するとだいぶ小さい。
根古谷城の創建は明らかではないが、享徳年間(1542〜55)、千葉一族の家臣であった。円城寺氏によって築かれたのではないかといわれる。後に康正元年(1455)に、千葉一族の内紛によって千葉氏が没落していくと、円城寺氏も滅びたという。その後は同じく千葉家臣団の粟飯原氏が城主になったという。粟飯原氏についても詳細はよく知らないが、千葉氏の家臣であり、岩富原氏などと密接な関係があったものと推測される。




用草(もちくさ)城(なえぎ屋敷・八街市用草)

 根古谷城と東に向かい合っている比高15mほどの台地が用草城の跡であるという。根古谷城の支城の1つである。台地上は広大な畑となっているが、特に遺構らしきものは散見できない。南側に一部土塁のようなものが見受けられ、これがかつての虎口の名残ではないかとも想像されるが、確定的なことは何もいえない。かなり破壊されているのかもしれないが、もともと、それほど人工的な構造物を伴っていなかったのだとも考えられる。

 なお「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」で、ここを「なえぎ屋敷」としているが、なえぎ屋敷は山麓部分に残っている地名であり、台地上のものは用草城というのだ、という渡辺さんのお話を取り入れて、ここでは用草城と呼ぶことにした。











台地上には一部土塁らしきものが見受けられるが、本当に遺構といえるのかどうか、はっきりとはいえない。 根古谷城から見た用草城。比高15mほどの台地の北側先端部分に当たる。
(以前の記述)八街市は結構広いのだが、なぜか城址と言えば、根古谷城の他は、館の跡が2つあるにすぎない。なえぎ館は、根古谷城のすぐ東に向かいあっている舌状台地の先端部にあった。土豪層の居館の跡であろう。比高15mほどの台地である。台地の基部には真福寺という寺院がある。館跡には腰曲輪や土塁が残っているといわれる。




岡田砦(八街市岡田)

 根古屋城の北東方向に向かい合う台地には岡田砦があったという。用草城の北側にあたる。(用草城の台地が写真の右端に映りこんでいる。)
 遺構等は確認していないが、このように沼沢地を挟んで、衛生的に支城を配置する形式は、根古屋城主粟飯原氏の主人に当たる千葉氏の本城、本佐倉城にも見られる形式である。















向山砦(八街市根古谷)

 根古谷城のすぐ北側に向かい合う台地には向山砦があったという。法宣寺の背後の台地で、法宣寺が居管区であったとも言われるが、詳しい事は分からない。台地の背後には七曲りという地名が残っている。これは鎌倉にもある地名であるが、この付近には鎌倉にも見られる地名がいくつかあり、鎌倉との関連が深い土地であったといわれている。

 向山砦のある台地は別名、「寝釈迦さま」とも呼ばれている。その所以は、台地の形が釈迦が横たわった姿ににているということから来ている。写真の左端部分が頭で、仰向けに寝ているという格好で、確かに言われてみるとそんな感じがしないでもない。

 遺構等は未確認である。










*上記の他にも、根古谷城の西側には西御門砦、南側に丸山砦(土塁や堀が残っていると言われたのだが、よく分からなかった)等の砦があったという。(実際にはまだあるらしいが、今のところ、これだけしか把握していない。)






































大竹屋旅館