Update 2002/09/02

魏志倭人伝 私注

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参考文献

  1. 石原道博編訳、新訂 魏志倭人伝 他三編 (岩波文庫)、岩波書店、1951年(第65刷)
  2. 佐伯有清、魏志倭人伝を読む 上・下 (歴史文化ライブラリー)、吉川弘文館、2000年
  3. 今鷹真・小南一郎他訳、正史 三国志 全8巻 (ちくま学芸文庫)、筑摩書房
  4. 藤堂明保編、学研 漢和大辞典、学習研究社、1978年(第26刷)
  5. 中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、教育出版、1985年(第4刷)

地  理

倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。

倭人は帯方郡の東南の海にいて、山勝ちな島に住み国を作っている。昔は百以上の国があって、漢の時には朝見する国もあった。現在は、使訳が通じるところは30国ある。

  1. “在”と“有”は、漢文訓読の参考書等によれば[5]、“在”は既に存在が分かっているもの、“有”は存在が不確定のものに対して使うらしい。英語の定冠詞“the”と不定冠詞“a”の違いと考えればいいだろうか。だとすると、ここで“在”が使われていることは、漢書地理志が『樂浪海中有倭人』であることと対比させて見ると興味深い。あえてこの点を強調して訳すと、漢書は「読者の皆さんはご存じないと思いますが、楽浪海中には“倭人”という人々が住んでいます。」となり、魏志は「読者の皆さんが既にご存じの“倭人”たちは、帯方東南大海中に住んでいます。」のようになるはず。生兵法は何とやら、でなければよいが・・・。
  2. 『帶方東南大海之中』は、「大海が帯方東南にあり、その大海中に倭人たちは住んでいる」と解釈してなんの疑いも持っていなかったが、「倭人たちの住んでいる場所が、“帯方東南”かつ“大海中”である」という解釈もあるらしい。この差は一見ほとんどないように見えるが、基準と対象、つまりここでは“帯方”と“大海”の大きさが極端に異なっているような場合は、大きな差が出てくる。たとえば、千葉県は東博のある上野公園の東にあるが、千葉県に住んでいる人の家がある場所は上野公園の東側とは限らない。館山あたりだとほぼ南。相模湾は江ノ島の南に広がっているが、相模湾内の任意の一点が江ノ島の南であるということにはならない。
  3. 「旧百余国」とあるが、日本列島のどのくらいの範囲に百国あったのか?(漢書地理志によると思われる。)
  4. 「今使訳所通」の“今”とはいつか?西嶋先生が指摘されているが、魏志の高句麗伝に『今句麗王宮是也』と見えており、ここでいう“句麗王宮”とは魏に盛んにちょっかいを出して、正始年間に毋丘儉に北に追われた位宮のことであるから、ここの“今”は正始年間かそれ以前ぐらいを指しているのであり、陳寿が三国志を撰じた西晋太康年間よりは30〜40年ほど昔になる。おそらくは参考とした原資料の記述をそのまま採った結果であり、他の箇所も同様であることが推察される。つまり、倭人伝の“今”も例外ではなくその“今”は原資料成立の時を指しており、いつかを特定することはできない。原資料の成立が後漢代まで遡るのであれば、“今”が後漢代であってもかまわないことになる。後に出てくる“イエ”の単位についても、倭人伝を含めて東夷伝では“戸”と“家”が混在しており、原資料における単位の不統一をそのままに撰ぜられたと推測される。おそらくこの原資料に改訂を加えないということが陳寿の編纂方針であったと思われ、邪馬台までの行程に里数表記と日数表記が混在しているのも同じ理由に起因するものであろう。
  5. 国の数が100から30に減少しているが、これは統合が進んだためかそれとも単に通交が途絶えただけか?あるいは、対象とする範囲が異なるためか?
  6. 「使訳所通」とあるが、“使訳”とは何か?通常は、使者と通訳と解されるが、これは朝貢を意味するのか、それとも単に言葉が通じるという程度か?また、これは倭人が中国へ行っているのかあるいはその逆か、それとも両方か?

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

(帯方)郡から倭へ行くには、海岸に沿って水行し、韓国をへて、南へ行ったり東へ行ったりして、その(倭の)北岸に当たる狗邪韓國につく。ここまで、七千余里。

  1. 魏代の一里は、435.6m。
  2. 魏志東夷伝の韓条には、韓の大きさとして『方四千里』とある。従って、西の一辺を南行し南の一辺を東行するとほぼ七千里になる。
  3. 『乍南乍東』は“南へ東へ、ジグザグに進む”と解釈されていることも在野ではままあるようだが、たとえば藤堂・漢和大辞典[4]などを見ると、“乍”の意味は“たちまち”、“急に”であり、『乍A乍Bの形で、Aがおこるかと思えば、急にBがおこるの意をあらわすことば』[4]となっている。この表現からして、A、Bを複数回繰り返さなければならないということではなさそうである。用例も『先王之道、乍存乍亡=先王之道も、乍ち存し乍ち亡ず』[4]であり、“何回と無く繰り返す”というニュアンスは含まない。岩波文庫は『あるいは南し、あるいは東し』[1]と、どのようにも受け取れるうまい(?)訳になっている。
  4. ここの記述をもとに、“狗邪韓国は倭の北岸=倭国の領域は朝鮮半島まで広がっていた”と解釈される方もいるようだが、さすがにそれは無理だろう。

始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。

(狗邪韓國から)始めて海を渡り、千余里で対馬国につく。(対馬国の)大官は“卑狗”であり、副は“卑奴母離”である。住んでいるところは絶島であり、一周四百里程である。その土地は、山が険しく、深い林が多く、道は獣道のようである。千余戸あるが良い田はなく、海産物を食べて自活しており、船に乗って南北に商いに出かけている。

  1. 「対馬国」は、紹熙本は『對海國』、紹興本は『對馬國』。中華書局標点本は『對馬國』とする。
  2. 上古音は、『對馬』ならtu(e)d-mag、『對海』ならtu(e)d-m(e)g[4]。
  3. 「絶島」とは“絶海の孤島”ぐらいの意味か?
  4. “官”とは何か?後の伊都国や邪馬台国では王とは別に“官”が記載されているので“王”ではないようだ。特に、ここでは“大官”である。“大官”は“官”や“王”とどう違うのか?対馬では大規模な遺跡が見つかっているわけではないが、原ノ辻を擁する壱岐の“官”よりも上位に位置する“大官”が対馬にあったのだとすれば、原ノ辻をしのぐような遺跡が対馬のどこかに眠っているはず。
  5. “官”の名は人名か職名か?「彦か?」という解説をよくみる。とすればこれは人名か?次の卑奴母離との整合性は?
  6. 『卑狗』の上古音は、pieg-kug[4]。
  7. “卑奴母離”とは何か?「夷守か?」という解説をよくみるし、4ヶ国で共通している。とすればこれは職名か?
  8. 『卑奴母離』の上古音は、pieg-nag-mu(e)g-liar[4]。
  9. 我々日本人は“田”の文字から水田を思い浮かべるだろうが、これは“畑”のこと(“畑”は国字で中国にはない)。藤堂には『平らに耕した土地』とある[4]。広く水田も含めた穀物栽培地と思えばいいだろう。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

