ぷろふぃーる その1

月並みですが,自己紹介のページを作ることにしました.なんか,探して下さった方もいらしたようなので.うれしいですね.といっても,わざわざ探して読むほどのものではないのですが.(苦笑)
一気に上げるのも大変なんで(それなりに年月重ねてきてますからネ),徐々に更新して行こうと思います.どうぞ気長におつきあい下さいませ.いちおうノンフィクションで行くつもりです.(笑)

誕生〜幼少期

病院で誕生した当初,私は周りの先生や看護婦さんたちに「アポ子ちゃん」と言われていたそうです.そう,ちょうどその時期に生まれたんですよ.同級生には「しずかちゃん」という子もいました.きっと,私より年上の方は,私の生まれ年とおおよその誕生日がわかったことでしょう.(笑)

さて,生まれたとき,両親は鎌倉に住んでいました.父の会社が鎌倉だったから,それだけの理由です.この頃の記憶はありませんが,しばらくして同じ市内の大船の社宅に引っ越しました.その頃,よく親に連れられてフラワーセンターに行ったんだな,というのは,幼稚園や小学校に入ってから当時の写真を見ることで刷り込まされました.(笑) どこから見ても仲のよい家族に見える写真で,私も,髪に飾ったタンポポの花のよく似合う,内気な感じの,それはそれはかわいらしい女の子でした.(笑)

ちなみにこの頃恐かったものは,大船駅からも見える,あの大きな観音様でした.大人になってから見ても,夜などは効果的に下からライトアップされていて,とっても不気味です.
よく見る恐い夢ナンバー1は,親の運転する車の後部座席に座っていると,いつのまにか隣に観音様が,あの切れ長の目で,無言で座っているというものでした.観音様が隣に座っていると,いつも車内の空気が変わり息苦しくなるのですぐ気づきます.そして声が出なくなり,必死に車のドアを開けて外に出ようとするのですが,ドアはロックされて開けられず,声が出ないため助けを呼ぶこともできず,汗びっしょりの状態でうなされて目が覚めたものです.大船から葉山に引っ越した後も,しばらくこの夢にうなされました.大船で暮らしたことのある方,こんな夢,見たことありませんか?

幼稚園〜小学校

幼稚園に入園する少し前に葉山に引っ越してきました.そしてほぼ同時にピアノを習い始めました.入園前のことです.今にして思うと,幼児2人いて,駆け出しのサラリーマンの父が,よくマイホームを持つ決心したなぁ,と,ただただ感心してしまします.私にはできないマネです.堅実な生活とは無縁だし.固定資産なんて持てないだろうなぁ.(苦笑)

ちなみに幼稚園の頃は虚弱体質で,人見知りの激しい,おとなしい子でした.子供はえてして残酷なので,同世代の子供と遊ぶよりも,大人同士の会話を側でじっと聞いているのが好き,という,子供らしからぬ子供でした.(笑)それにしても,いつのまにこんなにたくましくなってしまったのでしょう?

ピアノは自分から習いたいといって買ってもらっただけのことはあって,かなり使い込みました.幼稚園に入る前から,中学に入るまではずっと,ピアノの先生の家に行く他は放課後はまっすぐ帰宅し,毎日3〜4時間は練習していたものです.手首を痛めるとピアノのレッスンに支障が出る,とバレーボールもしませんでした.そんな毎日だったので,幼稚園や小学校生活前半の想い出はピアノを練習していた以外には特にありません.でもとっても好きだったんで,特に寂しいとも思わないのですが.

小学校2年の頃,母に,何をしててもいいから夜遅くまで起きている練習をしなさい,と勧められ,夜9時過ぎではもう子供向けのTV番組もなく,自然といろいろな本を読んで過ごすようになりました(夜遅くは近所迷惑なのでピアノは弾けないから).この頃は世界子供名作全集が多かったです.たまに横浜のダイヤモンド地下街の有隣堂に行くといつもまとめて買ってもらい,帰りに横浜駅でキ陽軒のシュウマイを買って帰るのが,けっこう楽しい,ちょっとしたイベントでした.

