護衛戦闘機ヤコヴレフ


 「兵士たちの対話」でご紹介した元戦闘機搭乗員ニコライ・ゴロドニコフ氏の談話は、様々な戦闘機の長所や短所、カタログデータと実際の「使い勝手」の違いなどを経験者の立場から説き明かす、貴重な資料となっている。中でも個人的に興味を惹かれたのは最後の部分、すなわちヤコヴレフ戦闘機とエアラコブラ、ラーヴォチキンとが異なる任務に充てられていた、という証言である。ゴロドニコフ氏が語るところによれば、「コブラ」やラーヴォチキンは制空隊としてしばしば敵戦闘機と渡り合ったのに対し、Yak系の戦闘機は専ら爆撃機などの直接護衛に回され、結果として敵機を撃墜するチャンスには恵まれない場合が多かったらしい。

 何故この話が印象的だったかというと、ソ連の著名なエースに関する記録を読んでいて、Yakを愛機としていた者は実は意外に少ないのではないか?との疑問を感じたからである。実際、コジェドゥープとポクルィシキンの両雄を始め、グラエフ、レチカロフ、エフスチグネーエフ、グリンカ兄弟、スコモロホフ、アメト・ハーンといった名だたる(と言っても日本ではほとんど知られていないだろうが…)撃墜王たちが乗っていたのは、いずれもラーヴォチキン系の戦闘機やP-39エアラコブラであり、ヤコヴレフではないのだ。
 自分の印象ばかりを語っていても仕方がないので、第2次世界大戦におけるソ連の撃墜リストの上位十傑を示し、彼らがどのような戦闘機を使っていたかを見ていただくことにしたい。周知の如く戦闘機パイロットの撃墜数確定は非常に難しいジャンルの一つであり、ソ連のエースたちについても様々な異説が存在しているのだが、ここではミハイル・ブィコフ氏の労作『ソヴィエトのエースたち 1941−1945』(2008年)に拠ってリストを作成することにした。

氏名(姓、名・父称) 生没年(2008年現在) 撃墜機数(個人+共同)
使用機
コジェドゥープ、イヴァン・ニキートヴィチ

1920−1991

64+0

La-5、La-7
レチカロフ、グリゴーリー・アンドレーエヴィチ

1920−1990

61+4

I-153、I-16、Yak-1、P-39
グラエフ、ニコライ・ドミトリエヴィチ

1918−1985

55+5

I-16、Yak-1、P-39
エフスチグネーエフ、キリル・アレクセーエヴィチ

1917−1996

52+3

La-5
グリンカ、ドミトリー・ボリソヴィチ

1917−1979

50+0

Yak-1、P-39
スコモロホフ、ニコライ・ミハイロヴィチ

1920−1994

46+8

LaGG-3、La-5、La-7
ポクルィシキン、アレクサンドル・イヴァノヴィチ

1913−1985

46+6

MiG-3、I-16、Yak-1、P-39
コルドゥノフ、アレクサンドル・イヴァノヴィチ

1923−1992

46+1

Yak-1、Yak-9、Yak-3
ヴォロジェイキン、アルセーニー・ヴァシーリエヴィチ

1912−2001

45+1

I-16、Yak-1、Yak-9、Yak-3
ポプコフ、ヴィターリー・イヴァノヴィチ

1922−

41+1

LaGG-3、La-5、La-7

 ブィコフ氏は同時代の資料にこだわって撃墜機数を算定しており、通説と異なる数字も大胆に採用しているようだ。勿論、ブィコフ氏自身が認めているようにこれが完璧なリストではないのだろうが、ソヴィエトのトップエースたちの戦歴を知る上で、一応の目安にはなり得ると思う。
 それに、ここで問題としたいのは彼らの撃墜数ではなく、その乗機の種類である。リストを見れば一目瞭然であるが、十大エースの中で最終的にヤコヴレフを乗機としていたパイロットはわずか2人、コルドゥノフとヴォロジェイキンだけで、その他は全てラーヴォチキンかP-39を使っているのだ。ただし一時的にYak-1に乗るケースは多いようだが、使用機の変遷を見る限りでは新型機に転換するまでの中継ぎ的な位置づけらしく、上記の2人以外は皆LaかP-39へ「卒業」してしまっている(逆にLaGGからYakもしくはP-39に転向するケースは皆無で、これはこれで興味深い)。
 ソ連を代表する戦闘機ヤコヴレフとトップエースたちとの意外な相性の悪さも、ゴロドニコフ氏が言うように、この機種が専ら直衛任務に回されていた結果だとしたら腑に落ちる。パイロットの腕や機体の性能とは異なる次元で、「ヤク」が撃墜機数を稼げない背景があったのだ。こうした背景は数字には決して表れてこないだけに、ゴロドニコフ氏のような同時代人の証言は、計り知れない価値を持っていると言えるだろう。

