The Shia Rise Up
シーア派蜂起

2004年5月14日
Rami El-Amine |ラミ・エル=アミン(でいいのか?)
寄稿しているサイト(英語)
 
原文@Zmag(英語)

以下,雑な日本語です。固有名詞の表記は確認しきれてませんし,イスラームのあれこれも精査せず,ただ単に英語から日本語にしただけです(clericなど)。また,原文での表記ユレも,そのままにしてあります。


「びっくりするのは,1週間でどれだけ変化したかということです――1週間でですよ。もう誰もスンニ・トライアングルのことは話しません。スンニ派とシーア派の対立とか内戦といったことを真面目に話しても相手にされませんからね。占領者は,あれは小規模なレジスタンスがやってることだなんて言えなくなっている。もはや多くの人に支持される反乱,それが広がっているのです。」――バグダッド大学政治学教授,Wamid Nadhmi氏

4月のイラクの蜂起が米国の占領に対して与えたインパクトがどのくらいのものであったかを言うにはまだ時期尚早ではあるが,ひとつ,確実に言えることがある。バビロンでは事態はすっかり変わってしまった,ということだ。シーア派がほとんどを占める戦士たちがファルージャにおいて強靭なレジスタンス活動を行なったことは――ファルージャでは,最初の週だけで,600人以上のイラク人(そのほとんどが女性と子供)とおよそ60人の米兵が死亡している―ー,反乱者たちの鬨の声となった。しかしファルージャは初日から占領者の矢面に立ってきたのである。

今回の蜂起について,これまでと異なっているのは,多くのシーア派の人々が占領軍に対して立ち上がったということである。突如として,米国とその同盟国は,小人数の武装レジスタンスを相手にしているのではなく,大規模な反乱に直面したのである。今回の反乱では,最初の2週間で米兵83人が死亡し,反乱者はいくつかの大都市を制圧した。米国が訓練したイラク警察部隊は,反乱制圧を拒否したのみでなく,いくつかの地域では反乱に加わった。Iraqi Civil Defense Forcesのある大隊は,ファルージャへ行って「イラク人と戦うこと」を拒否した。

シーア派とスンニ派の間の緊張は,あっというまに団結と相互援助に変わった。両派は支援のメッセージを交換し合い,ファルージャのための献血や支援物資の輸送においては,シーア派がスンニ派に加わった。合同礼拝も行なわれた。バグダードのスンニ派地域の壁には「スンニ派とシーア派は団結し,米国の占領に反対する」と書かれた。そしてマハディ軍(若く猛々しいシーア派の聖職者,ムクタダ・アル=サドルによって結成された民兵組織)のメンバーたちは,ファルージャに赴いてスンニ派の人々と協力して戦った。

占領の機構全体が――CPAから軍隊に至るまで――たとえその危機を招いたのが自業自得であったとしても,反乱者たちによって不意をつかれたのである。こういったことが起きた理由のひとつは,当局はイラク人からの占領支持のレベルを常に高く見すぎてきたということがある。特にシーア派については顕著であった。シーア派はCPAに働きかけ,CPAの計画のほとんどを改めさせてきた。例えば統治評議会(GC)の設置,軍隊の解体,選挙の実施,憲法草案の作成などである。

アル=サドルとその信奉者を追うことに決定したのは,タイミングはまずかったが,ますます大きくなるシーア派の1団体が占領者にとって脅威となること,また,CPAが相手としてきた大アヤトラのアリー・シスターニやそのほかのシーア派指導者たちが,サドルたちを押さえておくのに何もできず,そしておそらく何もしないであろうということに,占領当局が気付き始めたということを示していた。

 

プロパガンダ戦争

軍事作戦に加え,米英はプロパガンダ戦争を開始した。スンニ派の蜂起には,一握りのバース党員や外国のイスラミストによるものだとレッテルを貼り,米英はシーア派へと注意を向けた。彼らを「ならず者」だとか「犯罪者」だとか呼んだ上に(こういう呼び方は,占領に抵抗する人々に対する標準的な蔑称である),サドルとその支持者たちは,イラクにイスラム国家を樹立したがっているイランの工作員である,と私たちは聞いている。

