The Nuclear Love Affair
核との火遊び

2003年8月14日
John Pilger|ジョン・ピルジャー
公式サイト(英語)
 
原文@Zmag(英語)

※ ↓はおそらく編集者によるリード文。
8月。日本は原爆投下の日を迎える。この最大級のテロ行為(the ultimate act of terrorism)で,これまでに231,920人が死んだ。『ニュー・ステーツマン』誌のコラムで,ジョン・ピルジャーは,「ならず者国家」を攻撃するために「小型核兵器(mini nukes)」が開発され,米国(と英国)の核との火遊びが再び始まっていると述べている。

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

8月6日,原爆の日に,毎日新聞が伝えたところによると,放射能に当たってすぐに,あるいは後に,死亡した人の数は,これまでに23万1920人になったとのことである。私がかつて訪れた病棟には,今日,1945年の子供たちがいる――予想されていたように,異様に多く発生するガンによって,死んでゆく人々が。

原爆投下後に最初に広島入りし連合国側のジャーナリストは,『ロンドン・デイリー・エクスプレス』紙のオーストラリア人戦争特派員,ウィルフレッド・バーチェット記者だった。バーチェット記者は,何千人もの生存者が内出血や皮膚の染み,髪の毛が抜け落ちるといった不可解な症状を呈しているのに気付いた。「私は世界への警告としてこの記事を書く」で始まる『エクスプレス』紙の歴史的な記事*1で,バーチェット記者は放射能の作用を説明した。

占領軍は,猛烈な調子でバーチェット記者のレポートを否定した。爆発の結果人々が死んだ,それだけだ,と彼らは嘘をつき,連合国側の「従軍」記者("embedded" Allied press)はそれを増幅させた。「広島の廃墟,放射能検出されず」というのが,1945年9月13日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のヘッドラインであった。バーチェット記者は記者登録を抹消され,日本から退去処分となった。(後に処分は撤回された。)病院で撮影されたフィルムは没収されワシントンへ送られ,そしてトップ・シークレットとされて23年間非公開とされた。

この,超強力な大量破壊兵器を使用した真の動機は,没収されたフィルムより更に長い期間隠蔽されていた。公式には,原爆は,日本の降伏を早めて連合軍に犠牲者が出ないようにするために使われたことになっている。現在,一般大衆が政府の嘘の規模に当時よりも慣れてしまっているにしても,これを超える規模の嘘はおそらくないだろう。歴史学者のガー・アルペロビッツ(Gar Alperovitz:参考)がまとめたように,米国の政治的・軍事的指導者たちは,日本は既に降伏に向かっているということを知っていたので,原爆投下は軍事的には不必要であると信じていた。1946年には米国戦略爆撃調査団最終報告書(the US Strategic Bombing Survey:参考)がそれを認めている。これらのいずれも,世間に公表されることはなかった。そして,トルーマン大統領の言葉で言うと,日本での原爆投下「実験」はソ連に対する米国の優位を示すものだ,というワシントン(米国政府)の考えも,公表されることはなかった。

それ以来,米国が核を使いそうになったのは少なくとも3度あるということが,機密扱いを外された文書により明らかになった。1950年代に2度――朝鮮戦争でとインドシナ戦争(当時フランス軍に圧勝していたホーチミン軍に対し),そして1973年のアラブ・イスラエル戦争(註:第4次中東戦争)に1度。1980年代には,レーガン大統領が「限定的」核兵器使用をほのめかしたが,欧州での大規模デモによって米国の短距離ミサイル計画は縮小された*2。そして,ジョージ・W・ブッシュの本質的にレーガン直系の政府のもと,米国(と英国)の核兵器との軍事的火遊びは再燃している。2001年には,米国はABM制限条約(参考)から脱退した。同条約は1972年にソ連との間で締結された画期的な条約であった。米国政府が兵器制限条約を破棄したのは,これが最初である。