本好きになった私は,夏休みは毎日,午前中は図書館で過ごして,推理小説,SF,ファンタジー,エッセイ,(軽〜い)アメリカ文学,哲学(もどき),経済学(猿でもわかるような),写真集,いろいろなコレクター用のオタクな本など,実にいろいろなジャンルの本を乱読し,いろいろな世界のこと,いろいろな人々がいるということを,本から吸収していました.親としては,朝早く図書館に放り込んでおけば文句も言わず,お昼に迎えに来ればいいだけだったので,けっこうラクだったと思います.

また,やはり小学校低学年の頃から,自分でも童話もどきを書き始めたり,夏休みには神奈川県のいろいろな学校が共同で企画していた豆記者講習会という,新聞の書き方を学ぶ軽井沢の合宿に参加したりしていました.そこで知り合った他の小学校の友達と文通を始めて,はじめて自分の住所を「三浦郡」から書いたときは,とても世界が広がった気がしました.それまで近所のお友達との年賀状の交換などは,せいぜい「葉山町」からで充分だったので.

このまま行けば,絵に描いたようなお嬢様街道を進めたはずだったのですが (苦笑),小学校四年の半ばに,親が,近所の同級生の親から四谷大塚(塾では無いけれど,勝手に勉強させて毎週日曜にテストを行っているところ)なんてものを聞いてきたのでした.毎週1人で電車に乗ってトウキョウまでお出かけ,というのが,自宅と地元の小学校とピアノの先生の家の行き来だけという狭い世界から,本ではなく,実際に自分の足で,より広い世界に踏み出していく感じがして,けっこうわくわく通うことになりました.日曜だけでしたので,ピアノはそれまで通り続けていました.

神奈川県の高校受験は,中2で行われるア・テストと呼ばれるものや,先生の内申書の比重が高いため「あなたはたぶん先生受けが悪くなるだろうから,中学で中高一貫の学校を受験した方がいいわよ」と,さすが親,本人でも思いもしなかったことを当時からわかっていたようで,中高一貫の私立の女子高に行くことになりました.東京の学校に通うことになったのは,明らかに,四谷大塚に通い始めたせいです.鎌女とかフェリスとかでお嬢様できたかもしれなかったのに...

中学校〜高校

1.学校生活(1)
大学までストレートで行ける慶応中等部に行きたかったのですが,2次試験(体育,音楽,美術と面接)で補欠になり,結局不合格になりました.まあスポーツは全般にダメだったので,飛び箱は飛べないしボール投げは相手に届かないし.おまけに面接で「これから何をしたいですか?」と聞かれて「何もしたくありません」と答えたんだそうです.親によると.(苦笑) どうやら,将来のことを聞かれたコンテクストだったのに,試験が終わった直後のことと受け取って答えたようでした.横にいた両親は,その場で硬直したそうです.たぶん会社を休んで来てくれてただろうに,父にも悪いことをしましたねぇ,当時を思うと.

ともかく,入った桜蔭という中高6年一貫教育の学校は,とても刺激的で,一瞬も気の抜けない,ゴージャスにデンジャラスで爆裂した超個性的な人々の集まりでした.そのシナジー効果たるや...(笑)
とにかく,気が抜けないんですよ.授業中も休み時間も.授業中ぼーっとしてようものなら,後ろの席から「ブラックエンジェルごっこだあっ!」とコンパスの針で突つかれますし,廊下をホケっと歩いていようものなら後ろからタックルやヘッドロックを容赦なくかけられる,お弁当の最中,ふたを開けたまま席を立てば,誰かに食べて下さいと言ってるようなもので自分が悪いんですが.
ただ,不思議と,授業中でも寝てる間は攻撃がなかったので,休み時間に神経を尖らせている私は,授業中はずっと机につっぷして熟睡してたものです.(笑)

でもイジメではなく,じゃれあいの一種に過ぎなかったので,行き過ぎでヤケドすることはちょくちょくあったものの,実にあっけらかんとしたものでした.人生においてあのときほど,毎日背中を緊張させ,視界を最大限に広げて過ごしていた時期は無いと断言できます.大学に入ったとき,一気に背中の緊張がとけたのを覚えていますから.いったん軟弱になってしまった後は,もう2度と,あんな環境に身を置けないよね,と,たまに友達と話すとみんなで同意してしまいます.どうやら,大学に入って日々の緊張が解けたのは私だけではなかったようです.