(対馬国から)再び“瀚海”という名の海を渡り、千余里で一支国につく。(一支国の)官は“卑狗”、副は“卑奴母離”という。一周三百里程で、竹・木・叢林が多い。三千ほどの家がある。田地はあるが、田を耕しても食べていくには足りない。ここでも、南北に商いに出かけている。

  1. 一大国は一支(壱岐)国の誤りとされる。梁書、北史、翰苑は『一支國』とする。隋書、通典も『一支國』とするが、対馬から東と書かれていることから壱岐ではなく、沖ノ島の可能性があるのでは?中華書局標点本は、『一大國』。
  2. 『一大』の上古音は、iet-dar、または、iet-dad。『一支』ならiet-kieg。[4]

又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒。水無深淺、皆沈沒取之。

さらにもう一度海を渡り、千余里で末盧国につく。四千余戸があり、山海に沿って住んでいる。草木が非常に茂っていて、進んでいても前を行く人が見えない。(末盧国の住人は)魚やアワビを好んで捕っている。海が深くても浅くても、皆海にもぐり魚介類をとっている。

  1. 「濱山海居」は私には訳せないので、岩波文庫に従った。[1]
  2. 末盧国とされる松浦半島一帯は、この時代からアワビがよく採れていたらしい。貝塚などからクジラの骨で出来たアワビ取りの道具が多く出土しているらしい。律令制の時代でも松浦半島のアワビは税として収められていた。
  3. 『末盧』の上古音は、muat-hlag。[4]

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

(末盧国から)陸地を東南に五百里進むと伊都国につく。(伊都国の)官は“爾支”、副は、“泄謨觚”・“柄渠觚”という。千余戸がある。代々の王があるが、皆女王国に統属している。(帯方)郡の使者が往来する際に常に留まるところである。

  1. 『伊都』の上古音は、i(e)[v]r-(g)ia[v]g。[4]
  2. 王がいるらしいがその名はなぜかない。王よりも官を重視していたのか?それとも王がいたのは過去で、現在は王がいないのか?
  3. 岩波文庫に従えば、『爾支』は“ニキ”、『泄謨觚』は“シマコ”、“セモコ”、“イモコ”など、『柄渠觚』は“ヒココ”、“ヘクコ”、“ヒホコ”など、と読む。人名か?[1]
  4. “觚”は“彦”の“ヒ”が落ちたものかもしれない。あるいは、“妹子”などの“子”か?
  5. 上古音では、『爾支』はnier-kieg、『泄謨觚』はsiat-(mo?)-kuag、または、diad-(mo?)-kuag、『柄渠觚』はpia[v](g)-giag-kuag。[4]
  6. 伊都国の人口は、魏略逸文によると万余戸。
  7. “統属”とは何か?単なる帰属を意味するのか、完全な隷属を意味するのか?
  8. 松本清張以来、『A統属B』を「AがBを従えている」、ここでは伊都国王が女王国を支配していると解釈する方がいるが、三国志においてそのような用例は無いということが解っている。ここは通例どうり、伊都国王は女王国に従っているという解釈以外はない。
  9. 「世有王」の「世」は“代々”と訳した。
  10. 「郡使往來常所駐」から使者は通常はここまでしか来なかったとの解釈もあるが、これは単に、“必ずここに立ち寄る”ぐらいの意味ではないか?
  11. ここでは王があるのが伊都国の事として書かれているが、魏略逸文は伊都国までの四国(対馬、壱岐、末盧、伊都)全てに王がいたと書かれているとする説がある。この説に従うと、、『世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。』はこの四国についての記述と考えたほうがいいかもしれない。つまり、『(これまでの四国には)代々王があり、皆女王国に従っている。(これらの四国は、)郡使が往来する時にいつも滞在する所である。』と解釈する。これだと、「魏の使者は伊都国に留まっていて邪馬台国まで行かなかった」とする説は根拠を失う。
  12. 通説どおり、末廬を唐津、伊都を前原とした場合、この間を陸行するというのは信じられない。何がしかの誤りを想定する必要があるのではなかろうか。

東南至奴國百里。官曰[凹/儿]馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

(伊都国から)東南に進むと、百里で奴国につく。官は“[凹/儿]馬觚”、副を“卑奴母離”という。二万余戸がある。

  1. 『奴』の上古音はnag。[4]
  2. 岩波文庫によると、官は“シマコ”と読む。人名か?[1]『[凹/儿]』の上古音は不明。中古音はzii。zii-mag-kuagか?[4]
  3. 後漢書によれば、光武帝から金印を賜った国のはずだが王の名がない。王統は既に絶えたか、あるいは一代限りか?もともと別の国か?
  4. 志賀島出土の金印には“漢委奴国王”の文字がきざまれているが、この中の“委奴”を“イト”と読む説があるが、音韻学上は成立しないようだ。上で書いたとおり、『伊都』の上古音はi(e)[v]r-tag、一方、“委奴”の上古音はiuar-nag。これを聞き間違う可能性が本当にないのかどうかは、私にはわからない。

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

東へ行くと、百里で不彌国につく。官は“多模”、副は“卑奴母離”である。千余家がある。

  1. 『不彌』の上古音は、piu(e)g-mie[v]r、または、piu(e)t-mie[v]r。[4]
  2. 岩波文庫によると、官は“タマ”または“トモ”と読む。人名か?[1]上古音は、tar-mag。[4]
  3. 起点は、普通は奴国だが、伊都などの説もあり。
  4. 直線読みなら、海岸沿い、あるいは川沿いになければならない。この点、宇美や飯塚に比定するのは、どうしても疑問符が残る。
  5. いずれにせよ、末盧国から不弥国まで、玄海灘沿岸を陸行するのは極めて不自然。

南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

南に二十日水行すると投馬国につく。官は“彌彌”、副は“彌彌那利”である。五万余戸ほどある。

  1. 『投馬』の上古音は、dug-mag。[4]
  2. 岩波文庫によると、官は“ミミ”、副は“ミミナリ”と読む。いずれも人名か?[1]上古音では、それぞれ、mie[v]r-mie[v]r、mie[v]r-mie[v]r-nar-lied。[4]
  3. 起点は普通なら不弥国。それ以外か可能なら、伊都国や奴国も候補。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]。可七萬餘戸。

