千葉県横芝光町  

*参考資料 『山武の城』(小高春雄)  『房総の古城址めぐり』(府馬清)  『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』  『日本城郭体系』
*関連サイト  埋もれた古城  房総の城郭

坂田城(山武郡横芝町坂田字登城)

 坂田城は坂田池の北側にある比高20mほどの台地に築かれていた。

 坂田城の鳥瞰図を描き直しました。主な変更点は次の2つ。

(1)大手口の二重堀切になっている虎口部分が、現在では直線的に2つの虎口を並べるという形に通路が切られているが、「山武の城」で指摘している通り、北側の土塁の縁に沿って当時の道と思われる部分が残っていることから、この図のように、北側の虎口は土塁のふちに沿って、東側にぐるりと回りこむようになっていたと思われる。

(2)道城と於東の間の「埋められた堀」と想定していた部分であるが、これも「山武の城」の指摘するように、実際には堀ではなく、側面から進入するための通路の跡ではないかと思われる。台地全体を掘り切るようなものではなく、左右から切り通しの通路が入り込むような構造であったようだ。

































*坂田城鳥瞰図

 北西の大手口方向から見ています。


*坂田城の井田氏については井田因幡守と牛久番、および、地方領主の近くて遠い城に詳しく書いていますので、よかったらどうぞ。



「総州山室譜伝記」によると、坂田城は、この地方の領主だった千葉一族の三谷氏の居城であった。三谷氏は代々この地方を領してきたが、一族で争っている間に大台城の井田氏に付け入られることとなり、弘治元年(1555)、三谷信慈は、井田友胤に急襲されて敗れ、三谷氏は滅んだ。その後坂田城は井田氏の本城となった。坂田池を望む標高35mの台地上全域に展開する広大な城で、この地域では最大級の城であり、遺構も良く残っている。城の広大さから井田氏の勢力の大きさを感じることができるが、この城も例によって小田原の陣に際し廃城になったという。











一郭北側の土塁と空堀。実際は写真で見るより遙かに深く、大きい。屈曲部が巧みに構成されている。























主郭土塁上より、二郭への土橋、堀、土塁を見る。二郭は馬出し状の曲輪で、縄張りの新しさを感じさせる。
























二郭の土塁と堀。土塁上には櫓台もあり、かなり本格的なものだ。





















四郭内部より大手口方面の土塁を見る。この方面は、二重堀・二重土塁で守りを固めている。土塁の高さ・堀の深さ共に相当ある。




















小提(おんずみ)城(横芝町小提字要害)

 小堤城は現在、城地のほとんどを削り取られてしまっている。したがって、旧状をしのぶよしもないのだが、『山武の城』の図面を基にして鳥瞰図を描くと、このような感じになる。2郭構造ほどの、小規模な城郭であったらしい。
























 小提城は坂田城の3要害の1つであり、坂田城より2kmほど北にあり、北部の守りを固めていたものであろう。三谷氏が井田氏に滅ぼされる前の三谷氏の本拠地は、この小提城だったとも言われている。城址は町の指定史跡となっているが、一部が削られており、また地元でもあまり良く知られていない。付近の人に「小提城を知りませんか」と聞くとみな「さあ、坂田城なら知っているが・・・」という答えしか返ってこなかった。城址には土塁や堀などが残っている。写真は城址の脇にある池にあった新しい弁天様だが、この池は城址の南側を取り巻くように位置しており、かつては城の堀だったものであろうか。

 しかし、この池は農業用の用水であり、城とは関係がないらしい。実際の城址は、県道79号線で、「木戸台」と「小堤」というバス停の間の、道が東側にカーブして突き出している辺りの台地の先端にあったらしい。しかし、ここはかなり削られてしまっているので、遺構の大部分は破壊されてしまったらしい。









鳥喰(とりはみ)館(横芝町上鳥喰)

 鳥喰館は、上鳥喰の普門寺の辺りにあったというが詳細は不明。



 

長倉城(山武郡横芝町長倉)

 長倉の長勝寺の北側の比高20mほどの台地が長倉城の跡である。この台地は北西側から延びているものだが、台地続きは細い尾根だけになっているので、実質上、独立台地というのに近い形状をしている。

