Update 2002/09/02

魏志倭人伝の語る日本

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地  理

『倭人は帯方東南大海中にあり、山島に依りて国邑をなす。』魏志倭人伝はこの有名な一文から始まります。魏志の示す日本は、帯方郡(朝鮮半島)の東南の海上にある島国で、一周五千余里程と記されています。そしてその位置は、帯方郡からは一万二千余里であり、「会稽東冶の東にある」と書かれています。会稽東冶は今の福健省あたりですから、邪馬台国は沖縄か台湾のあたりにあると思われていた事になります。

魏志の地理観の想像図 魏志倭人伝では、邪馬台国に至るまでに“南へ水行二十日”、“南に水行十日陸行一月”などと南へ南へと進んでいるように書かれています。この記述からすると、当時の中国では、日本は朝鮮半島の南に南北に連なる南方の島国と思われていた事になりますが、これは、九州南部から沖縄・台湾へと続く列島があることと、実際に訪れた人物の情報が交錯した結果であろうと思います。邪馬台国に関する論争では現在の地図を眺めながらの論争と思われるものが多々ありますが、当時の東夷に関する中国の地理観などかなりいびつなものであったと考えたほうがいいだろうと思います。実際、史書にあたると洛陽と[憺(にんべん)]耳・朱涯との距離がおよそ一万里に対して韓は方四千里と記されています。人間というのは大体得体の知れないものは大きく感じるものですから、東夷などもかなりの大きな国であると誤解していたように思います。魏志東夷伝韓条の記述に従って韓を方四千里として、当時の中国人の地理観の想像図を書いて見ました。おそらくは、このようにかなりエエカゲンなものであったでしょう。もっとアバウトなものだったかもしれません。

魏志倭人伝の記述はこのようなかなりいびつな地理観によっているとは思いますが、その記述には、“遠く離れた海の中の島であり、ある場所はとぎれ、ある場所はつながっている”とあり日本列島の様子をよく表しています。魏志の描く日本の様子というのは驚くほど正確です。例えば対馬については、“絶海の孤島で山は険しく深い森が多く、道は獣道のようだ”と書かれています。現代語に訳してしまうと味もそっけもありませんが、原文はあたかもそれを眼前にしているように読ませてくれます。けだし名文と言えましょう。また、末盧国の部分では、“山海に沿って住んでいる”と書かれており、山勝ちな日本をよく見ています。又、同じく末盧国に関する部分で“魚やアワビを捕らえ”という記述もありますが、どうやら末盧国とされる松浦半島一帯は弥生時代からアワビの産地だったようです。遺跡からはアワビ取りの道具と思われるクジラの骨で出来た道具が多数出土しているようですし、ずっと後の時代でもアワビは名産品として中央に送られていたそうです。アワビの他にも、ハマグリを採っているという記述もありますが、縄文時代の貝塚からは全国的にハマグリが見つかっており、この記述の正しさを実証しています。

会稽東冶の東 倭人伝は、倭国の自然や産物などを述べた後、『有無する所、[憺(にんべん)]耳・朱崖(海南島付近)に同じ』と書かれています。つまり、自然や風俗などが倭と[憺(にんべん)]耳・朱崖が同じであるといっている訳です。これは、一見不思議な記述です。亜熱帯である海南島と温帯である日本の自然風土が同じであるはずがありません。佐々木幹男氏は『考古学から見る邪馬台国(雄山閣)』という本の中で、この点に触れています。佐々木氏は、黄河流域の黄土に被われた痩せた土地からすると揚子江南に広がる照葉樹林帯は全くの別世界で、当時の認識では南方の国々は照葉樹林帯に被われているという認識であった、そして、[憺(にんべん)]耳・朱崖も照葉樹林帯にあるとの(誤った)認識のもとにこれは書かれたのだとしています。これは一理あるかもしれません。ただ、漢書地理史・粤地の条[憺(にんべん)]耳・朱崖に関する記述をみると、「服は単被のようなものに穴を開けて、そこに頭を通して着ている。男は農耕をする。禾稲紵麻を栽培している。女は蚕を飼い、糸を紡ぎ布を織る。馬と虎はいない。民は、五畜を持っている。兵は矛・盾・刀・木弓・弩・竹矢を持ち、鏃は骨である。」と書かれています。この記述は、魏志倭人伝の『所有無與[憺(にんべん)]耳朱崖同』の直前の記述とそっくりです。『所有無與[憺(にんべん)]耳朱崖同』という記述は、この直前の部分が漢書地理史・粤地の条[憺(にんべん)]耳・朱崖に関する記述と同じであると解釈するのが自然ではないでしょうか。

