ルーシの洗礼(1)

それはいかにして起こったか


1、ルーシの見た「ルーシの洗礼」

 約二十年に及ぶウラジーミルの治世の中で最も重要な出来事の一つがキリスト教の公式な受容、いわゆる「ルーシの洗礼」であることは論を待たないでしょう。これ以降、今日に至るまでルーシ/ロシア人はキリスト教世界にとどまり続けており、キリスト教を基調とした文化・生活様式の中で生活しているわけです。ウラジーミルの残した遺産はまことに大きなものと言えます。
 ただしある歴史的事件が「重要である」こととそれが「よく知られている」ことは別問題で、ルーシの洗礼についても同じです。史料の少なさ、キリスト教受容という「聖なる事業」ゆえに付された神話性、などによりこの出来事を再現するのはなかなかに難しいことなのです。ここではまず、当事者であるルーシの記録によって見てみることにします。

 年代記によれば986年、キエフに4つの教えの代表者たちがやって来て、それぞれ自分の信仰を讃え、ウラジーミルにも是非それを受け入れるよう助言しました。4つの教えとは(ヴォルガ・)ブルガールのイスラム教、ハザールのユダヤ教、それにキリスト教の二つの流れ、すなわちドイツのカトリック、ビザンツの東方正教です。彼らとウラジーミルとの間には非常に興味深い論争があったのですが、その一部については別の場所で紹介しています。ともあれ、ここでは彼らの誰一人としてウラジーミルを説得することはできなかったのですが、ビザンツから来た正教の代表者がもっとも深い感銘を与えた、と年代記には記されています。


 続く987年、ウラジーミルは宣教者たちの言う「真の教え」を試すべく家臣を派遣し、イスラム・カトリック・正教の国をそれぞれ見聞してくるよう命じます(ユダヤ教はすでに除外されていた)。任務を果たして帰って来た家臣どもは公に報告しましたが、それによるとイスラムもカトリックも受け入れるに足るものではない、ただグレキ(ギリシア=ビザンツ帝国)の教えだけは別格である、と述べました。彼らの判断の基準となったのはどうも教会や勤行の華やかさであったらしく、ビザンツの教会の美しさは「天上にいたのか地上にいたのか」わからなくなるほどであった、と語っています。
 この箇所はよくロシア人の宗教観を語るとき引き合いに出されます。つまりロシア人はキリスト教の教え・精神面にひかれてではなく、典礼の華やかさという外面を重んじて改宗を行ったというわけです。この問題の解釈は様々で、これをもってロシア人のキリスト教観は薄っぺらなものであったという人もいるし、いやそうではない、ロシア人は神を「頭で考えて」理解するのではなく「魂で感じる」のであって、荘厳な典礼から深いインスピレーションを得たのだ、という人もいます。
 しかしいずれにせよこれらの挿話は多分に伝説的なものであって、おそらく実際の出来事ではありませんでした。この点については別の場所で述べることにして、今は先に進むことにします。


 使者たちの報告を聞いたウラジーミルは「グレキの掟」すなわちビザンツの正教を受け入れることを決意します。しかしそのまますんなり改宗を行ったわけではなく、却って翌988年、ビザンツの植民都市であったクリミアのケルソネスを攻撃する辺り、いかにもやり手という感じはします。街を占領するとウラジーミルはコンスタンティノープルの皇帝バシレイオス2世に使いを送り、ケルソネスと引き替えに皇妹アンナを自分の妻として要求しました。皇帝が異教徒に皇族を嫁がせるわけにはいかないとして拒否すると、そこで初めて自身及びルーシの改宗を問題にする、というわけです。皇帝は街のために妹を犠牲にする決心をし、嫌がるアンナを説き伏せてウラジーミルのもとに送りました。当時ビザンツ皇帝の一族と婚姻関係を結ぶことはこの上ない名誉であり、ウラジーミルは改宗問題をダシにしてうまく皇帝の妹を手に入れた、ということになります。
 しかしながらこれで話が終わったわけではありません。花嫁アンナが到着したまさにそのとき、ウラジーミルは原因不明の眼病に苦しみ、妻の顔を見ることもできなくなっていました。そこでアンナはすぐ洗礼を受けるよう助言し、彼はそれによって再び視力を取り戻したのでした。このとどめとも言うべき奇跡を見て人々は大いに感銘を受け、先を争って洗礼を受けたということです。