当時,学校の仲間内で流行っていた遊びには,「よってたかっていじめっこ」とか「暗殺ごっこ」なんてありました.どんなものかというと...

「よってたかっていじめっこ」カゴメカゴメみたいに中に1人,鬼がいて,周りをみんなが「よーってたかっていーじめっこー!」と歌いながらくるくる回り,その後みんなでバシバシ容赦無く,目をつぶって下を向いている鬼の頭をたたく.鬼は,いちばん最後にたたいた人を特定し,当たれば当てられた,最後にたたいた人が鬼になる,というのが普通のバージョンだったけれど,私達はローカルルールで,最初にたたいた人を当てるようにしていたので,つまり最初に誰かが叩いてしまえば,あとの人は自分が次の鬼になる心配が無いのでいつまでも容赦なく叩けたというワイルドな遊び.たまに,叩くのに使っていたプラスチックの下敷きが割れたりした.

「暗殺ごっこ」廊下などを歩いているときに水鉄砲必携で,曲がり角の影などから,早撃ちの要領で,相手をより早く撃った方がポイントを得られるというゲーム.単にターゲットにされるだけの人もいて,恐そうな人を撃つほどポイントが高い.これを水鉄砲があまりなかったため,開業医の娘が,使い捨ての,血のりのついた注射器をいっぱい持って来て,みんなで洗ってそれに水を詰めて使っていた.当時は「この血のり,キレイなお姉さんのならいいけど,なんか暑苦しいオヤジのだったらやだね〜」なんてカラカラと言っていたけれど,考えてみると肝炎とかに感染していたら,「暗殺ごっこ」もシャレじゃなくなってたと思う.んんん,スリリング〜っ!


でものどかな風景もあって,学校にあるビワの木によく登っては,ビワの実を取って食べたりしていたのですが,そこで,下から登った私と,上の階の窓から乗り出して取りに来ていた子は,6年間一度も同じクラスになることはなかったのに,とても仲良くなり,卒業後もずっとコンタクトを取る大切な友人になりました.(笑) その他,授業中は,みんな机の下でマンガを読んだり,交換日記を書いたり,手紙を回したり,ジグゾーパズルを手分けしてやってたりで,放課後はお茶の水あたりのロッテリアでおしゃべりしたり,横浜方面の友達と横浜駅で降りて,駅ビルや地下街の雑貨屋さんなどをぷらぷらしたり,そんな普通の学生生活でした.

2.音楽生活(1)
そして,中2のときに,期末試験の勉強中,気分転換に聞いていたニッポン放送のオールナイトから流れてきたジャクソン・ブラウンの曲がやけに耳に残り,レコードを買ってみて,そこからイーグルス,スプリングスティーンと,洋楽の世界にずるずるはまっていきました.

典型的な古き善きアメリカンロックから入ったのにプログレに走るのに時間はかからず(笑) 中2か中3のときに,はじめて自分で行ったコンサートは五反田簡易保険ホールの,再結成後のキング・クリムゾンでした.当時,いろいろ再結成ブームでしたね.でも会場で,周りは郷愁モードのおじさん(当時の私から見れば)ばかりで,1人黄色のワンピ着て入っていった私は,はっきりいって浮いてましたねぇ〜.(苦笑) でも,感受性の強かった私は,スプリングスティーンの「ジャングルランド」を聴いても,クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」やピンク・フロイドの「マネー」を聴いても,夜中に1人で部屋で涙しちゃってたんですよ.スプリングスティーンで泣くのはわからん,と友達に言われましたが.

本当に真剣に,ただ好きな音楽のルーツ,古典などを溯ってはひたすら聴くという生活になりました.ちょうど好きな音楽が重なったため,ロッキン・オンや渋谷陽一系のFM番組にもはまってましたね.

