ポッペ、シチャーポフといった現代の研究者によれば、イオアン1世は、フェオフィラクトに続いてその存在が証明される二番目のキエフ府主教である。「ロシア府主教イオアン」の刻印付きの小さな鉛の印章が発見されており、V.ローランは碑文学的な徴によりこれを10-11世紀の交のものと考えている。

 11世紀後半に書かれた聖ボリス・グレプに関する二つの聖者伝的著作(すなわち1、匿名の著者による物語、2、ネストルの読本)では、イオアン1世は「大主教」とも「府主教」とも呼ばれている。いずれにせよ彼はヤロスラフ賢公時代の最初の時期(1019年以降)におけるルーシの教会の指導者として登場している。ポッペによれば、この状況から、メルセブルクのティトマールの1018年の話に登場するキエフ大主教がまさにイオアン1世であると考えるができるという。

 帝政期の教会史家マカーリーはイオアン1世が聖ボリスとグレプを称えた最古の奉神礼の作者であると考えているが、ポッペは、この著作はテクスト通りに上述の二つの聖者伝と結びついており、またこの聖者伝は1072年のボリス・グレプ公の列聖の時か、それ以降に現れうると考えられるので、恐らく「イオアン=奉神礼作者」説は正しくないと考えている。

 またニコン年代記や階梯書では、このイオアンがキエフとペレヤスラヴリに石造教会(キエフ近郊ベレストヴォの聖使徒ペトロ・パウロ教会、ペレヤスラヴリの主の十字架教会)を献堂したと記されているが、ゴルビンスキーはこれを府主教の仕事ではないとして退けている。

 それ以外にも、イオアンはペレヤスラヴリのイオアノフスキー修道院(ラヴレンチー年代記1126、1146年の項で言及される)の建設命令を出したとされる。

 見たところイオアン1世は1018年までに府主教になっており、最も遅く見積もれば、1030年代まで府主教であった可能性がある。


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