蕨周辺の巡礼

巡礼といえば日本では「四国八十八ヶ所弘法大師霊場」や「西国三十三所観音霊場」など、いわゆる聖地巡礼・本尊巡礼と呼ばれる霊場が各地に存在しています。埼玉県内でも基本的な霊場の『うつし』が各所に設けられており、蕨周辺にも江戸時代になって開設された『うつし巡礼』がいくつも知られています。このうち蕨の高橋休山が創設した「足立坂東札所」が、蕨市にとってゆかりの深い観音霊場です。
菩薩達は、自らも悟りを開くべく修行するとともに衆生をも導く役割を持ち、そのなかでも菩薩の代表的な観音は、温眼慈悲相を示して信仰するものの願いを即座に観じて救済してくれる現世利益の仏です。観音霊場を順拝する風習が行われるようになったのは、平安時代のことといわれています。いまいうところの「西国札所」で、33ヶ所の観音像を順拝したのは、観音像が33のお姿に変化して何処にいても我々衆生を救済してくれるとの仏像の教えにもとずいています。鎌倉時代になると畿内の風習を、武家政権の鎌倉の地を中心になぞらえて設けたものが、「坂東札所」です。室町時代にはいると各地にそれらをなぞらえて、いわば地域の札所が設けられていきました。「秩父札所」もその一つで、多くは戦国時代に廃れてしまったようです。それらは各地に遺る「巡礼札」によって窺い知ることができます。


■中世蕨の巡礼者

各地に遺された「巡礼札」のうち蕨の地に直接かかわるものが知られています。
【栃木県足利市鑁阿寺(ばんなじ)坂東巡礼札】稲村坦元『武蔵史料銘記集』から
「坂東卅三所巡禮仙 武州足立郡芝丘郷蕨村 助三郎 助二郎 彦二郎
文明九年閏正月六日」
(文明九年=1477年)
(鑁阿寺本堂柱下ヨリ出ヅ)とある。長さ12センチ、幅4.5センチ。
この資料から蕨村の助三郎ほか二名が、「坂東札所」の巡礼に出たことが分かります。
このような巡礼札は納札ともいわれ、全国各地の札所やその他の寺院に遺されていることが知られています。漆塗の立派なものから木っ端に書されたもの、更に金銅板にたがねで銘文を刻んだものまで、いろいろな事例が知られています。
また、時代は下がって江戸時代に入りますが、「西国札所」には蕨の近くに住む人々による「巡礼札」が知られています。
【滋賀県石山寺西国巡礼札】元興寺文化財研究所編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』から
「享保七壬戌天 武州足立郡本太村 祈祷 千松 おい□     為二親 伊勢屋
奉巡礼西国卅三度大願成就処 同     寂貞     為二親 寿光
十月吉祥日願主願誉快応敬白     為 与吉」
(享保七年=1722年)
「西国札所」に対する巡礼は、東国の人々によって行われる事が多く「西国」という名もそのような方角から呼ばれたものと考えられます。

■北武蔵の札所

実は中世足立郡(明治以降は、埼玉県内は北足立郡、東京府内は南足立郡後足立区など)にも「札所」が設けられていた形跡が認められます。北武蔵(現埼玉県域)で江戸時代になり、世情の落ち着きが見られるようになった元禄時代にはいると、現騎西町正能の龍花院観照(かんじょう)が「新西国」(元禄三年=1690年)を開設したのです。さらに現桶川市下日出谷知足院の盛典(せいでん)が、「武蔵坂東=足立坂東」(元禄十五年=1702年)に開かれることとなったのです。その著書である『観音利生記』でこんなことをいっています。武蔵国には既に古くから「秩父札所があり近年観照阿闍梨(あじゃり)が新西国札所を開いたので、新坂東を設ければ武蔵国一国で西国・坂東・秩父の百ヶ所の札所を巡ることができると……」。また「元禄十二年に自坊の観音堂を再び建立するに際し、勧化のため流行して中ノ目村(現騎西町)に到り、そこの観音堂が札所の番次に加えられ村人が喜々として巡礼していると告げられた」ことが、その動機になったと述べています。
享保八年(1723年)には、弁材(現上尾市)昌福寺檀家井上五郎左衛門が「足立郡のなかに観照の新西国、盛典の足立坂東があるが、秩父ばかりが未開発なので足立新秩父を設けた」と……。
そのほか前後して幾つもの観音霊場のうつしが開創され、どの地域にも百ヶ所の巡礼が行われるようになったのです。
一堂に百体の観音像を勧請した百体観音堂(百観音)も各地に設けられています。
そうして江戸時代をとおして、さらに明治・大正・昭和・平成へと地域の巡礼が盛んに行われ、今日に到っているのです。