中3のときにクィーンのコンサートに行ったのは偶然でした.確かお茶の水のレコード屋さん(当時はね)で,スプリングシティーンのアルバム買ったら,何故か東芝EMIのクィーン関係の応募ハガキをもらって,なんとなくそれに名前と住所書いて送ったら,コンサートとバックステージ招待が当たったから,と自宅に電話が入ったのでした.ハガキもろくに読んでいなかったので,その電話があるまで,クィーンが日本にコンサートで来るなんてことも知らなかったんですが.後から聞くと,その応募ハガキ欲しさに,何枚もクィーンのアルバムを持っているのに改めて買ったファンもいたとか.
でも私は,クィーンはそれまで1枚もアルバムで聴いたことなかったので,あわてて貸しレコード屋で「オペラ座の夜」と,もう1枚くらい何か借りて来て予習したのでした.
実際コンサートに行ってみると,本当に圧巻で,このチケットが当たったことを本当に感謝したとともに,次回からは自分でチケット取っても絶対に行こう,と心に誓ったのでした(遺憾ながらこれが最後になってしまいましたが).このときバックステージで皆さんに握手してもらったとき,イギリス人の握手って力強いなぁっ,と,とてもびっくりしたのは今でも覚えています.願わくば,もっと英会話に堪能だったらよかったなぁと...

このクィーンのコンサートあたりから,ふと,まだ若いんだから,もっと明るい音楽を聴こうとか,わけわからないことを思い,少し路線変更を試みたのでした.それでもXTCやアラン・パーソンズ・プロジェクトなど,イギリス系の計算され尽くされた音が多かったんですけどね.(笑)
この頃はまだ,将来自分がベサメムーチョで踊ってるなんて想像もできなかったでしょう.よっぽどパンク系にでもアレンジしたものであれば別ですが.(爆)

3.音楽生活(2)
今はかなり大きくなっていると思うのですが,毎年夏に,横浜 Hot Wave Festival という高校生アマチュアバンドの音楽祭があって,ある年それを見に横浜スタジアムに行ってみました.ホントはその前の年にも行きたかったのだけれども,整理券が取れなかったのです.そしてはじめて行ったのは,グランプリが港北高校の「いんぐりもんぐり」だった年でした.その後も数年行ってみましたが,私が行った中では最初の年がいちばんホットで面白かったです.

いんぐりもんぐりは,はっきりいって,別にどうでもよかったのですが,この年出ていた藤沢BOW系の「みのり亭」というバンドの音にはまって,その後ずるずると放課後のメインの遊び場がライブハウスになっていきます.藤沢BOW,横浜VIVRE,YAMAHA日吉センター,石川町ジーンジニー... なんか暇だと,知らないアマチュアバンドでもいいバンド発見できないかな,と,VIVREのライブに寄ったりしてました.安かったんで.ローカルアマチュアバンドのライブだと,2〜3バンドで1〜1.5千円くらいだったし.そんな感じである日ぷらっと入って出会ったのが「あじゃり」だったのです.後から,あじゃりも Hot Wave 通過組とわかりましたが.

すでにあじゃりはローカルなアマチュアバンドにしては固定ファンも多く,私もここでできた多くの友達とは本当に楽しい時を過ごすことができたし,いろんな意味で感謝してます.勉強は好きじゃなかったし,早く経済的に独立したくて就職志望だった私と,当然のように大学進学を希望していた親が毎日のようにケンカしていたときも,当時OLだったお姉さんたちの1人が「私達もね,勉強したいと思って高校に行ったんじゃなくて,ただ世の中がみんな高校くらい行ってるからってだけで行ったんだよ.せっかく親が大学行かせてくれるって言ってるなら,今はみんな大学くらい行くんだし,くらいに考えて行ってもいいんじゃない?」と優しく言ってくれて,そのおかげではじめて「大学行ってもいいかな」という気になったのでした.

そういう,大きなアドバイスもあったものの,普段はそんなヘビーな話ばかりでばく,一緒にライブに応援に行ったり,ライブのたびに紅茶ケーキを焼いてきてもらったり(好きだったんです),等々力にお花見しにいったり,あじゃりがデビューするにあたっては一緒に渋谷の加治木社長(ダディ竹千代さん)の事務所や溜池の東芝EMIにプロモーションの手伝いに行ったり,青山のHONDAビルでのラジオの公開録音にしばしば応援に行ったり,とにかく一生懸命遊んでいて,充実した毎日で楽しかったです.高校生にして,親から家を出されていた私としては,1人でいる時間外でもっとも多くの時間を彼女たちと過ごしていたのでした.

