補説12

ハザール可汗国(1)


 ハザール国家は世界の遊牧史上でも非常にユニークな性格を持っており、これに興味を持つ人は少なくありません。しかしながら、ハザールについて知られていることというのは実の所それほど多くはないのが実状です。
 ハザールとは何者なのか?彼らはどこから来てどこへ去ったのか?という基本的な問いに対しても、確固とした答えは出ていません。おそらくトルコ系であろうと言われ、またかつては中央アジアで「西突厥」と呼ばれた人々の一部であったと考えられています。
 ハザールが西突厥から独立して自前の国家を作り上げたのは7世紀頃のことで、ビザンツ帝国の史料にもその名が現れるようになります。というのもハザールはササン朝ペルシア、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返し、その両国と敵対していたビザンツとは同盟関係にあったからです。

 さてハザール国の地理ですが、これまたわからない部分が多いようです。時代によってもかなり違うのですが、概ね東はカスピ海(「ハザールの海」とも呼ばれていた)から西は黒海北岸・南ロシアの草原地帯までの、非常に広大な地域がハザールの支配下にあったと考えられています。従って南ロシア平原だけが彼らの活動の舞台だったわけではありません。

 地図は例によってロシア中心なのでハザール東方領土がまったく反映されていないのですが、一応目安までに。ドン下流域にあるサルケルは彼らの主要な都市の一つで、ヴォルガ河口(カスピ北岸:この地図には出ていない)のイティルとともに「両首都」とも呼ぶべき存在でした。赤い線で囲まれているのがハザールに最後まで貢納を続けた東スラヴのヴャチチ族の住地です。古くはキエフ付近に住んでいたポリャーネ族もハザールに税を納めていたという記録があり、ロシアにおいてハザールの勢力がいかに広範囲に及んでいたか、がわかると思います。

 ハザール族は確かに遊牧民でしたが、しかし完全に遊牧経済に依存していたのではなく、言うなれば半定住生活を送っていました。先に述べた二つを含め、旧ハザール国内では数多くの都市の遺跡が発掘されています。
 これには彼らの占めた地理的環境が影響しているようです。というのも、ハザールの版図にはカスピ海bヴォルガという当時の国際貿易の要地が含まれており、ここから莫大な関税収入が期待できたからです。かつてのハザール都市は、異国から来た多くの商人でにぎわう国際色豊かなものであったと考えられています。
 

 交易によって、また支配下の諸族から得られる貢税によって力を蓄えたハザール国家は、当時の国際社会で重きをなしていました。大国ビザンツもハザールには一目置き、東方の強敵イスラム勢力と対抗する上で重要な同盟者と見なしていたのです。732年、ハザールの可汗は娘をビザンツの皇子に嫁がせ、彼女の息子レオン4世(在位775〜780)は後に「ハザールのレオン」というあだ名で知られるようになります。
 ほとんどの外国人を見くだしていた気位の高いビザンツ人が、その帝室にハザールの血を入れることを厭わなかったという事実は、彼らがハザールを戦略的パートナーとして、また帝国と肩を並べる「文明人」として高く評価していたことを物語っています。
 また上述の都市サルケルの建設に際しては、ハザール人はビザンツに要請してその建築技師を派遣してもらい、城壁の設計にあたらせています(830年代)。両国の絆は、少なくともハザールが強国であるうちは堅いものだったようです。

 こうした外交的な華やかさに比べ、ハザールの国制についてはほとんどわかっていません。とにかくハザール人自身が残した史料はほとんどない、というのが実状なのです。
 比較的有名なのが、宗教的権威を司る可汗(カガン:遊牧社会に伝統的な支配者の称号)とその下で政治的権力を握っていた王との、いわゆる二重王権が成立していたことです。この関係は後のイスラム社会におけるカリフとスルタンを彷彿させるもので、きわめて興味深いものと言えます。

 さて、ハザールの名を多くの人に知らしめている要素の一つとして「ユダヤ教」を忘れることはできないでしょう。「非ユダヤ人によるユダヤ教国家」として、ハザールはほとんど唯一の存在です。
 可汗を含めたハザールの支配階級がユダヤ教に改宗したのは9世紀もしくは8世紀のことです。なぜこの選択が行われたのか?に答えるのは容易なことではありません。遊牧及び交易を主体とする国家にしばしば見られる宗教的寛容をハザールも持っており、それゆえキリスト教世界(ビザンツ)などからパージされたユダヤ教徒が多数流入したとは考えられますが、それにしてもなぜユダヤ教を国教としたか、の答えにはなっていません。
 おそらくハザールの支配層は隣接する二つの文明圏 ― ビザンツ及びイスラム両世界に対して独自性を保つため、同じ一神教の中でもユダヤ教を選んだのではないか、と考えられています。もちろんこれは今日の研究者の観察によるものであって、当のハザール人にとっては「真理」を追い求めた結果ユダヤ人の教えに行き着いた、というところでしょう。ハザールの公式の神話では、かつて可汗の前でユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの代表が論戦を行い、その結果ユダヤ教が選ばれたとされていたのですが、面白いことに、後にルーシがキリスト教を受容するときの構図はこれに似通っています。

 しかしながら、ユダヤ教改宗は結果的にハザールにとってマイナスであったと評されることも多いようです。ハザールの臣民たちは大多数がイスラム教徒かキリスト教徒であり、当然のことながら毛色の違う宗教を受け入れた支配層との間に亀裂が生じ、その結果国家の団結力が減じた、というわけです。また伝統的な同盟者であったキリスト教帝国ビザンツとの関係もこれによって微妙なものになった、と見る人もいます。
 この問題を考える上では、ユダヤ教が実際可汗国においてどの程度普及していたか、を含め、まだ研究されるべき点が多く残っています。

 ハザールの国力は9世紀頃からかげりを見せ始めます。それまで自らの配下につなぎ止めてきた諸民族(ルーシ、ブルガールなど)が独立の傾向を示し、さらに東方から新たな遊牧民であるペチェネグ人がハザール国家を脅かすようになったからです。10世紀になるとこの流れは一層激しくなり、ついにスヴャトスラフ率いるルーシの軍勢によってとどめを刺されるのは本文で述べた通りです。ただし「ハザール人」と呼ばれる人々が完全に消滅したわけではなく、ロシアの年代記においても何度かその姿を見かけることができますが、次第にそれもまばらになっていきます。いずれにせよ一つの文明世界としてのハザールはスヴャトスラフの劫略によって死んだ、と言えるでしょう。

 ハザールにとってみれば、北方の「野蛮人」ルーシ国家の成長はまことに不運であったと言えるかもしれません。しかしながら、スヴャトスラフ自身はむしろ西方に対して精力的な遠征を続けたのであり、ハザール攻撃は一時的なものでした。にもかかわらず、ハザール国家が往年の力を取り戻せなかったという事実は一見以外に思えます。例えばドナウのブルガリア人が、ビザンツ帝国に併合されながらもその民族性を失わず、何度も国家として再興したことを考えあわせれば、ハザールの脆弱性は際立ってさえいます。
 これは国際的な交易の中心、民族の十字路という位置がかえって仇になったと言えます。可汗国の構成要因は非常に流動的であり、それゆえハザール人は民族として完全に結晶することができませんでした。言うなればハザールは諸民族の流砂の上にそびえ立つ不安定な国際国家であり、一度打撃を受けた後はその流砂から這い上がれなかったのです。

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(99.02.20)


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