
| Internet 013 議論になってない(011の付記) |
私のコラム「ネット上の議論が平行線をたどる理由」の中で、テキストで議論をするには読み・書きのスキルが必要で、きちんとした議論に求められる「読み・書きのレベル」は考えられている以上に高いということを述べている。とくに読解力に対して「抽象的でわかりにくいので具体的に例を出してほしい」「言いたいことはわかるけれどもピンと来ない」などのメールをいただいた。どうして今頃になってこのような反応があるのだろう。どこかから文中リンクでもされたのだろうか。 それらには一応の返事をしたのだけれど、メールが複数あったということは、かなりの数の人にとって「雲をつかむような話」であったのだろうかと不安が残っている。テキストサイト同士などで行われている議論をいくつか見ていただいて、反論の立場を取って書かれているテキストがちゃんと反論になっているかどうかを考えれば、それが具体例になると思う。目につくネット上の議論のたいていは、まともな反論になってない。数えて統計取ったわけじゃないけど。 これじゃ不親切極まりないので、具体例を無理やり作ってみる。 どこのサイトで紹介されていた話だったか失念してしまったが、女性の作家さんが「映画とセックスは同じだ」と言ったそうだ。内容も細かいところは忘れてしまったので、覚えている断片から私が勝手に書く。実際の発言とはずいぶん変わってしまうが、ご容赦いただきたい。 某女性が自分のサイトの日記で主張。 映画はセックスである。観なければ観ないで平気でいられるし、とくに観たいとも思わない。でもいったんそれに毒されると観ずにはいられなくなり、挙げ句「観ないでいることが恥ずかしい」とさえ思うようになるのだ。 これに対して某男性が反論。 映画をセックスに喩えているバカがいて、映画とセックスとの本質的な違いにあまりに鈍感であると嘆きたくなる。映画は一方向的であり、観客の反応はスクリーンに映し出される映像や鳴り響く音響に一切の影響を与えない。セックスは双方向的なコミュニケーションだ。映画をセックスに喩えようなんて発想が浮かぶこと自体、彼女のセックスが受け身でしかないことの証左である。この喩えはセックスに対して能動的に振る舞わざるをえない男性には決して思い浮かばないだろう。こんな比喩に共感する女性とはセックスしたくないものだ。 最初のとは別の女性が某男性に反論。 女性にだって能動的にセックスする人はいくらでもいるし、受け身ばかりの男性だっている。安易に「男は〜、女は〜」という一般化をしてほしくない。そのような一般化でわかったような顔をして偉そうに話す男性こそ、セックスを含めたあらゆるコミュニケーションの相手として、こちらから願い下げだ。男だとか女だとか言う前に、一人一人の個性を尊重するべきであると思う。 さあ、どうだろう。反論が2回起こっただけで、とんでもないことになっている。「映画は知らなければなくても不自由しないけど、知ると観ないでいることが恥ずかしいことのように思えてしまう」という話が、「個人差か性差か」という話になってしまった。このような「デキの悪い伝言ゲーム」みたいなことが、当人たちには意識されぬまま行われているのがネット上によくある議論である。はっきり言って、読んでられない。 某女性は「知らずにいれば何でもないことが、知って味を覚えてしまうことで強迫観念を伴うようになる」ことを指摘しているのであって、コミュニケーションの形式における違いなど論点ではないのだ。似たようなことが携帯電話(もはや持ってないことは恥ずかしいことである、と持っている人たちが考えている?)などにも当てはまるかも知れない。膨らませればいくらでも面白い話になりうるのに、読解力のない某男性が議論をふっかけるからだいなしになってしまった。さらに、アホはアホを呼ぶのである。 某男性は「映画とセックスには無視できない違いがあって、それはインタラクティブか否かである」と言っているのに、別の女性は「セックスにおける態度は人それぞれである」と反論している。男性の筆が滑ったことも要因であるが、セックスにおいて女性が体勢的に「受け」であることはさほどとんちんかんな一般化ではないだろう。しかも主要な論点ではないのだから、例外があると主張することの議論上の意義がわからない。実は3人目の女性は、「男は〜、女は〜」という一般化をしてほしくない、と言いたいだけなのだ。某男性は都合の良いきっかけにされたに過ぎない。 さらに滑稽なのは、この三者ともが「馴染んでしまうことによる強迫観念の生起」「映画の一方向性とセックスの双方向性」「性別による安易な一般化の否定」すべてに異議がない可能性があるように思えることである。某男性も3人目の女性も、実際には反論と呼べるような発言などしていないのだ。それなのに、当事者も傍観者も、反論が交わされ議論が行われていると考える。不毛だ。 このエセ議論は私の自作自演(先述したように1つ目はネタ元がある)であり、私の論旨に都合の良いように書かれているのだけれど、ネットで行われている議論の具体例として適切であると思う。先のコラムに述べた「気に入らない箇所をみつけて〜」「議論の出発点が素朴な違和感〜」「主観のぶつけ合い(しかもぶつけ合う場所がズレている)〜」などを具体的に理解する一助になれば幸いである。 では、最後に、もう一つ例を。 最近の小学生〜大学生を見ていると、どうしてこんなに「我慢」ができないのだろうと思う。授業中に私語や携帯メール、禁煙場所でタバコを吸う高校生も多い。一人っ子が多いからなのか、現代社会がそういうものなのか、親たちがダメなのか、それらすべてなのか分からないが、あまりにも我慢ができていない。もっと我慢するべきだ。(某文化人) 我慢しろと言うけれど、私は我慢して自分を犠牲にするのは良くないと思う。一度きりの人生なんだし、我慢するだけじゃなくて、自分がやりたいことをもっと自由に追求したい。親や先生に反対されたぐらいで諦めたり我慢したりしたくない。私の人生なのだから。(某女子高生) この2つは全くかみ合っていない。もうおわかりだろう。 |
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