 もう1人、同じくソ連の戦闘機搭乗員であったイヴァン・コジェミャコ氏の談話も興味深い。ゴロドニコフ氏と異なり、コジェミャコ氏はヤコヴレフの戦闘機を手放しで称賛しているわけではないが、ただ襲撃機Il-2の直衛任務についた時のYakは恐ろしく冴えていた、と述べている。低空を低速で飛ぶ鈍重なIl-2を守りながら、Yakは持ち前の軽快な運動性を発揮し、いかなる方向から敵機がアプローチしようともこれに反応することができたという。
 さらにコジェミャコ氏は一歩進んで、Yakがあれほど大量に作られたのはまさにIl-2を護衛するためであって、もしもIl-2が存在しなかったらYakの生産機数も大幅に減少していたはずだ、との考えを述べている。無論これは一パイロットの推論にすぎないものであって、空軍上層が実際にそうした方針であったかどうかは定かでない。けれども当時の前線において、Il-2とYakとが互いに補い合う存在と認識されていた(コジェミャコ氏は「彼らは剣で我々は盾」と表現)事実には注目してもいいように思う。

 同じコジェミャコ氏へのインタビューから浮かび上がってくるのは、襲撃機や爆撃機の護衛任務を非常に重視するというソ連戦闘機隊のあり方である。最も鮮明にそれが表れている部分を2箇所ほどご紹介したい。

−P.クロステルマンは、1944年の状況について次のように書いています。
「…フォッケウルフFw190やメッサーシュミットBf109との戦いでは、タイフーン部隊はしばしば12機中6〜7機の損害を出していた。スピットファイアは無力であった…」
タイフーンというのはイギリスの戦闘爆撃機で、戦闘機スピットファイアがこれを護衛したわけです。それで質問なのですが、あなたのいた戦闘機連隊が護衛した襲撃機も、1944年には同じような規模の損害を出していたのでしょうか?

 いいや。あんた、何を言ってんだ?!12機の襲撃機で出て6機落とされるなんて、護衛機の隊長は軍法会議ものだよ。議論の余地もないね。1944年はおろか、1943年だって許されないレベルの損害だ。

−それでは、どの程度の損害までなら許容されたのでしょうか?

 12機なら1機、多くても2機だな。もしも6〜10機のヤクに対し、12〜16機の「メッセル」が襲ってきた場合の話だ。それだったら、あるいは許してもらえたかもしれん。許してもらえるといったって、それは軍法会議にかけられないだけの話で、いずれにしても護衛隊の長機は陰で色々言われることを覚悟せにゃならんがね。

―私の印象では、我が国の戦闘機連隊では、ドイツ機を撃墜した数はあまり重視されていなかったように感じられます。これは正しいでしょうか?

 違うね。撃墜数は重要な指標だったし、連隊の上層部にとっても、あるいは実際に撃墜数を計上する搭乗員たちにとっても、当然誇りとすべき対象だった。ただ問題は、これが連隊の働きぶりを示す唯一の数字ではなかったってことさ。
 例えば、私の連隊の戦闘詳報ではいつも、最初に記されるのは襲撃機の護衛で何回飛んだか、だった。護衛された襲撃機に損害が出なかったことも、必ず書いておく必要がある。さらにまた、地上軍の護衛に出た回数と、我々の護衛を受けた地上部隊が敵の爆撃機に攻撃されなかったことも報告する。それから我々自身が何度地上攻撃をやったか、それらの地上攻撃や「ハンティング」の際に何発の爆弾を落としたか、敵の兵器と兵員をどれだけ殲滅したか、いくつの橋を爆撃したか、何回偵察に出たか、等々といろんな項目があった。
 これら全てに加えて、言うなれば戦果報告の頂点に立つのが、撃墜した敵機の数なんだ。それは勿論、多ければ多いほどいいわけだね。
 ただ単なる抽象的な「撃墜数」なんてのは、何の意味も持っていやしない。
 繰り返しになるが、我々は攻撃機の護衛が主な任務だった。ルールとしてはこんな感じだよ。つまり、1機の襲撃機も失わず1機の「メッセル」も落とさないで帰ってくるやつの方が、3機の「メッセル」を落とす一方でたった1機でも襲撃機を失ってしまうやつよりも上なんだ。

 斯くの如しで、ソ連の戦闘機乗りにとって護衛任務の完遂は敵機の撃墜と同等、あるいはそれ以上に重要な課題であったことが分かる。襲撃機を落とされたら軍法会議とは厳しい話だが、軍上層が戦闘機の存在意義をどのように見ていたかの証左でもあるように思う。軍としては、厳罰で脅しつけてでも戦闘機を護衛任務に貼りつけることが望まれたのだ。その特性から護衛機向きだったYakがソ連を代表する戦闘機となり、大量生産されたのも不思議な話ではない。
 では、守られる対象として「大事にされた」襲撃機や爆撃機は一体何をやっていたのか?周知のように、ソヴィエト空軍は地上軍への協力を主要な任務としており、これらの機種は戦局に応じて友軍の攻撃を支援、あるいは敵の前進を食い止めるために飛び回っていた。Il-2の名パイロットであるヴァシーリー・エメリヤネンコ氏は、1943年に戦局が好転した時のことを振り返り、「歩兵が大きな成功を収めたからには、長く放置されていた航空兵の叙勲申請リストも陽の目を見ないわけがない」と書いている。つまり、襲撃機隊がどれほど奮闘しようともそれが地上軍の勝利に貢献しない場合は評価の対象となりにくく、逆に歩兵が頑張ってくれれば空軍も恩賞にあずかれる、という認識があったわけだ。