当時の日本には、大陸よりの西部に邪馬台に女王が都をおく“倭国”(魏志倭人伝では、“倭国”とは邪馬台を中心とする国をさします)があり、海を渡ったその東に別の倭人の国があり、さらにそれより遠くには、侏儒国・裸国・黒歯国がありました。侏儒国は、弥生人より体型が小さかった縄文人の集団と見るのが妥当でしょう。しかし、裸国・黒歯国が日本であったかどうかは疑問です。また、邪馬台国の南には狗奴国があり、卑弥呼と争っていたと書かれています。

倭国には、邪馬台国を始めとした29ヶ国があり、官と副がおかれていました。倭人伝に記されている各国の官・副の名と戸数は下に表にしてあります。又、各国の行程記事、余旁国の一覧も表にしました(各国の位置関係 PNG 9K)。ただし、この図は“すなお”に読んだ場合です。このほか、複雑怪奇な行程図が種々ありますが、これらについてはその方面の関連書籍をご覧ください。

倭人伝の国々
戸数特徴
対馬国卑狗卑奴母離千餘戸・絶海の孤島で四百里四方。
・山は険しく深林が多く、道は獣道のよう。
・良い田がなく海物を食して自活している。
・船で南北に市糴している。
一大国卑狗卑奴母離三千・三百里四方で竹木叢林が多い。
・田地はあるが田を耕しても十分でない。
・南北に市糴している。
末盧國? ? 四千餘戸・山海に沿って住んでいる。
・草木が繁茂していて、進むのに前の人が見えない。
・魚や鰒(アワビ)を採っている。
・水が深い浅いにかかわらず、皆潜って漁をする。
伊都國爾支泄謨觚
柄渠觚
千餘戸
(魏略逸文では万余戸)
・代々王がいるが、皆女王国に従っている。
・郡使の往来する際に、常にとどまる所である。
奴國[凹/儿]馬觚卑奴母離二萬餘戸 
不彌國多模卑奴母離千餘家 
投馬國彌彌彌彌那利五萬餘戸 
邪馬壹國伊支馬彌馬升
彌馬獲支
奴佳[革是]
七萬餘戸・女王の都する所。
狗奴国狗古智卑狗? ?・男王である。
・女王に属さず。
行程
方角距離到/至備考
狗邪韓国東南七千余里・帯方郡の東南
・海岸をめぐりて水行。
・韓国を経て、あるいは南あるいは東。
対馬国?千余里・始めて一海を渡る。
一大国千余里・瀚海を渡る。
末盧国?千余里・一海を渡る。
伊都国東南陸行五百里 
奴国東南百里 
不彌国東行百里 
投馬国水行二十日 
邪馬台国水行十日
陸行一月
・帯方郡より女王国に至るに万二千余里。
余旁国遠絶にして詳らかにするを得ず二十一国
狗奴国?  
倭種の国千余里 ・海を渡る。
・女王国の東。
侏儒國四千余里 ・倭種の国の南
・女王国から四千余里。
・人長三四尺。
裸国・黒歯国東南船行一年・侏儒國の東南。
余旁国二十一国
1.斯馬國2.已百支國3.伊邪國4.都支國5.彌奴國6.好古都國7.不呼國
8.姐奴國9.對蘇國10.蘇奴國11.呼邑國12.華奴蘇奴國13.鬼國14.爲吾國
15.鬼奴國16.邪馬國17.躬臣國18.巴利國19.支惟國20.烏奴國21.奴國

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自 然 ・ 産 物

魏志倭人伝は当時の倭の気候については、『倭地は温暖で、冬でも夏でも生の野菜を食べる。』と書かれているだけですが、わざわざ『生の野菜』と書いているのは、冬でも野菜を採ることができる温暖な倭の気候に驚いているのかもしれません。

