男体山は、大己貴命が祀られ古くから信仰の対象でした。
大己貴命は別名を大国主命(だいこく様)といい、古事記にも出てくる神様です。
天平神護2年(766年)この山に勝道上人が修行に訪れます。
勝道上人は、神秘的で美しい山を見て、この山は神霊のいる山と信じ二荒山と名付けました。
二荒山は、補陀洛山から取ったとされています。「西域記」には「山頂に池あり、その水鏡にして大河を流出す」と書かれているといいます。男体山、中禅寺湖、大谷川を、それに見立てたと言われています。中禅寺湖は人造湖を除く広さ4平方キロメートル以上の湖としては、日本一高い湖です。まさに西域記にあるとおりの光景だったのでしょう。
その後、弘仁11年(820年)に弘法大師空海が入山し日光と改称したとされています。
このときに反対もあったということですが、空海大師は「二荒」を音読みにすると「にこう」と読めると半ば強引に改称したという話を聞いたことがあります。
空海大師が、改称したのではなく「二荒」を「にこう」と音読みにする人が自然と多くなり、だんだん「にっこう」に変化し、それに「日光」という漢字を当てたという説もあるのですが、ちょっと無理があるような気がします。
江戸時代に入り日光街道がつくられ、日光という呼称が全国に広がり確定したと言われています。
私は空海大師改称説を信じています。
それは、次のように推理できるからです。空海大師は真言宗を日本に広めた僧です。真言宗は大日如来を本尊としています。「大日」とは「偉大なる太陽」の意味です。
それを考えると、空海大師は真言宗の布教のためにも、どうしても太陽のイメージを連想させる「日光」にしたかったのではないのでしょうか?
また日光は山岳信仰の地でもありますが、山岳信仰は太陽信仰と無縁ではありません。ご来光を山頂で迎えるというように密接な関係にあります。改称にたいする理由はいくらでも付けられるのではないのでしょうか?
また山管蛇橋(神橋)伝説も疑問に感じます。この橋の伝説には深沙大王が出てきますが、仏教の中で深沙大王はインドの神が仏教に帰依したとされています。空海大師の真言宗はインドの密教の流れを強く受けた仏教です。こんな所にも疑心暗鬼になってしまう私は疑り深い性格なのでしょう。
また奥の細道で松尾芭蕉は空海大師と書いています。 参照 → 奥の細道中の日光
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