あじゃりの活動が広くなり,ファンの彼女たちとのつきあいも多くなっていったものの,ピュアでストレートなポップスだけだとちょっと物足りなかった私は,やっぱり適当に藤沢BOWに足を運び,テロやR.A.の応援もしていました.藤沢・横浜は近いので,けっこう元メンバー同士が昔は一緒にやってた,なんてこともしばしばで,どっちに顔出しても,誰かしら,別の方の知り合いにもあったりしてましたが.で,BOWでギター作っていた本田毅さんのいたPERSONZなんかもインディーズの頃ちょくちょく行ったりしてました.新宿ロフトなんかに行くと,ろうそくの炎のように髪の毛を逆立てたお兄ちゃんなどがいて,見てても楽しかったです.今ではビジュアル系なんかはこの比じゃないでしょうけれど.

4.学校生活(2)
進学校だった中学・高校で,大学進学を希望していなかった私は高校進学を迷ったものの,すでに他校を受験する能力もなかったので,とりあえずそのままストレートに高校に行くことにしました.

この頃,母親とは折り合いが悪く,ある日突然「あなたはここに住みなさい」と見取り図を見せられ,意見をはさむ余地も無いまま,千代田区の五番町(市ヶ谷)で一人暮らしを始めさせられます.

でも,根が真面目なので悪い遊びにも走らず,ひたすらライブハウス通いや応援で忙しい毎日でした.
高3になると,あじゃりファンのお姉さんのアドバイスもあり,大学受験しようかな,と,遅らばせながら放課後予備校に通うようになりました.でも,きっと私のことだから大手だと簡単にサボり始めるに違いない,と,自分で自分の首を絞めるため,出席も採るという,比較的小人数制の,お茶の水ゼミナールというところに行くことにしました.ここがまた,集まるのは,推薦も含め,お嬢様系私立短大・女子大志望の文系の女の子たちと,それに群がる男の子達という,すごい構図のところだったのですが.(笑)

でも当時いた講師陣は教え方が上手で(だいたいもう大手に転職してしまいましたが),おかげで理系なのに古文・現代文が大好きになり,大和言葉の研究のため国文に進学しようかとも迷ったものでした.数学も,こういう環境にしては珍しくいい先生が一人いて,教え方もばっちりだったのですが,ひょんなことからライブハウス仲間というのがわかって,一緒に渋谷・新宿あたりに町田町蔵のライブやピストルズの映画を見に行ったりしました.
今まで頭のてっぺんまでつかっていた音楽の世界からいきなり足まで抜くと無理が来るだろうと,月に1〜2回は気分転換にライブに行ったりしてました.待ちのあいだは,狭い汚い階段に座り込んで勉強するなど,普通の(じゃないかなぁ)受験生,始まるとライブに没頭と,完璧に頭の切り替えを行っていたものです.

志望校を決めるにあたっては,まだたまに顔を出していた加治木社長の事務所にT.V.という筑波大学出身のバンドがいたので,なんとなく筑波に行こうかな,と単純に考えていました.(笑) で,当時付きあっていた横浜の男子校の同学年の彼に「筑波にしない?」というと,最初は「えーーーっ!?」と固まっていましたが(そこまで硬直するほどの場所じゃないと思うんですが...)日々説得し,秋になってから一緒に筑波見学に行ったりして,やっと向こうがその気になった後,私はあっさり「筑波やめるわ」と言って,彼一人を筑波に送り込んでしまったのでした.でもいい子だったので,きっと筑波で素敵な彼女を見つけてシアワセになったことと信じております.(汗)
そして私は,お茶ゼミで同じクラス(私大文系お嬢様学校の多いお茶ゼミにあってかなり異端なクラスでした)にいた,ちょっとパンキッシュなオレンジ色の髪をしたICUの男の子が「京大の理学部」と言っていたので,あっさり「私も」と同調してしまったのでした.(笑)