この決定の裏にいた最も重要な人物は,ジョン・ボルトン国務次官(軍備管理・国際安全保障担当:the under-secretary of state for arms control and international security)である。氏の取ってきた極端な見解と脅しとを考えると,何とも皮肉な肩書きである。レーガン政権にも加わっており,ジョージ・W・ブッシュの「ネオ・コン」一派の中でも最も強硬なボルトン国務次官は,米国で最も好戦的な人物のひとりであるジェシー・ヘルムズ上院議員(Senator Jesse Helms)の支持を受けていた。「アルマゲドン……善と悪の最終戦争……では,ジョン・ボルトン氏のような人物とともに立ちたい」という調子で。

「リベラル」な国務省において,ボルトン次官はラムズフェルド国防長官の側の人間である。彼は,核兵器と通常兵器との区別を曖昧にすることを強く主張している。これはリークされた昨年の核戦力体制見直し(Nuclear Posture Review)にはっきりと表されている。その中でペンタゴン(国防総省)は,リスト化された「米国の敵」――リビア,シリア,イラン,イラク,北朝鮮――に対する想定される攻撃に備えて低威力核兵器(low-yield nuclear weapon)が必要であると表明している。イラクが「敵」リストに加えられているのは重要である。サダム・フセインの姿の見えない大量破壊兵器をめぐる謎解きをえんえんと繰り広げている間には,イラクに対して核兵器を使用するつもりが米国にはあるということは,ワシントンではまったく言われていない。これを明らかにする役割は,英国の国防相,舌鋒鋭いジェフ・フーン(Geoff Hoon)に任された。2002年3月26日,フーンは英国議会に「いくつかの国には」――と,サダム・フセインを名指しした――「そういう状況があるのなら,私たちは私たちの核兵器を使用することも辞さないということを,確信していただいてよろしい」と述べた。これほどにあからさまな脅迫を行った英国の閣僚はこれまでにいない。フーン国防相がのちに認めたように,英国の政策は米国の政策の延長に過ぎないのである。

ジョン・ボルトン国務次官が,核兵器を保有している北朝鮮に対する追及の旗振り役に任命されていることは間違いないだろう。北朝鮮の船を「阻止する」べく軍艦を派遣する「同盟」を固めようと,ボルトン次官は世界中を飛び回っている。2週間前にはソウルで北朝鮮の独裁者金正日氏を激しく罵った。ボルトン次官によれば,金正日氏は「地獄のような悪夢」をもたらしている。(それに応え,平壤はボルトン次官のことを「人間のカス」と評している。*3

先月,私はワシントンでボルトン次官にインタビューを行った。「船を止めれば,核戦争の脅威が迫っていた1962年の二の舞になりませんか?北朝鮮が保有している核兵器で自衛する方向に,北朝鮮政権が動かされないでしょうか?」と私は問うた。次官は,北朝鮮の船は既に止められており,「政権はそれに何の反応も示さなかった」と答えた。

「しかしここで行動を起こせば,核のリスクが出てくるわけですよね?」と私は問うた。

次官は「行動を起こさなければリスクが出てくるのです。……他の国をゆするといったように。」次官はブッシュ大統領の側近であるコンドリーザ・ライス補佐官の言葉を引用した。「キノコ雲が出現するのを待つわけにはいかないんです。*4

2週間前,広島の58回目の原爆の日に,ネブラスカ州オマハの戦略空軍司令部(Strategic Air Command)で秘密の会議が開かれた。ここでは1日24時間,米国が「核の火」を灯し続けている。(スタンリー・キューブリック監督の映画,『博士の異常な愛情:Dr Strangelove』の舞台である。)会議に出席したのは大統領の顧問団(cabinet members)と軍司令官,そして米国の3つの主要な核兵器研究施設のトップ科学者たちである。

国会議員は,オブザーヴァーとしてでさえ,立ち入ることができなかった。議題は,「ならず者国家」に対する想定される使用に備えての「小型核兵器」の開発であった。

最大のならず者国家のマント(称号)は,この上もなく明白である。米国は,冷戦終結以降,大量破壊兵器,特に核兵器を用いた戦争を避けるための条約を,拒絶し,拒否し,破壊してきたのである。フーン英国防相は言う。これが,私たちが為すすべもなく結び付けられている,狂暴な強国(power)なのである,と。

そのことこそが,私たちが今ここで関心を払わねばならないことなのである――政府とBBCとのいさかいなどではなく。


■註■

*1
バーチェット記者の記事について,Google検索結果
※追記(2003年12月6日):「★阿修羅♪」さん投稿,2003年10月31日,「Re: W・G・バーチェット」に詳しいです。