南に十日水上を進み一月陸を進むと、女王が都をおく邪馬台国に着く。官は“伊支馬”、次が“彌馬升”、次が“彌馬獲支”、次が“奴佳[革是]”である。七万余戸ほどある。

  1. 起点はまともに読めば、投馬国。それ以外でもよければ、伊都国・奴国・不弥も候補に。しかし、それにどれだけの根拠が求められるのかは私には分からない。
  2. 『水行十日陸行一月』を“水行なら10日、陸行なら一月”といわゆる“OR”で読む説があるが、漢文としては誤読のようだ。
  3. 『水行十日陸行一月』を帯方郡からの行程とする説があるが、漢文としては明らかな誤読。
  4. 有名な邪馬台国だが、倭人伝ではここにしか出てこない。他はすべて、“倭の女王”、“倭に使するに”など、常に“倭”が用いられている。
  5. 女王=伊支馬とは思えないので、“(女)王”と“官”は区別されているようだ。なぜここに女王の名が出ないのか?。邪馬台国=地方組織との認識か?
  6. そもそもこれは卑弥呼の時代か台与の時代か?
  7. 紹熙本、紹興本ともに『邪馬壹国』に作る。中華書局標点本も『邪馬壹国』。
  8. 上古音では、『邪馬壹』なら(g)ia[v]g-mar-iet、『邪馬臺』なら、(g)ia[v]g-mar-d(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-t`(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-di(e)g。[4]
  9. 官は“イキメ”、次が“ミマシ”、次が“ミマカキ”、次が“ナカテ”などと読まれる。詳細不明。人名か?上古音では、順に、i(e)[v]r-kieg-mag、mie[v]r-mag-thi(e)(g)、mie[v]r-mag-(h)ua[v]k-kieg、nag-ke[v]g-ter。[4]

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。

女王国より北は、戸数や道程などを簡単に記す事が出来たが、その他の国は遠くて詳細がわからない。(女王国の)次に“斯馬國”が有り、次に“已百支國”が有り、次に“伊邪國”が有り、次に“都支國”が有り、次に“彌奴國”が有り、次に“好古都國”が有り、次に“不呼國”が有り、次に“姐奴國”が有り、次に“對蘇國”が有り、次に“蘇奴國”が有り、次に“呼邑國”が有り、次に“華奴蘇奴國”が有り、次に“鬼國”が有り、次に“爲吾國”が有り、次に“鬼奴國”が有り、次に“邪馬國”が有り、次に“躬臣國”が有り、次に“巴利國”が有り、次に“支惟國”が有り、次に“烏奴國”が有り、次に“奴國”が有る。ここが女王が支配する領域の境界である。

  1. 奴国が再び出てくるが、これは脱字か?
  2. ここに出てくる諸国の詳細は不明。廣志逸文(翰苑)では、三番目の“伊邪國”を倭の西南にあるという伊邪久国(屋久島)であると推測(多分)。
  3. これらの国の上古音は、次のとおり。[4]
    余傍21ヶ国の読み(上古音)
    斯馬sieg-mag已百支di(e)g-pa[v]k-kieg伊邪i(e)[v]r-(g)ia[v]g
    都支tag-kieg彌奴mie[v]r-nag好古都hog-kag-tag
    不呼piu(e)g-hag姐奴tsia[v]g-nag對蘇tu(e)d-sag
    蘇奴sag-nag呼邑hag-i(e)p華奴蘇奴(h)ua[v]g-nag-sag-nag
    kiu(e)r爲吾(h)iuar-(g)ag鬼奴kiu(e)r-nag
    邪馬(g)ia[v]g-mar躬臣kio(g)-ghien巴利pa[v]g-lied
    支惟kieg-diu[e]r烏奴ag-nag

其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。

その南に、狗奴国がある。王は男である。狗奴国の官を“狗古智卑狗”という。女王に従わない国である。

  1. 『狗奴』の上古音は、kug-nag。『狗古智卑狗』の上古音は、kug-kag-tieg-pieg-kug。[4]
  2. 狗古智卑狗は『官』であり王ではない。王名、つまり個人名を記さないと言うことは、やはりこれは官名とすべきか?
  3. 「其南」の起点も不明。女王国の南なのか、女王国と狗奴国の間に上の諸国を挟むのか。これにより、後の狗奴国との抗争の性質も変わる。“女王国の南”なら邪馬台国と狗奴国の争い、そうでなければ、“倭国”と狗奴国の争い。
  4. 女王に従わないのは何時のことか。狗奴国が、後ろの珠儒国・裸国・黒歯国と同じ場所ではなくここに書かれているのは倭国の一部という認識か?
  5. 後に出てくる狗奴国との抗争を論拠として、狗奴国は邪馬台を中心とする倭国29ヶ国に匹敵する大国とする説があるが、感覚的なことだけだがどうも素直には受け入れ難い。倭国を構成する一国と同規模ではなかろうか?

自郡至女王國萬二千餘里。

(帯方)郡から女王国までは、一万二千余里である。

  1. 女王国は、邪馬台国とおそらくは同義である。“倭国”とは区別すべき。
  2. 魏晋代の一里は435.6mなので、換算すると一万二千里は約5200km。このままではフィリピンを通り越してオーストラリアの側まで行ってしまう。『遥か彼方の大海中に落ちてしまう』と言われる由縁である。細かいことを言えば、既に狗邪韓国まで七千里を消費しているので、朝鮮半島の南端から五千里でよい事になるが、『目糞鼻糞を笑う』というやつだろう。『遥か彼方の大海中に落ちてしまう』事には変わりはない。
  3. そこでこれを解決するために、短里というものが考えられている。短里では、一里は70m程。対馬海峡は魏志倭人伝では三千里ということになっているが、実際は200kmほど。三千里は、魏晋里では1300kmという現実的でない距離となるが、短里では210kmとなりほぼ一致する。この短里説は一部の間で熱狂的とも言える支持を得ているが、その他の目は冷たい。どうも文献的には短里説は成り立たないらしい。少なくとも、陳寿をはじめとする執筆者たちが短里を意識していたことはあり得ない。
  4. それに『会稽東冶の東』という記述から見ても、すなおに大海中に落ちるのが正解と思われる。今は海だが、当時の地理観では島か何かがあるのだろう。
  5. 帯方郡から不弥国までの里程を合計するとおよそ10500里となるので、残りの1500里に邪馬台はあるとする説が根強くある。しかし、萬二千餘里が実測でないことは自明なので、この数字がどのようにして算出されたかを明らかにしないと、この引き算は意味がない。仮に、不弥−投馬の水行20日と投馬−邪馬台の水行10日陸行1月を中国人が魏晋里に換算して1500里を出し、先程の10500里に加えて12000里を出したとすれば、1500里は魏晋里なので650km程度を意識していることになる。一方、陳寿の時代までに失われた記録があり、その記録に帯方−末盧と同じ“里”で不弥−邪馬台の距離として1500里が書かれており、これを10500里に加えたのだとしたら100kmほどになる。

