「鑑真」号と上海再訪

1986・1

 


 

 古い資料を探していたら、15年ほど前に海路上海を訪ねた旅のメモを見つけました。今日の中国は、改革開放経済政策によって、大きな変貌を遂げています。中でも上海の変化は特別なようです。

 81年、文革の余燼さめやらない上海を初めて訪ね、郊外の人民公社などを訪問。その5年後、日中間にフェリー航路が開設されたニュースを聞いて再び上海を訪ねました。今日では、各地から上海への航空路も数多く開設され、経済上の交流のほか、手軽な観光旅行の地となっている上海です。

 現在の上海はおなじみですが、少し前の上海について興味を持たれる向きもあればと思い、色あせてしまったメモ帳を修正を加えずに再録したいと思います。そう、近代都市への変貌を開始する前後の上海の姿と、今からすれば、船旅という少し変わった旅の記録を紹介したいとの思いからです。上海という街の様子を知っておられる方には、現在の市街地に重ね合わせてもらえるのではないかと思っています。そうでない人には、少し前のオールド上海の旅を……。

 実は、その後上海を訪ねていません。上海は、機会を見つけて何度でも訪ねたい都市のひとつです。

 よろしかったら、「86年の上海の旅」、おつきあいください。

2000.10

 


T プロローグ
U あこがれの上海航路
V 「鑑真」号の48時間
  1 1985年12月31日(火)
  2 1986年1月1日(水)
  3 1986年1月2日(木)
W 中国の友人と感激の対面
X Lさん宅でのひととき
Y 上海の街かど
  1 上海の朝
  2 メインストリート
   (1)南京東路
   (2)准海路
      @老大昌
      A准海路を特色づけるいろいろな専門店
  3 新華書店
  4 市内の交通機関
   (1)公共汽車(バス)
   (2)出租汽車(タクシー)
  5 十六舗埠頭自由市場
Z エピローグ


 

鑑真号と上海再訪

 

T プロローグ

 『旅』1985年10月号の目次を何気なくパラパラめくっていると、ふと一つの見出しに目が止まった。「上海航路で内蒙古へ」という入江まり氏のルポである。とくに「上海航路で」というフレーズに私の興味と関心が高まると同時に、一種のショックを受けてしまった。旅に関する情報はかなり知っている積もりだったが、不覚であった。中国船籍の「鑑真」号によるフェリー航路が上海〜神戸・大阪間にこの7月9日から開設されていることをこのルポルタージュで初めて知った次第である。

 もちろんこの記事の中心は中国旅行記であるが、私の関心はもっぱら「鑑真」号に関する部分である。「鑑真」号がわずか48時間で日中両国を結んでいること、チャーター便による不定期航路ではなく定期航路であること、片道2万2千円で中国へ行けることなど、魅力的な情報の紹介である。早速、フェリーを運行している中日国際輪渡有限公司の日本側窓口である日中国際フェリーに運航表等の資料を請求した。

 中国へは1981年の夏、一週間の旅程で北京、上海、蘇州の各都市を旅行した経験がある。短い旅行ではあったが、北京の整然とした美しい街並み、上海の雑然とした喧騒などが印象に残り、再訪を期していた。とくに上海は大都市であるにもかかわらず、その地理的な広がりはコンパクトでわかりやすい都市である。こうした時に神戸・大阪〜上海の航路が開設されたことは、私の旅心を強く動かすこととなった。また、私の中国への関心は、その風景や人々の生活に触れるということとの他、少し前から切手収集という趣味を通して上海に住むL氏との手紙のやり取りをしていたことも中国、とりわけ上海に一種の親近感を持つきっかけになっていた。

 「鑑真」号の運航表を見ると、毎週火曜日に神戸または大阪を出港し、木曜日の正午に上海着。ここで48時間停泊の後、土曜日正午に上海を出港、月曜日の正午に出発地とは逆の大阪または神戸に戻ってくるという1週間のローテーションを組んでいる。中国国内を旅行することはともかく、1週間の旅程で日本−中国の往復と上海での48時間の滞在が可能なわけである。休暇の関係もあり、出発は12月31日(火)大阪発の52便に決める。これなら1月6日(月)には日本に帰ってこられる。早速、日中国際フェリーに12月31日の便を問い合わせるが、年末ということもあり、ほとんどの席がすでにふさがっている。日中国際フェリーでは、ビザ取得の関係もあり、「鑑真」号を利用するなら、エージェンシーを通して申し込まれたいとの返事。たしかに今回訪れる都市は上海1都市のみであることと、名古屋には中国領事館もなく、ビザ取得の手続きも面倒なので、旅行会社の団体ビザに便乗することにする。紹介された「日中旅行開発」という旅行社を通して、どうにかBデッキの2等ベッドを手に入れることができた。11月20日過ぎのことであり、出発まで1ヶ月余りを残すのみである。同時に上海のL氏宛に年末年始に上海を訪れ、彼と会いたい旨伝えると、「鑑真」号の上海入港の際、埠頭まで迎えに出るという返事と一緒に夫妻の写真が送られてきた。これまでL氏とは全く面識もない。

 

U あこがれの上海航路

 外へ出かけるのに船を使うのは2回目である。1回目は1974年夏、ソ連極東船舶公団の「プリアムーリエ」号による新潟〜ナホトカ間の往復。5千トン余の小型ながら重厚な造りの本格的な客船であり、ロシア人の船員とともにエキゾチックな船旅を楽しんだ。もっともこの時は、チャーター便による不定期の運航であり、定期船による「〇〇航路」といった船旅ではない。これに対して上海航路は、最初に書いたように1週間のサイクルで定期的な運航がされている航路。それも遣唐使の奈良時代にさかのぼるまでもなく、第二次世界大戦前に多くの日本人が中国に渡り、中国からも留学生や辛亥革命の革命家などが日本にやってきた歴史のある航路としてノスタルジックな響きを我々に与える。もっとも当時の起点は大阪や神戸でなく、長崎だったと思うが……。

 12月31日の「鑑真」号は大阪出発である。名古屋を朝7時の近鉄特急に乗り、9時を少し回った頃難波に着く。四つ橋線で住之江を経て、ニュートラムの長いエスカレーターを登る頃にはトランクをさげた旅行者の姿が多く目に付くようになる。埋立地の外れにある大阪南港国債フェリーターミナルに着くと、目の前にはパンフレットより少し色があせているが、船体を白とブルーに塗り分けた「鑑真」号が停泊している。国際埠頭とは言うものの、プレハブ造りの小さな出入国事務所がポツンと埋立地に建っているだけの、手紙を出そうにもポストもない寂しいところである(どこかのポストから投函しようと、家から持ってきた東京への手紙は結局帰りの神戸まで大旅行することとなった)。先ほどニュートラムで見かけた旅行者もすでに何人かがやってきている。出港の2時間も前だというのに出入国事務所は乗船者でにぎわっている。早速簡単な手続きを行って「鑑真」号に乗りこむ。

 内に入ると、女性はえんじ、男性は紺のお世辞にもスマートとは言えない制服を着た中国船員が出迎え、それぞれの船室に案内してくれる。訳のわからない中国語が飛び交い少し楽しくなってくる。乗客の大半は日本人、残りは里帰りらしい中国人のグループやリュックサックを背負った白人の男女たち。500人の定員に対して400人ほどが乗船しており、めいめいの船室に納まるまでロビーや廊下は乗客でごった返している。「鑑真」号のパーサーに案内された船室は二段ベッドが向かい合った8人部屋。同室の乗客はすべて日本人で、東京から来たというYさん母娘の3人づれ、サラリーマンのN氏、京都からグループで来ているS君、K君と私の7人である。

 出港まで2時間近くもあるので、船内を一巡してみる。「鑑真」号は、中国船籍の船ではあるが元をただせば、かつて沖縄航路に就航していた日本のカーフェリーを中国で若干改造した船体である。このため、所々に日本語の表示がそのまま残っていたりする。カーフェリーとして建造された船なので外航用の客船のような豪華さとか、ゆとりはほとんどない。船は全体で3層の構造となっており、船の上のほうからA、B、Cの3つのデッキで構成される。Cデッキはカーペット敷の大部屋の船室とカーデッキである。カーデッキには、自動車は見当たらないがYAMAHAのオートバイ1台、転がらないよう柱に縛り付けてある。船内で一番広いスペースを占めているのは、Cデッキの上のBデッキと呼ばれる部分である。大半の客室がこのフロアーにあるほか、メインエントランスやインフォメーションが置かれ、バー、レストランもここにある。その上のAデッキには上級の客室が少しばかりと、サニーガーデンと称する甲板になっている。これが「鑑真」号主な構造であるが、その他各デッキの所々にジュースやカップラーメンの自動販売機が置いてあったり、レストランの片隅にはゲームコーナーが設けられ旧式のゲーム機も置かれている。このあたりは日本のカーフェリー時代の面影をそのまま残している。

 やがて正午となり出港の時間となる。蛍の光のメロディーに送られて「鑑真」号は静かに大阪南港国際埠頭K岸壁を離れる。国際航路の出港といってもQEUのような豪華客船の出港とは違い、出入国事務所の係官のほか、数人の見送りがいるだけの殺風景なものである。いよいよ今から上海まで48時間の船旅が始まる。

 今回の旅行に当たって、往復96時間という長い時間があるので間違いなく時間を持て余すと思い、普段時間をかけて読めないような硬い文庫本を何冊も持ち込んだ。「鑑真」号のベッドでの読書も旅行の目的のひとつであった。実際には船の中をあちこちしていたり、寝ていたりで一冊目の半分も読み進むことができなかったが……。

 

V 「鑑真」号の48時間

1 1985年12月31日(火)

 阪を出港した「鑑真」号は、淡路島を右手に見ながら静かな紀淡海峡を南下。昼食のアナウンスがあったので、軽い服装に着替え、レストランに出かける。146名の食堂定員のところに400人近い乗客が一時に集中するのだから大変である。食事は一応、朝:7:30〜9:00、昼:12:00〜13:30、夜:17:30〜19:30となっているが、はじめは物珍しさもあって、早い時間帯に集中してしまう。とくに大阪出港直後の昼食は長蛇の列である。「鑑真」号のレストランはセルフサービス方式で、自分の好きな料理の皿を取り、最後に日本円で清算する仕組みである。北京ダックから冷やっこまで日本風、中華風いろいろなメニューがそろっている。それに加え、前回の中国旅行で気に入った例の緑色の瓶に入った青島ビールも冷えている(癖がなく、口当たりがいい)。このレストランは営業時間以外でも24時間出入りは自由で、セルフサービスのお茶を飲んだり、友達とお喋りしたりできる。

