ニコライは、恐らく1091年から1104年のあいだキエフ府主教であった。直接の前任者と思しきイオアン3世(確実に彼が前任者であるとは言えない。あいだに誰かを挟んでいる可能性もある。)が1091年8月に亡くなっており、それ故にニコライは早く見積もっても1091年8月以降に府主教になったと考えられる。また後任と思しきニキフォル1世が1104年11月に叙任されているので、長く見積もってもニコライに在職期間は1104年までであろう。

 ニコライ府主教の名前は専ら年代記の中の二つの話で言及されている。

 キエフの貴族と都市民の強い懇願により、1097年11月にニコライはキエフ大公フセヴォロドの寡婦を伴って対立する諸公間の仲介者として登場する。このことは、府主教とルーシの社会政治生活とが一定の関係を持っていたことを証明する。

 また1101年夏にも、ニコライは再び都市内部の平和を支持する者として登場する。

 ゴルビンスキーはノヴゴロド主教ニキータへの按手をニコライが行ったとするが、これが正しいのかは全く明らかでない。確実なのは、このニキータへの按手が1089年以降1096年以前に行われたということだけである。

 尚、ニコン年代記では、イオアン三世の死後に「キエフと全ルーシの府主教エフレム」が登場しているが、ゴルビンスキーやポッペ、シチャーポフら専門家の意見では、彼はキエフの府主教ではなく、ペレヤスラヴリの府主教である。

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