Michael Ledeen や Michael Rubinといったネオ・コンサーヴァティヴたちが,これらのうそを広める最前線にいる。こういった主張は,イランでのレジーム・チェンジを狙う彼らのキャンペーンに役立つし,イスラムを,暴力的で非民主的で女性を蔑視し,全体的に不寛容な宗教であるというように描くことにも寄与する。ルービンは,最近までCPAで仕事をしていたが,イラン人がシーア派各勢力のすべてを資金面で,また武器供与で支援してきたと主張している――アル=サドルだけではなく,ダーワ党やSCIRIをも。

このプロパガンダが,占領連合諸国(米国,英国,イタリアなど)の市民に消費されるよう意図されていることは明白だ。イラク人に向けられたものではないのだ。残念ながら,これは,特に米国では反戦運動にも影響を及ぼしている。戦争に反対した人々の多くが,占領軍を即時撤退させるよう働きかけることに戸惑いを示している。なぜならば「内戦が起こり,そして,あるいは,イスラミストがイラクを手に入れる」という言説があるからだ。

これは部分的には,次のような,左派の間ですら広く見られる見解にも原因があるであろう。1)イスラミストを,本質において反動的でファシスト的な均質の集団であると見なしていること 2)中東の社会をイスラムという観点から理解していること,さらに肝要な部分として,イラクとイラク人を宗教と民族という観点から理解していること。こういった頑迷で一面的なアプローチは,階級やコロニアリズム,抑圧,抵抗といった社会政治的ファクターを考慮に入れることはしないし,したがって,シーア派といった集団を正確に理解すること,いかにして彼らがこれほどに速く爆発的に蜂起できたのかを正確に理解することには結びつかない。

 

分割(分断)し征服せよ

占領に関して持ち上がっている最大の懸念のひとつが,イラクにおける宗派また民族の別ゆえに,ひとたび米国とその同盟国が撤退すれば,イラクは内戦に陥るであろうということである。

4月の蜂起の期間,およびその後において,スンニ派とシーア派が示した団結は,両派の違いというものがいかに表面的なものに過ぎないかを示している。実際には,イラクにおける宗派間および民族間の緊張は,深く根ざした文化的違いから生じているものではない。それは一帯における帝国主義・植民地主義の歴史の産物であり,イラク国内の政治の産物である。スンニ派とシーア派の間の緊張についてと同様に,アラブとクルドの間の緊張についても,このことがあてはまる。

分割し,征服するために,CPAは植民地主義の伝統に従って,民族的・宗派的区分を利用してきた。ポール・ブレマー総督とCPAが作ったイラク統治評議会(GC)は,この戦略をよく示しているものだ。Alkadiri と Toensingは,「GC評議員の数はイラクの宗派別・民族別統計に厳密に対応していると主張することによって,ブレマーと占領当局は,これらの問題を,イラクの歴史始まって以来初めて,政府を構築することにおいて最重要のものに仕立て上げた」と指摘している。区分を政治化することによって,GCは区分を強化するのみならず,それを深め,多様な宗教的・民族的集団の中の日和見主義的エレメントによって利用されやすくしているのである。

そして占領軍は,内戦を防ぐ能力があるのは自分たちだけなのだと見せるために,結果として生じる緊張や紛争を利用することができる。占領軍が撤退せず,占領が続いていることを正当化することにおいて,アブ・マサブ・アル=ザルカウィ(イラクとアル=カーイダを結ぶ人物で,スンニ派蜂起を煽り,シーア派との戦争を引き起こそうとしているとされる)が,米国とその同盟国にとっていかに利用価値があるかに注目しているアラブのコメンテーターが何人かいる。

 

宗教ではなく階級

現実には,イラクの近代の歴史の特徴とは,強い世俗的伝統と,スンニ派とシーア派の間の婚姻が長く続けられてきたことにある。厳格な宗教的・民族的忠誠というものは,かなり最近になって興ったものである。それは特にシーア派の間で見られるが,シーア派は共産党に加わるか,あるいはそれにシンパシーを示す者が多かった。そして共産党にはあらゆるイラク人が(ユダヤ系の人も)加わっていた。