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習  俗

男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異。或左或右、或大或小。尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。

男は、大人も子供もみな顔と体に刺青をしている。昔から、倭の使者が中国に行くと、皆自分は大夫であると言った。夏后少康の子が會稽に封ぜられたとき、髪を短くし、身体に刺青をして蛟龍の害を避けていたという伝説がある。今、倭の漁師は水に潜り魚やハマグリをとらえることを好んでいる。(彼らも)また身体に刺青をして大魚や水禽を避けている。後には、これは飾りとなった。国々で刺青は異なっている。左や右だったり、大きかったり小さかったり。身分によっても差がある。その道のりからすると、(倭は)まさに會稽の東冶の東にある。

  1. この部分は、地理に入れるべきかもしれない。
  2. 「黥面文身」は、顔と身体に刺青をしていると解釈した。
  3. 魏略逸文では、「夏后少康・・・」の前に『聞其舊語、自謂太伯之後。』がある。この一文がないと、「夏后少康・・・」は少々唐突である。『聞其舊語、自謂太伯之後。』があると、「以前に倭人は自分たちは太伯(春秋時代の呉国の始祖)の末裔である(つまり呉の国からやってきた)と言っている。そういえば、夏后小康の子が会稽に封ぜられた時に入墨をしたという言い伝えがある。今の倭の漁師も入墨をして魚を採っている。(つまり、かつての呉の習慣と今の倭の習慣は同じであるということになる。とすれば、『太伯の後』という倭人の言は本当かもしれない。)」という文脈になっておさまりが良い。さらに、この文脈であれば、そのあとの『計其道里、當在會稽、東冶之東。 』も生きてくる。
  4. 夏后は国号で夏王朝のこと。少康は夏王朝六世。禹−啓−太康−中康−相−少康と続く。この後、少康の子の予が帝位についているが、ここでいう「夏后少康の子」はこれではなく、庶子で、禹の祭祀を絶やさないために越に封じられた無余のこと。史記越王勾践世家に会稽に封じられ断髪分身したことが記されている。越王勾践も剪髪文身していたと伝えられる。[2]
  5. 蛟龍は伝説上の動物。鱗のある龍。[2](これを現実の鮫と間違えたため、前は大外ししていた。)
  6. 魏略逸文の太伯は、周の古公亶父の子であり、王位を末弟の季歴に譲るために弟の仲雍と共に文身断髪したと伝えられる。呉の始祖と言われる。[2]古公亶父は戎狄との争いで民衆が苦しまないように、領地を捨て岐山のふもとに移り住んだといわれる。ちなみに、季歴は太公望の太公。
  7. 「蛤」ははまぐり。縄文時代以来ハマグリは全国でよく採取されていた。末盧国ではアワビ、ここではハマグリだが、これがほんとなら魏の使者はかなり細かい部分まで観察していたことになる。
  8. 紹熙本、紹興本ともに「東治」に作るが、中華書局標点本は『東冶』とする。東冶は會稽の土地の名。当時の中国では日本は南北に長く伸びていると思われていたらしい。「會稽の東冶の東」を文字どおりに解釈すると、台湾か沖縄にあたる。
  9. 『無大小』は“大人も子供も”とされることが多いが、“身分の上下によらず”とする説もある。[2]

其風俗不淫。男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻紵麻、蠶桑緝績、出細紵[糸兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與[憺(にんべん)]耳、朱崖同。

その(倭)の風俗は淫らではない。男子は皆露[糸介]し、木綿を頭にかぶっている。その衣は横に広いが、ただ結んでつないでいるだけであり、縫うことはしていない。婦人は髪を屈[糸介]していて、衣は単被のようなものを作り、その真ん中に穴を開けて頭を通して着ている。禾稲・紵・麻を植え、蚕を飼って絹を紡ぎ、細紵・[糸兼]・綿を生産している。その地(倭)には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。兵士は矛・盾・木弓を使っている。木弓は下が短く上が長く、竹の矢に鉄か骨の矢じりである。これらの特徴は、[憺(にんべん)]耳・朱崖と同じである。

  1. 『不淫』を佐伯は“乱れていない”の意とするが[2]、後漢書は『女人不淫不[女戸]』に作るので、やはり“淫ら”という意味でよいのかもしれない。
  2. 「露[糸介]」は、冠や頭巾を付けない頭[2]。岩波文庫には、「髪はみずら」とある。[1]『被髮』も同義か?[2]
  3. 「屈[糸介]」は、髪を後ろで束ねることか?[2]。岩波文庫には「束髪のたぐい」とある。[1]
  4. 岩波文庫によると、「禾稲紵麻」は稲・いちび・麻。[1]佐伯は“紵麻”を“カラムシ”とする。[2]
  5. 岩波文庫では、「細紵[糸兼]緜」はほそあさの布・かとりぎぬ・綿。[1]佐伯は、『細紵』を『カラムシで細密に織った麻布』とし、『緜』を『まわた』とする。[2]
  6. [憺(にんべん)]耳・朱崖」は海南島付近の地名。このあたりをみると、何処かで情報が交錯しているのではないかと疑う。この部分は、“倭”というよりは文字どうりの「會稽の東冶の東」の記述ではないか?
  7. 弥生時代の遺跡から馬の骨の出土例が報告されているが、最近の分析ではどうも後世のものが入り込んでいる例があるらしい。したがって、今のところ弥生時代に馬がいたかどうかはよくわからない。仮にいたとすれば、魏使の目に触れる所にいなかったか、飼われてはいないということだろう。牛はどうだろうか?
  8. 漢書地理史・粤地の条[憺(にんべん)]・朱崖に関する記述に、次のようにある。「服は単被のようなものに穴を開けて、そこに頭を通して着ている。男は農耕をする。禾稲紵麻を栽培している。女は蚕を飼い、糸を紡ぎ布を織る。馬と虎はいない。民は、五畜を持っている。兵は矛・盾・刀・木弓・弩・竹矢を持ち、鏃は骨である。」原文同士の対応を表にして見ると、
    漢書地理志と倭人伝の比較
    [憺(にんべん)]耳・朱崖倭人
    民皆服布 其衣横幅、但結束相連、略無縫。
    如単被、穿中央為貫頭 作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之
    男子耕農、種禾稲紵麻 種禾稻紵麻
    女子桑蚕織績 蠶桑緝績
    亡馬与虎 其地無牛馬虎豹羊鵲
    兵則矛盾刀木弓弩竹矢 兵用矛、楯、木弓
    或骨為鏃 竹箭或鐵鏃或骨鏃
    のようになる。確かによく似ている。