 19時頃、室戸岬の沖を通過。太平洋に出たせいか気になるほどではないものの少しうねりが出てきた。「鑑真」号のコースは大阪を出港した後、四国、九州の太平洋沿いを通って、佐多岬と種子島間の大隈海峡を通過した後、草垣群島、宇治群島の間から東シナ海を西進して上海に至る約800海里(1,500`)の航海である。私のベッドはテレビ(中国や日本のいろいろなビデオを流している)が置いてあるインフォメーションに近いため、人通りが多く遅くまでにぎやかである。しかし、21時を回る頃になると、多少静かになってくる。すると、今度は今まで気づかなかった中国人乗客がどこからともなく集まってきて、日本語の会話が中国語にとってかわる。

 北京時間に合わせるため、夜中の12時に時計を1時間遅らせる。

 

2 1986年1月1日(水)

 「鑑真」号の一夜が明けて、今日は1986年の元旦。6時17分(日本時間の7時17分)の初日の出を見ようと甲板に出るが、あいにくの霧雨、黒い雲が垂れ下がり、硫黄島らしき島かげが波間にかすむだけである。天候が悪化してきたせいか、海面全体が白く波立ち時化てきた。「鑑真」号も前後、左右に大きく揺れ始める。

 この船にはNTTの船舶電話が設備されていて、日本の沿岸100`くらいまでは公衆電話がかけられるようになっている。「鑑真」号は比較的日本の沿岸を進むので便利である。船での一夜が明けた状況を家族にでも伝えるのか、船舶電話の前には長い列ができている。私も船上から留守宅に新年の挨拶を送るが市内の通話とほとんど変わらない明瞭な状態だ。その船舶電話も9時半頃には、通話可能状態を示す赤ランプが消え、いよいよ日本の圏内を完全に離れたという実感が沸いてくる。「鑑真」号はその船体を大きく浮き沈みさせながら、東シナ海を西進。

 船内のアナウンスで昼食に出かけるが、昨日まであんなに混んでいたレストランはがら空き。昨日元気にはしゃいでいた女の子達はベッドに潜り込んで顔も見せない。レストランの客も林檎をかじったり、プディングを食べる程度で情けない限り……。とくにレストランは船尾にあるため、ピッチングが一番大きい。波の頂上に上がったとたん次は波の底に沈みこむ。船員たちも船酔いで青い顔をしている。冬の東シナ海は時化ると聞いていたが、今度の航海は普段よりもひどいようだ。私は時々乗り物酔いの薬を服用しており、きわめて気分爽快だが……。私の部屋の3つ隣りにある船内の医務室は、1日3回の診察時間になると、その前に船酔いの乗客が列をつくる。

 事時間以外のレストランはそのままラウンジに早変わり。あちこちのテーブルに三々五々集まり、自動販売機のジュースを飲みながら談笑するグループ、ひとりで読書する女の子など、それぞれが自由な時間を過ごしている。私も狭いベッドより、広々としたこちらの方が快適なので、年賀状を書いたり本を読んだりしてレストランで過ごす時間が多かった。前にも書いたが、ここでは「出がらし」とは言うものの、お茶は自由に飲めるので何時間でもゆったりと時間を過ごすことができる。上海からひとりで気ままに中国各地を旅行した後、香港に向かうんだという神戸の女学生、年末年始の休暇を利用して「鑑真」号に乗った東京のOLグループ、社員の慰安旅行だという四日市の土建会社の経営者など、いろんな種類の客がテーブルにやってくる。

 先ほどのテレビが置かれている「鑑真」号のメインエントランスの一角には、小さな売店とインフォメーションが設けられている。インフォメーションには常に「鑑真」号のパーサーか、中国国際旅行社の職員がおり、いろいろな相談や雑談に応じてくれる。担当者は、皆かなり日本語が通じるので、私はノート片手に船上での時間をここで潰させてもらった。とくに国際旅行社上海分社の日本部に所属するというJ氏(32歳)は気さくな人柄で、プライベートな部分に属するようなことまで開けっぴろげに語ってくれた。これは話しのなかで、私が豊田市からやってきたことに話しが及び、彼の華東師範大学在学中の日本語講師が現在豊田市にある大学で教鞭をとっているという奇遇が特別の親しみを感じさせたのかもしれない。彼とは中国の地理、歴史にとどまらず、教育事情や職場での学歴と出世の関係まで何時間も話し込んだ。

 午後2時を回り、相変わらず雲は重く垂れ下がっているものの、少し天候が回復してきたのか、北西の季節風が強くなってきた。「鑑真」号のピッチングとローリングはいっそう大きくなる。

 

3 1986年1月2日(木)

 を覚ますと昨日の大揺れはウソのようにおさまっている。ベッドの下からはエンジンの振動だけが規則的に伝わってくる。パジャマの上から防寒ジャンバーをはおって甲板に出てみると、月明かりの中を「鑑真」号は静かに進んでいる。遠くの水平線には漁船か大陸の集落か定かではないが、明かりが瞬いている。月明かりに光る水面は薄茶色になっており、すでに長江の河口に達していることが感じられる。

 6時50分、鏡のように広がる長江の水平線に真っ赤な太陽が顔を出す。昨日は悪天候で太陽を見ることができなかったので、私にとって今日が実質的な1986年の初日である。「鑑真」号のデッキを赤い逆光に染める長江の上での太陽は実に感慨深い。いつ集まってきたのか、デッキの上には日の出を見ようとする乗客が何人にもなり、美しい日の出に歓声を上げている。河口部の川幅は32`、陸地らしいものを認めることはできない。話しには聞くものの、長江はまさに中国第一の川であり、日本的なスケールでは対比するものがない。ふと、12年前に「プリアムーリエ」号で信濃川河口の新潟港を出港したときのことを思い出していた。

 レストランに注ぐ明るい日差し、船の揺れが無くなったこと、中国の大地が見えてきたことなどで、今朝の朝食は久しぶりににぎやかだ。河の中に設けられたブイをたどりながら長江を遡行する「鑑真」号の船足も軽やかである。右舷に中州のひとつ長與島が見えてくると長江を行き交う船や停泊中の貨物船が増えてくる。そして左舷には、先ほどまで水平線上にぼんやりしか見えなかった陸地がどんどん近づいてくる。農村らしい風景、柳の並木やレンガ造りの農家などが手にとるように見える。陸地がいっそう近くなる頃(9時20分)、「鑑真」号はその船体を大きく左方向に転換する。呉淞口から長江の支流、黄浦江に入った。薄茶色の河の水が運河のような黒い水に変わる。

 黄浦江に入って先ず、両岸に二列、三列縦隊にびっしり停泊中の貨物船、客船、駆逐艦などの船舶の種類と数に圧倒される。その向こうには農地も所々に介在させながら、工場(造船所、発電所等)、兵舎、アパートなどが建ち並ぶ市街地となっている。ここはもう上海の郊外なのだ。少し北には日本の経済協力で先ごろ火入れした宝山製鉄所も立地している。呉淞口から上海の中心部まで約20`の間、黄浦江全体が港となっている。ちなみに停泊中の船一艘の長さを百b、4列に停泊しているとすると、大型船だけで800隻同時に停泊していることになる。黄浦江の川幅は平均3〜400b、川の中心の水深は9bほど、2万トンまでの船舶なら入港可能とのこと。停泊中の船が、両岸から川の真中近くまで迫っているので実質的に航行できる部分は数十bくらいしか残されていない。そこを客船、貨物船、はしけ等がごちゃ混ぜに通行することとなる。目の前を石炭を満載したはしけが突然横切ったりするので、「鑑真」号は徐行や停止を繰り返しながら20`ほどの距離を2時間余りかけて進む。危険を避けるために鳴らしづめの汽笛とスピーカーからの怒鳴り声がにぎやかだ。

 がて5年前に眺めた上海大廈や和平飯店など、特徴のある懐かしい上海都心のスカイラインが前方に見えてくると、48時間の船旅も終わりになる。「鑑真」号の接岸する虹橋国際旅運埠頭は、普段は雑貨の積み下ろしに使っているようで、スチールの薄板コイルや線材が山積みにされたゴチャゴチャしたところである。我々が接岸する際も小型貨物船が荷下ろしの真っ最中、「鑑真」号が近づくと作業を中止して場所を空けた。埠頭にある上海の旅客ターミナルは屋上に『上海』と赤く大書したネオンサインを掲げた古風でこじんまりしたレンガ造りの2階建ての建物。「鑑真」号は上海−香港間に就航している「海興」号のすぐ上流側にそれこそピッタリ接岸する。

 埠頭に接岸すると検疫官や税関吏が責任者は日本製の乗用車、その他一般の係官は自転車でやってきて船に乗り込んでくる。乗客が多いためなのか、いつも通りのやり方なのか解らないが、船内で入国の手続きなども行ってしまう。

 黄浦江に入ってからは、肌を突き刺すような寒風も不思議と気にならず、ずっと甲板に出て眼前の移り変わる上海の景色を眺めていた。呉淞口から上海中心部までの数時間、我々を完全に中国の中へスリップさせてくれる。飛行機ではこんな風にはいかないだろう。目の前には工人服を着た中国の人々が普段の生活、労働をしている。上海航路を48時間の船旅を終えて、今、上海にいる。

 

W 中国の友人と感激の対面

 回の旅の目的のひとつは中国の友人、L氏と会うことである。彼とは一年ほど前から切手収集を通じて文通をしているが、全く面識のないことは最初に書いたとおり。上海を訪ねるに当たってお互いの写真を交換しておいたものの、多くの人でごった返している埠頭で、見事出会うことができるかどうか、実のところ大変不安であった。ところが「鑑真」号が埠頭に近づくと、埠頭を取り巻く何人かの人波の中に「彼」がいるではないか。もちろん、この時はその人影がL氏あるかどうかは定かではない、彼より送られた写真から判断して彼に間違いないと自分だけがそう確信したに過ぎないのだが。とたんに初対面というより、懐かしい友人と再会でもするような気分になって、気持ちもだいぶ楽になってくる。後でLさん宅に行ってから聞いた話しによると、彼も到着の雑踏の中から私を見つけることができるかどうか心配で、大きな白紙に私の名前を大書したものを用意していたと、その紙を見せてもらって大笑いした。

 ターミナルの建物を抜けると、小さな裏庭のようなところがあり、団体旅行用のバスや送迎客でごった返している。その人垣の中から先ほど見つけたLさんがにこやかに手を差し伸べている。お互いに旧知の間柄のようにあいさつを交わし、同行の彼の友人、C、Qの両君を紹介される。C君はLさんの同級生の弟で上海工業大学の研究者、一方Q君はLさんの近所に住む幼なじみということで江南造船廠管理課のエンジニア、共に20歳代半ばの青年。早速4人で復旦大学のLさん宅を訪問することとする。

