作戦参加者の回想に見るソ連軍大攻勢2


 ここでご紹介するのは、エヴゲーニー・ベスソーノフの回想録『ベルリンへ!』(2005年、ヤウザ出版&エクスモ出版)より、「ヴィスワ・オーデル作戦」と題する章の訳文である。ベスソーノフは「ソ連側から見たタンク・デサント」の第5項、「体験者の回想に見るタンク・デサント」にもご登場願った元赤軍中尉で、1943年夏から終戦まで戦い抜いており、若くして幾度となく死線をくぐり抜けた経験を持つ。極めて損耗率の高い歩兵小隊長を務めながら、5度の攻勢作戦に参加して生き残ったというのは、よほど優秀かつ幸運な戦士でなければ考えられない。

 あらためてベスソーノフの履歴に触れておくと、1923年のモスクワ生まれ(従い、初陣を飾った時には弱冠20歳であった)、1943年のオリョール攻勢から44年のカーメネツ・ポドリスキー攻勢、リヴィウ・サンドミェシュ攻勢、45年のヴィスワ・オーデル攻勢、そしてベルリン攻勢と、ソ連軍が戦争後半に実施した大攻勢のかなりの部分に参加している。原隊は第49機械化旅団(後に第35親衛機械化旅団と改称)の第1自動車化歩兵大隊で、同旅団の上級兵団は第4戦車軍第6親衛機械化軍団。すなわち、歩兵と言いつつも実態は機械化部隊の一員であったわけで、最初から戦車と協力しながらの任務遂行を求められていたことになる。実際、ベスソーノフの戦記を特徴づけているのが、戦車跨乗兵としての戦いの描写なのである。
 本稿は「ソ連側から見たタンク・デサント」の副産物と呼べるもので、元々は参考としてベスソーノフの談話を簡単に紹介するにとどめるつもりだったのだが、あまりにも興味深い内容であるため、せめて一章なりと訳文をお目にかけたいと思うようになった。先に戦車兵ヴァシーリー・ブリュホフの回想を「ソ連軍大攻勢」として訳出していたこともあり、その姉妹編としてここに掲載する次第である。

 ベスソーノフが経験した5攻勢の中から特にヴィスワ・オーデルを選び出したのは、これが大祖国戦争の終局を形作る重要な作戦であったという事実もさることながら、攻勢時におけるソ連軍の戦い方を考える上で重要なヒントが得られると判断したからだ。準備砲撃と航空支援を含む大規模な攻撃でドイツ軍の防御線に大穴を開け、そこから快速の機械化部隊を突入させて敵の後方を荒らし回るという戦術は、大戦後半のソ連軍が編み出した「必勝パターン」であったが、その侵攻部隊が具体的にどう活動していたのか、ベスソーノフの証言は活き活きとして具体性に富んでいる。
 とりわけ彼が戦車跨乗兵であったことから、所謂タンク・デサントの戦闘記録としても興味深い内容を含んでいる。「ソ連側から見たタンク・デサント」で再三繰り返してきた通り、日本における通俗的(戯画的)なイメージ、銃砲撃を浴びつつ敵陣に突っ込んでいくデサント像は根拠に乏しいもので、ベスソーノフの回想にもそのようなシーンは全く出てこない。そもそも敵の強力な防御陣地が破砕された後に一気呵成の突破戦を行うのが戦車+跨乗兵の本分であって、正面からぶつかるなどは論外である。そんな下手な戦をやって勝てるほどドイツ軍はやわな相手ではない。また侵攻戦の最中も、退却する敵部隊への急襲あり、要地での待ち伏せあり、迅速な進撃による渡河点の確保ありと、意外なほど多彩な任務をこなしていたことが分かる。とにかく重要なのは敵に立ち直りの暇を与えない「速度」という要素で、シンプルだが機動性に富む戦車+跨乗兵の組み合わせを活かす素地があったのだ。
 しかしながら、これが損害を出さないスマートな戦法だったわけでは勿論ない。損害は大きな、非常に大きなものであった。たとえ強固な防御線はなくとも、敵の懐の裡へ突進すること自体が危険な行為であり、戦果と引き換えに多くの犠牲を払わなければならなかった。これについてもベスソーノフは包み隠さず語ってくれている。跨乗兵たちが具体的に何を失い何を得たのか、この興味深い回想から読み取っていただければと思う。

 なお、ヴィスワ・オーデル攻勢の章が極めて濃密な内容を含んでいるのは確かだが、しかしここだけを読んでも理解し辛い部分はあるかもしれない。以下、全体を通読した上での補足を何点か追記しておく。

・1943年夏から2年にわたり戦陣にあったベスソーノフだが、この間ずっと戦い続けたわけではない。彼が参加した5つの攻勢作戦の合間には部隊の再編が行われており、実はこれが相当の期間を要している。早い話がヴィスワ・オーデル攻勢(45年1月12日開始)でも、1つ前のリヴィウ・サンドミェシュ攻勢が44年9月に終了してから3か月以上を編成作業に費やしたのである。この期間は人員や兵器の補充と訓練などに充てられ、基本的には戦闘に参加することはない。
 つまりベスソーノフ(とその原隊)は、数か月戦って数か月休むという、ある意味極めてメリハリの利いた戦争をしていたわけだ。攻勢中に甚大な損害を被り、戦力回復にそれだけ時間がかかったというのが一つ。また、クルスク戦以後の段階になるとソ連側は優位を確立し、攻勢の時期と場所を選べるようになったのも大きい。それまでは準備作業に専念できるわけだ。戦略的な主導権を握るとは、つまりはこういうことなのだろう。

・同じく編成作業に関し、ベスソーノフの回想を読むと、作戦中に負傷落伍した将兵が再編で帰ってくる例も意外に多い。とにかくスピードが命の攻勢作戦では、何らかの理由で原隊を離れてしまうと追随は難しく、戦いがひと段落するまで待つしかないのかもしれない。従って、末尾の部分でベスソーノフが挙げている損耗率80%という数字も、どのような性格の損害であるかは検討の余地がある。無論、戦車と跨乗兵の双方に大きな犠牲が出たこと自体は間違いないのだが。

・本文中でも触れられている通り、ヴィスワ・オーデル作戦では冬の荒天に「恵まれ」、ドイツ空軍の妨害を受けることがほとんどなかった。この部分だけを読んでもそんなものかと思われるだけかもしれないが、他の攻勢作戦では終始ルフトヴァッフェの猛威に悩まされており、これと比較するとインパクトは大きい。リヴィウ作戦では昼間の行軍自体がほとんどできなかったくらいだし、最末期のベルリン戦に至っても空襲で大きな被害を受けている。
 ドイツ空軍は本土防空に注力し、東部戦線は手薄であったというイメージで語られる場合もあるが、ソ連側の視点から見ると必ずしもそうではなかったらしい。少なくともベスソーノフのような前線経験者にとって、ルフトヴァッフェは進撃を阻む第一の障害であり続けた。もしもドイツ空軍が本当に西高東低型の対応を取っていたのであれば、彼らはソ連軍をなめており、その代償を支払わされたと言うしかない話だ。結局のところ、ドイツの戦争はソ連軍にベルリンへ突入されたことで終わったのだから…

★ ★ ★

 前置きが長くなったが、以下が訳文である。1章とはいえ結構な量があるから、読みやすさを考慮して6つに分割することとした。表題は便宜的に付したもので、原著には存在しない。

1.    攻勢開始

2.    十字路の戦い

3.    快進撃

4.    行軍、戦闘、行軍

5.    オーデル川を渡る

6.    ナイセ橋頭堡 


(14.010.25)


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