当時の倭人は、稲・いちび・麻を栽培し、桑を育てて蚕を飼い、絹を紡ぎ、ほそあさの布・かとりぎぬ・綿を作っていました。当時既に養蚕をしていたというのは驚きです・・・というのは実感ですが、さらに驚くことに、吉野ヶ里遺跡では弥生中期、つまり紀元前の遺構から染色された絹織物が出土しています。邪馬台国より300年ぐらいの前の時代の話です。これは、当時(紀元前)既に倭人が絹を紡いで布を織り、さらに染色までする技術を持っていたという紛れもない証拠です。

また、真珠、青玉を産出し、山では丹がとれました。青玉は、翡翠以外には考えられないのではないかと思います。日本の翡翠の産地は糸魚川流域しかありませんから、当時既に北陸と畿内、あるいは九州との交易が行なわれていたと思われます。もっとも、三内丸山遺跡によって、古代の交易というのは予想以上に広範囲に行なわれていたことがはっきりしています。また、九州の弥生式土器が沖縄で見つかるという例もあれば、沖縄や台湾のあたりでしか採れない貝を使った腕輪などが見つかっているという逆の例もあります。また、種子島の広田遺跡では漢末から三国にかけてのものと思われる貝札が出土していまが、北部九州では貝札は出土していません。これなどは、種子島の住人が古くから南方航路を開き、中国南部と交流があったことを示すものであろうと思われます。これらは驚くべきことです。三国志呉書の呉主伝(孫権伝)によれば、孫権は除福(*)の末裔がいるという亶州を探すべく諸葛直・衛温の二将軍を派遣しますが、この二将軍はついに亶州には行き着けませんでした。(この二将軍は、その後違詔の罪で殺されています。こんな無茶な命令で殺されたのではたまったものではありません。)この亶州は、恐らく日本のことだろうと言うのが中国では定説のようですが、本当の所は分かりません。いずれにしても、フィリピンから日本まで続く大陸の東にある島の何処かでしょう。とにかく、三国時代の中国の航海術では東シナ海を自由に往来することは出来なかったということです。にもかかわらず、それよりもはるか昔の弥生人にして九州と沖縄・台湾の間の海を自由に往来していたと言う訳ですから、それこそ驚天動地の発見ということであります。とかく当時の航海技術を低く考えがちですが、当時の倭人の航海技術は相当優れていたと考えざるを得ません。この航海技術を持って水行三十日したら・・・いや、もう何も言いますまい。答えは出ています。こうした現在の認識からすれば、糸魚川の翡翠ぐらいでは驚くに値しないかもしれません。

丹は水銀朱といわれます。硫化水銀鉱で、辰砂(しんしゃ)と呼ばれます。産地としては伊勢が有名ですが、その他にも数多くあります。

(*)除福・・・神仙が住むという蓬莱山を探すために秦の始皇帝が派遣したが、東方の島である亶州で王となり戻らなかったと伝えられる。中国では、除福が行き着いた先は日本であるというのが常識・・・らしい。日本では除福伝説だが、中国では史実として伝説とは呼ばない・・・らしい。

この他、倭人伝で記されているものは以下の通りです。木の名前等のついては異論がある所です。

栽培
稲・いちび・麻・桑
産物
絹・ほそあさの布・かとりぎぬ・綿
鉱物・宝石
丹(水銀朱)・真珠・青玉(翡翠か?)
[木冉](くす)・杼(とち)・豫樟(くすのき)・楙(ぼけ)・櫪(くりぎ)・投(すぎ/かや)・橿(かし)・烏號(やまぐわ)・楓香(おかつら)
篠(しの)・[竹/幹](やたけ)・桃支(かづらだけ)
その他
薑(しょうが)・橘(たちばな)・椒(さんしょう)・[サ/襄]荷(みょうが)
動物
[犬爾]猴(さる)・黒雉・魚・鮑・蛤
牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない

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習  俗

魏志倭人伝には、当時の倭人の習俗が非常に詳しく書かれています。

生活

当時の倭人の男は、顔と身体に刺青をしていました。刺青の模様はいろいろで、地方や身分によって異なっていました。また、刺青のほかに、中国人が粉を使うように、全身を赤くぬっていたようです。男は、髪をみずらに結い木綿を頭にかぶり、横に広い布を縫わずに縛って着ていました。婦人は束髪にしていて、単被のようなもののまんなかに穴を開け、頭を通して着ていました。裸足で生活していたとあります。