倭地温暖、冬夏食生菜。皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用[竹/邊]豆、手食。其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

倭地の気候は温暖で、夏冬によらず生野菜を食べている。皆、裸足でいる。屋室があるけれど、父母兄弟で寝所は別である。中国で粉を使うように、朱丹を身体に塗っている。飲食には高坏を用いるが、手で食べている。人が死んだ時は、棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る。始めの十日ほどは喪に服し、肉を食べず、喪主は哭泣するが、他の者は歌い、舞い、酒を飲む。埋葬が終わると、その家のものは皆、練沐のように水中で禊をする。

  1. 入墨に比べてほとんど話題にされることはないが、朱丹を体に塗るという風習は面白い。
  2. 岩波文庫によると、「[竹/邊]豆」は高坏。[1]
  3. 倭人は棺有り槨なしだが、扶余と(馬)韓は槨有り棺なし。東沃沮は大木槨を作るとある。
  4. 「土を封じて冢を作る」とあるが、これはどのような墓になるのだろうか?これが一般人に関する記述とすれば、方形周溝墓か?
  5. 「停喪十餘日」は、「喪にとどまること十余日」と解釈した。

其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。

(倭人が)行き来したり、海を渡ったり、中国へ行ったりする時に、必ず使者のうちの一人が、髪をとかさず、蚤や虱をとらず、服を垢で汚したままにし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服しているようにしている。この(使者の)名を持衰という。事がうまく運ぶと、(持衰に)生口や財物を与えるが、病が出たり災難にあったりした場合には、その持衰がつつしまなかったからであるとしてこれを殺そうとする。

  1. 喪人を死者とするのは誤りらしい。[2]

出眞珠青玉。其山有丹。其木有[木冉]・杼・豫樟・楙・櫪・投・橿・烏號・楓香。其竹篠・[竹/幹]・桃支。有薑・橘・椒・[サ/襄]荷、不知以爲滋味。有[犬爾]猴・黒雉。

(倭では、)真珠・青玉を産出する。その山には丹がある。(倭には)[木冉](クスノキ)・杼(トチ)・豫樟(クスノキの一種)・楙(ボケ?)・櫪(クヌギ)・投(スギ?カヤ?)・橿(カシ)・烏號(ヤマグワ?)・楓香(オカツラ?カエデ?)などの木がある。(倭には)篠(シノ)・[竹/幹](ヤタケ)・桃支(カヅラダケ)などの竹がある。薑(ショウガ)・橘(タチバナ)・椒(サンショウ)・[サ/襄]荷(ミョウガ)が有るが、これらが美味しいものであることを知らない。猿と雉がいる。

  1. ここの真珠は貝から採れるいわゆる真珠。パール。[2]
  2. 青玉は、硬玉の翡翠。産地は糸魚川以外にはない。
  3. 丹は、丹砂、朱砂のこと。水銀朱。水銀朱は九州では取れない?。大和周辺では、伊勢・宇陀が産地として著名。伊勢は、縄文時代から産地として知られる。

其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法。視火[土斥]占兆。

その習俗として、何かをしたり往来する場合に、骨を焼いて吉凶を占う。まず卜するところを告げるが、その言葉は令亀法のようである。火によって出来た裂け目で兆(きざし)を占う。

其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。【魏略曰、其俗不知正歳四節。但計春耕秋收爲年紀】見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不[女戸]忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。

(倭人が)集まる時、親子・男女の区別はない。(倭)人は酒が好きである。【魏略によれば、一年に四季があることを知らない。ただし、春に耕し秋に収穫をすることから年を決めている。】身分の高い者が敬意を表すのをみると、柏手をうって跪くことの代わりにしている。(倭)人の年齢は、百歳、または八十から九十歳である。その習俗として、国で身分の高い者は、皆、四五人の婦人を持っていて、身分の低い者でもあるものは二三人の婦人を持っている。婦人は淫らでなく、嫉妬をしない。盗みはなく、訴訟も少ない。法を犯した場合、軽い罪の場合は妻子を没収し、重い者は、その一家と一族が処刑される。身分の高い者も低い者もそれぞれ序列が有り、たがいに臣服するに足りている。

  1. 【】は裴松之による注。以下同じ。
  2. 「見大人所敬」の敬する相手は、神だろうか人物だろうか?人物だとすると、人と会う毎に柏手を打っていたことになる。今から考えると、ちょっとユーモラスである。
  3. 「足相臣服」は意味不明。岩波文庫に従う。[1]

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社  会

收租賦有邸閣。國國有市。交易有無、使大倭監之。

租税を収める倉庫がある。国々に市が立っている。色々な物の交易については、大倭が監視をしている。

  1. 「邸閣」は岩波文庫に従い倉庫とした。[1]佐伯は軍用倉庫とする。[2]
  2. 「大倭」は岩波文庫には“倭人中の大人”とあるが[1]、定説はない。[2]

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。

女王国より北では、特に、“一大率”という役職を設け、諸国を検察させている。諸国はこれ(一大率)を畏れている。(一大率は)常に伊都国で治めている。

  1. 「一大率」は、岩波文庫によると王の士卒・中軍。[1]佐伯は一人の『大率』とし、大率を『偏師を統率する将帥』とする。[2]兵という意味は“卒”ならあるが“率”にはない。逆に、帥の意味が“率”にはあるが“卒”にはない。[4]
  2. 「檢察諸國」、「常治伊都國」などからみてただの軍ではなく、国々の治安を維持し、警察・裁判・行政を兼務する江戸の町奉行所のような物であろう。
  3. 諸国が畏れるとあることから、その権力の大きさがわかる。

於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

国中に刺史のような役人がいる。(この役人は、)(倭)王が洛陽・帶方郡・諸韓國に使を遣わしたり、逆に、(帯方)郡の使者が倭国に赴く場合に、皆、港で検閲し、文書・賜物を女王に伝送して、決して交わることがない。