 復旦大学は上海市の北東部、通称「五角場」と呼ばれる大きな五差路の近くにある。ここには何路線ものバス、トロリーが集中しており、上海北東部の交通ターミナルとなっている。また、周辺には工科の名門、同済大学もあり、上海の文教地区の様相を呈している。「鑑真」号を下船した虹橋国際旅運埠頭から、いったん上海中心部の外灘まで歩く。蘇州江に架かる有名な「外白渡橋」を渡って15分ほどの距離である。都心までわざわざ歩いたのは、上海滞在中ずっとお世話になる55路の五角場行きバスの始発が外灘(正確には広東路外灘)にあり、スムーズに(うまく行けば座ることもできる!)乗車できるからである。後ほど詳しく触れることになるが、上海のバスはその路線が網の目のように配置されていることと、運転間隔が密で大変便利な交通機関である反面、猛烈に混んでいる。異邦人である小生に楽をさせようとのLさんを始め皆の心づかいであった。55路のバスにずっとお世話になると書いたのは、滞在中のホテルを復旦大学近くの「藍天賓館」にしたからである。

 

X Lさん宅でのひととき

 55路のバスは始発とは言うものの、最初から満員。広東外灘を出たバスは14の停留所が設けられた8.4`の路線を30分ほどかけて終点江湾五角場まで行く。現在虹口区の一部となっている旧日本租界のゴミゴミした街なみを15分ほどで抜け、四平路(スーピンルー)に入ると旧市街地とは一変した整然とした市街地に変わる。幅50bほどの四平路の両側には、大きな塀を巡らした大学や研究所、「〇〇新村」と名づけられた大小の住宅団地が続く。Lさんの住居がある復旦大学は、55路の終点江湾五角場で9路のトロリーバスに乗り換えて、2つ目の停留所。復旦大学は四平路とともに上海北東部の主要道路のひとつである邯鄲路(タンダンルー)の南北に広がる1`四方ほどの広大なキャンパスを有する。中国の大学一般がどうなっているのかよく知らないが、ここには研究棟や住宅、商店、実験室等が建ち並び、キャンパスがひとつの「まち」のような様相を呈している。

 ここで、数時間という限られた時間ながら瞥見したLさんの住宅や生活の一端をスケッチしてみたい。

 Lさんの住居はこのキャンパスの中、新築中の図書館の脇を少し中に入ったレンガ造りの高い塀に囲まれた、2階建て8〜10戸の連棟住宅が12棟建つ(全108戸)住区の中にある。この住宅、戦前当地にあった日系企業の社宅をそのまま使っているとのことで、築後50年前後も経つかなり古い共同住宅である。中に入れば2階へ上がる急な階段や和風の水洗便器などに日本の面影が感じられる。それぞれの住戸は50uほどのいわゆる3DKのタイプである。1戸の住宅にLさんのほか、奥さんの兄夫婦の2世帯が暮らしている。1階部分をLさん夫婦、2階を兄夫婦が使っているので便所、台所、洗濯場などは共用という訳だ。中国の都市部における住宅難は相当のものらしく、とくに上海のような大都市は交通手段の関係もあって郊外に拡散した住宅地を広げる訳にもいかず、新興の工業都市のように計画的な住宅供給は難しいようだ。現在は周辺部の都市基盤の整備に重点が置かれており、都心部の再開発にまで手が回っていないのが実情だ。こうした状況からすれば、Lさんの場合はかなり恵まれた居住環境といえよう。

 いくつかの事例を実見した訳ではないので、中国の平均的な生活水準を云々することはできないが、Lさん宅を訪ねた限り物質的にもかなり充実しているようだ。81年に上海を訪れたとき、中国国際旅行社が案内してくれた、上海郊外の封浜人民公社の家庭(国営の旅行社が外国人旅行者に紹介するのだからおそらく中の上クラスの水準だと思う。)では、寝室にテレビと魔法瓶が置いてある位であったのを比較すると隔世の感がする。というのは、Lさん宅の8畳ほどの寝室には大きなベッドのほか、小ぶりのソファーとシンプルな造りのタンス、ミシン、ステレオ、テープデッキなどが並んでいる。また二方の壁に設けられた書棚には天井に至るまで書籍が収まっている。上海という比較的温暖な気候の地というせいかも知れないが、暖房のないこともあって破れた窓ガラスとそこから吹き込む1月の寒風が少しばかり気になったほかは不自由のない豊かな生活と見受けられた。前にも書いたように、こうした状況だけから短絡的に中国国民の生活を語ることはできないが、いわゆる知識分子ではあるものの特権階級ではない普通の市民である彼の生活の様子や街を歩く人々の服装など、5年前と比較すると大きく向上していることが実感される。

 ころで、今回訪ねたL氏がどういう人物なのか触れていなかった。ここで簡単に紹介しておこう。彼は解放後の1953年、上海生まれの青年である。都会の青少年の多くがそうであったように文化大革命の後期には黒竜江省の農場に下放された後、現在は上海に戻って「対外経済貿易委員会」に勤めるサラリーマン。区の教育局に勤めるRさんと結婚したのは4年前の82年であるが、政府の「一人っ子政策」のため、まだ子供はつくれないと言っていた。どこでも見られるような普通の若夫婦である。私が彼を知ったのは、最初に書いたように趣味のひとつとして続けている切手収集の全国的な団体である日本郵趣協会の機関誌(85年2月号)で日本人との文通を希望していたLさんの名前を見つけたのがそもそものきっかけ。したがって文通による彼との付き合いは1年にもならないし、こうして上海に来るまでは面識もなかった。

 虹橋国際旅運埠頭でLさんたち3人と落ち合ってから、55路のバスに乗ってLさん宅に着いたのは3時過ぎだった。共働きの奥さんはまだ仕事から帰っていない。自分が正月の休暇なので曜日の感覚がなくなっていたが、1月2日は木曜日、LさんのほかQ、C両君とも仕事を休んで私に付き合ってくれた訳である。家に入って洗面器に出された熱いお湯で顔を洗い流し、さっぱりした後、寝室を兼ねた居間に通され、早速共通の趣味である切手の話しが始まる。何冊もの大型のストックブックに収められたLさんの中国や日本切手のコレクションを見せてもらいながら郵趣品の交換や最近の中国や日本における郵趣情報や切手整理の方法などに話しの花が咲く。話しの花が咲くといっても、私は中国語を全く解しないので、C君は日本語、Q君は英語、Lさんは筆談の日本語で悪戦苦闘の情報交換である。日本語をかなり理解できるC君がもっぱら通訳役となってくれる。

 時を少し回った頃、奥さんのRさん(中国では結婚しても姓をひとつにせずに、それぞれ旧姓を名乗っている。)が職場から戻ってきた。小柄だが品のよい奥さんのRさんは型どおりの挨拶を済ますと、台所に入って夕食の支度にかかる。一日の仕事で疲れているのに、休む間もなく台所に追い立ててしまい申し訳なく思う。私という客がいるため、Lさんは男連中の話しの中にいるままであり、かわるがわる手伝いに行くものの薄暗い台所ではRさんひとりががんばっている。女性の地位が高いと報道されている中国でも、外の仕事に加えて家事労働も結局は女性が負担しているのかと、おかしなところで納得する。

 1時間ほどして、居間に続く土間の食堂に通される。小さなテーブルには奥さん手作りの料理が所狭しと並べられ、まだ封の切っていないブランデー、ぶどう酒、中国酒も用意されている。上海で食べるのだからまさに「中華料理」なのであるが、Lさん宅でご馳走になったのは日本の中華料理店で食する、いわゆる中華料理とは味もスタイルも異なる。こってりして味の濃い中華料理に慣れた者には、このあっさりした料理が中華料理とは別の料理のようにも思える。醤油の味ひとつをとっても全然違う。たしかに中国の都市の街頭で食べる粥の類、点心、麺類など市民が通常食しているものにはそんなに脂ぎったものや、濃い味のものは多くない。奥さんは私の訪問に備えてかなり前から準備していて呉れたらしく、いろいろ料理の本を揃え、今日のためのレパートリーを増やしていたようだ。新華書店で買ってきたという寿司や煮物、あえ物などが載った日本料理のテキストも見せてくれた。奥さんも調理の合間に一緒に食事に加わるよう勧めるが、中々調理の手を休めてくれない。事実、6時頃から始まった夕食は延々3時間にも及び、その間新しい料理が次々に運ばれ一緒に食事することなどとても不可能であった。こんな訳で男だけ4人、しっかり食べて、飲んで、出てくる料理の名前を一つひとつ筆談を交えて聞いたりしながら時間は瞬く間に過ぎて行った。

 Lさん夫妻を始め、友人たちの心のこもったもてなしを受け、Lさん宅を辞したのはもう10時を回っていた。3人がホテルまで送ってくれるというので、その言葉に甘えることとする。所々明かりのついた研究棟のほかは、暗く静まり返った復旦大学のキャンパスをバス停まで戻り、昼間、Lさん宅を訪ねたときとは逆方向に1区間9路のトロリーバスに乗って五角場に戻る。2日間の行動の拠点となる藍天賓館は、この五角場の交差点の直ぐそばに建つ。2日後「鑑真」号出発の際は、埠頭までまた見送りに来てくれるという3人とホテルのロビーで別れる。

 

Y 上海の街かど

 真号の一般航海日程に合わせた今回の旅行では、上海での滞在時間は正味48時間に限られており、大都市上海の全貌などとても紹介できるものではない。短い時間の中、徒歩、バス、三輪タクシーなど市民の交通手段を駆使し、かなり精力的に市内のあちこちを探訪した印象を断片的ながらスケッチしてみたい。ガイドに案内された旅ではないので、いわゆる名所・旧跡に類する紹介はできない。できる限り自分の足で歩いて、上海の生活臭い部分を覗いてみた積もりである。言うまでもなく、私の立場はここに居を構えた生活者ではなく、旅行者といういわば通りすがりの目で、ある瞬間の街の風景、市民生活の断面を見たにとどまる。しかし、1981年に続いて、約4年半の時間を置いての再訪ということもあり、この間かなり速いスピードで変化している市街地の景観、市民生活などを対比させながら見ることができた。

 これから紹介するのはLさんたちと別れ、1人となった1月3日と4日の両日、市内を「放浪」に近い行動をしながら、私が興味を覚えたいろいろなスポットについての、かなり独断も交えた上海メモランダムである。

