キリマンジャロ単独登頂記その1
■タンザニアとケニアの国境付近はマサイ族の居住区で、鮮やかな赤い布切れを羽織っただけの浮き世離れした人たちが、土産を売っていた。

 アフリカの最高峰、キリマンジャロ五、八九五メートルの登頂を目指して、成田からシンガポールとアラブ首長国連邦のドバイで乗り継いで、30時間かけて1997年8月11日夕刻、ケニアの首都ナイロビに着く。
 私は本格的な登山経験はなく、3年前にネパールでの三泊四日のトレッキングのみで、登れるのかどうか、半信半疑で出かけた。
 キリマンジャロはケニアとタンザニアの国境にあり、かつてはケニア側にあったが、ドイツ皇帝ヴィルヘルムはイギリスとかけあい、ドイツ領タンザニアに編入したそうだ。
 翌朝、宿屋近くの狭い路地のたまり場に出向く。そこで客待ちしていた乗り合いバスで国境を越え、アルーシャでバスを乗り換えて、午後4時ごろに登山基地のモシに入る。
 両国境付近はマサイ族の居住区で、鮮やかな赤い布切れを羽織っただけの浮き世離れした人たちが、牛やヤギの群れを追う光景を車窓から何度か目撃した。私たちの車は道端で彼らに呼び止められ、乗り込んでは降りていった。乗車代金は払っていないようだった。
 私の傍らに腰かけた彼らを覗き込むと、両耳たぶには十センチぐらいの穴が貫通し、物を吊るしたりするのには都合よくなっていた。
 モシで宿屋に行く途中、登山ツアーを斡旋しようとする若者が近づいて来たが、宿屋のYMCAに直行した。バスターミナルから一キロぐらい離れた町の外れにあった。
 宿泊の手続きをすますやいなや、建物の一角にある旅行社を訪ねた。日本からこの会社へ電話をしたが通じなかった。私が「明日から登りたい」と言うと、「一日待ってくれればアレンジできる」と言った。即座に、可能な代替ルートの見積もりをして提案した。その金額は一般ルートより割り増しだった。
 急ぐ気持ちを抑えきれずに宿屋を出て、呼び止められた若者の事務所に行く。その部屋の壁には、山の写真が貼ってあった。「明日は別の日本人が登るので、可能だ」と言った。
 私は用賀のタンザニア大使館に出向いた時、キリマンジャロ登山の資料をもらい、大体の値段は把握していた。
 私がその若者にツアーの金額を尋ねると、2倍近い値段を提示した。日本人の名前を聞くと、分厚い名簿の名前を指し示した。その日付に目をやると、去年であった。
 私を引き留めるのに躍起になっていたが、私は彼らの胡散臭さを感じ、事務所を出た。大使館のパンフレットに書かれていた会社にも行ってみたが、閉まっていた。
 私は宿屋の旅行社に再度行って、一日待って登りたいと伝えた。この会社は日本人の利用客も多く、事務所での対応もしっかりしていたので、すべてを任せることにした。
 四泊五日がマラングゲートからの標準的な日程である。登山経費の内訳は、国立公園入園費、山小屋宿泊費、食費、ガイド雇用費、ポーター雇用費、宿屋から登山ゲイトまでの送迎費などが含まれ、五百ドルを支払った。
 登山装備は旅行社でレンタルした。頂上付近は零下15度だそうだ。寝袋、ダウンの防寒着、目だけ開いた毛糸の帽子、防水ズボン、手袋、登山靴を二十四ドルで借りた。
 かつて冬のフィンランドのヘルシンキで、零下20度を経験した。路面は凍結し、歩きづらくて,車で移動したのを覚えている。 
 私は高山病が一番気がかりだった。南米のボリビアのラパスに2回旅行し、そこの空港は標高四千百メートルにあったが、大丈夫だった。今回はそれよりもまだ二千メートルあるが、心配をしても始まらないので、「その時はその時で引き返そう」と思っていた。
 この山は8月から12月までがシーズンで、それ以外は雨の日が多く、登山には不向きだそうだ。
 夜になると、標高九百メートルのモシは肌寒く感じた。登山の段取りをすべてすませ、初めての山行に胸を膨らませて早めに床についた。

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