  1. ここは、一大率の説明の続きとするのが一般的なようだ。この差は、『於國中有如刺史』を『国中において刺吏のごときあり』と訳すか、『国中において刺吏のごとくあり』と訳すか、『き』と『く』のわずか一字の違いにある。ここでは、『国中』は倭国全体と思われ一大率の治める範囲を越えている事から、別の役人がいると解釈した。又、ここで書かれているように文書・賜物の伝送に携わるとしたら、全国的なネットワークが必要で、常に伊都国にいる一大率では無理。佐伯は大率とは別の役職とする。[2]岩波文庫は、現代語訳から判断すると、やはり別の役職と考えているようである。[1]中華書局標点本の句読点は、『常治伊都國, 於國中有如刺史。』であり、一大率の説明とする。
  2. 『刺史』は中国の地方官。漢代に設けられ、全国を州に分けて州の下の郡・県を監察する役職。次第に変質し、州が監査区域から行政区域に代わると、行政の長となった。後漢から三国の時代は州牧と呼ばれた。劉備玄徳が予州牧であったことは有名。魏晋代は兵権を掌握し軍閥化するものもあったが、次第に力を失い元代に廃止された。魏代の幽州刺史・毋丘儉や唐代の新州刺史・高表仁などが有名。ここでの意味が、「監察官」の意味なのか「行政の長」の意味なのかは不明。一大率の説明なら前者が、「文物を伝送する」というような役職なら後者がふさわしい。あるいは、兵権を掌握しているという意味なのか?
  3. 「郡使倭國」は、たとえば、「郡の倭国に使するに」などと訓じられるが、郡が倭国に行くわけではないので(物理的に不可能)どうも座りが悪い。「郡使詣倭國」(郡使の倭国に詣るや)などのように闕字があるのではと疑う。
  4. 「皆臨津搜露」の「搜露」が実際に何をしているかは不明。ここでは検閲とした。また、“皆”が何を指すのかも曖昧。使者のことか、あるいは、捜露する役人のことか。後者であれば、行為の主体は複数ということになるので、一人の大率ではありえないことになる。
  5. 「不得差錯」は意味不明。岩波文庫に従った。[1]

下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

身分の低いものが身分の高いものと道で出会うと、後ずさりして(道端の)草の中に入り、物事を伝達する場合には、うずくまり跪いて両手を地につけ、敬意の念を表す。(身分の低いものは)「あい」と答え、承知したことを示す。

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歴  史

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食傳辭出入。居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。

その国(倭国)にはもともと男王がいた。七、八十年経った頃、倭国は混乱状態になり、長年にわたってたがいに攻め合う状態が続いた。(戦いにつかれたので)皆の了承の元に一人の女性を王とした。(この女性の)名を、卑弥呼という。鬼道につかえよく衆を惑わす。年齢は既に高かったが夫はいなかった。弟がいて、政務を手伝っていた。王となって以来、(卑弥呼に)会えるものは少なかった。下女千人を側に置いていた。出入りできるのはただ一人の男子だけであり、食事を持っていったり言葉を伝えたりした。住んでいる所には宮殿・楼閣・城柵を厳かに設け、常に人がいて武器をもって警備していた。

  1. 「其國本亦以男子爲王」の「其國」は倭国と思ってよい。つまり、卑弥呼を遡ること百年ほど前に“倭国”の王は誕生していた。また、この王は後漢書に見える倭国王帥升であるとの説がある。
  2. 『住』は“とどまること”と読まれるが、“往”の誤りであり“これよりさき”と読む説もある。[2]この場合、起点が不明。
  3. 『倭国乱』の時期は、原文どおり『住』とすれば男王から7、80年後ということだが、時期は特定できない。後漢書は桓霊の間(147−189)、梁書は霊帝光和中(178-184)とする。いずれも信憑性は薄いと思われるが、何故か通説となっている感がある。男王が倭国王帥升であり、その朝貢年107年を起点にすると、177-187年に倭国乱がおきたことになるが、これからは終結した年代は分からない。後漢書は、『倭国大乱』に作る。
  4. この頃の年号である中平(184−189)の紀年銘をもつ鉄刀が東大寺山古墳から出土している。中平元年には、黄巾の乱がおきている。
  5. 卑弥呼の上古音は、pieg-mie[v]r-hag。[4]
  6. 「事鬼道能惑衆」は意味不明。通説にしたがった。
  7. 卑弥呼に会えるただ一人の男子とは、弟のことか?それとも別人か?
  8. 城というのは町のことで、集落を柵で囲っていればそれで城柵であるとする説あり。

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地  理 (二)

女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。又有侏儒國在其南。人長三四尺。去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

女王国から東へ千余里海を渡ると、また国がある。皆倭の人種である。また、その南に侏儒國がある。(侏儒國の)住人の身長は、三四尺である。(侏儒國は)女王国から四千余里である。裸國・黒歯國がそのまた東南にある。一年ほど航海して辿り着くことができる。倭地を調べてみると、遠く離れた海の中の島々であり、ある部分は離れ、またある部分は近く、一周五千余里程である。

  1. 信憑性が極めて薄いところ。少なくとも、ここの距離は実測ではあり得ない。侏儒國、裸國、黒歯國などは古代中国の伝説上の国。世界の果てに伝説上の国をつなげただけとも言われる。
  2. 後漢書は、『東渡海千餘里』の国を狗奴国とする。
  3. 『參問倭地』とあるが、『周旋可五千餘里』は女王の支配する“倭国”の事だろうか、それとも、他の『倭種の国』も含めているのだろうか?後者なら、魏の使者は他の『倭種の国』へも行ったのだろうか?

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外  交

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。

景初三年の六月、倭の女王が大夫難升米等を派遣し(帯方)郡に詣り、(魏の)天使に朝貢したいと申し出てきた。(帯方郡の)太守劉夏は、文官と武官を付けて(魏都)洛陽に送った。

  1. 原文の景初二年は三年の誤りと思われる。景初二年八月に帯方郡の公孫氏が亡んだため、公孫氏に代わる後ろ楯を魏に求めたとする説がもっともらしい。また、景初二年六月の公孫氏討伐戦については、三国志魏書の公孫淵伝参照のこと。中華書局標点本は、二年のままとする。まだ、二年説の生き残る余地有りという事か。ちくま学芸文庫も二年のまま。[3]岩波文庫[1]、佐伯[2]ともに三年の誤りとする。
  2. 「吏將」を“吏”(文官)と“将”(武官)と読んだ。“将”が行けば当然軍も動いたであろう。誤読の可能性が高い。他の読み方としては、「將(すなは)ち送りて」、「將(もっ)て送りて」、「將(ひきい)て送りて」などがある。
  3. 難升米は上古音ではnan-thi(e)(g)-mer。

其年十二月、詔書報倭女王曰。制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米・牛利渉遠道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹【臣松之以爲地應爲[糸弟]。漢文帝著[白/十]衣謂之戈[糸弟]是也。此字不體、非魏朝之失、則傳冩者誤也】、絳地[糸芻][四/(炎り)]十張、[サ/倩]絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華[四/(炎り)]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤。皆裝封付難升米・牛利。還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也。