 

1 上海の朝

 海の朝は早い。ホテルの真下、ナトリウムランプに照らされた五角場は5時前からジャンバーを着込んだ黒い人影やバスが一声に動き出す。1月の上海の夜明けは7時頃であり、この時間の市街地はまだ深い闇の中。以前、都心にある人民公園や外灘で垣間見た市民の太極拳を見物すべく、早朝の都心に出よう。この季節の上海の気候がどのくらいなのか知らないが、私の住んでいる東海地方と同じ程度の冷え込みであり、大したことはない。昨夜は気づかなかったが、ホテル構内に通じる間口10mほどの正門は鉄扉は閉ざされ、守衛所横の通用門だけが開いている。ここを通りぬけて五角場の55路のバス停に向かう。早朝の5時というのに、もう55路のバスは数分間隔で発車している。五角場は55路の終点なので、バスは四平路の東側で乗客を降ろし、五角場のロータリーを空車で一周して乗場にやってくる。バス乗り場にはこうして発車を待つバスが数台、列をなして待機している。スシ詰めで有名な上海のバスもこの時間はさすがに梳いてり、立ち席が中心の連結車両の10数人分の椅子に座ることができる。市街地を走るバスがそうしているように、ヘッドライトをスモールに落とした上、車内灯も薄暗いバスには紺や薄茶の防寒着を着込んだ夫婦づれの乗客が無表情に乗り込んでくる。概して乗客の年恰好は30歳台くらいと若く、一様に男親は親よりもさらに大げさな防寒着でくるんだ幼児をひとり抱えている。夫婦共働きが一般的なので、核家族の夫婦は出勤前に子供を託児所にでも預けていくのだろう。

 上海の朝が早いのは次のような理由からだと思う。ひとつは上に書いたように子供を託児所に預けるためかなり早く家を出なくてはならない。二つ目は上海の職場のうち、オフィスや店舗は市の中心部にあるものの、工場の多くは市内を南西から北西に流れる黄浦江沿いに立地している。勤務地の近くに住んでいるケースを除いて、多くの市民は一旦、市の中心の外灘でバスを乗り換えなくてはならない。朝の外灘で下車する市民が多いのは当然として、郊外の五角場から発車するバスも同じように満員の乗客を乗せて発車するのはこのことを如実に示している。L氏宅で知り合ったQ君の場合、市街地の北東部、国順路の自宅から南西部にある江南造船廠まで1時間以上の通勤時間を要するとのことだが、彼の場合、何も特別のケースではないようだ。近年具体化している地下鉄建設プロジェクトもこうした市内交通緩和のために大きな意味を持つであろう。朝が早い理由の三つ目は、中国の家庭では一般に自宅で朝食をとらないようだ。一日2食で済ますというのではなく、出勤の途中、市内のあちこちで早朝から営業している食堂や道端の屋台で、粥や麺類、蒸しパン類の朝食を済ましているようだ。早朝の街角のそこかしこで、食堂から立ち昇る白い蒸気と食事の順番を待つ市民の群れを見ることができる。こうしたことや勤務形態などが複合して上海市民の生活を早朝型にしているのであろう。

 上海の街を歩いて気づくのは先にも書いたように、セーターやジャンバーで着膨れした市民の群れである。これは上海が立地する地域の気候と室内暖房の関係にあると思われる。東北地方や華北では冬の寒さが厳しいため、住宅に耐寒的な配慮がされているが、上海ではホテルなどの特殊な建物を除いて商店・住宅にも暖房設備はほとんど見られない。目抜き通りの店舗の入り口には自動ドアに類する設備もないので、黒い毛布のようなカーテンを下げ、寒気を防いでいる。いずれにしても寒いことには変わりなく、建物を暖めるのではなく屋外、屋内を問わず厚着して寒さに耐える。とくに動作の自由もままならないほどに厚着をさせた幼児を見ると、一昔前、綿入れの半纏の下に何枚もセーターを重ね着させられ、手足を真っ赤にしていた我々の子供時代を思い出す。

 置きが長くなってしまったが、55路のバスは途中の停留所でほぼ満員の乗客を乗せ、まだ道路の空いた明け方と言うこともあり、20分ほどで外灘に到着。外灘に近づく頃には他の路線バスも合流し、切れ目のないバスの列となって中心部に集中する。6時前というのに外灘の歩道はバスの乗換えを急ぐ人波でごった返している。黄江公園にも人の動く気配はするが暗くてよくわからない。人民公園へは一番判り易い南京東路を20路のトロリーバスで行こうと思うが、和平飯店の前は東行きの一方通行、仕方なく福州路へ行って17路に乗ろうとするが、やはり先ほど下車した外灘の中山東一路からは出ておらず、西に向かって江西中路まで暗がりの中を不安げに歩く。10分ほど(実際にはもっと短い時間かもしれない)歩き、江西中路と福州路の交差点近くでやっと17路の停留所を見つける。十六舗埠頭の方へ行く16路も同じ停留所から出ており、こちらは頻繁に発着しているが、これにひきかえ17路は本数が少ない。やっとのことで17路のトロリーに乗り、「人民公園(レンミンゴンユ)」と告げバス賃の4分を払う。空いていたせいもあるが、愛想のいい車掌が人民公園が近づくと下車を教えてくれた。停留所の名前を見ると、福州路西蔵路と書いてある。

 5年ぶりの人民公園、1月の午前6時半はまだ早い。やっと東の空が白み出したところだ。夏ほどではないが、公園の所々で太極拳をする老人のグループやジョギング中の市民が見られる。この人民公園はもともと競馬場だったところを解放後、公園に整備したところで全体が楕円形、北半分が公園、南半分は道路のような広場になっている。ここで太極拳をしていた老人に写真のモデルになってくれるよう頼んだところ、最初はモデルを辞退していたがそのうちに用意していた袋から古武術の小道具をいろいろ取り出し、ぎこちなくてモデルにならないくらい真剣に演技してくれた。

 外灘に戻るにも小銭がないので、どこかで両替すべくあちこち歩くが早朝から店を開けているところも見つからない。公園の片隅で営業している何か案内所風の建物を見つけ、「上海交通手冊」と書かれた市内の交通、諸施設のガイドブック(464p)を購入。これは市内を歩くのに非常に便利な本だが、そのことはまた後で触れよう。いずれにしても、この際つり銭をもらうことが主目的だから、0.8元の定価に対して5元紙幣を差し出したところ、窓口の係りは同僚のところからかき集めて4.2元のつり銭をつくってくれた。南京東路に出て、西蔵中路の停留所から20路のトロリーに乗り、和平飯店まで数分だ。今度の車掌もこの薄汚い異邦人に対して大変愛想がよく、カメラや先ほど買った上海交通手冊などの荷物を車掌席の前にあるテーブルに置けとか、和平飯店はあといくつ目の停留所だなどと教えてくれる(何を言っているのかわからないが、多分そう喋っているのだろう……。)。終点の九江路外灘に着いて、出発時のなぞが解けた。20路は南京東路→中山東一路→九江路→四川中路→南京東路とループしている、それだけのことだった。

 明るくなった外灘では、沢山の市民が太極拳を楽しんでいる。非常にゆっくりした動きのグループと、スピーディな動きのグループなど、同じ太極拳でもいろいろある。太極拳をしている河べりから眺める黄浦江には、上海大廈を隔てて昨日乗ってきた「鑑真」号が白い船体を休めている。

 

2 メインストリート

(1)南京東路

 京東路は、上海の都心を東西に貫く2`ほどの大繁華街である。南京路そのものは、西方に続く南京西路も含め全体で5`ほどあるが、多くの店が建ち並び、人を集めているのは南京東路と呼ばれる通りの東部分。季節は冬、平日にも関わらず通りは早朝からそれこそ黒山の群集であふれている。このものすごい量の人出の中身について見ると、その多くは上海の市民でなく、全国からのお上りさんや各国の観光客、華僑などということである。人波は歩道だけでなく、車道にまであふれて延々と続く。とりわけ外灘から西蔵西路までの人波に圧倒される。北京の王府井が街路樹の豊かなしゃれた雰囲気の繁華街であるのに対して南京東路は余分なものを一切省いて、店舗と人の大群からのみなるエネルギッシュな空間である。ありとあらゆる種類の数百軒の店が並んでいるが、それぞれの店内も客でごった返している。この人波は5年前も今回も全く変わっていない。我々から見るとかなり下町的かつ縁日的な空間だが、中国では時代の最先端を行く高級な店が軒を連ねる場所である。こうした南京東路を歩くことが、中国流の”銀ブラ”だ。外灘から西蔵西路まで、歩いて1時間足らずの距離であるが、人の沢山集まっている店、日本でも名の通った店などを覗いたりしていると半日近くかかる。ぶらぶらついでに、珍しいと思ってやたらに買っていると、たちまち両手は荷物で一杯になってしまう。

 南京東路は幅が20bほどの立派な道路だが、これに交差する道路は、2、3の幹線を除いてほとんどが幅10b足らずの道である。南京東路に直交するこのような道路を軸として、表通りの一軒裏手はレンガ造のアパートが1〜2bの薄暗い路地を介在させながら続いており、繁華街と下町が同居している。そういえば上海大学の日本語科2年生で、「鑑真」号で実習中だったFさんも上海第一百貨商店の直ぐ横に住んでいると言っていた。ところで南京東路の歩道そのものは4〜5bくらいしかなく、押し寄せる人波をさばくのが精一杯。公衆電話や公衆便所はメインストリートに直交する先ほどの小路に設けられている。上海の新しい繁華街、金陵路にはコイン式の電話ボックスもあったが、市内の公衆電話の一般的なスタイルは「公用電話站」と書かれた係員の常駐する電話局のミニ出張所のような小屋である。効率が悪いようにも見えるが、各家庭に電話が普及している訳ではないのでコイン式の電話ボックスを沢山設けてもあまり意味がないのであろう(金陵路の電話ボックスを15分ほど眺めていたが、利用者はあらわれなかった。)。

