補説13

ハザール可汗国(2)

―様々な「ハザール論」―


 (1)でも述べたとおり、ハザール可汗国は非常に興味深い特質をいくつも備えていた上にその実体にはわからない部分が多く、今に至るまで活発な議論の対象となっています。ここでは数あるハザール論の中でも特に興味深い、また問題となるものを紹介したいと思います。

・東欧ユダヤ人とハザール

 旧ソ連・ポーランドなど、東欧世界に広くユダヤ人が居住していることは、彼らの多くがナチスの迫害の対象になったこととあわせ、日本でも有名であると思われます。しかしながら、彼らのルーツには実の所あまりよく分かっていません。そのため、これをハザールと結びつける仮説が存在します。すなわち祖国を失ったハザール人=ユダヤ教徒はその後ロシアから西に向かって拡散し、「ユダヤ人」として東欧各地に住み着くことになった、というわけです。
 この説はかなり魅力的なものとして注目され、日本の百科事典でも定説として扱っているものがあります。しかしながら学界の大半はこれに否定的で、ハザール起源説にはその裏付けとなる根拠がなく、東欧ユダヤ人のルーツは逆に西方からの拡散に求められるのが一般的なようです。
 確かにハザールの「消滅」と東欧ユダヤ人の「出現」という二つの謎を結びつけたくなるのはわかりますが、確たる物証がない以上やはり勇み足というべきかもしれません。

・ロシア史におけるハザールの位置づけ

 旧ソ連/ロシアの歴史学界において、ロシア史におけるハザールの影響というものは不当なほど低く見積もられるか、或いは無視されてきました。これはハザールに限らず、モンゴルなど遊牧民全般がロシア史にとって一方的に負の要素として扱われることが多かったせいでもあります。ただしハザールの場合はロシア国家(ルーシ)形成前後という微妙な時代に関わるため、より複雑な問題をはらんでいるようです。
 確かに東スラヴ所族が一時的にハザールの支配下にあったことまで否定する学者はいません。しかし先にも述べたようにハザールから受けた文化的・政治的影響などはほとんど無視され、野蛮な遊牧国家のくびきから脱するためにルーシ国家形成が進められた、という意味での「評価」が一般的なようです。旧ソ連の代表的なキエフ研究家ルィバコフもその一人で、彼はハザールを国際貿易路の「寄生的国家」という、露骨に否定的な表現で呼んでいます。
 ルーシの形成におけるノルマンの問題があれほど熱い論争の的になったのに対し、ハザールの要素というものはあまりにも軽く扱われてきたと言えます。例えば(本文では触れませんでしたが)キエフ国家成立前後のアラブや西方の史料では、ルーシの首長が「カガン」と呼ばれている例があります。おそらくこの時期において、「カガン」というハザール的称号はルーシの人々にとっても非常に権威あるものと見なされていたのでしょう。この一事をとっても、ハザール問題が無視されるべきではないことがわかります。

 ところで、これとは全く逆に、ルーシ国家の建設とハザールとを非常に強く結びつけて考える研究者も存在します。当然と言うべきか、主にロシア国外においてですが。
 最近日本で出版された『ポーランド・ウクライナ・バルト史』(山川 新版世界各国史20 1998年)のキエフ・ルーシ(ウクライナ史)においては、この考え方が強く反映されています。実際、ここで述べられているキエフ・ルーシ論は、多少なりともこの時代に触れたことのある人なら驚くべき内容になっている、と言えるほどです。
 それによれば、ルーシは元来フランス南部からこの地に進出してきた商人団の名称で、それが9世紀に至ってハザール可汗の家系とつながり、いわばハザール国家の後継者としての地位を得て南ロシアの覇権を獲得した、とのことです。上記のごとくルーシの公がいくつかの史料で「可汗」と呼ばれているのもこれで説明できる、というわけです。尚、都市キエフの起源そのものもハザールの砦から発展したものとされています。
 この説は、これはまた振り子が逆の方向に大きく触れてしまった、という気がします。ハザールを無視してしまうのも、ハザールによってすべてを説明してしまうのも同じくらい片寄っているのではないでしょうか。実際、この説に立つならばこれまでのロシア史研究の蓄積、それ以上にロシアに残された同時代史料(この説の内容に該当するものはない)のすべてを無視するしかないわけで、随分乱暴な気がします。ついでに言うなら、この論に付された参考文献は極端に少なく、ちょっと慎重さを欠いているという印象を受けます。