 坂田城の3支城の1つと言われ、坂田城の西1kmほどの所にある。3支城のうちの他の2つ(小堤城、浜手城)が隠滅しているのに比べると、ここだけはほとんどそのまま残っているといっていい。

 台地の最高所の1が主郭であると思われる。規模は30m×70mほど。台地の東側がやや削られ、南側にも削られた跡があるが、だいたい旧状通りであると思われる。南端部には3つの祠が祭られている。また西側には腰曲輪が巡らされている。1郭の北側にはやや高く土が盛られ、先端部が土塁状になっている。その先が6mほどの切岸となり、下の2郭と接している。

 2郭は長軸40mほどの郭である。きれいに削平されている郭であるが、なんといっても一番目立つのが、北側にある巨大な土塁である。高さ5〜6mという大きな土塁がL字型に配置され、北側の防備を固めている。これはとにかくでかくて圧倒される。この土塁は削り残しによるものであるが、それにしても北側からの敵の接近にかなり気を遣っていることが分かる遺構だといえる。この土塁の北側下には堀切がある。この堀切は東側に向かって弧を描き、堀底には途中に一ヶ所、1mほどの段差がある。堀底の先は竪堀ではなく、断崖となって城塁に接している。さらにこの堀切から先は尾根が細く台地基部の方につながっている。このように、長倉城は尾根続きに当たる北側の防備に気を遣っているということが非常によく分かる城である。

 1郭の南側には尾根が細く下っていき、長勝寺の背後の数段の郭に接している。城の本体部分からはかなり離れており、連絡もよいとはいえない。この部分も城域といえるのかどうか迷う所ではあるが、切岸状の段差によって区画されている事、南端の2つの土壇が、物見台のような形状をしている事から、一応、物見が置かれていた場所というように考えてもいいかと思う。

 長倉城は、さほど大規模でもなく、技巧的な遺構を残しているというわけでもないが、出城とするには十分な機能を持っている城郭であるといえるだろう。その位置から考えても、伝承通り、坂田城の出城であったというように見て差し支えないと思う。

 なお、長倉城の南300mという近接地には、八田の砦群(松尾町)が南北に並列している。これらの砦群ともなんらかの関係を有していた可能性がある。








長勝寺から背後に登ると、一段高い所に古そうな墓地がある。その背後にそびえている部分は櫓台形状をしている。物見台であろう。 1郭東南下に祭られている祠。この上が1郭である。
2郭北側の土塁。削り残しによるものだと思われるが、高さ5mほどもあり実に重厚な土塁である。この先が堀切となっている。 2郭北側の堀切。深さ5mほど。東南に回りこむようにして弧を描いている。
(以前の記述)長倉城は、小提城・浜手城と共に坂田城の3要害と呼ばれた支城の1つである。

 坂田城の1kmほど西にある比高20mほどの台地で、坂田城の西側の、守りを固めていたものであろう。 天文年間の頃の坂田城主であった三谷大膳亮信慈の弟、胤良がこの城にいて「長倉殿」と呼ばれていたという。

 城址には土塁や空堀などが残っている。台地の南側に長勝寺という廃寺があるが、写真はその寺の脇から台地を見たところである。




浜手城(山武郡横芝町横芝)

 浜手城も坂田城の3要害の1つとされているが、位置は坂田城を挟んで1kmほど南の平地部で、長倉城・小提城に比べると、要害的な地取りになく、また何のためにこの場所に要害をおいたのかもよくわからない。規模も平地の単郭といった感じで、坂田城の支城と言うには役不足といった感が否めないのである。城址と言われるところは、横芝中学校のすぐ北側で、大師尊があるが、遺構などはまったく残っていない。



良兼館(横芝町屋形)

 

 平将門の伯父で、将門と戦闘を繰り広げた平良兼は、現在の横芝町に屋形を置いたという。地名もそのまま屋形である。屋形地区の最も北側近く、栗山川に近いところに四所神社があるが、ここが屋形の伝承地といわれているところである。由緒ある神社で、なかなかいい風情だ。神社の周囲には低い土塁があるが、館跡の遺構なのかどうかはわからない。

 平将門は、良兼の娘を強奪したあたりから、反乱に踏み込んでいくことになるのだが、そういう争乱もかつてこのあたりで繰り広げられたものだろうか? 今は全く平和な田園地帯である。










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