 海の都心部全体がそうであるように、南京東路沿いの建物は旧租界時代の街並みが土台。大半が50年以上の年月を経た建物である。このため、エリアごとに当時租界を設けていた国の様式を色濃く残している。例えば南京東路はイギリス風(共同租界)、准海路はフランス風といった具合だ。とくに南京東路沿いは高層の建物が軒を連ねており、大規模な再開発でも施さない限り街並みの改変はないであろう。むしろコンクリートのビルが建て込んだ繁華街の一街区外側にある2〜3階建てのレンガ造建物の建つ地域の機能更新の方が早く進む。事実、最近の旅行者増加に伴う新設ホテルの多くは、郊外の空港周辺部を除けば下町のこうした地区に建設されている。この結果、数年を経て南京東路のような繁華街を訪れても、道路、建物といった市街地の骨格部分には大きな変化は中々見つからない。もちろん、通りを歩く人々のファッションや大交差点に設けられた歩道橋(ぺデストリアンデッキといった方がよい)など街の点景は大きく変わっている。とくに服装については、5年前には中国で一番流行に敏感な上海でもジーンズや色物のTシャツを着た自分が街を歩く人たちから浮かび上がってしまい、異邦人として好奇のまなざしで見られる場面に何度も出くわした。ところが、今回、日本で購入した”made in china”のジャンバーを着ていたせいかも知れないが、私の目からは道行く人たちの方がカラフルでナウく感じた。色取りも鮮やかな原色のファッションを身につけ、長い髪を風になびかせて颯爽と街を歩く女の子たち、やや煤けて時代がかった建物を別とすれば、一瞬日本の都会の繁華街を歩いているような錯覚にとらわれてしまう。通りを歩いても、バスに乗っても、話しさえしなければ私も群集のひとりである。あまり現地風になりすぎたせいか、手紙を出しに”高級”ホテル錦江飯店の郵便局に行ったときなど、守衛から用件を聞かれてしまった。表面的な事象ではあるが、わずか数年の間に少なくとも上海の表通りを行く人々の姿は日本とほとんど変わらない状態だ。

 最初に書いたように、南京東路そのものは西蔵中路からさにら西に延びて工業展覧館の方まで続いているが、商店が密集し多くの人々でにぎわっているのは、西蔵中路との交差点に建つ市内最大のデパート、上海市第一百貨商店のあたりまでである。ここから西は国際飯店や華僑飯店などのホテル、電視台など公共的な建物や公園などが増え、店舗の密度は低くなる。この辺りまで来ると歩道の幅も広くなり、プラタナスの街路樹も植えられ、ホテルなど一部の建物を除けば階数も低く街並みの景観や雰囲気は、これまでの喧騒から静かで落ち着いたものに一変する。

 京東路で一番にぎわっていて、大規模なのは上に書いた上海市第一百貨商店と華僑商店である。華僑商店は、南京東路と浙江中路、湖北路がつくる五差路の鋭角になった部分に建つ古めかしいビルの1階に広い売り場を備えている。ここは名前に示されるように、本来一般市民向けの店舗ではなく、帰国した華僑の消費需要を充たすための施設である。外貨の持ち込みに寄与しているせいか、華僑は特別扱いである。華僑商店では市内で中々手に入らない商品が豊富に揃っている。店内を一巡しただけでも高級タバコの「中華」やアルコール度の強い「貴州芽台」(市内の店ではどちらもほとんど目にすることができない)、日本製のラジカセなどが目に入る。しかしここで購入するには一定のルールがあって、華僑用に発行された「切符」が必要。友誼商店では万能の兌換券もここでは通用しなかった。逆に華僑でなくても「切符」さえあれば、誰でも華僑商店が利用できる訳である。華僑が沢山いるからといっても広い店内を埋め尽くすウィンドウショッピングを含む群集の謎が解けたような気がした。これは中国人が友誼商店を利用しようとした場合、我々が入手できる兌換券についても同じことが言える。

 華僑商店が一種独特の雰囲気を持った店であるのに対して、西蔵中路交差点の上海市第一百貨商店は名実ともに上海を代表する大型の店舗である。交差点に面した8階建ての大きな建物で、売り場は地下1階から4階までを占めている。第一百貨商店の近くになると、南京東路の人通りは歩道上で身動きできないほどに増える。最近、西蔵中路との交差点には街区を□字型につなぐモダンな歩道橋が架けられ、四隅は交差点に面したビルの2階に直結するかたちに変えられている。つまり、四隅のビルの一部が歩道橋の階段室になっており、ビルに入らないと歩道橋も渡れない仕組みになっている。おまけに交差点には交通整理員が目を光らせているので、日本のように路上を横断する訳にはいかない。第一百貨商店については、1階と2階の2箇所に入り口がある。

 照明の暗い店内は一部板張りの床もあるが、ほとんどコンクリートのまま。天井や壁もコンクリートにプラスターを塗っただけの仕上げなので、客のざわめきや物音が大きな空間に反響している。また換気が悪いせいか室内には埃が舞い上がり、店内は霞んで見える。たしかにデパートであるが、日本のデパートとは違う。3階や4階の文具や時計売り場などはいわゆる日本で見慣れたデパートに近いが、それ以外の売り場は通路に商品を並べただけの室内マーケットのようだ。魔法瓶や鞄、衣類などの生活用品が無造作に積み上げられている。しかし、我々異邦人にはこちらの方が楽しい。いずれにしても1箇所でこんな大量に商品が並べられている所は上海市内にはないので、市民、おのぼりさんでいつも混んでいる。

 京東路沿いの2つの大きな店舗を紹介したが、この通りには個性のある専門店が集中している。商品が豊富なだけでなく、内容も洗練されている。言い方を変えれば、南京東路は道路を軸として街全体が横に広がったデパート兼マーケットのようなものだ。我々にとって、こうしたいろいろ珍しい品物が沢山集められた専門店群は大いに興味が掻き立てられる。都心のぶらぶら歩きを楽しむとき、市内の雑誌スタンドで売っている「上海市区交通図」というタイトルの地図(定価0.35元、1985年8月)が実に便利だ。市内のバスやトロリーの全路線と停留所が正確に記載されているだけでなく、地図の裏面には主な繁華街の商店が業種ごとに色分けされて印刷されている。我々おのぼりさんには大変重宝な情報源だ。この地図が私にとって便利だっただけでなく、上海っ子のLさんも自分の鞄に入れて持ち歩いていた。大都市、上海では日常生活の必需品でもあるようだ。

 この上海市区交通図を片手に、南京東路の東端から西に向かって歩きはじめる。具体的な買い物の目的がある訳ではないので、地図を見ながら面白そうな店や人だかりのしている店などを片っ端から覗くことにする。さまざまな民族楽器をならべている「敦煌上海民族楽器店」、舞台衣装や小道具を販売している「上海戯劇服装用品商店」、スポーツ用品や民族的な玩具を売っている「上海体育用品商店」、漢方薬のデパート「蔡同徳薬店」など、どの店を覗いても楽しい。こんな店が2`、数百件も建ち並んでいる。スポーツ用品店や薬店のように実用的な店は存在も理解できるが、それ以外のどの店も来客でごった返している。このあたり、おのぼりさんの寄与するところが大きいのだろう。いずれにしても具体的な使い道は決まっていなくても、物珍しさにつられてつい衝動買いしてしまう。ただ最初にも書いたように、覗いた店々で買い物してしまうとたちまち両手に持ちきれなくなってしまうので、くれぐれご用心。

 

(2)准海路

 京東路が全国のおのぼりさんを集める上海を代表する繁華街とするとき、その1`ほど南を並行して走る准海路は少しイメージの違う繁華街である。いわば通好みの場所である。この通り、東西を合わせた南京路全体と同じ位の長さがあるが、東の方は別の繁華街である金陵路と渾然一体となってしまうので実質的な准海路は南京東路と同じ2`ほどの区間といえる。准海路には南京路に見られるような巨大なビルもほとんどなく、沿道の大半は2〜3階建ての洋館からなる。ここには、上海の他の通りによく植えられている大きなプラタナスの並木が幅20bほどの道路を覆っている。前にも書いたが、この辺りは旧フランス租界で、ガイドブックには上海のシャンゼリゼなどと書かれている。准海路には小奇麗でしゃれた店が軒を連ねているが、南京東路の雑踏を歩いた後では別世界のようだ。

 街路樹に覆われた街なみを三々五々連れ立って歩く市民の姿が見られるほか、時折トロリーバスが静かに通り過ぎる。こんな准海路の雰囲気は北京の王府井街に近い。通りに沿って並ぶ商店の多くは南京東路の出店であるが、それ以外にもキャンディーやケーキの専門店、お茶やタバコの専門店など、他所では見られない個性ある店も多い。こうした店には目ざとい市民が集まる。このあたりが通好みといわれる准海路たる所以だろう。どちらも上海の「表通り」ではあるが、南京東路の圧倒的な迫力と准海路のしゃれた雰囲気の対比の中に上海の持つ対外的な二つの顔を見ることができる。同じ上海の隣り合った通りであるのに、植民地時代の支配国が違っただけで実に見事なコントラストを見せる。今回訪れたのは冬であり、街路樹のプラタナスは葉を落し、少しばかり物寂しい風情を漂わせる街なみではあるが、春や夏には時代を経た建物と街路樹の緑が美しい調和を見せるだろう。

 人民公園から錦江飯店まで小型の三輪タクシーで乗り付けた後、そぞろ歩く市民の流れに混じって准海路を西から東に向かって歩くことにする。

 准海路にはしゃれた店が多い。しゃれたと言っても決してきらびやかな建物やディスプレイという意味ではなく、専門化し質の高い商品が揃っているということである。市区交通図の裏面に印刷された商店街の配置図を見ながら興味深く覗いた店のうちの主なものや、都心部にたむろする上海の若者たちの風俗、行動などを寸描してみよう。前に書いたように准海路は南京東路と同様に長い通りであるが、人通りが多くて店舗密度の高いのはスタート地点とした錦江飯店付近である。

 

@老大昌

 本の繁華街と中国の繁華街の大きく異なる点のひとつは、日本の街角には数え切れないほどの喫茶店があるのに、中国ではこの類の店が見つからない。日本と同じ資本主義の香港でもあまり見つけられないことは、日中の生活習慣の違いに起因するのだろう。裏通りには「茶館」という中国茶を飲ませる昔ながらの店もあるが、日本で俗に言う喫茶店に類するものではない。ところが「近代都市」上海には何軒もの喫茶店があるという。

 錦江飯店に近いこの老大昌(ラオダーチャン)というのも喫茶店のひとつである。准海路に沿った3階建ての小さな店は、1階がケーキの専門店、2階が喫茶店になっており、解放前から続く老舗だそうだ。いろんな種類のケーキやパン類を売っているので、店内は多くの人で混雑しており、人垣をかき分けて店の中に入る。目的は喫茶店でコーヒーとケーキを賞味することなので、1階の人ごみをすり抜けて2階に上がる。2階は3つの小部屋に分かれており、それぞれビニールカバーのついた4人掛けのテーブルが8つほど並んでいる。すでに8割ほどのテーブルがふさがっているが、真中の部屋に空きテーブルを見つけて座る。ところが客はテーブルについたままで、コーヒーなど飲んでいる雰囲気はない。係りに聞けば現在昼休み中で、2時まで待つようにとのこと。2時まで20分ほどあるが、皆病院の待合室にでもいるように静かに座って待っている。