その年の十二月、次のような詔書が倭の女王宛に出された。

親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守劉夏が使と共に汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝が献じた男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じてやってきた。汝の住む所は非常に遠いにもかかわらず貢献の使を遣わした。これは、汝の忠孝であり、私は汝を大切に思う。今、汝を親魏倭王となし、金印・紫綬を帯方太守を通して汝に授ける。汝は民をいたわり、勉めて孝順を示しなさい。汝の使者である難升米と牛利は遠くからやってきてご苦労であった。今より、難升米を率善中郎將に、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を授け、ねぎらって賜物を与えたのち送り返す。汝が献じたものに答え、絳地交龍錦五匹【臣松之、地は[糸弟]となすべきであろう。漢の文帝は[白/十]衣を着、これを戈[糸弟](よくてい)といった。これである。この字は体(のっとら)ないので、魏朝の過失ではなく、伝写した者の誤りである。】・絳地[糸芻][四/(炎り)]十張・[サ/倩]絳五十匹・紺青五十匹を与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華[四/(炎り)]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤をあたえる。皆、難升米・牛利に託す。帰ってから目録どおり受け取り、すべてを汝の国中の者に見せ、魏が汝を大切に思っていることを示しなさい。そのために汝に好物を賜うのである。

  1. この詔勅は『制詔』ではじまっており、冊書よりも一ランク低い制書と呼ばれるものとする説があるが、佐伯によると、冊書でも“制詔”ではじまる例があるとのこと。[2]
  2. この詔勅を出した人物が誰かが大問題。明帝は景初三年正月に死去。つまり、(景初二年)十二月というと明帝は死の床にあったわけで詔勅が出せる状況にあったかどうか?この点、景初二年説にやや不利。景初三年説なら、この詔勅を出したのは次の斉王芳という事になる。一方、明帝の死後一年は喪中であり一切の行事が中止で(景初三年)十二月も喪中なので詔勅は出るはずがないといわれることがある。このとおりであるとしても、景初三年の十二月の終わりに、「(明帝が採用した殷暦(殷王朝の暦)を改め)夏暦(夏王朝の暦)を採用し、景初四年二月となるべき月を改元して正始元年正月とし、景初四年正月となるべき月を景初三年後十二月にする」という詔がでている。(この詔勅により、景初四年が存在しないことが明らかとなる。)卑弥呼への詔勅が出た『其年十二月』が後十二月をさすなら喪は完全にあけている。したがって、『景初三年十二月』に詔勅が出るのは必ずしも無理ではない。が、それ以前に、齊王芳は景初3年の7月には朝議に出席し、8月には大赦が行われている。本当に一年の喪があったのかどうか、それ自体が疑問である。このあたり、事実関係だけでもかなり複雑。[3]
  3. 中国には、夏・殷・周を天・地・人として廻るという三統という考え方がある。これによれば、周を受け継いだ漢王朝は『夏』に当たり、漢では夏暦を採用していた。したがって、漢から禅定を受けた魏王朝は『殷』に当たり、殷暦を用いるのが正しいということになる。明帝が殷暦に改めたのはこの考え方による。[3]
  4. この時の手土産が『男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈』だけというのはあまりに少ない。後漢代の倭国王帥升等の場合ですら『生口百六十人』である。途中で船が難破した可能性はありそうだ。又、この時の朝貢は、本来、公孫氏に対するものであり、帯方郡に着いてみたら公孫氏が亡んでいたので魏への朝貢に切り替えたのかもしれない。この時の朝貢を景初二年とすれば、公孫氏討伐戦に巻き込まれて多くが失われたと解釈することも出来る。これは、景初二年説の補強材料になるか?
  5. 賜物全てが答礼であると誤解されることがままあるようだが、献上品に対する答礼は、『答汝所獻貢直』の直前の絳地交龍錦五匹、絳地[糸芻][四/(炎り)]十張、[サ/倩]絳五十匹、紺青五十匹。全て布地。それ以下のものは、国内を慰撫するために特別に渡されたもの。この二種の下賜品の性格の違いは、はっきり押さえておく必要があるだろう。
  6. 裴松之の注は訳は書いたものの意味は解りません。内容は、「絳地」の地は[糸弟]の誤りだと言っています。[1]
  7. 『好物』は好きなものと訳されることが多いようだが、『良きもの』という解釈もある。この『好物』は『特に』以下の全てを指し、鏡だけというわけではなく、さらに、これらを下賜する目的が卑弥呼を喜ばすためではなく、これを国中に見せて魏と卑弥呼とのつながりの強さを示すためであるので、後者の方がより妥当と思われる。
  8. ここに見える『眞珠』は真朱、つまり水銀朱のようだ。[2]真珠、つまり、パールであるとすると、五十斤という単位がおかしい。次の鉛丹も赤い顔料。炭酸鉛を熱して作る。[1,2]
  9. 都市牛利の上古音は、tag-piu(e)t-(g)iog-lied。[4]

正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦[四/(炎り)]・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。

正始元年、(帯方郡)太守弓遵が建忠校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉って倭に詣り、倭王に拝仮し、詔を読み上げ、金・帛・錦[四/(炎り)]・刀・鏡・采物を与えた。倭王は使者に上表文を渡し、その中で詔勅に対する感謝の意を表した。

  1. 「金・帛・錦[四/(炎り)]・刀・鏡・采物」などは難升米らに渡されたはずなので、この使者と共に難升米らも帰国したものと思われる。
  2. この後しばしば登場する「假」だが、「假(仮)」には授けるという意味があるらしい。岩波文庫では“仮に授け”などとしているが[1]、これでは何のことかわからない。佐伯も『仮に授け』とする。[2]
  3. 佐伯によれば、『拝仮』は仮に、または、臨時に任命すること。ただし、単に任命するという意味もある。[2]三木太郎は、拝は下位者が上位者をふしおがんで受けること、仮は上位者が下位者に授けることとし、また、拝仮は天子の専権事項であるとする。三木にしたがえば、ここでは卑弥呼が勅使である梯儁をふしおがんで金印紫綬を受けたことになり、二人は確実に対面していることになる。岩波文庫は『拝仮する』と書くのみで、意味を記さない。[1]

其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青[糸兼]・緜衣・丹・木[犬付]・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

その四年、倭王がまた大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を使として遣わし、生口・倭錦・絳青[糸兼]・緜衣・丹・木[犬付]・短弓矢を献じた。掖邪狗等は率善中郎將の印綬を授かった。

