ニキータは1122年の秋にコンスタンティノープルからキエフにやってきて、10月15日の日曜日に府主教の位に就き、1126年3月9日に府主教のままで亡くなった(イパーチー年代記では1127年に死去したとされる)。恐らくギリシア人であった。

 彼は府主教として1123年春にウラジーミル・ヴォルインスキー主教シメオンを、1125年10月4日にペレヤスラヴリ主教マルコを叙聖した。ペレヤスラヴリ主教座は、1123年4月12日に主教シリヴェストルが死んだ後、二年半のあいだ空位であった。ポッペによれば、これはスモレンスクに主教座を設置しようとしたウラジーミル・モノマフに応じることを府主教ニキータが拒否した結果であった。モノマフは自分の孫のロスチスラフが公位にあり、かつ当時ペレヤスラヴリ主教座に属していたスモレンスクに独立した主教座を設置することを望んでいた。それ故にモノマフはペレヤスラヴリ主教座に新たな候補者を擁立しようとする府主教の試みをうまく拒否した。しかしスモレンスク主教座の設置も失敗に終わった。このウラジーミル・モノマフが1125年5月19日に死んだ後に初めて、彼の息子のムスチスラフは府主教の要請を認め、マルコをペレヤスラヴリの新主教として了承した。ニキータの死後、府主教座はおよそ5年のあいだ、空位であった。

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