家はありましたが、家族は別々に休んでいました。高坏に食物を盛り、手で食べていました。野菜を生で食べていたようです。書かれてはいませんが、魚介類も(煮て)食べていたでしょう。酒が好きだったそうです。裴松之による注では、四季を知らず、春に耕し秋に収穫することで年を数えていたとあります。倭人伝には、倭人は非常に長寿で、80から100歳ぐらいまで生きたと記されています。これはそのまま信じるわけにはいきません。その半分の40歳から50歳がせいぜいでしょう。裴松之の注をもとに、これは二倍年暦(一年を二年とする)による年齢であるとする方もおられるようですが、少し難しいようです。また、当時は一夫多妻であったようで、身分の高いもので4、5人、低いものであるものは2、3人の婦人を持っていたとあります。婦人は淫でなく、嫉妬しなかったそうです。

埋葬には、土を盛って塚を作り棺を納めました。棺を納める槨は使わなかったと書かれています。これは古墳のようにも読めますが、時代からいって古墳ではないでしょう。弥生時代の墳丘墓の様なものだと思いますが、この記述からすると甕棺墓(時代も違う)や土坑墓・支石墓のようなものではないでしょう。このあたりはまだ不勉強でよくわかりません。人が死んだ時は、十日程喪に服します。その間、喪主は哭泣し、その他は歌舞飮酒します。喪があけると、一家で水中で禊をしました。

社会

当時の倭では盗難がほとんどなく、訴訟もありませんでした。しかし、法律の様なのはあり、軽犯罪では妻子の没収、重罪では、一家一族の処刑が行われていました。「沒其妻子」が文字どうりだとすると、妻子というのは所有物のような扱いということになります。

大人・下戸という身分の上下があり、それぞれの中でも序列があったようですが、一同に会する場合、親子男女による席の区別はありませんでした。大人が敬意をあらわす際には、跪く代わりに柏手を打ちました。この習慣が神道の中に残り今に伝わっているのでしょう。下戸が大人に会った場合は、下戸は道端の草むらに隠れます。大人が下戸に物事を伝達する場合、下戸はうずくまり跪いて両手を地面につけ、「あい」と答えて承諾の意を示しました。ここの記述は、その上下関係がいかに厳しいものであったかを物語っています。

兵隊は、矛・盾・木弓を持っていました。木弓は上が長く下が短く、矢は竹で鏃は鉄か骨でした。

何かを行ったり、渡航したりする場合には、骨を焼いてその割れ方で吉凶を占っていました。渡航する場合には、必ず一人が、髪をとかさず、蚤や虱をとらず、服を垢で汚したままにし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも死者であるようにしていました。これを持衰といいます。渡航がうまくいった場合は、持衰は褒美をもらいましたが、嵐になったり病気が出た場合には、持衰のせいであるとして殺されてしまいました。

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行  政

地理の所でも述べましたが、各国には官と副が置かれていました。おそらくは、この両者がその土地の全権を掌握していたと思われます。しかし、その実相はよくわかりません。その地区の首長であるととることも可能ですし、中央政府から派遣された役人ととることも出来ます。ただ、王でないことは確かでしょう。倭人伝には、倭国王のほかに、伊都国王と狗奴国王が出てきますが、これらの王と官との間の関係は不明です。この二国以外に王は出てきません。(卑弥呼や台与は『倭国』の王であり、邪馬台国の王ではありません。)他の国に王はいなかったのでしょう。

北方を特に監督する役目として、伊都国に一大率がおかれていました。一大率は「諸国を検察する」とあるので、その権限は伊都国一国に限られるのではなく、連邦警察のように諸国を直接監視していたようです。諸国が一大率を畏れていたと書かれており、その権力は絶大であったようです。

また、文書や賜物を女王に届けたり、また逆に、倭からの文書や貢ぎ物を魏などへ送る場合にその伝送を司ったり、港での検閲をしたりする役人が全国に配置されていました。

各国には市が立っていて、それを監視する大倭という役もおかれていました。

また、この当時既に租税が徴収されていました。「租税を収める倉庫のようなものがある」と書かれているのです。『收租賦有邸閣』というわずか六文字の何気ない記述ですが、これが書かれている通りだとすれば、これは大変なことです。税を徴収する機構を持っていたと言うことですから、国家としての制度がかなり整備されていると言えるでしょう。税を集めるためには国家としての徴税権が確立している必要がありますし、税を徴収するためには戸籍に様なものも整備される必要があるでしょう。一般の認識では、この当時の『くに』は部族国家に毛が生えた程度と思われていますが、本当に税を徴収していたのだとすると、認識をあらたにする必要がありそうです。ただ、私は単なる勘違いではないかと思うのですが・・・。

