Update 2002/09/02

萱生の古墳群


西殿塚古墳(現衾田陵)
東殿塚古墳  中山大塚古墳  燈篭山古墳  下池山古墳  馬口山古墳
西山塚古墳


西殿塚古墳

西殿塚古墳

奈良盆地の東端の山際、天理から桜井にかけては前期の巨大な古墳が密集しています。この古墳群は大きく三つにわかれ、北から大和(おおやまと)古墳群、柳本古墳群、箸中古墳群(纏向古墳群)と呼ばれています。この全体を総称して大和古墳群と呼ばれていますが、これでは大和古墳群が二通りの意味を持ってしまうので紛らわしいことこの上ありません。この紛らわしさを解消するため、全体をいう時は山の辺古墳群と私は勝手に呼んでいます。この三つの古墳群のうち、ここで扱うのは一番北の大和古墳群であり、その盟主墳がこの西殿塚古墳です。この西殿塚古墳があるのが萱生の集落なので狭義の大和古墳群は萱生古墳群とも呼ばれます。

西殿塚古墳は、全長220mで衾田の陵と呼ばれています。前方部が箸中山古墳同様にばち形に開いていることや、採取された土器の中に特殊器台が見つかっていることなどから箸中山古墳に準ずるごく初期の大型前方後円墳であると見られています。ただし、航空写真を見る限りは、箸中山古墳がかなりスリムな印象を受けるのに対し、西殿塚古墳はでっぷりとしています。例によって宮内庁の管理下にあるので発掘が出来ません。この古墳は継体天皇の后である手白香皇女の墓と伝えられておりますが、時代が大きく異なりこの伝承が誤りであることは明らかです。(継体天皇は6世紀でこの古墳は4世紀初頭ですから200年ほど開きがあります。このあたりで時代の一致する古墳を探すと、西山塚古墳しかありません。)他の大型古墳と違って、この古墳は伝承が誤りなのが明らかであるので、発掘してもいいのではないかと素人考えで思います。箸中山古墳(伝箸墓)や行燈山古墳(伝崇神陵)、渋谷向山古墳(伝景行陵)に比べて知名度はずっと下がりますが、箸中山古墳に次ぐ早い時期の大型前方後円墳としてその重要性は計り知れないものがあります。もっとも発掘が待たれる古墳です。

後円部は三段築成で、墳頂に方形の壇があります。前方部前面も三段築成でやはりその頂に方形壇があります。これらの方形の壇は、後世に形象埴輪で墳頂を方形の区画することの初期の形ではないかと考えられています。前方部にも方形壇がある所が注目すべき所で、後円部に葬られた人物に対する祭祀のための壇ではないかと見られています。しかし、私は前方部にも誰かが埋葬されている可能性もあるのではないかと思っています。けれども、残念ながら発掘出来ないので真偽はわかりません。

東殿塚古墳

東殿塚古墳西殿塚古墳の東に寄り添うように位置している前方後円墳が、東殿塚古墳です。例によって未発掘のため詳細は不明ですが、後円部頂には竪穴式石室を思わせる割石と方形壇による自然石が散乱しており、それと共に、円筒埴輪や特殊円筒の破片も散乱しているようです。墳形は、前方部が著しく長い特異なもので、全長は139mです。時代は、行燈山古墳(伝崇神陵)と同時期と比定されています。

中山大塚古墳

中山大塚古墳1998年は黒塚フィーバーで明けましたが、これと同じ一連のプロジェクトとして、中山大塚古墳は下池山・黒塚に先んじて発掘されました。これ以前に山の辺古墳群(大和古墳群)で行われた発掘は、40年以上前の櫛山古墳と天神山古墳だけというお寒い状況です。これだけ未発掘のままほおっておかれたら、古代史の謎が解明されないのも無理はないと思ってしまいます。発掘の結果、竪穴式石室と葺石、円筒埴輪類が見つかっています。ここは中世に山城として使用されていたこともあって、墳丘はかなり改変されていました。石室は盗掘を受けており、鏡の破片一つと幾つかの鉄器の小片が見つかっただけです。しかしながら、この発掘によってこの古墳は箸中山古墳と同時期かあるいはそれ以前の初源期の古墳であることがはっきりしました。

燈籠山古墳

燈籠山古墳念仏寺の東側に燈籠山古墳はあります。全長110m。現在、後円部は果樹園に、前方部は墓地になっています。墳形は前方部の長く、東殿塚古墳に似ています。墳形からは、中山大塚→東殿塚→燈籠山という系譜が見てとれるようです。時代は4世紀末ぐらいに比定されています。

西殿塚古墳から燈籠山古墳までは一つの尾根の上に築かれており、大和古墳群の中で中山支群と呼ばれます。中山支群は前期古墳のみを含むという特異な支群です。

下池山古墳

下池山古墳この古墳からは、私の大好きな大型倣製内行花文鏡が見つかっています。この鏡は、石室外の北西の小石室の中から見つかりました。ほぼ同じ内行花文鏡が柳本大塚古墳からかなり前に見つかっていますが、出土状況などはこれとほぼ同じであったそうです。下池山古墳は全長110mの前方後方墳で、時代は行燈山古墳と同時期と比定されています。現状では前方部が非常に狭い特異な形をしていますが、溜め池を造る際に削られた可能性があり、原形は不明です。石室からは高野槙の割竹形木棺が見つかっていますが、この古墳も盗掘を受けており副葬品はほとんど残されていませんでした。石室内には排水溝が設けられており、木棺が残っていたのはこの排水溝のためであろうと考えられています。

この古墳発掘の最大の成果は、何といっても大型倣製内行花文鏡です。直径37.6cm、重さ4.88kg。図柄は中国鏡をまねたもので、中央部に四つ葉座があります。線刻はピシッと締っており、非常に作りのいい鏡です。当時の鏡づくりの技術の粋を集めたものと言えるでしょう。この鏡について下池山古墳の調査概報は「それは当時のハイテク技術の勝利であり、奈良時代の大仏鋳造に匹敵するぐらいの国家的大事業であったと言えよう。」と最大級の賛辞を贈っています。また、この鏡に付着していた有機物からも大きな発見がありました。この有機物の分析から、この鏡は袋に入れられた上に箱に入れられて埋められたことがわかりました。袋の繊維は、縞織の平絹、茶の平絹2枚、真綿、毛織物の順で重なっていましたが、縞織物は茶・黄緑・青の縦縞をくり返すもので、文献に見える『倭文(しどり)』であろうと推測されています。倭人伝に見える班布というのは、倭文のことだろうと考えられているそうです。

馬口山(ばぐちやま)古墳

馬口山古墳大和神社参道入り口北側にあるこの古墳は全長110mの前方後円墳ですが、現在前方部後円部ともに畑が作られています。案内板には古墳時代中期と書かれていましたが、前方部がバチ形に開くこと、宮山型の特殊器台が採取されていることなどから、最古級の古墳で、箸中山古墳、中山大塚古墳と同時期と推定されています。

西山塚古墳

西山塚古墳現在は全体が果樹園になっており、東の山の辺の道からは池越しにユーモラスな姿を見せてくれます。全長114mの前方後円墳ですが、時代は5世紀終りとこの一帯では飛びぬけて新しい古墳で、この北の西乗鞍古墳と同時期と比定されています。5世紀終りというと、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳よりも新しいことになります。西殿塚古墳の所で書いた通り継体天皇皇后の手白香皇女は衾田に葬られたとされていますが、衾田付近で時代の一致する古墳を探すとこの古墳以外にはありません。従って、ほぼ間違いなくこの古墳が手白香皇女陵です。


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