 し残っていた空席も2時近くになると、次第に埋まって、ひとりで占領していた私の席にも若い男女の3人連れがやってきて相席となる。もう部屋の入り口付近には順番を待つ何人かが立っている。営業の始まる2時になると、係がそれぞれのテーブルに伝票を持って注文を取りに来る。飲み物はコーヒーか紅茶、ケーキはいろいろ揃っている。値段は飲み物とケーキのセットで1〜2元くらい。日本との単純な比較はできないが、市外の封書が0.08元/通という中国の物価水準からするとべらぼうに高い。数件離れたキャンディやケーキの専門店「哈爾浜」のコーヒースタンドでは、老大昌の向こうを張ってコーヒー一杯が0.3元と大書してあった。間もなくレモンケーキと最初からミルクの入ったコーヒーがカップにスプーンを挿した状態で運ばれてくる(1.4元)。ケーキのフォークはついていないので、手掴みで食べる。少し遅れて金属の皿に山盛りの砂糖が運ばれてくる。レモンケーキは甘さを押さえた上品な味で中々いける。

 ところで私のテーブルに同席した3人連れはどういう関係なのかよくわからないが、若い方のL君という青年と女性は一見カップル風だ。街を行き交う人たちの服装がファッショナブルになってきたとは言え、全体の雰囲気は日本と比べて20年くらい前の感じである中で、彼らはかなり飛んでいる部類だ。女性の化粧やアクセサリーは街角で普通に見かける市民とは違うし、L君も上着は紺色の工人服を着けているが、襟元からのぞいているシャツは柄物の派手なヤツだ。我々旅行者にとって、はにかみ屋の同席者より彼らのように開けっぴろげで陽気な連中の方が楽しい。コーヒー代を兌換券で支払おうとすると、3人組のうちの女の子は人民幣と交換して呉れという。こちらが損するわけではないので了解すると、うれしそうに自分の財布の人民幣と取り替える。また写真を撮れば2人だから2枚送って欲しいなどと、ちゃっかりしている。こう書くと日本の街角でみかける不良グループを連想するかもしれないが、話すことの内容は真面目だし、専門的であって決してミーハーではない。耐乏を旨とする保守派からすれば、昼間から喫茶店に出入りするような連中は革命からドロップアウトし社会主義の道を外れたどうしようもない異端なのかもしれない。もっとも老大昌の客は彼らのような若者ばかりではなく、静かにコーヒーを楽しむグループや家族連れが圧倒的に多い。

 

A准海路を特色づけるいろいろな専門店

 「哈爾浜」は先ほどの「老大昌」から西へ数軒いったところにあるケーキとキャンディの専門店。店の正式な名前は「哈爾浜食品廠」と書いてあり販売だけでなく、製造もしているのであろう。同じキャンディー専門店でも豫園の中にある「上海梨膏糖商店」は大衆的だが、こちらはちょっとおしゃれで高級な感じだ。高級といっても大きな箱詰めのキャンディーのセットが、上海梨膏糖商店で1.6元くらいであるのに対し、哈爾浜食品廠は1.9元くらいと大した差ではない。しかし狭い店先に箱詰めやバラ売りのキャンディーが山積みされている上海梨膏糖商店に対し、哈爾浜食品廠では広くて小奇麗な店内に商品が美しく配置されている。日本各地でも最近多くなってきたケーキ専門店のイメージである。また、上海梨膏糖商店の方は客でごった返しているが、こちらは広い店内に数人の客がゆったり買い物を楽しんでいるという風で、上海で見られる多くの店とは感じが違う。こんなところが准海路のイメージといえるかも知れない。

 「黄山茶葉店」は「老大昌」と同じ建物の一角を使った茶の専門店。店員が2人だけの小さな店だが、中国各地の茶(緑茶、紅茶、烏龍茶、花茶、圧制茶など)や茶器を売っている。我々がイメージする烏龍茶やジャスミン茶のような中国茶のほかにさまざまな種類のお茶が並んでいる。茶の葉を発酵させて固めた方茶と称する磚茶、烏龍茶にそっくりな西双版納産の紅茶(帰国してから飲用しているが中々美味い紅茶である)など、日本では手に入らないものが多い。包装箱を見ているだけでも中国各地の地方色が出ていて楽しい。

 「銀和烟行」はタバコ屋。成都南路と准海路が交差するところにある間口2間ほどの小さな店である。たしかに専門店ではあるが、ピンからキリまで揃えてあるのではなく、ここはもっぱらキリの部類に属する銘柄がずらりと並んでいる。同時にパイプやシガレットケースのような喫煙用具も扱っている。こちらも庶民向けの実用品が多い。ブリキ製のシガレットケースなど0.7元で売っている。カラフルなパッケージの各種タバコやシガレットケースなど、タバコには縁のない私にも楽しい品々ばかりだ。

 准海路にはこんな店がずっと続いている。どの店も押しなべてこじんまりしていて親しみやすい。時間さえ許せば何日もぶらつきたい通りである。またこの通りも南京東路と同様、商店街のすぐ裏は密度の高い住宅地になっている。准海路に交差する通りにはレンガ造のアパートが建ち並び、洗濯物がバルコニーに翻っているし、道端では野菜を積んだリヤカーが店を広げるなど、生活の臭いに満ち溢れている。

 

3 新華書店

 海の街を歩いていてよく目にするのが中国人民銀行。これは都心部に関する限りやたらと目に入る。もっとも注意して見ていても銀行の看板が掛かっているのはこの中国人民銀行だけである。日本の駅前でいろんな種類の金融機関が集中して店を張っていることを考えれば何も驚くことなどないが。中国の場合、ひとつの金融機関だけなので余計目に付く。外灘にある中国人民銀行上海分行と表示された建物は、すでに半世紀以上を経た石造の巨大な建物だ。行内に入れば天井が高く、大理石貼りの豪華で広々としたカウンターが続く。窓口の混雑を除けば日本の大銀行に劣らない雰囲気である。一方、これに対して街中にある中国人民銀行は極端に小さくて簡素なものが多い。アパートの1階にこじんまり設けられていたり、下町では低層の店舗と同じような間口で並んでいたりで銀行という名前からくる厳しさのようなものはない。むしろ日本の街中によく見られる特定郵便局のような感じをイメージしておけばよい。郵便局の話しが出たが、人民銀行に次いで目にするのが、「人民郵電」とか「郵局」と表示された郵便局。蘇州河のほとりに建つ中央局は構えも大きく日本の大都市にある中央郵便局に匹敵するものであるが、街中にある郵便局は特定郵便局を少し大きくしたくらいの規模である。通りすがりに覗いた数局は一様に薄暗く、郵便物受け付け用の木製カウンターをひとつ備えただけの簡素なものばかりだ。ところで上海の郵便局が日本と異なる点は、郵便局が人民日報などの新聞や一部雑誌類の販売所を兼ねていることである。むしろこちらの方がスペース的には広い場所を占めている観さえある。錦江飯店のような大ホテルの郵便局は明るく、いわゆる郵便業務だけを担当していて新聞販売などは扱っておらず、日本の郵便局に近いがこれは例外であろう。

 中国人民銀行や郵便局ほどの数ではないものの、上海の街中でよく見かけるのが「新華書店」という書店である。この書店、中心市街地だけでなく、郊外部の中小規模の住宅団地でもその中央施設のひとつとして設けられている。街中には新華書店のほかの書店も見られるが、圧倒的に新華書店が多い。新華書店は上海だけでなく、全国的なネットワークを持つ書籍、レコード販売のナショナルチェーンである。この書店、上海だけで145の店舗を持ち、上に書いたように市内の隅々まで店舗網を張り巡らせている。

 華街にある2、3の新華書店を覗いたが、中でも南京路の店は上海市のセンター店ということで規模、内容ともに充実している。この店は南京東路に沿った巨大なビルの1階と2階の全フロアーを占めている。南京東路に面した1階はレコード、カセットテープ、ブロマイド、雑誌、児童図書などの売り場であり、それぞれ大きく区切られたコーナーを持つ。とくに東の入り口から入ったところにあるレコードやカセットテープの売り場は黒山の人だかりで身動きも取れない。テープの内容はわからないが、種類の多いことが人気の原因のようだ。また続きのコーナーの児童図書売り場、とりわけ漫画類のコーナーもごった返している。ここは81年に「鉄腕阿童木」の漫画本を買ったコーナーだ。しかし、並んでいる本の種類は5年間に相当変わっており、いわゆる時代物をテーマにした劇画風のものが目に付く。現在進められている現代化政策とのアンバランスを少しばかり感じる。中央の拭き抜けとなった大階段を上ると文学書や専門書、外国図書のフロアーとなっている。こちらもにぎわっているが、1階ほどの混雑ではない。1階がバーゲン会場のようであるのに対し、2階では書棚の前に立って求める書籍を探す雰囲気だ。書棚はゆったり配置され、ここでは書籍を直接手にとって時間を掛けて選ぶことができる。すべてのジャンルの専門書が網羅されているわけではないが、かなり広い分野の書籍が並んでいる。

 中国の国営企業(もちろん新華書店も国営企業)のサービス水準について色々日本でも紹介されている。我々は概して横柄でスローモーといった悪いイメージを持たされてきた。しかし私が外国人であるせいかも知れないが、探していた書籍をサービスカウンターに問い合わせたとき、結果的には見つからなかったが丁寧にあちこち探して呉れたり、問い合わせてくれた。これは南京東路の店だけでなく、准海路の小さな新華書店でも同じであった。私が問い合わせた若い店員は店の責任者らしい老人のところへ行き、店の裏手の倉庫の中まで時間を掛けて捜してくれた。ちょうど、注文の本を取りにきていた私の前の中国人に対しても同じような応対をしていたから私が特別扱いされた訳ではない。話しが前に戻るが、到着したとき日本円を中国元に両替した中国人民銀行の窓口でも人民幣でよいのか兌換券がほしいのかを確認しながらテキパキと事務手続きを進めてくれた。バスの車掌も日本よりずっと温かさを感じた。もっとも取りたてて中国のサービスが良かったという話しを余り聞かないと言うことは、私の接した担当者の応対が偶然よかったのかも知れないが。何も客に対してむやみに遜ることばかりがサービスの本質ではないと思う。