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歴 史 ・ 外 交

漢書地理史、及び倭人伝には漢の時代には百余国に分かれていたことが記されています。これだけの記述からは詳しいことは何もわかりませんが、とにかく小さな集団に分かれていて、これらをまとめたような勢力はなかったことだけは読み取れます。また、これまでに発掘された成果から見ると、何ヶ所かで弥生期の王墓と見られる墳墓が見つかっているものの、それが継続している例はないそうです。つまり、ある時期に王とみなし得るような人物がいた場合でもそれはほぼ一代限りで、継続する王統とはならなかったようです。“漢委奴国王”の金印で有名な奴国もこのようなものであったであろうということです。有名な平原周溝墓がある、伊都国とされる前原周辺には三雲遺跡などの著名な遺跡があり、三代ぐらいの系譜はたどれるようです。それでも、三代と言えば30年から50年ぐらいでしょうか。

その後、卑弥呼を遡ること100年ぐらいの時期にある程度広い領域を治める首長が誕生しました。魏志倭人伝には、本は男王であって七、八十年続いたと記されています。倭人伝では当時の倭人は非常に長寿で百歳近くまで生きたとありますが、このような記述は到底信じられるものではありません。古代の王の在位期間には、安本氏の一代十年説があります。これは、当たらずといえども遠からずという所だと思います。これから考えると、七、八十年というと、この間、5人から8人の王が存在したと思われます。又、この男王を後漢書に登場する倭国王帥升のことであるとする説もありますが真偽は不明です。

この後、漢末の中国の混乱と呼応するように、倭国も大きく乱れます。しかし、この「乱れる」の内実はよくわかりません。元々弥生時代というのは戦国時代のように常に戦闘が行われていたことが発掘された結果から分かっています。ですから、単に戦いが起きているというようなことではないのだろうと思います。又、この『倭国大乱』が何時のことかも問題です。魏志倭人伝では『男王の時代から7、80年後』と記されているものの、『男王の時代』がいつか分からないのではっきりしません。他の史書にあたると、後漢書では『桓霊の間』、梁書では『霊帝光和年中』となっています。後漢書の『桓霊の間』とは、桓帝(147年-168年)と霊帝(168年-189年)の在位期間ということで147年から189年の間となります。素直に考えれば、168年を間に挟んだ時期にあたります。、梁書の『霊帝光和年中』は178年-184年になります。いずれも出典が明らかでなく信憑性には疑問がありますが、これを信じている方も多数おられます。後漢書の『桓霊の間』については、具体的な桓帝と霊帝の時代を指すのではなく、漠然と後漢末の混乱の時代を指すのだという説もあります。(出典は忘れました。) というのも、桓帝と霊帝の時代に後漢の権威は大きく揺らぎ急速に衰退していき、中国の治安が大きく悪化するからです。後漢書東夷伝の序文にも、『桓霊、政を失い』とあります。この時代、鮮卑の壇石槐による冊封拒否がおき中国の冊封体制の崩壊が始まります。この他にも、先零羌の反乱、黄巾の乱と続々と反乱・騒乱が続きます。また、周囲の夷蛮の国々の侵入に苦しめられその戦費のために財政が逼迫し役人の給料が大幅に削減されます。このために不正が横行し役職の売買まで行われるようになり、役人の質が大幅に低下しました。後漢は内部からも崩壊して行ったのです。この後の献帝の時代は曹操の時代であり、これ以前、つまり、霊帝の時代に実質的に後漢は滅亡しています。このような時代背景を受け、『桓霊の間』といえば後漢末の騒乱の時期を指すというのです。実際、三国志魏書の東夷伝韓条に『桓霊之末』という表現が出てきます。桓帝と霊帝の治世の終わり頃なら、霊帝の治世の終わり頃に決まっていますから『霊(帝)之末』でいいはずです。又、この時期、朝鮮半島では公孫氏が政権を樹立して中国から独立し、倭国はこの公孫政権と誼みを通じていました(三国志魏書東夷伝韓条に、公孫康の時代に倭が公孫氏の帯方郡に属したという記事があります)。この事と倭国の混乱は関係があるとされている方もいます。ともかく、よくわかりませんが、倭国は混乱状態となりました。

