「去勢された人」であるイオアン3世は、およそ1090年から一年に満たない期間のあいだ、キエフで府主教であった。『過ぎし歳月の物語』によれば、前任者のイオアン2世の死後、キエフ大公フセヴォロド・ヤロスラヴィチの娘のヤンカ(アンナ)が、このイオアン(3世を)コンスタンティノープルから連れてきたという。従って彼はギリシア人と考えられる。年代記では、このイオアンを見たキエフの人が「死人がやってきた」と記されており、それ故にポッペはイオアン3世はキエフにたどり着いた時には既に死の病にかかっていたと考えている。

 ペチェルスキーの聖フェオドシーの遺骸の移送に関する年代記の話ではイオアン3世は登場しない。そのためにこの行事が行われた1091年8月14日までに彼は死去しており、そのためにキエフの座位は再度空位になっていたと考えられる。

 イオアン3世は恐らくユーリエフ主教マリンに対する叙聖の按手を行った。彼の前任者(イオアン2世)と異なり、イオアン3世は年代記で「無学で(「学があり」とする写本もある)、考えも話も普通の人」と特徴づけられている。彼についての情報は極めて少ない。

 府主教リストに戻る

 洞窟修道院に戻る