■蕨周辺の巡礼

蕨周辺の観音札所
「足立坂東三十三所」宝永二年(1705年)足立郡塚越 高橋源太郎昌教 開設
1番:観音寺(氷川神社内、現大宮市日進 満福寺に明治初年に移転)、浦和・川口・戸田・浮間(北区)・鳩ヶ谷の各地を巡って、33番:定正寺観音堂(塚越神社境内)。開設者の墓あり。開設時期については、種々の検討すべきことがらがある。



宝永2年 1705年 高橋源太郎休山夢のお告げがある。
延享元年 1744年 休山、没。
安永4年 1775年 「塚越邑観世音畧縁起」開版。このなかに「足立三十三番の札所」の表現あり。また「開扉足立三十三番札所諸観世音菩薩、開起 定正寺 発願主 高橋休山」とあり、「午年先例の通り二月廿四日より三月十九日迄日数廿五日の間開扉せしむるもの也と記し御府内より参詣は川口善光寺よりはじめ道順左の通り」とある。
寛政5年 1793年 定正寺本堂建立。(岡田茂右衛門日記)
寛政7年 1795年 定正寺本堂入仏供養。(岡田茂右衛門日記)
寛政10年 1798年 「足立坂東札所開帳、この札所取立人は塚越村当時百姓伝治郎言う者の祖父なり、親は友七といへり、其親半兵衛という者本願主にて、当五拾年余も以前二世安楽のためとて寺号院号迄をよくも糾し、作仏をえらみて三拾三所御詠歌迄も取立しと……」とある。(岡田茂右衛門日記)
天保5年 1834年 「足立坂東順礼歌」を改板。
弘化2年 1845年 「足立坂東起本開山記」を開板。


「武蔵国三十三所」元禄十年(1697年)?、享保五年(1720年)=石碑
元文三年(1738年)
1番:延命寺(現吉川市)、三郷・葛飾区・八潮・足立区・川口・越谷・松伏の各地を巡って、33番:東泉寺(吉川市)この霊場も開設時期について異なる説がある。
「雑誌 観音」元禄十年とあり、その基は「武蔵国三十三所順礼道中記」に「開基 吉川村 篠田太郎兵衛  同村 田村門三郎/右 板行願主(中略) 元文三年/吉川邑 田村又右衛門 文政五年 再板」とある。ところが石碑に下記の銘文が刻まれているところから元禄十年説も否定しきれない。
【彦糸公民館石碑陰刻銘】
(正面)彦糸邑 武蔵国三拾三番札所第拾番 實相院
(右側面)同行七拾弐人願主 森重五良 享保五庚子年十一月十八日

■蕨周辺の他の札所

「足立百不動札所」安政五・六年に版行(再版)された「武州足立郡百不動尊巡拝記(図)」「武州足立百不動尊順礼歌」が遺されている。この中には「六地蔵札所」が併設されている。観音札所が一般に午年に開帳されるのに対し、不動札所の場合は、酉年にご開帳する。
このほか本尊巡礼として「武蔵古跡薬師三十二番」「地蔵尊二十四番」などが知られている。
また、聖地巡礼として「足立八十八ヶ所」「北足立八十八ヶ所」などが知られており、八十八ヶ所を1ヶ所に集めた遺例も認められる。




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