スンニ派による迫害が長く続いてきたにも関わらず――迫害はまずはオスマン帝国下で始まり,続いて英国が据え付けたファイサル王の下で行われ,そしてサダム・フセインの下で行なわれた――,シーア派にとっては,スンニ派のエリートが迫害について責任があるということは,常に明白であった。宗派の違いというよりむしろ階級の違いが,闘争や反乱を通じて強化され,その闘争や反乱が,スンニ派とシーア派を共通の敵に対して団結させたのである。

このことを最もよく示し,こんにちの状況にとって重要な教訓を多く示しているのが,1920年の反乱である。この反乱の最大の原因は,第1次大戦でのオスマン帝国敗退に続いた,英国による(委任統治)イラクの占領である。民族主義的なシーア派の部族長たちと聖職者たちに,スンニ派聖職者や農民が加わって,非常に大規模な反英蜂起となった。最も盛り上がったときには,10万人のイラク人が参加していた。英国は空から爆撃できる点でイラク人より優位に立っており,そして情け容赦なく空から爆撃を行ない,およそ9000人のイラク人を殺した。

この反乱で英国の支配が終わったわけではなかったが,この反乱の結果,英国は直接の植民地統治を,ファイサル王の傀儡政府による統治に変更することを余儀なくされた。ただし残念ながら,シーア派がまたもやスンニ派の統治者の抑圧の下に置かれている状況はまったく変わらなかった。スンニ派の統治者は(英国もそうしたであろうが)宗派の違いを利用して,分割し,征服したのである。

 

高まる抵抗

シーア派による抵抗が再び生じたのは,1970年代終わりである。このころ,サダム・フセインによる弾圧がシーア派に対して加えられていた。シーア派はサダム・フセインがバース党で権力を一身に集めるためのスケープゴートとして利用されたのである。1974年から80年にかけて,サダム・フセインは500人以上のシーア派活動家を殺した。多くは当時最有力のシーア派政治組織のダーワ党の党員であった。

※訳注:ダーワ党員にはこの時期に海外に亡命した人も多くいる。2004年5月17日にバグダードで爆殺された統治評議会議長も亡命ダーワ党員。

1979年のイラン革命に触発され,ダーワ党は一連のデモを組織し,後には武装闘争を組織したが,それはよりいっそう激しい弾圧に遭うこととなった。1980年,ダーワ党の精神的指導者にして設立者であるムハンマド・バーキル・アル=サドル(Mohammed Baqr Al-Sadr:ムクタダ・アル=サドルの大おじにあたる)が,妹(姉?)とともに絞首刑となった。サダム政権はその後,3万人のシーア派をイランへと追放した。

このように力ずくで押さえこまれていたにも関わらず,シーア派はイラクを裏切ることなく,イラン−イラク戦争(1980〜88年)ではイランのシーア派政権に対してスンニ派のイラク人とともに戦った。イラクのシーア派がイランと結託しているという嘘を信じている人には,これは特に奇妙に見えるかもしれないが,実際には,イラクのシーア派の多数が,第一に自分たちはイラク人であると認識し,そしてイランのイスラム共和国について批判的なのである。とりわけ,ホメイニ師が発展させたwilayat-al-faqih,すなわち聖職者による統治という考え(政教一致)については批判的だ。それだからこそ,イランと最も強いつながりを有するシーア派政党であるイラク・イスラム革命評議会(SCIRI)ですらも,何年もの国外追放ののちにイラクに戻ってからは,イランとの関係を薄いものであるかのようにしているのだ。

 

強まるセクタリアニズム

湾岸戦争後の1991年,シーア派とクルド人がサダム・フセイン政権に対して蜂起した。スンニ派とシーア派の争いが,本当に宗派間の敵意となったのは,その後のことである。しかし,これとても宗教的・文化的違いから発したものではない。フセイン政権は湾岸戦争と経済制裁で孤立し弱体化しており,宗派や民族の違いを利用し,シーア派を弾圧する方向に転換したのである。そうすればスンニ派の支持基盤を強化することができるからである。