 ルーシの伝える「ルーシの洗礼」は以上の通りですが、ここからいくつかのポイントを抜き出してみましょう。

1、ウラジーミルの洗礼は神の摂理によるものである(これは基本)。
2、宣教師が来たという事情はあったにせよ、改宗は概ねウラジーミルの意志によって進められた。
3、ウラジーミルはまずキリスト教受け入れを決意し、それに皇女アンナとの結婚をリンクさせた。
4、そのためにケルソネスを攻略し、帝国との交渉を行った。

つまりは洗礼はもっぱらウラジーミルのイニシアティヴにかかるものであった、との主張がなされているわけです。言うまでもなく年代記の記述はウラジーミルの偉大さを讃える意図を持っており、現実がどうであったかは別の史料をも参考にして判断する必要があります。では次に、ルーシにキリスト教を送り込んだビザンツ側の事情を見てみましょう。

2、皇帝バシレイオスの選択

 この当時、かつてスヴャトスラフと死闘を演じたヨアンネス・ツィミスケスはすでになく、皇帝の座にあったのはバシレイオス2世(在位963〜1025)でした。後にビザンツ帝国最強の君主として知られるようになるバシレイオスも、治世の前期は苦闘の連続であったと言えます。彼を苦しめていたのは独立回復を目指すブルガリア人の反抗、そして国内における貴族の反乱でした。
 とりわけ987年の時点でバシレイオスを脅かしていたのは「バルダス」という名を持つ二人の貴族、バルダス・スクレロスとバルダス・フォーカス(かつて帝位にあったニケフォロス2世フォーカスの一族)の蜂起でした。反乱軍は小アジアを中心に侮りがたい勢力を持ち、皇帝としても予断を許さぬ情勢にあったのです。

 バシレイオスに求められたのは強力かつ信頼できる援軍でした。しかしどこにそれを求めるかが問題で、伝統的な敵国であるブルガリア・イスラム勢力に囲まれた状況では黒海北岸に期待するしかなかったのです。以前の同盟国ハザールが崩壊した今、残るはルーシだけでした。

 実のところ皇帝はルーシの援助を要求する根拠を持っていました。というのはかつてスヴャトスラフがツィミスケスに破れたとき、ルーシはビザンツの敵に対する戦いを義務づけた条約を結ばされているからです。
 しかしバシレイオスとしても、ここで高飛車な態度に出て却って足元を見すかされるよりは見返りを与えて援軍を確実にしたかったようです。また、この際ルーシを自らの同盟者として手持ちの外交カードに入れることも考えたはずです。かくしてビザンツの使者はキエフに送られ、交渉の結果おおむね以下のような約束がなされました。
 