 南京東路の新華書店のレイアウトは5年前とほとんど変わっていないが、科学技術の専門書が増え、マルクスだとかレーニンなどの政治・思想関係のスペースが狭まった感じだ。また2階の催事コーナーでは春節(2月9日)前ということもあり、各種年賀状やカレンダーが沢山並べられている。同じ2階の建築書のコーナーでは中国の都市計画、住宅計画の書籍を見つけたので何冊も買い込んでしまった。後で思えば店から自宅へ託送してもらえばよかったのであるが、その時は後先考えずに大きな包みを受け取ってしまい、今回の旅行で一番重く、かつ嵩張る荷物を造ってしまうことになる。

 

4 市内の交通機関

 海市内の交通機関は、鉄道、バス、トロリーバス、タクシー、それと黄浦江を横断するフェリーである。短い滞在期間中にその全てを利用した訳ではない。ホテルと都心の往復にもっぱら利用したバスやトロリーバス、街かどで拾った3輪や4輪のタクシーについて日本との違いや上海の市民生活との関わりについて見てみよう。

 

(1)公共汽車(バス)

 国ではバスのことを「公共汽車」と呼んでいる。汽車のことは「火車」、トロリーバスは「電車」だ。中国のどこの都市でも同じだが、行き先の地名が読めなくてもバスの前面に大きく掲げてある路線番号さえ確認できれば市内で一番便利な交通機関である。なぜなら街の雑誌スタンドで売っている「上海市区交通図」に印刷されている路線網(路線番号、停留所入り)を見れば、現在位置、利用できるバス路線などが容易にわかる。前にも書いたようにこの「上海市区交通図」、旅行者に便利というよりも必需品なので目的の都市に到着したならば、どんなガイドブックを購入するよりも先ずこれを手に入れることをお勧めしたい。小都市ならいざ知らず、我々が訪ねる一般の都市なら街かどで簡単に手に入る。むしろホテルなどでは役に立たないカラー印刷の「旅遊図」が置いてある位で、これは手に入らないかもしれない。街に出ればすぐ手に入る。

 市区交通図の話しからバスに話題を戻そう。ここで紹介するバスには、トロリーバスも含めてもらって構わない。なぜなら動力が違うだけで外見や利用方法は全く同じであるから。人民公園内の案内所で手に入れた「上海交通手冊」によれば、市内に150余りのバス、トロリーバスの路線網が張り巡らされている。一般的に始発は5時頃、終発は23時頃だが、路線番号が300番台のバスは「夜間通宵車」といって夜間運行している。料金は距離に比例する形で決められており、2.0`までが0.04元、2.8`0.05元、4.0`0.07元、6.2`0.10元、10.0`0.15元、15.4`0.20元、15.4`以上0.25元となっている。郵便や交通機関など中国の公共料金は低く設定されている。鉄道車両に比べてその容量が小さいためか、幹線道路はまさにバスの数珠繋ぎ状態である。一般車両の絶対数が少ないのでまだ救われているが。とくに都心に向かう路線は待ち時間もほとんどない。ただバス停の間隔は日本のそれと比べて若干長いようである。55路を例にとれば、8.4`の間に14のバス停が設けられており、一停留所間の平均距離は650bほどである。

 海というか、中国のバスの多くは車台が連結式になっており、日本の大型バスよりもさらに大型である。1985年の「つくば博」で土浦駅と会場を結んだエキスポライナーと同じスタイル。社会主義国の市内バスはこの形式が多いようである。もちろんこのバスが走るためにはかなりの道幅がなければカーブを切れないので、道が狭く需要も少ない郊外へ行く路線は日本の中型バス程度の車両である。車体が長いので、乗降口はバスの前方、中央、後方の3箇所に設けられている。このため車掌は前方と後方の2人乗車である。滞在期間中、日本のようなワンマンバスは終に見かけなかった。人手の多い中国では当面ワンマンバス化のような社会的要請は出てこないだろうし、小銭を含めて紙幣の占める割合が多い状況では料金の自動支払いシステム用機器の導入も困難であろう。ワンマンバスでないから、どのドアから乗車しても構わない。

 マイクで案内するのは前に座った車掌であるが、後の車掌も同じことをマイク無しで案内している。喋っていることは、停留所の案内と乗客が乗ると「ナントカナントカピャオ、ナントカナントカピャオ」と叫ぶ。こう言うと乗車した客は切符を買っているようだから、切符を買えとでも言っているのだろう。車掌が目星をつけた客が切符を買うか、定期券を見せるまではしつっこく促している。しかし実際は混んでいてどんどん奥に押し込まれてしまい、車掌の位置からは離れてしまう。空いているうちは車掌が車内を回るが、混んでくるとこれもできなくなる。そうなると車掌は自分の席に座ったまま、代金と切符+つり銭を手渡しでやる。客が大声で行き先を言い、代金を車掌寄りの客に渡すと車掌まで届く。帰りはその逆に客まで戻る。車掌はそのたびに仲介してくれた客に「謝謝儂(シャヤノン=上海方言でありがとう)」を繰り返す。代金はつり銭を渡しやすいように車掌のテーブルに載せたままで、車掌は車内をあちこち歩く。

 一方、運転席はパイプで客席と区切られていてかなり広い。運転手には男女の区別はなく、若干男の運転手が多い感じがする程度である。車掌は圧倒的に女性が多い。運転席の近くは車酔いしそうなほどガソリンの臭いが強い。暖房はあるかも知れないが、ほとんど効かない。それどころか窓ガラスの曇り止めのため運転席横の三角窓を全開にしているので寒風が吹き抜ける。運転席の右側はエンジン点検用のスペースなのか大きく空いている。多くの運転手は席の横のギヤカバーの上に茶碗をバンドで器用に止めている。バスがカーブする度に茶碗は左右に滑るがうまい具合に中身はこぼれない。

 市内交通の主役としてバス利用者は非常に多い。かなりの密度で運行しているが、需要が多いのでどのバスも「超」満員だ。日本の感覚でいたら、まず尻込みしてしまいそうな混雑だが、要領さえ覚えれば意外に使いやすい。始発から終点まで常に満員なので途中のバス停では意味がないが、ターミナルには一寸した工夫がしてある。そこには停留所の標識のほか、乗降口に当たる部分からかなり離れたところに「座隊」と「立隊」と書かれた2本の標識が立てられ、鉄柵で区切られた通路が乗降口まで続いている。バスがつくと先ず「座隊」のドアが開き、席が一杯になると「立隊」列のドアも開けられる。「座隊」の列は座席の数だけしか行列は短くならないが、「立隊」は乗車できるだけ無制限に詰め込むのでどんどん前に進む。急ぐ人は「立隊」の標識のところに並べばよい。合理的な方法だ。

 

(2)出租汽車(タクシー)

 国では「流し」はないので、ホテルに待機している車に乗るか、市内の交通ターミナルにある「出租汽車站」を利用するかである。このタクシーにも2種類ある。ひとつはホテルなどから乗るタクシーで、車は日本車が多い。ホテルのフロント近くにある「出租汽車」と書かれたカウンターで申し込むと、運転手がホテル横の駐車場まで案内してくれて車に乗りこむ。荷物が多いときや、疲れたときには安価で便利だが(10`近く乗って8元弱)、どうしても運転手任せになって緊張感が薄れてしまう。おまけにホテルのタクシーは兌換券しか通用しないので旅の面白さも減ずる。このため今回の旅行では、外灘の和平飯店から藍天賓館まで一度利用しただけであった。

 もうひとつのタクシーは公園や鉄道、フェリーターミナルの近くにある「出租汽車站」で利用するタクシー。こちらにも普通車があるにはあるが、待機している車の大半はオート三輪か軽のキャブオール型の小さいやつだ。オート三輪の方は「東風」のプレートのついた中国製の自動車(?自動車というよりオートバイに幌をつけた車体と言った方が適当だろう)だが、軽の方はスズキの軽乗用車である。三輪タクシーには、前々から乗りたいと思っていたが、あまり外国人の行くような繁華街では見当たらず、利用できないでいた。南京東路を歩いて人民公園にやってくると可愛らしい三輪タクシーが数十台待機しているではないか。早速運転手の控え室に行き、錦江飯店まで遣ってくれる交渉するが、理由が判らないまま応じてもらえない。やっとのことでOKをもらい、小さなドアから運転手の後ろをすり抜けるように座席に座る。先ほどオートバイと書いたが後輪は二つあるのでやはりオート三輪なのだろうが、オートバイの荷台を横に広げて2〜3人掛けられるように改造したものに幌をつけただけの車体はやけにガソリン臭い。また、車体の横と後は幌で覆われているので、運転手の背中越しにやっと前が見えるだけである。車高が低いせいか、実際にスピードを出していたのかメーターを見ていなかったので判らないが実にスピード感がある。けたたましい爆音を響かせながら、狭い路地をたちまちすり抜けて錦江飯店前の路上に到着。どういう料金体系か理解できないが、3`ほど走って1元請求された。

 

5 十六舗埠頭自由市場

 京東路や准海路などは上海の顔と言われる。都市を人間に例えれば顔は体の一部に過ぎないのであって、市民の日常生活の全てではない。そこに群れている大衆の多くは地方からのおのぼりさんであったり、海外からの観光客であり、いわば「晴れの場」であるこういった表通りで普段着の市民を見ることは困難であろう。だから私が前に中国の人々の服装や化粧がナウくなったと書いているが、これはきわめて表面的な観察であり本当は正確でない。上海市民の日常生活や街の雰囲気に浸るためには、もう少し外周部の住宅地に足を踏み入れることが必要である。上海の場合、商店街やビジネス街は主要な道路沿いに線的に分布しているだけなので、一歩裏通りに入ればそこには生活の臭いが満ち溢れている。狭い路地を挟んだ3〜5階建てのレンガ造のアパートからなる高密度の住宅地が町工場などを介在させながら延々と続いている。ちなみに上海の人口1,200万人のうち区部の人口は800万人であり、この人口が144平方`ほどの地域に居住している。東京区部の人口密度1.4万人/kuに対して、上海は5.6万人/kuと非常に密度の高い市街地となっている。こうした超過密居住の具体例は、L氏宅訪問記で紹介した通りだ。政府も大都市への人口集中を抑制するいろいろな施策をとっているが、実際の人口集中の勢いは衰えていない。