特にティクリートおよびその周辺の部族などのスンニ派は,仕事を優先的に得,またこれらの地域の(戦争で破壊された)道路や学校,病院などの補修も優先的に行なわれた。一方シーア派は蜂起について集団懲罰を受けた。フセイン政権はシーア派を何万という単位で殺し,シーア派聖地を含め,南部のインフラの多くを破壊した。むろん,シーア派には復興資金も与えられず,また過去においてシーア派が勝ち取ってきた制限つきの権利も奪い去られた。しかしサダム・フセインのような誇大妄想狂には,これでも不十分であった。シーア派に対し,長期的,永続的ダメージを与えるため,サダム・フセインは,シーア派が多く暮らす南部の湿地帯から水を吸い上げる運河を建設したのである。

シーア派の弾圧を強める一方で,スンニ派部族の拠点をあらゆる点で優遇したことが,シーア派のアイデンティティを深め,イスラミズムへの傾倒を加速した。しかし,コール【←文中に出てこないので不明だが,Juan Coleか? 後続のカギカッコ内を書いた人】が説明するように,イスラミズムのアピールはどこからともなく湧いて出たのではなく,湾岸戦争以後のイラクのシーア派が自分たちが置かれていると気付いた境遇から出てきたものである。「優遇の輪から外されて,スンニ派ではないイラク人たちは活動の拠点を見つけなければならなかった。民族の違いを超越し,経済問題について訴える宗教色のない政党は結成できなかった。政権の監視の目は常に光っており,そのために彼らは家族・縁戚や部族,モスクといったように,内側に向かざるをえなかった。その結果,サダム政権末期において,イスラム国家を準備するシーア派の運動はゲットーや定住部族の間で,部族単位に組織された。」

このことが,大アヤトラ,ムハンマド・サディク・アル=サドル(ムクタダ・アル=サドルの父親)の台頭と指導力について説明している。ムハンマド・サディク・アル=サドルは1990年代の非ペルシャ(=イラン)系シーア派高位アヤトラである。当初は宗教者の政治への関与には抵抗していたが,「徐々に公然と批判的立場を示すようになり,彼はシーア派のフラストレーションを体現し,シーア派の要求を表現するようになった」。

1999年,ムハンマド・サディク・アル=サドルは政権によって暗殺される。この暗殺は南部一帯とバグダードの東部のスラム街(200万以上のシーア派住民が暮らす)において,大規模な抗議と暴動を引き起こした。バグダード陥落後はこのゲットーはサドル・シティーという名で知られるようになり,息子のアル=サドルの拠点となっている。この抗議は最終的に鎮圧されたが,(父親の)アル=サドルを殺害したことで,フセイン政権はシーア派聖職者の間での政治的活動というサドルの遺産をより強力なものとしただけだった。

※訳注:ここにある「バグダード東部のスラム街」(サドル・シティー)は,サダム・フセインがシーア派を強制的に移住させ,意図的にスラムにした上に,「サダム・シティー」と呼んだエリア。シーア派のスラムに弾圧者である自分の肖像画(それも巨大なもの)を掲げさせていた。そのサダムの肖像画は,バグダード陥落後に,サドル(お父さん)のものに書きかえられているとのこと。

 

空白を埋める

サダム・フセイン政権の崩壊は,イラクのシーア派に巨大なインパクトを与えた。広範なシーア派の政党,組織および個人が,政権の突然の崩壊によって生じた空白を埋めるべく,即座に動いた。以下に挙げるシーア派イスラム政党は,最も影響力のある政党として現れ,したがってサダム後のイラクの将来を決定づけるキーとなる組織である。

ダーワ党(別名:アル・ダーワ・アル・イスラミヤ):シーア派ではおそらく最古の政党で,1950年代終わりにナジャフで始まった。イスラムの政治的・経済的哲学を発展させたシーア派聖職者のサイイド・ムハンマド・バーキル・アル=サドル(Sayyid Mohammed Baqr Al-Sadr:ムクタダ・アル=サドルの大おじにあたる)の理念に触発されて始まった。明確にイスラム政党であるが,方向性と政策の決定においてアラブ・イラクのアイデンティティがより大きな役割を果たすこともある。

例えば,1980年代初め,ダーワ党員と指導者のほとんどがイランへ追放されたときには,彼らは上部団体のSCIRIに加わった。しかしSCIRIがイランへの依存を深め,イランからの指示で動くようになると,ダーワ党の多くはイランとのつながりを断ち切るよう主張し始めた。イラン−イラク戦争(1980〜88年)が修復不能な不和を生み,イラクのナショナリスト一派はSCIRIを脱退した。