 1 ウラジーミルは皇帝バシレイオスに味方し援軍を送る
 2 また彼と彼の臣民はキリスト教に改宗する
 3 皇帝は妹アンナをウラジーミルの妻として与える

 つまりルーシはビザンツ世界の一員となり、その代償としてウラジーミルには皇帝と姻戚関係を結ぶ権利を得る、ということになります。


 ここでアンナの降嫁を単なる政略結婚と考えると事の本質を見誤る恐れがあります。当時ビザンツ帝国とその皇帝はキリスト教世界全体の中で非常に高いステータスを誇っており、他のすべての国を野蛮国と見下しているようなところがあって、他国の首長と婚姻関係を取り結ぶのには非常に慎重な態度をとっていました。とりわけ皇帝の実の娘が異国に嫁ぐことは滅多にありませんでした。現にこれよりしばらく前、ヨアンネス・ツィミスケスの時代に神聖ローマ帝国から皇帝オットー2世の妻としてビザンツの皇女をという打診があったのですが、結局この時も皇帝の娘ではなく一族の女性ということで話がまとまっています。
 従って「皇帝」の称号も帯びず、キリスト教世界にすら入っていない「後進国」ルーシの公が、「緋色の生まれの」(緋色は最も高貴な色であり、皇子の産室がその色であったため)アンナを妻として迎えることはこの上ない名誉で、ルーシの国際的なステータスを一気に高めるものであったのです。見方を変えれば、内乱の危機を乗り切り、その上ルーシを自らの勢力圏に取り込もうとするビザンツの要請がそれだけ強かったということなのでしょう。

 かくしてウラジーミルは援軍としてルーシの精鋭を送り、バシレイオスはその助けによって反逆者を打ち負かすことができました(988〜989年)。すべては双方の思惑通りに進んだわけですが、それではなぜウラジーミルがケルソネスを占領する必要があったのか、という疑問を持たれる方もいると思います。ビザンツ側の史料ではケルソネスが奪われたのは989年で(ルーシの年代記では988年、ただし989年説の方が有力)、明らかにウラジーミルが皇帝の側について以降のことなのです。
 この矛盾を説明するために、危機を脱した皇帝は約束を反故にしようとし、それに怒ったウラジーミルがケルソネスを攻撃して圧力をかけた、と言われることが多いようです。しかしポーランドの研究家アンジェイ・ポッペなどのように別の考えを保つ研究者もいます。彼によると、ケルソネスは内乱に乗じて皇帝に反旗を翻し、そのためバシレイオスに味方するウラジーミルの討伐を受けたのでした。ケルソネスはそれ以前にも反中央的な動きをとっており、ポッペの主張もなかなか説得力のあるものと言えそうです。

 ただし具体的にウラジーミルとその臣民がいつ洗礼を受けたのかははっきりしません。もしルーシの年代記の記述通りそれがケルソネス後に行われたのなら989年になりますが、交渉の段階ですでに洗礼を受けていたという説もあるようで、この点についてはさらに議論の余地があると言えます。

 さて、以上の如き事件の経過をルーシの年代記の記述と比較してみると、いくつか大きな違いに気づくことができます。何よりもまず、年代記によれば他ならぬウラジーミルの発意でキリスト教導入が準備されたのに対し、ビザンツ側の記録では寧ろ帝国の方がイニシアティヴを発揮していたことになります。つまり帝国は、ルーシをコンスタンティノープルの教会の影響下におくことでビザンツ世界の一員としてつなぎ止め、予備戦力のプールに入れたからです。のみならず、ちょうどバシレイオスが反乱軍に悩まされていたという背景を考えあわせるなら、ウラジーミルの洗礼は全く偶発的な出来事の所産であると言うことすらできそうです。
 しかしビザンツのイニシアティヴを軽視することはできないにしても、ルーシの側の意図を無視してしまうのはやはり行き過ぎでしょう。ルーシが早い段階からビザンツ帝国と和戦両面で関係を持っていたこと、それに伴ってキリスト教の流入がすでに存在していたこと、オリガのように国の最高権力者でキリスト教に敬意を示した例があったこと、などから、ルーシの支配者がビザンツのキリスト教に並々ならぬ関心を示していたのは間違いのないところです。ウラジーミルとしてはキリスト教受け入れについて考慮していたところ、バシレイオスの苦境とルーシへの援軍要請というこの上ない機会を得て、皇女との結婚という破格の条件の上でキリスト教化に踏み切った、というのが妥当なところだと思われます。

 以上、「ルーシの洗礼」の具体的な流れについて述べてきました。次章ではさらにこの出来事の歴史的な意義、などについて補足していきたいと思います。

(99.05.26)


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