 ところで、中国では最近の「開放経済」政策のもとさまざまな経済活動自由化の試みが色々な部分で採られている。対外的には宝山製鉄所のように外国からの借款による新工場の建設や、何ヶ所も設けられた「経済特区」の事例にみるとおりである。一方、 対内的には請負制の導入や私企業の容認など、この数年の間に中国経済を取り巻く情勢は大きく変化している。都市の中ではこれまでの国営商店のほか、個人営の商店や工場が現れており、日本のニュースでも家族で起業して盛業中の飲食店などがしばしば紹介されている。農村においては毛沢東時代を象徴するコミューンとしての「人民公社」が解体し、行政組織的な「郷」に再編され、経済の効率性、合理性が求められるようになっている。そこでは個人の自由な耕作や作物の処分が許された自留地が拡大している。とくに都市近郊の農村地帯では、都市の消費人口を見込んだ野菜や魚介類などの商品作物が自留地を中心に大量生産されるようになってきた。こうした商品を捌く場として市内に何ヶ所も生まれているのが、「農副産品市場」という名前のいわゆる自由市場である。国営市場と自由市場を直接比較した訳ではないが、ガイドブックなどによると商品の豊富なこと、新鮮なことなどから値段はかなり高いにも関わらず、自由市場は生産者、消費者の双方から高い支持を受けているようだ。現代中国の市民生活の一端を見ることのできるこうした自由市場、今回の訪中でぜひ覗いてみたい部分のひとつであった。

 六舗埠頭地区はこうした自由市場のひとつ。上海市内には「鳥魯木斉中路」や「北海路」などに大規模な自由市場があるが、十六舗埠頭地区もそのひとつである。ここは外灘のすぐ南に隣接する、黄浦江に面した漢口、重慶方面への航路のターミナルであり、大きな荷物を担いだ旅行者でにぎわっている。重厚な高層ビルが建ち並ぶビジネス街の外灘からはバスでわずか1区の距離(歩いても20分くらい)であるにも関わらず、こちらは2〜3階建ての小さな店舗や住宅が密集した庶民的な地区である。黄浦江沿いはターミナルビルと船客を待つ、軽や三輪のタクシーが何台かと、黄浦江上には国内各航路に向かう客船とはしけがさして広くない水面にひしめいている。河畔は中山東路が走っていて、街並みはその西側、かつての上海鎮である豫園を中心とする古い市街地に続いている。自由市場はこのゴチャゴチャ密集した市街地の路地に沿って網の目のように広がっている。

 自由市場を見るなら朝一番ということで、再び5時過ぎにホテルを出て十六舗埠頭に向かう。例により外灘までは55路のバスで、そこから先は65路で十六舗埠頭に行く訳だが、うっかりひとつ先の復興東路の停留所まで乗り越してしまったので、まだ暗い中山東路を十六舗埠頭まで戻る。夜明けの遅い冬の早朝にも関わらず、街はもう動き出している。この辺りの様子は日本の港町の風景とはだいぶ異なる。上海港を中心に国内各地を結ぶ航路が網の目のように張り巡らされており、長距離列車が発着するターミナルのようだ。ちょうど上野駅とその駅前のような雰囲気である。逆に「北站」と呼ばれる上海駅について見ると、幹線でも1時間に1本程度しかなく、通勤用の近郊電車が頻発している日本とは様子が違う。途中の「大達埠頭」のターミナルビルからは今着いたばかりの便からの乗客が吐き出される。大半はそのまま街の中へ、一部はターミナルビルの前に待機している例の三輪タクシーに乗って三々五々散って行く。

 六舗埠頭の自由市場はこんな風景の中に縁日の屋台のような店舗が路地に沿って軒を連ねている。まだ暗い自由市場の裸電球の薄明かりが灯った屋台のあちこちから白い湯気が立ち昇っている。朝粥やラーメンを食べさせる屋台である。ここは「十六舗埠頭農副産品市場」と入り口(網の目のような路地に沿って広がったマーケットなのでどこからでも入ることはできるが)に横断幕が掲げられているように、農畜産物や魚介類を専門に扱っているマーケットである。交差点部分に食べ物を提供する屋台が何軒かあるほかは、食料品を扱う店ばかりである。日本の同類の露店と違うのは、桁違いに規模の大きなこと、路地毎に扱う品物が区分されていることなど。とくに路地毎に同じ商品を販売する店が集中しているのは壮観だ。ある通りでは竹の篭に入れた卵だけを、別の通りでは草魚や亀、田螺などの魚介類を、またこちらの通りでは野菜をといった具合に専門化している。こうした店が幅5〜6bの道路の両側に続いており、この間に残されたわずかな隙間にジャンバーを着込み、白い息を吐く黒い人波がうごめいている。国営市場のように定価ではないので、売り手と買い手の間で盛んに価格交渉が行われている。ときには喧嘩と間違えるほど激しい言葉が飛び交い、見ていても迫力がある。またこの市場は毎日開かれているので、店毎に馴染み客がついているらしく、列をなして客が群がっている店があるかと思えば、店主が手持ち無沙汰に通りを眺めているところなどさまざまである。

 市場の雰囲気は日本を始め東南アジアのあちこちで見られる同じようなマーケットと合い通じるところもあるが、名の通ったものは多かれ少なかれ観光化していて、そこに生活する人たちだけでなく通過する観光客も標的とした商売が行われている。例えとして適当でないかもしれないが輪島や高山の朝市がその例だ。同じように香港のマカオ行き埠頭の前の広場で開かれる「プアマンズマーケット」なども素朴さを前面に出し、よそ者にとって珍しい雑貨を並べることで観光客をひきつけ、ひとつの観光スポット化している。こうしたマーケットと十六舗埠頭自由市場は違う。早朝ということもあると思うが、旅行者らしき人間を見出すことはできなかった。大体、観光客が欲しがるようなものは何も売っていない。もっとも、ここは都心に一番近い自由市場なので、やがて目ざとい連中が素朴さを売り物にした新しい商売を始めるだろう。いずれにしても、現在の十六舗埠頭自由市場は上海の下町っ子の生活空間の一部となっており、買い物篭を下げた群衆に肩をぶつけながらエネルギッシュな取引を観察していると、生活の息吹を強く感じることができる。

 

Z エピローグ

 海到着3日目の朝は厳しく冷え込んだ。道路の水溜りには氷が張り詰め、歩道の所々に設けられた痰つぼも凍って光っている。今日(1月4日)正午、虹橋国際旅運埠頭から「鑑真」号は神戸に向けて出港する。なんとも慌しい48時間だったが、さまざまな角度から変わり行く中国の姿を駆け足で垣間見ることができた。数千年にわたる長い歴史とともに、新中国になってからも「大躍進」、「人民公社運動」、「中ソ論争」、「土法」、「はだしの医者」、「大慶・大寨の実験」、「プロレタリア文化大革命とその否定」、「4つの現代化」など、建国以来わずか30数年の間に大胆な試行を繰り返しながら正体のよくわからないミステリアスな動きをしてきた中国は、我々に強い関心(好奇心?)を呼び起こさせる国である。しかし長い間、日本と中国はその関係を閉ざしており、庶民のレベルでは近づきがたい国でもあった。

 最近の対外開放政策は我々にとって中国という国を身近なものに変えつつある。「鑑真」号による日中航路の開設もその具体的な動きのひとつといえる。しかし最近の日本人の中国熱は経済活動にしろ、観光にしろいささか過熱気味の感が強い。関心の高まること自体、好ましいことに違いないが、熱にうなされたように一時に燃え上がるブームは冷めるのも速い。旅行業者が販売しているパック旅行は色々メニューが用意されていて手軽に利用できるので便利だが、中国の表面をいわば物見遊山的に通過するにとどまる。飛行機やバスで観光スポットを移動するだけであり、直接中国の人々と接する機会はほとんど得られない。これなら「シルクロード」や「大黄河」などNHKの海外取材番組でも見ていたほうが、要領よくまとめられていて合理的だ。中国を始めとした東南アジア諸国は日本との距離も近く、今回利用した「鑑真」号のような航路が増設されれば、両国の若い世代が容易に往来することができる。もっともアルバイトでしっかり旅行資金を稼いだ昨今の学生たちは少しばかり安価な船旅よりも、さっと飛行機で行くほうを選択するかもしれないが。もちろん、交通手段を何にするかは大した問題ではない。市民レベルで両国の交流や相互理解を地に着いたものとして幅広く進めるためには、国内旅行でも同じことであるが、既製品のパック旅行にとどまらない自分自身の五体で触れられる旅を創り出すことが必要であろう。

 今回の旅は、1週間というものの4日間は海の上、上海での滞在時間はほんのわずかであった。時間をかけた移動は、気持ちを徐々に中国的なものに移して行くことができるとは言うものの、途中下車のような駆け足旅行で中国の市民生活を云々することなど僭越のそしりを免れないであろう。ここで紹介した上海スケッチは、私の目で見たままを直感的に書いたものであり、中国という巨象の尻尾や背中を瞬間的に垣間見た印象に過ぎない。もちろん、人それそ゜れの立場から、観光地巡りの一環として上海を訪れるのもよいし、ふらふらと庶民の生活に浸るのもよい。とにかく巨大な都市なので多少の異邦人が押し寄せても、高級ホテルや友誼商店などの特殊な場所を除いて、上海はよそ者をその大衆の海の中に同化してしまい何もなかったように普段の街の風情を漂わせているだろう。中国の当局者が観光事業を安直な外貨獲得の手段として選ばないことを願っている。観光地然としないこうした街の雰囲気も上海の魅力のひとつだと思う。

 日ぶりに虹橋国際旅運埠頭に着いたとき、Lさんたち3人はすでに見送りに来ていてくれた。3人に上海滞在中の歓待のお礼を述べ、簡単な出国手続きを経て再び「鑑真」号の人となる。正午、「鑑真」号はタグボートに引っ張られて静かに黄浦江の埠頭を離れる。心地よい緊張の中ですごした人間臭い上海の街ともお別れだ。2日間見なれた上海のスカイラインが遠ざかって行く。一気に疲れが出てきたような気分になってベッドに潜り込むと知らぬ間に寝入ってしまった。バッグが棚から落ちる大きな物音に驚いて目を覚ますと、「鑑真」号は時化の海で船体を大きく揺らしている。時間は午後8時、「鑑真」号はすでに長江を下り、神戸に向けて真っ暗な空に吹雪が激しく舞う東シナ海を航行中。

 

旅の楽しみ

ヨーロッパの印象

フランス、小さな旅

ちょっと釜山まで

上海、2003年

街の物語――私的ニューヨーク・ストーリー2004.2.6〜2.10――

 オータム・イン・ニューヨーク

香港街歩き、2005年

ロンドン/歴史と文化、そして都市のストックを巡る

サンフランシスコ&ヨセミテの旅

スペインを訪ねて・2008年

ソウル街歩き 2008年

台湾、街巡り2011年

伊太利紀行・2012年