ダーワ党はレバノンのシーア派コミュニティ,およびその指導的聖職者,サイエド・ムハンマド・ハッサン・ファドラー(Sayed Mohamed Hassan Fadlallah)との関係を深めてきた。この関係を通じ,ダーワ党はイランの宗教家支配(wilayat al faqih)をイスラム共和国のモデルとすることを否定するようになった。

ダーワ党は米国の軍事介入に反対していた。イラク人は自分たちでサダムを追放すべきであると言っていた。しかし,ほかの多くの組織と同様,ひとたび戦争が終わると,ダーワ党は統治評議会(GC)に加わることに合意した。シャリーア(厳格なイスラム法)についてのダーワ党の見解は,昨年1年の間に変わったようである。イラクの多民族・多宗教という性質を認めているようである。党の中でもリベラルで主導的な一派の指導者,イブラヒム・アル・ジャファーリ(Ibrahim Al Jaafari)は,イスラム国家は民主的選挙を通じて可決されねばならないと述べている。

イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI):モハメド・バーキル・アル=ハキーム(Mohamed Baqr Al-Hakim)の指導下で,1982年に国外追放されたシーア派イラク人の上部団体として始まったが,SCIRIが国外にいるシーア派イラク人を代表するイランで唯一の組織となることをイランが推進した。そのようにはならなかったが,SCIRIは独自の民兵組織であるバドル旅団(the Badr Brigade)を有する組織化された政党に発展した。バドル旅団は8000〜15000の戦士で構成され,イラク政権に対して攻撃を開始する能力を有していた。

アル=ハキームらSCIRI指導者たちは,イランの最高指導者,アリー・ハメネイ師とwilayat al faqihを強硬に主張する人々を無条件で支持し続けている。その代わりに彼らは金銭面や物資面での支援を得,また武器や民兵の軍事訓練での支援も受けている。

まだイラクに暮らしているシーア派からの支持を失うことを代償として,SCIRIはこれらの利を得た。1991年の蜂起で広範な支持を得られなかったことにも,これが影響しているかもしれない。イラクのシーア派は非常にナショナリスティックな傾向があり,イランのような非アラブ国とのつながりについては懐疑的なことが多い。

※訳注:イラク(に限らず中東)について「ナショナリズム」という場合,それはイラクだとかサウジだとかヨルダンだとかいう「(人為的に国境線を引かれた)国家」ではなく,アラブという民族についてのイズムであることが多い。また,イランはペルシャ(言語もペルシャ語である)であり,アラブではない。

にも関わらず,SCIRI,とりわけアル=ハキームは,今でもイラクで強い支持を得ている。そのため,米国とその同盟国に対し,かなりの影響力を有する。占領が始まった当初は,バドル旅団がいくつかの都市を制圧し,何十万という人々がアル=ハキームによる「米国主導の暫定政権に反対し,イラクの独立を守るために」カルバラへ集結せよ,という呼びかけに応じた。モハメド・バーキルの弟で副代表のアブド・アル=アジズ・アル=ハキームがGCに選出された,という点では,これはSCIRIとイラン双方にとってうまく作用した。

ダーワ党と同じく,SCIRIもまた,GCに加わって以降はその見解を穏健なものとしている。イランの承認を受け,おそらくはそうせよという主張もあったかもしれないが,SCIRIはイランとの関係を薄いものであると見せ,スンニ派の軍事暫定政府も容認するとすら発言している。しかし,ダーワ党と異なり,SCIRIは公的な場と私的な場での発言を変えることが多い。そのため,イラクにイスラム国家を樹立することについて,SCIRIが現在どのような立場を取っているのかははっきりしない。

モハメド・バーキルは昨年8月にナジャフのモスクを出る際に自動車爆弾で殺害され,代わってアブド・アル=アジズがSCIRI指導者となっている。

大アヤトラ,アリー・シスターニとハウザ:大アヤトラ,アリー・シスターニは,イラク人ではないのだが,イラクのシーア派にとってはローマ教皇のような存在である。シスターニはイランに生まれ,1952年にナジャフへやってきた。1999年にモハメド・サディク・アル=サドル(Mohamed Sadiq Al-Sadr:ムクタダの父)が暗殺されて以後は,彼は自分の位置を宗教指導者・法学者と考えている。シスターニはモハメド・サディクのあとを受けたのだが,両者はまったく別の考え方を学んできた。シスターニはより伝統的で「静寂主義の(quietist)」ハウザの出であり,そこでは高位聖職者は政治には関わるべきではないとされている。