 地上軍の支援に徹するコンセプトは大変明確なものだし、彼らがこれで本当にベルリンまで行ってしまったことは否定しようのない事実である。その一方で、地上部隊を支援する攻撃機のそのまた護衛任務に縛りつけられた戦闘機隊では、こうした状況に対する反発も小さくはなかったらしい。例えば撃墜数でベストテン入りを果たしているニコライ・スコモロホフは、その回想録の中で戦闘機の護衛任務への貼りつけをあからさまに批判したばかりか、ドイツ戦闘機隊の「フリー・ハンティング」戦術の方を評価してさえいる。27機撃墜のエースであったセルゲイ・ゴレロフ氏によれば、爆撃機はともかく襲撃機の護衛は非常に困難で、「何かの罰を受けているかのような」苦しい任務であった。また上記コジェミャコ氏も、名機Il-2を守って戦ったことに誇りを感じると述べる一方、「正直に言えばドイツのパイロットが羨ましかった。こちらは護衛で首に綱をつけられたも同然だが、彼らは完全に自由で、好きな時に戦いを始め好きな時に終わらせることができた」と語っている。
 これだけを抜き出して見てしまうと、上層部の硬直した戦術に振り回されるエースたちというお定まりの構図になるのだろうが、しかし仮に彼らの「現場の声」が届いていたとしても、空軍上層が戦闘機隊の運用法を大きく変えることはなかったのではないかと思う。一貫して地上軍への協力を重視し続けてきたソヴィエト空軍にとり、強力なドイツ陸軍を空から撃砕する攻撃機の護衛は、戦闘機隊の根本的な任務であったはずだからだ。
 もっともスコモロホフの場合、戦争後半には戦闘機隊自体のイニシアティヴで任務を遂行できるようになったと書いているが、彼の乗機がラーヴォチキンであったことを考えると、決して空軍の方針転換というわけではなかったらしい。戦局の好転を受け、ソ連戦闘機隊でも機種による任務の使い分けをする余裕が出てきたと解するべきなのだろう。スコモロホフはラーヴォチキンに乗っていたからこそ、念願の「自由」を手にすることができたのだ。逆に、もしも彼がYakのパイロットであったなら、戦争が終わるまでずっと護衛任務につかされていた可能性が高い(その場合、46機撃墜のスーパーエース・スコモロホフも誕生してはいなかっただろう)。パイロットたちの不満はさておき、ソヴィエト空軍のやり方は筋が通っていたと言えるのである。

 これは軍事の研究家でも何でもない素人の雑感であるが、ドイツ軍が「敵を倒すこと」にこだわる軍隊であったのに対し、ソ連軍はあくまでも「勝利を収めること」を目指した軍隊、というイメージがある。勿論、両軍とも最終的には敵を倒して勝利することが大目標だったはずだから、あくまでもプロセスの問題としてではあるが。少なくともソ連側の記録を見ていくと、自然にこのような絵が浮かび上がってくる。

 最後にもう一度ゴロドニコフ氏の談話に立ち返ってみると、インタビュアーが「Yakは本当は大した戦闘機ではなかったのに、アレクサンドル・ヤコヴレフがスターリンと親しかったから大量生産されたと言われていますが?」という趣旨の質問を投げかけている。おそらく、最近のロシアではYakの存在意義をめぐる論争があったのだろう。他の戦闘機パイロットに対するインタビューでも、同様の質問を見たことがある。
 改めて考えてみると、Yakは歴史的評価に関してはかなり微妙というか、不運な立場に置かれているのではないだろうか。設計者ヤコヴレフがスターリンの寵を受けていたことは事実であるし、彼がこれを濫用しなかったとも言い切れない(とりわけポリカルポフI-180をめぐる一件でヤコヴレフが演じた役割については色々と取り沙汰されている)。またカタログデータだけで比較すると、Yakがドイツのライバルたちを大幅に上回っているようには到底見えないし、加えてヤコヴレフ乗りの撃墜王の数は極端に少ないときている。なまじ「ソ連を代表する名戦闘機」として有名であっただけに、現在では一種の偶像破壊ブームに乗って批判されやすいのかもしれない。
 しかし、ソ連の戦闘機隊が、あるいはソ連空軍自体が戦争中に何を期待されていたかを念頭に置くなら、あれほど大量にYakが生産された背景も理解できる。多くの敵機を落とすことはなくとも、攻撃機の護衛をやらせたら抜群だったヤコヴレフは、ソ連空軍にとってなくてはならない戦闘機だったのだ。ある兵器を評価する際、性能諸元や撃墜機数などの数字に表れない諸々の要素をどう捉えるか、ヤコヴレフ戦闘機は貴重な考察の材料となり得るのではないかと思う。


(11.04.05)


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