*2
こちらさんに書かれていることでしょうか。日本語化してる自分の知識不足……後日もうちょっと調べて,違ってたら書き直しに来ます。

*3
問題のボルトン演説@ソウルは2003年7月末のもので,日本でも大きく報道されました(探せば記事があると思います)。原文の意味合いは日本語化すると薄れるので,該当部分をそのまま転記してみます。the North Korean dictator Kim Jong-il who, he said, ran "a hellish nightmare". (In reply, Pyongyang described Bolton as "human scum".)←よい子は真似をしてはいけません。

*4
ライス補佐官「キノコ雲」発言については,こちらさんの第5段落(←益岡賢さんのサイトの一部),こちらさん(←毎日新聞さん記事)などを参照。


■関連情報&リンク■
□ 元記事掲載媒体について:
ピルジャーのこの記事は英誌New Statesman掲載。New Statesmanは1913年にウェッブ夫妻が創刊した政治誌(→詳細:about usのページ。)シドニー・ウェッブがまとめた英国労働党の綱領(1918年)は「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家や鉄道などを国有化する政策の青写真となりました。が,現在の労働党綱領は根本的な部分で大きく改訂されています(97年総選挙時)。というわけで,簡単に言えば「労働党系言論誌」なのですが,トニー・ブレアの労働党とはスタンスを異にしたものと考えた方がよいかもしれません。(私もこの雑誌の記事がそんなにちゃんと読めているわけではないのですが,トーンとしてはブレア支持とは言いがたいです。)

Zmag, Znet
ピルジャーのほか,ノーム・チョムスキー,エドワード・サイード,ロバート・フィスクらが参加しています。
 
Znet 日本語版
上記Zmag, Znetを日本語化しているサイトさん。全部の記事が日本語訳されているわけではありませんが,日本語で読めるのはありがたいという文章ばかりです。
 
益岡賢のページ
ピルジャー記事はこちらさんでも。
 
□ 日本語化のために調べものをしながら見つけた関連記事:
”研究“が解禁された《核弾頭付きバンカーバスター》の現実

▲ ページ最上部へ

軍隊というもの:良心的兵役拒否:イスラエル,米国
イスラエルの兵役拒否者から米国の兵役拒否者への手紙
▲ ページ最上部へ

■雑記■
8月15日の夜はたいがい終戦特集番組を見ることにしている。2003年もやはり終戦特集番組を見ていた。突然寒くなったおかげで(東京の気温20度)風邪気味で,難しいことはわからん状態だったのだが,最後まで見た。今年はこれまで放送してきた原爆関連番組をまとめて,今の視点で見直すという主旨だった。その番組内で,上に日本語化したピルジャー記事の第6段落にある「原爆投下の正統化」が詳しく描かれていた。米国の人(政府の人も当時の軍人も一般の人も)の声で,「原爆があったからこそ戦争が早く終わった」「原爆がなかったら日本人は集団自決していただろうし,連合軍の犠牲者ももっと多かった」ということが語られた。
 
「原爆が日本人の命を救った」と真顔で言う人々。8月6日の広島を訪れて,そして原爆を正統化するabcのニュースキャスター(後に原爆投下はソ連に対する示威行為と判明し,論調を変える)。スミソニアンにエノラゲイは展示してもよいが,被曝者の遺品などは展示してくれるなという元軍人。米国を訪れた被爆者に「あなたにはケロイドがあるが生きていてここで意見を言える。私の兄は戦死して墓にいる。どっちがいいの」と罵声を浴びせる女性(太ってた)。
 