おそらく、この混乱で皆疲れ切ってしまったのでしょう。皆で相談して卑弥呼という巫女を王として立てました。これにより混乱はおさまりました。

この卑弥呼という人物について魏志倭人伝は、『鬼道につかえ能く衆を惑わす』と書かれています。これの記述も倭人伝の謎の一つです。鬼道とは何か?能く衆を惑わすとはどういうことか?これと言った解答はありません。年齢は決して若くはありませんでしたが独身だったようで、弟が政務の補佐をしていました。王となってからは会う人間が少なく、ただ一人の男子が食事と伝令のために居所に出入りしていたとあります。にもかかわらず婢が1000人もいたようです。この1000人がいったいどんな仕事をしていたのか、ちょっと興味がある所です。卑弥呼の居所には、宮室・楼観・城柵が設けられていて兵隊が警護をしていました。この一文により吉野ヶ里フィーバーが起きたのは、記憶に新しい所です。

239年(景初三年)(※)、卑弥呼は魏に朝貢を申し出ます。これにより、卑弥呼は「親魏倭王」の称号と金印・紫綬を貰います。このときの使者であった難升米もその功により、率善中郎将に任ぜられ銀印・青綬を貰っています。243年(正始四年)にも朝貢しており、使者の掖邪狗らも率善中郎將の印綬を授かっています。

倭人伝では、245年(正始六年)に突然難升米に黄幢が授けられています。黄幢は、魏の正規軍の軍旗です。おそらくこのときに南の狗奴国との争いが勃発したものと思われます。

247年(正始8年)に、狗奴国との争いの様を訴える使者が帯方郡に飛びます。求めに応じ、塞曹掾史の張政が倭に派遣され、詔書・黄幢をもたらし、檄によりこれを皆に知らせました。

そして卑弥呼が死にます。この後、男王が立ちましたが皆従わずまた殺し合いが起きました。このため、台与という13歳の卑弥呼の一族の少女を女王として立て、これにより争いはおさまりました。

一応の安定を見たので、張政が帰国します。このときに張政を送って行ったのが掖邪狗等二十人で、洛陽まで行って朝貢しています。

魏志倭人伝の記録はここで終わります。この記録が曖昧なため、卑弥呼の死・台与の共立・張政の帰国などの年がはっきりしません。中には、記録が曖昧なのはこれらがすでに晋の時代に入っている証拠であるとのたまう方までいます。さて、真実はどうでしょうか?

(※)原文は景初二年。これについては、倭国は、朝鮮半島に公孫氏の政権がある間はこれに朝貢していたのだが、景初二年の八月に公孫氏が亡んだために新たな庇護者を求めて魏に朝貢したとする説が説得力がある。ここではこの説を採用し、原文の景初二年は景初三年の誤りとした。また、景初二年の六月は公孫氏討伐戦の真っ最中。朝貢が可能であったかどうか、公孫淵伝を参考にして判断してください。

貢物・賜物リスト
方向太守使者貢物・賜物
景初三年(239年)倭->魏劉夏難升米・牛利男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈
正始元年(240年)魏->倭弓遵建忠校尉 梯儁親魏倭王の称号と金印・紫綬。
絳地交龍錦五匹・絳地[糸芻][四/(炎り)]十張・[サ/倩]絳五十匹・紺青五十匹に加え特に、紺地句文錦三匹・細班華[四/(炎り)]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤
難升米に率善中郎將の銀印・青綬。
牛利に率善校尉の銀印・青綬。
正始四年(243年)倭->魏伊聲耆・掖邪狗等八人 生口・倭錦・絳青[糸兼]・緜衣・丹・木[犬付]・短弓矢
魏->倭 掖邪狗等に率善中郎將の印綬
正始六年(245年)魏->倭弓遵? 難升米に黄幢
正始八年(247年)魏->倭[斤頁]塞曹掾史 張政難升米に詔書・黄幢
?倭->魏 掖邪狗等二十人男女生口三十人・貢白珠五千・孔青大句珠二枚・異文雜錦二十匹

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