  1. 皆が魏の官職を欲しがったためか、今度は八人も使者として赴いている。
  2. 上古音では、伊聲耆はi(e)[v]r-thie(g)-gierまたはi(e[v])r-thie(g)-dhier、掖邪狗はdiak-(g)ia[v]g-kug。[4]
  3. 『丹木[犬付]』は、岩波文庫は『丹・木[犬付]』だが[1]、中華書局標点本は『丹木・[犬付]』とする。『丹木』とはなんぞや?このあたりになると、既に私の理解を越えている。どちらが正しいのか・・・。佐伯は『丹木』を取り赤木とする。具体的な樹木名は記さない。また、“丹木”を霊木とする伝説もあるようだ。[2]
  4. 「短弓矢」などを献じてどうするのだろうと思ったが、丹木が霊木であるとすれば、丹木で作られた弓矢と読むなら理解できる。
  5. 佐伯は、『壹拜率善中郎將印綬』を『壹(みな)、率善中郎將の印綬を拜す』と訓じている。[2]確かに壹には“皆”という意味があり、なるほど、という気はする。(漢語林による。学研漢和大辞典には載っていない[4]。)岩波文庫は『壱拝す』としている。[1]

其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜り、(帯方)郡を通して授けさせた。

  1. 「黄幢」は魏の軍旗。何故か突然この記述がある。卑弥呼への挨拶もない。何かが起こったと考えるのが自然?。
  2. この年、馬韓の反乱がおきている。このため、この時の黄幢は倭に届かなかったとする説あり。この説では、正始八年の黄幢はこの時のものであるとする。
  3. この馬韓の反乱により帯方太守弓遵が戦死している。これを知らないと、次の正始八年の『太守王[斤頁]到官』の意味が解らない。

其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。

その八年、(帯方郡)太守王[斤頁]が着任した。倭の女王卑彌呼は狗奴國の男王卑彌弓呼ともともと不和であった。倭の載斯・烏越等を(帯方)郡に遣わし、相いに攻撃する様を説明した。(これにより太守は)塞曹掾史張政等を(倭に)遣わし、詔書・黄幢をもたらし難升米に授けた、檄によりこれに告喩した。

  1. [斤頁]はこれ以前に玄菟太守として毋丘儉に従い朝鮮半島で歴戦しており高句麗を破るなど実績を上げている。魏志の毋丘儉伝に『儉遣玄菟太守王[斤頁]追之【世語曰、[斤頁]字孔碩、東莱人。晉永嘉中大賊王彌、[斤頁]之孫】。』とあり、山東省東莱郡の出身であることがわかる。(東莱=釜山付近というのは全くの誤りでした。)
  2. 「遣倭載斯・烏越等詣郡」の主語、つまり使を遣わした人物は誰であろうか?常識的には卑弥呼だろうが、ここだけ主語がないことに意図があるかも。
  3. 「黄幢」は軍旗なのでともかく、詔書までも難升米に渡されている。ここではどうも“倭の女王”は交渉相手ではないようだ。既に死んでいるとか、病気であるとか、クーデターであるとか、いろいろありそう。
  4. 載斯、烏越は、上古音ではそれぞれ、ts(e)g-sieg、ag-(h)iua[v]t。
  5. 『檄』は、尺二寸の木簡に書かれた文書。佐伯は戦闘にかかわる内容とするが[2]、どうだろうか?
  6. 『告喩之』を岩波文庫は『これを告諭す』と訓じているが[1]、佐伯は、『これに告諭せしむ』とする。[2]用例を調べてみると、“これに告諭す”としたほうがまぎれがなくてよさそうだ。例えば、史記高祖本紀に『不如更遣長者扶義而西,告諭秦父兄』などとある。ともかく、告諭した相手が『之』であり、難升米と考えるのが妥当だろう。
  7. 佐伯に従い『拝仮』を任命するの意とするなら[2]、“難升米を拝仮し”と読むべきか?とすれば、この詔書は難升米を何らかの役職につけるという内容のはず。岩波文庫は『難升米に拝仮せしめ』とする。[1]

卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。

卑弥呼が死んだ。大いに冢を作った。径百余歩で、殉葬者は奴婢百余人。次に男王が立つが、国中が従わず、互いに誅殺しあい千余人を殺した。

  1. 訳さなかったが、「卑彌呼以死」の“以”が問題。“これによって”と訳すと、卑弥呼は殺されたのだという説が出てくる。“以”はそしてぐらいの意味しかないとする説もあり。また、“以”には“すでに”という意味もあるので、『卑弥呼すでに死す』と訓じ張政らが到着したときにはすでに死去していたとする説もある。[2]
  2. 日本ではまだ大規模な殉葬が行われたことを示す遺跡は出土していない。逆に、出てくればそこが邪馬台である可能性は極めて高い。しかし、何処かの時点で中国の事例を考えて想像で書かれたとみるのが妥当かもしれない。
  3. 『径百余歩』の卑弥呼の墓を探すことに熱心な方がいる。『径』だから円墳であるとか無いとか、『百余歩』は何mであるとか熱心な議論がされているようだ。大体こういう方は魏志倭人伝に誤りは無いのだという立場でこの部分を信じているようだが、その割にはその後の100人以上の奴婢を殉葬したという記述には無頓着である。この部分を信じる限り、殉葬者が出てこなければ卑弥呼の墓ではないのだ。しかし、残念ながら日本では今の所このような大規模な殉葬の風習は見つかっていない。つまり、現時点で『徇葬者奴婢百餘人』は誤りであるとするしかない。これが誤りなら、『徑百餘歩』も誤りである可能性は極めて高い。
  4. ここにいう1歩は今でいう二歩にあたり、魏晋代では1.45mほど。100余歩は145m+α。
  5. 「誅殺」とは何か?

復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與。

また、卑弥呼の一族である十三歳の少女台与を立てて王としたところ、ようやく国中が定まった。張政らは檄により台与に告喩した。

  1. 壹與の上古音はiet-(h)iag。臺與であれば、d(e)g-(h)iag、t`(e)g-(h)iag、di(e)g-(h)iag。
  2. ここも告諭の対象は台与。佐伯もここは『壹與を告喩す』とするが[2]、意味としては、台与に対して告諭したということだろう。

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

(女王)台与は、倭の大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を遣わし、張政等が還るのを送った。このとき、(掖邪狗等は)洛陽に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹を貢した。

  1. これが266年の朝貢であるとする説があるが、そんなことはないだろう。早ければ、正始八年、遅くてもそれより一二年の内ではないかと思う。
  2. はじめが二人、次が8人、ついにここでは20人である。なにか美味しいことがあるのだろうか?
  3. 白珠はパール、青大句珠は青い勾玉で翡翠であるとするのが有力らしい。[2]

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