大アヤトラとなる前は,シスターニはアル=ホエイ基金の宗教的庇護者であった。彼はこの地位を,彼の教師であり導師であった基金の設立者,大アヤトラ,サイエド・アボルカセム・アル=ホエイ(Grand Ayatollah Sayed Abolqasem Al-Khoei)から受け継いだ。アル=ホエイの世界観と哲学が,この基金の基礎となっている。彼は最も静寂なハウザというものを示した。つまり,政治を避け,非暴力をかたく信じていた。

シスターニはイランの宗教者による統治に批判的であったばかりではなく,1979年の(イラン)革命以降のイスラム共和国の人権侵害についても批判的であり続けている。このことが,イランの強硬派との間に不和を生じさせている。しかしシーア派の宗教的ヒエラルキーにおけるシスターニの位置が,彼に相当な政治的影響力を与えている。

ムクタダ・アル=サドルとサドリヤン(the Sadriyun):ムクタダ・アル=サドルは強硬な姿勢の30代聖職者で,シスターニのアンチテーシスである。シスターニの方が上位で宗教的威信も高いが,ムクタダはシスターニやアル=ホエイのような静寂主義を公然と軽蔑している。これが理由で,多くの人々が,アブド・アル=マジド・アル=ホエイ(サイエド・アボルカセムの息子で,当時アル=ホエイ基金の代表を務めていた)殺害を,ムクタダの信奉者たち(サドリヤンと呼ばれる)と関連付けている。アブド・アル=マジド殺害後,サドルのパルチザンはシスターニの事務所とSCIRI所属のある聖職者の事務所を取り囲み,ナジャフから出ていけと要求した。シスターニらは,ナジャフ近郊から集まったシーア派部族1500人によって救われた。

※訳注:サドルの年齢は「23歳」から「31歳」まで諸説ある。26歳のRaed Jarrarさんは「僕より若い」と言っている。

1年もかけずに,ムクタダは目立たない存在から,占領に対するシーア派レジスタンスの中心にまでなった。それは,一部には,宗教面でも政治面でも尊敬された指導者であった父親の威光を利用したことによる。最も貧しく,若く,都市に住むシーア派の怒りと絶望をうまく利用することによって,彼は,マハディ軍と呼ばれる民兵組織を含め,大規模で忠誠心の篤い支持を得ることに成功した。

ムクタダ・アル=サドルは,妥協の影のない話しぶりで,彼らにとっての問題点を語る(米国が4月にムクタダを追うことにした理由は,イスラエルがハマスの指導者のヤシン師を暗殺したことを受けて,ムクタダが公の場でハマスとヒズボラとの団結を訴えたことにある,と言う人もいる)。そして,職や食料,医療,学校などといった,国家が与えないサーヴィスを支持者に与えるために,religious tithes(宗教家への十分の一税?)と資源を使っている。

蜂起に加わったシーア派の人々のすべてがサドル信奉者だったわけではないということを知っておくのは,重要なことである。しかし,ムクタダ・アル=サドルとその組織がシーア派の中で最もよい位置にあって主導したことは事実だ。彼らにとっては,ムクタダは占領反対の声を上げているだけでなく(ほかのシーア派勢力も声は上げている),GCに仕えず(当初はムクタダはそれを望んでいたのだが),占領に対する組織化を積極的に進めことによってそれを行動で示している。

ムクタダ・アル=サドルをイランの工作員であると示す努力もなされているが,根拠のないことだ。彼のナショナリズムは封建制に近似している。彼はシスターニがイラン出身であることやSCIRIのイランとの強いつながりを批判している。宗教家による統治を支持しているからといって,彼がイランの工作員だということにはならない。それはイランのイスラム共和国にと同じく,イラクのイスラム共和国にも簡単に適用されるのである。イラン人は彼のことを口ばかりが達者な者と一蹴している。イラン人は不安定なサドリヤンよりも,もっと修練され,行動に計画性のあるSCIRIの方を好む。

