蕨の文化財1
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埼玉県指定
■蕨城跡
蕨城は、南北朝時代渋川氏が館を構え、大永4年(1524)に北条氏綱により破壊されたと言われています。現在では、わずかに堀跡が残るだけですが、幕末の絵図(現在所在不明)によれば、微高地上に約12メートルの巾の堀と約8メートルの巾の土塁をめぐらした約12220平方メートルの規模の城であったと考えられます。所在位置については、確定的な史料や遺構はありません。蕨城址公園に蕨城址碑が建っています。
蕨市指定
■子育地蔵
元禄7年(1694)に建立された高さ2メートルの石造立像で、三學院地蔵堂にあります。もとは中山道に面した三學院の入口にありましたが、明治天皇が「大宮氷川神社」に参詣の際三學院の仁王門の前に安置されました(現在は参道の脇の地蔵堂に移設)。昔より子育・火伏・開運の霊仏として信仰をうけています。毎月4の日(4・14・24日)は縁日で、子供の無事を願う人たちが、線香やだんご(札所で売っています)さらに子供の身に付いているおもちゃや人形などをお供えする人もいます。毎年8月24日、「火伏・子育地蔵尊縁日」が催され、卒塔婆や写経のお焚きあげ、境内各所で屋台やゲームのアトラクションがあります。この縁日は、江戸時代から行われていた伝統行事が復活したものです。平成10年には10周年記念として、蕨在住のアルトサックス奏者・坂田明さんを中心とした「坂田明トリオ」によるコンサートが三學院境内で行われました。
■渋川公墓
渋川公墓宝樹院にある碑で、永禄年間(1558〜1570)に安房の里見氏との戦いで戦死した渋川公と、その死を悲しみ榛名湖に入水した夫人を祀ったものです。文化13年(1816)渋川公の250年忌に、その偉業と龍體院伝説を永く後世に伝えるため渋川氏の家臣の子孫により建立されました。従って厳密には墓ではなく供養塔です。
■一本杉塚
一本杉塚別名を金子塚、兜塚とも言われ、蕨を開発した金子氏所縁の塚、戦死者(戦国時代の渋川氏関係)を埋めた塚、蕨宿(江戸時代)の鬼門よけの塚とも伝えられています。度重なる落雷などのため、現在では枯れ木が残るだけです。
■長泉院梵鐘
長泉院梵鐘長泉院の梵鐘は、宝暦8年(1758)に神田鍜冶町の小幡内匠(たくみ)によって鋳造されました。乳をもたない・撞座が4個ある(普通は2個)・撞座の中央に梵字が鋳出しているなどの珍しい特徴をもっています。戦時中、特別に供出を免除されました。美しい音色で時を知らせていたため、「時の鐘」として蕨宿や近郷の人々に親しまれていました。水戸の弘道館の鐘と並んで、江戸時代の名鐘の一つに数えられています。「おしゃみの鐘」とも呼ばれています。
■蕨本陣跡
蕨本陣跡江戸時代蕨宿は、中山道で江戸から二番目の宿駅でした。本陣は、参勤交代の諸大名、公家、幕府役人等が休泊した所です。この本陣を利用した大名には尾張徳川家、紀伊徳川家、加賀前田家などの名が見られます。また、和宮降嫁の際には小休所になりました。維新後明治天皇が大宮氷川神社参拝の折にも小休止しました。現在本陣跡には、現代的なモチーフの建造物があります。尚、隣接して「蕨市立歴史民俗資料館」があります。
■双子織縞帳
蕨の機業の発展に貢献した高橋家(高橋氏所有)に伝わるものです。幕末から明治にかけて、蕨で生産された綿織物の柄の見本帳で四冊あります。イギリスの紡績会社の赤いラベルなども貼付され、当時の織物業の様子を伝える貴重な資料です。明治時代蕨は織物取引の中心地で、中山道沿いには機屋や買継屋が並び、まちは大変賑やかでした。
■高橋新五郎遺跡
高橋新五郎遺跡蕨の織物業を発展させた、二代目高橋新五郎(1792年〜1857年)が、後世の人々により妻の「いせ」とともに塚越稲荷社境内に「機神社」「はた神様」として祀られたものです。高橋新五郎は糸綿商の父の後を継ぎ、織物の生産を決意し、従来の「たかばた」を改良しました。後にこの織機は、高橋家の屋号「あずまや」から「あずまやたかばた」と呼ばれ機業家に普及しました。この織機で青縞(あおじま)を生産し、江戸の市場で人気を得ました。毎年8月に新五郎の創業の日を記念し、商工業の発展を願って機まつりが行われています。
■庚申塔(板倉家)
庚申塔(板倉家)板倉家邸内(南町4丁目の駐車場で同家の好意により、自由に拝観できます)の庚申塔は、寛政4年(1792)の銘をもち、青面金剛像や三猿を浮き彫りにしています。台座には三尸にちなんだ銘文が刻まれ、左側面に「右ぜんかうじ道」と刻まれていて、この塔は川口市にある善光寺への道標としても利用されていました。


※文化財については、公開していないものもあります。



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