伝説から歴史へ

一歩前進・二歩後退


1、ポリュージエの時代

 『帝国統治論』という書物があります。ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス(在位913〜959年)が息子ロマノスのために書き記したもので、その標題が示す如く、帝国の舵取りをおこなう上で指針となる様々な方策を納めたものです。巧みな外交術を誇ったビザンツのこととて、周辺の諸「蛮族」をいかに操るべきかが事細かに述べられているのですが、その中にはルーシについての興味深い情報も含まれています。

 コンスタンティノスによれば、ロース(ルーシ)の人々は厳しい冬の間、次のような生活を営んでいました。すなわち彼らは自らの指導者に率いられてキエフを出、スラヴの諸種族の居住地をまわり、そこで「養われて」すごす。4月、ドニエプルの氷が溶けると再びキエフに戻り、船を艤装して船団を作り上げると、そのまま川を下って帝国にやって来る。その先のことについては皇帝は記録していませんが、おそらく彼らはコンスタンティノープルで商いをおこなった後、冬になる前に北へと戻っていったのでしょう。
 皇帝はまた、「ポリュージエ」(πολυδια、полюдье)という言葉を紹介しています。これは通常「巡回徴貢」と訳されています。すなわち冬の間、公に率いられた人々が各地を訪れて税の取り立て、または寄食を行ってまわることを意味する用語なのです。
 通信・流通の手段が話にならないほど原始的であったこの時代、首都に居ながらにして税を集めるよりは、各地をまわって直接集める方が確実だったのです。これはルーシ特有のものではなく、初期中世の西方においても「移動宮廷」方式が行われていました。

 冬は支配地をめぐり歩いて寄食生活をし、また貢税を取り立て、夏にはそれを持ってコンスタンティノープルに行き、そこで交易を行う…これが当時のキエフ公の生活サイクルであったと思われます。


2、イーゴリの戦い

 『帝国統治論』にはルーシの公としてイーゴリ(及びその子スヴャトスラフ)の名が挙げられています。半ば伝説的存在であったオレーグに比べて、イーゴリの歴史的実在性ははっきりしています。ただし年代記に見える彼の事績は、前任者オレーグのそれと非常に類似したものと言えます。
 オレーグと同様、イーゴリもまたキエフ周辺のスラヴ諸種族との戦いを始めています。代替わりしたばかりの新しい公がその権威を周囲に認めさせるためには、武力に頼ることが必要だったのでしょう。とりわけドレヴリャーネ族は強力な集団で、キエフの権威をなかなか認めようとしない頑強な抵抗者でした。イーゴリは彼らを打ち負かし、「オレーグのときより」高い貢税を課しています。
 一方この時代には南方遊牧民の世界にも変化が生じています。ステップ地帯の雄であったハザールの弱体化に伴って、新たな遊牧民であるペチェネグ人が東方からやって来たのです。ルーシがペチェネグと交戦した最初の記録はイーゴリ時代のものです。対ペチェネグ関係は、11世紀に至るまでキエフ公の課題の一つとなりました。

 941年、イーゴリは大軍を率いてコンスタンティノープル遠征の途につきます。略奪と賠償金によって富を獲得し、また遠征の成功によってキエフ公の威信を上昇させるまたとない機会だったのですが、この度の結果は散々でした。年代記によれば「グレキ(ギリシア人)は自分のもとに天の稲妻のようなものを持っており」、これを用いてルーシの艦隊を焼き払い、撃退することに成功します。ビザンツ軍は有名な秘密兵器(形容矛盾か?)、「ギリシアの火」と呼ばれる一種の火炎放射器を持っており、この時もそれを有効に使用したようです。
 しかしその数年後(945年)、イーゴリは新たに帝国と通商条約を結んでいます。ルーシにとって対ビザンツ貿易は重要なものであり、遠征の失敗によって帝国から有利な条件を引き出すことには失敗したにせよ、この種の条約を欠かすことはできなかったことがわかります。

 『原初年代記』に見える以上のようなイーゴリの活動は、『帝国統治論』の記述とちょうどコインの裏表の関係にありました。『統治論』に見える巡回徴貢や貿易は平時の、いわばノーマルな状態のもので、もし諸種族が(例えばドレヴリャーネのように)税の貢納を拒否すればそれに対しては「懲罰」として戦いが行われたであろうし、またコンスタンティノープルへの貿易行も、条件が整えば大遠征に転化することもありえたのです。従って、公にとっては常に「有事」に備えることが必要だったのです。

3、もしも狼が絶えず羊たちのところへ…


 こうした武力のみに頼っての支配政策は、当然のことながら不安定なものでした。他ならぬこの弱点が、イーゴリの命取りにもなってしまったのです。

 945年、イーゴリは例のドレヴリャーネ族のもとへ貢税を取り立てにいき、却ってその反撃にあい殺害されてしまいます。『原初年代記』によれば、イーゴリはドレヴリャーネからすでに取り立てがすんでいたにもかかわらず、再度徴収に向かったのでした。あるいはビザンツ遠征の失敗をここで埋め合わせようと焦ったのかも知れません。
 しかしドレヴリャーネはイーゴリの貪欲に黙って耐えることはしませんでした。彼らは「もしも狼が絶えず羊たちのところへやって来てそれを人々が殺さなければ、それは群全部をくわえ出す」だろうと考え、実際そのように行動したのです。またこの時イーゴリにつき従う従士団の数が少数であったことも、この悲劇の原因でした。
 ビザンツ史料によるとこの時イーゴリは二つの木に縛り付けられ、真二つに引き裂かれるという残酷な殺され方をしたようです。もってドレヴリャーネ族の憎しみの程がわかるのですが、軍事的な優位のみによる支配は、そのバランスが崩れた時にこうなる危険性も充分あったのです。

 年代記はこの時のドレヴリャーネをマルという名の公が率いていたと書いています。つまり彼らは自前の指導者を持つ強力な集団でした。一方残されたイーゴリの子・スヴャトスラフはいまだ幼く、状況次第によってはキエフ中心の支配体制が、言い換えるならルーシ国家そのものが存亡の危機を迎えていたわけです。
 さてドレヴリャーネを初めとする諸種族はキエフの桎梏を逃れて自由を回復することができるのか、はたまた巻き返しを計るリューリク家の力の前に屈するのか。それは次回のお楽しみであります。

(98.12.19)


キエフ史概説へ戻る

ロシア史のページへ戻る

洞窟修道院へ戻る