 確かにハザールは研究材料の少ない初期ルーシ史にとっても魅力的な素材であり、これを排他的に切り捨てるのはナンセンスでしょう。しかしながら、これだけを使って一気呵成に「謎を解く」ことを目指すような態度も危険であると言えます。もっとも、ルーシにせよハザールにせよ極端に史料が少ない分野なので、いたずらに「定説」に固まらずに様々な立場が現れるのは悪いことではないと思います。問題は議論が続けられていくことでしょう(我ながら面白味のない結論だ…)。

・草原の守護者ハザール…誰に対しての?

 ハザールに対する評価の中でしばしば現れてくるのが、彼らが東方に対する防波堤の役割を果たしていたというものです。すなわちハザールが南ロシアに頑張っている間は東方の「野蛮な」遊牧民ペチェネグがルーシを荒らすことはなかったのであり、従ってスヴャトスラフがハザールを壊滅させたのは大いなる失策に属する。またハザールはイスラム勢力がビザンツに、さらにはそれより西方のヨーロッパ諸国に入り込むのを身を呈して防いでおり、いわばキリスト教世界の西の守り手として正当な評価を受けるべきである云々…

 結果的にハザールが東方の諸勢力と対立関係にあることが多かったのは確かでしょう。しかしそれを「評価」するべきかどうか。先に述べたようなハザール論には、「遊牧・イスラムなど東方的要素はヨーロッパ世界にとって議論の余地なく悪である」という偏見がつきまとっているように思えるからです。ハザール国家は何も西方世界に奉仕するために存在したわけではなく、「防波堤」としての評価は典型的なヨーロッパ中心史観の表れであると言えます。

 ところで、ハザール人自身の手になる数少ない史料の中に「ヨセフの手紙」があります。これは10世紀の中頃に可汗であったと見られるヨセフが、西の果てスペインに住むハスダイ・イブン・シャプルトというユダヤ人からはるばる送られてきた手紙に答えたもので、ハザールの支配者が自国の情勢について語った貴重な史料になっています。
 ヨセフの語るところによれば、ハザールはヴォルガを下って攻めてくるルーシその他の民族と勇敢に戦い続けており、それによってイスラム世界全体が荒らされるのを防いでいる、のだそうです。これは、手紙の受取人であるハスダイがイスラム王朝(後ウマイヤ朝)の廷臣だったことから、「我々はイスラムの側に立っている」という一種のアピールであったとも考えられます。しかしそうした点を割り引いても、ハザール自身が(現代のヨーロッパの研究者と逆に)「西からの攻撃に対して東を護っている」と述べているのは皮肉なことだと言えます。結局ハザール滅亡後も、ヨセフが危惧して見せたようにルーシの軍勢がバグダードを荒らすことはなかったのですが。

・反ユダヤ主義の標的として

 以下は、たまたま書店で立ち読みした「ユダヤもの」の一冊にあった話。とんでもないことに、現代ロシアの右翼・反ユダヤ派の中にはハザールを全てのユダヤ問題の源泉と考えている人もいるようです。曰く、対ハザール戦はロシア民族のユダヤとの最初の戦いであり、国を滅ぼされたユダヤ人(ハザール)はロシアへの怨みを強く持ってその内部に入り込み、様々な反ロシア的陰謀をめぐらしている、という感じで。
 これだとスヴャトスラフ公も反ユダヤの英雄になってしまうのですが…ま、ユダヤ人が歴史の影で常に暗躍しているという素朴な歴史観は珍しくもないですが、それにしてもこれは、という気がします。あらゆる状況を無視して「ハザールはユダヤ教を採用していた」点だけをすくい上げるやり方は、歴史の悪しき利用法としてはポピュラーなものかもしれません。

 しかし、その本の著者はどうもそれを本気で信じていたようで、そっちの方が問題という気もします。やれやれ。

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(99.03.03)


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