 

バリケードの後ろで

イラクについてのあるレポートはこう結論している。「広く信じられていることとは反対に,イラクのシーア派は中央集権化された指導者の下に一枚岩になっているのではない。イスラム思想・イスラム統治という強固でラジカルな考えに固執しがちだということもない。あるいは,ある外国勢力,名を挙げるならイランに従属しているわけでもない。」International Crisis Group Backgrounder on Iraq, October 2002より。) イラクのシーア派については,このほかに,2通りの一般化がなされ得る。1)彼らは豊かで権力あるエリートの下,常に抑圧され続けてきた 2)彼らは最も暗い時代であっても常に反撃してきた。

4月の蜂起において,あれほどまでに多くのシーア派が町に出,バリケードを築いたのは,米国がイラクに留まり続けるつもりだということがわかったからであろう。あるいは,コールが次のように述べていることがわかったからかもしれない。「労働者階級のイラク人,つまりイラクの多数派が直面している真の危険とは,異なった祈りを唱え,異なった第一言語を話す人々との共存を余儀なくされるということではない。最大の脅威は,ブッシュ政権の経済的ショック療法などの政策が,新たに少数の泥棒男爵をつくりだし,彼らがイラクの資源のほとんどを独占してしまうことである。」

いかなる理由であろうとも,彼らの蜂起とスンニ派レジスタンスとの団結は,イラクの状況を劇的に変えた。米国政府高官はついにファルージャやサドルが支配する地域で起きている問題は,イラク占領に対し「深遠な」影響を与えつつある,ということを認めてつつある。レジスタンスはもはや「造反分子」のしたことと片付けられるものではなくなった。最近,ワシントン・ポスト紙が,イラク人が占領軍や占領軍の下請け業者の仕事に行かなくなったことを報じている。レジスタンスに加わった者もいる。その結果,ハリバートンやベクテルによる「復興」作業は,事実上,停止状態になっている。

スンニ派とシーア派との内戦を避け,イランがバックアップするイスラム共和国が発現することを阻止するために,米国が駐留し続けなければならないのだ,という米国の最後の言い訳は,実際にはまったく何の根拠もない。(シーア派とスンニ派との)この団結がより強まることを望もう。そして,それが,占領を支持したクルド人に対する暴力的団結に変化しないことを。

原注:
Rami Elamine氏はレバノン出身のシーア派。特に中東における米国の帝国主義に関する問題について,この12年間,米ワシントンDC地域で発言し続けている。氏はLeft Turn magazineのレギュラー寄稿者で,ウェブサイトLeftTurn.orgの編集を手伝っている。


 「宗派の違いではなく,実は階級の違い,そしてそれを政治的に利用した結果」――アイルランドを連想することは難しくありません。アイルランドこそ英国植民地主義の実験場であり,そしてイラクやアラブ諸国もまた,英国植民地主義のモデルが適用されて「建国」されたものです。
 「分割し,征服せよ」――アイルランド島の北の一部が「北アイルランド」として「英国(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)」の一部に留まっているのは,英国の「分割(分断)し,征服せよ」なのである,という主張も,アイルランドのナショナリストによってなされています。この「国境線」を完全に固定してしまうストーモント合意が強硬なナショナリストによって支持されなかったのは,「ひとつのアイルランド」が実現される可能性が摘み取られるから。「和平合意」と書かれたキャンバスは分厚い下塗りがされている,ということでしょうか。
 同じことが繰り返されているのでしょうか。
 ネオ帝国主義者は自分たちを正当化するために「進歩」を持ち出します(直線的歴史感覚)。進歩してないのはどっちなんだ,と言いたくもなりますが,彼らにしてみれば「この方法が至上」であるのかもしれません。つまり,彼らにとってのイデア。完全なる理想,その先に進む必要のない,完全なる理想。

参考文献:
安部重夫,『イラク建国』,中央公論新社,2004年
(中公新書1744,ISBN 4-12-101744-7,840円+税)

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日本語訳&ページ制作:いけだよしこ@nofrills
翻訳日:2004年5月15〜18日(日本時間)
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