私が広島ではない場所で公立の小学校に通っていたにもかかわらず,夏休みの全校登校日は8月6日で,その日は児童全員が体育館に集められて映画『はだしのゲン』(実写)を見せられて,紫という色(映画の中で多用された色)が怖くて怖くてしかたがなくなり,暗いところが怖いなどいかにも子供らしい反応を示しながら,「原爆はいけない!」と信念を固めていたまさにその時に,米国では「正統」説が流布され続けていた――彼我のギャップ。当時私は「米国は原爆を落としたから悪い国だ」などとは考えなかった。そんなことよりも,あんなものを作る人間が怖かった。一緒にあの映画を見た同級生と,映画について話をした記憶は特にない。あまりにショックを受けると,そのことについて話をしたくないのかもしれない。ちなみにその市では,毎年市役所で「原爆展」をやっていて,私たちはみんなで見に行った。「ああ許すまじ原爆を」とか「夏に咲く花夾竹桃」といった歌も歌ったし,「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ」の詩も暗誦した。親の転勤の都合で引っ越しただけのことだったが,今思えば貴重な体験をさせてもらった。
 
話を終戦特集番組に戻す。
 
「兄は戦死してもう意見を言えない」と激怒していた女性に,意見を言う言わないがそんなに大事なのかと,番組の主旨と関係のない“文化論”を見てみたりもしたが,そう,彼らだって信じさせられてきた。国家によって。冷戦構造の中で。エノラゲイのパイロットは被曝者に語った。「軍隊では命令に従うしか選択肢がない。だから私は2度と戦争を起こしてはならないと思う。」
 
冷戦が終結した時,私は大学生で,これで「お互い核武装して牽制し合う」みたいな世界は終わると思った。「オレはこんなにすごいもの持ってるんだゼ」とか「お隣がピアノ買ったんですって,うちも買わなきゃ」とかの兵器版みたいなナンセンスは,何年かすれば終わると思っていた。イデオロギーでがっちがちに固まったたわけた世の中のあり方が,根本から変わると思った。
 
終わらなかった。そして今もまた,国家は人を殺し続ける。国家自身を正統化しながら。イデオロギーの対立は今も続いて,ちっちゃなことでも何かと「サヨク」「ウヨク」「反日」「米国のイヌ」と罵り合う。(米英でも掲示板とか見るとよくあります,こういうの。)
 
昨年,東京に遊びにきた米国の人(ネット友達)にお土産でTシャツをもらった。アメリカン・イーグルがでっかくプリントされてた。その米国の人は,とってもいい人だった。ユーモアのセンスがあって,いろんなものに興味を持って,日本のものに敬意を払い(「チャレンジする」という感じではなかった),浅草の仲見世の裏側を目をきらきらさせて眺めて「ビューティフル」と言って写真を撮っていた。
 
彼我のギャップ。昔ほどナイーヴではない私は,ギャップを埋めることはもう望まない。ギャップのあっちとこっちでせめて目線を交わしたい。目線が合ったらにっこりするのだ。11年前のロンドンの地下鉄での誰かとのように。
 
話がまたずれた。
 
終戦特集番組を見ていて,それらが過去のフィルムだったにも関わらず,何かとても今と重なったのは,それはやはりイラクをめぐる言説,およびその他のいろいろである。番組ではさすがに日本の天皇については一切触れられていなかったが,「サダム・フセイン」を「ヒロヒト」に,「サダム・フェダイーン」を「帝国陸軍」に,「自爆テロリスト」を「神風特攻隊」に置き換えるだけで,おそらく成り立つ。そして,これまでやや考えすぎかもと思っていた「戦後ではなく戦前だ」の言説は,リアルに聞こえてくる。この夏,私は鶴を折った。
 
大日本帝国の遺物が今も,茨城で健康被害を起こし,中国で人を傷つけている。「シナ人にとやかく言われる筋合いはない」と吐いて神社に参拝した人もいるらしいが,これもワタシ的には遺物認定したい。っていうかあなた自身も含め,あなた個人に関係なく国家でくくられて,日本国籍保有者が集合名詞的に敵国のクソJap呼ばわりされているということをご存知ないのかと。
 
武力を放棄したはずの日本国は,米国の世界戦略で武力を構築し,数十年を経て「持ってるんだから使わないと」とばかりに,国際法に違反し占領されているイラクにミリタリー・フォースを派遣する法整備を完了した。この先も国家は無法を認め,人を殺す。
 
▲ ページ最上部へ

日本語訳&ページ制作:いけだよしこ@nofrills
翻訳日:2003年8月15日(日本時間)
リンクはご自由に。複製・再配布はしないでください。
いけだの「翻訳」の目次