でもさすがに半年弱の準備では間に合わず,一年浪人することになります.これが,実は予備校生というのも楽しそうに見えていたので,けっこうわくわくでした.何しろ,大学に入っちゃうと後から予備校生はできないから,順番としては,やっぱり先に予備校生だね,という感じで.(笑) 
授業はライブ感覚で楽しんでいました.ショウのように,生徒を惹きつけるよう計算した授業をしてくれる先生の授業だけ,日比谷の野音やロフトでいちばん前に乗り出していたよう,前の席で楽しんで,あとは全部ぶっちしていたので,1日せいぜい1コマか多くて2コマしか授業は出ませんでしたが,かわりに好きな先生を追っかけて駒場や立川に行ってみたり,毎日とても楽しかったです.きっと先生達にしてみれば「変なヤツ」だったのでしょうけれど.(苦笑)

授業は最小限,必要なもの(楽しめるもの)にしか出なかったものの,その他の時間はマイペースに独習していました.自分にあった勉強方法は人それぞれですが,私にはこれがあってると,この頃,自然にたどりついて,その後の勉強方法も全て「独習+いくつか自分にあう授業だけ」型になりました.
中学から高2まで,受験もなく全く勉強しなかったので,いざ勉強を始めてみると毎日新鮮な発見ばかりで楽しくなり,カラカラに乾いた砂漠に水が染み込むよう(笑),面白いくらいいろんなことを毎日吸収していきました.

夏になると,全国模試を受ければいつもテレフォンカードやシャーボがもらえるくらいになっていて,成績には何の不安もなかったのですが,何故か模試が終わると,7〜8時間もテストを受けていたというのが空しくて,毎回家で1時間くらい泣いてしまうという症状に陥ってしまいました.勉強して考えたり新しい考え方をインプットするのは楽しいのだけれども,アウトプットのためだけに毎回7〜8時間もかけているというのが空しく思われたのです.
そんなある日,いつものように全国模試のあった日に,夕方から日比谷野音でパンク系のバンドがたくさん出るフェスティバルがあると聞いて,その開始時間に間に合うよう模試の受験科目を調整して,さっさと終わらせてそのまま野音に行ってみました.模試の後,何も考える時間もなく,すぐライブに没頭したので,この日はライブが終わって家に帰っても泣かずにすみました.この日から,模試のあとは必ず気分転換にライブに行くことにしました.とにかく私の人生は音楽に救われることが多いです.

たいした手応えもなく京大模試で2番とか3番とかを続けてとるようになると,さすがに自信家ではなく運も強くないと思っている私でも,これは受験会場に行って椅子に無事座りさえできれば受かっちゃうな,と思うようになりました.でも全然嬉しくないどころか,かなり苦痛の種でした.
京大受験にあわせて勉強するというのは楽しかったし,ICUの人と一緒に受験しにいくというのもちょっとした遠足気分で楽しいと思ったのですが,実際京都に4年間住むというのが現実的になると,話が違うのです.京都がどんなところであろうと,私には横浜−湘南を中心としたに仲間がいたし,音楽を楽しむ生活基盤もできていたので,そこから,あえて自分から抜けていくのはとても辛いことでした.親の転勤で引っ越す小学生ならまだしも,誰からも強制されてないのに,なんでわざわざ自分から出て行くのだろう,この環境を捨ててまで,どれだけいいことがあるんだろう,と思うとジレンマに陥り,予備校の講師室の仲のいい先生の前で「京大が横浜にあったらいいのに」と泣いてしまったものでした.ホントに泣いていたので「それじゃ横国」と突っ込むこともできず,先生も返答に困っていたことでしょう.(苦笑)
その後,自分の意思による大きな引っ越しは数度しましたが,このときのように大きな悲しみやジレンマを感じたことは一度もありません.京都もすてきなところだったし,また行きたいとも,あるいはまた住むのもいいな,とも思うのですが,離れるときに辛いことはありませんでした.それだけ,高校時代ライブハウスで遊んでいた仲間との毎日が楽しく,居心地がよかったんだと思います.

そして,2度目の受験もオレンジ髪のICUの子と一緒に行き,彼は落ちて東北大に行き,私は一人で京大に行くことになってしまいました.

 《ぷろふぃーる その2(大学編)はこちら




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