ルーシの洗礼(2)

「聖なるルーシ」の誕生


1、神々の黄昏

 さて今やルーシはキリスト教世界の一員となり、具体的にはビザンツ帝国の指導のもとに教会を持つに至ったのですが、しかし彼らがそれまで信じていた神々、キリスト教の導入後は「異教の」と形容されるようになった古き神々をどうするか、という問題が当然の如く生じることになります。周知の通り一神教であるキリスト教とこれらの神々とが共生できる余地はありませんでした。

 原初年代記によれば、皇妹アンナを妻として得、洗礼を受けてケルソネスからキエフに戻ったウラジーミルが最初に行ったのは、それまであがめられていた神々の像を破壊することでした。とりわけ手ひどい扱いを受けたのがペルーンの像で、馬の尾に結びつけられ、12人の男に棒で叩かれながらドニエプルまで引きずられ、川に投げ込まれたのです。ウラジーミル以前のルーシで「主神」としての扱いを受けていたペルーンの権威はこうして失われました。
 一方ウラジーミルはキエフの人々に命令を発し、ドニエプルで集団的に洗礼を受けさせました。古い神が流れ去ったのも新しい神を受け入れたのも、同じ川を使って行われたわけです。こうしてルーシの「異教」時代は終わり、新たな信仰が広められていくことになります。少なくとも公式的には。

 しかしこれは宗教に疎い我々にも容易に想像できると思うのですが、果たして先祖代々受け継がれてきた信仰を一片の命令で打ち捨てることができるものでしょうか?社会生活における宗教の果たす役割が大きかったこの時代、今の今まで人々の信仰を集めていた神がいきなり否定され、なじみの薄い外国の神様が押しつけられてもこれに疑問を感じるなという方が無理な相談でしょう。
 現にペルーンの像が打ち捨てられたとき、「不信心な人々はそれを悼んで泣いた」ことが年代記によって記録されています。さらにまたウラジーミルが貴族の子弟を集めて聖書を学ばせ始めたとき、「まだ信仰が固まっていなかった」母親たちは「死者を悼んで泣くように」自分の子供のために泣いた、という記事もあります。これら「不信心な人々」の数は決して少ないものではなかったと考えられます。
 

 確かに、異教の側からの組織的な抵抗はあまりなく、ペルーンをはじめとする古き神々の命脈はほぼたたれたと言っていいでしょう。例えばブルガリアのように、異教支持派によって支配層が分裂したという記録はありません。以前のように異教が国家宗教の座を回復する日はついに来ませんでした。
 しかしながら権力によって強制された「上からの」キリスト教化は特に民衆の間で反感を呼び、今後様々な問題を引き起こすことになります。また異教信仰も一部はかたちを変えて生き残り、例えば民間伝承や神話の中にその面影を見ることができます。それどころか当のキリスト教の中にさえ、かつての異教的要素は入り込んでいきました。

2、キリスト教化の展開

 こうしてキリスト教国へ向けて後戻りのない道を歩み始めたルーシですが、実のところ初期の教会についてはよくわからないことの方が多いのです。例えば教会組織という重要な問題についても論争のあるところで、ルーシの教会がビザンツ教会の長であるコンスタンティノープル総主教とどのような関係にあったかもあまり知られていません。
 ルーシが独立した総主教座を持つのははるか後代、モスクワ時代のことで、それまでルーシの教会のトップは府主教でした。従ってキエフ時代にはキエフ府主教がコンスタンティノープル総主教に従属し、ルーシを管轄するという形を取っていたはずです。ところがこの初代府主教が誰なのか、原初年代記にはまったく記述がないのです。さらに府主教の下で各地を治めていた主教たちについても、その起源は不明確なままです。
 より時代が下ると「キエフ府主教━各地の主教(もしくは大主教)」という体制ははっきりしてきますが、ウラジーミル時代にはその基礎が形成されつつあったとしか言うことはできないと思われます。

 ところでキリスト教の導入と同じく普及においてもまた、公の果たした役割は大きいものでした。すでに見たドニエプルでの集団洗礼に際して、ウラジーミルは「洗礼を受けに来ないものは私に従わないものと見なす」といういささか脅迫的な命令を出しています。公が国家の統一にキリスト教を利用したがっていたことは確実で、そのため武力に訴えてでも民衆を真の教えに「目覚めさせる」ことが必要だったのです。断片的ながら、ノヴゴロドでは公の軍隊が力ずくで異教を排除したことが知られています。
 また教会の建設も重要な事業でした。公がキエフその他の街に教会を建てたという記事は年代記によく見られますが、これらは布教の拠点としてのみならず、その豪壮華麗な外観によって人々をキリスト教に惹きつける役割も果たしたと思われます(年代記でも教会の美しさをほめたたえる文章はポピュラーである)。別の場所でも述べたことがありますが、当時大部分の建造物が木造であったルーシでは、石造りの教会の持つ視覚効果は抜群でした。

 このようにルーシのキリスト教化は教会当局と公権力の合作の上で進められていくのですが、先にも述べた「上からの教化」という側面はぬぐい去れませんでした。キリスト教は当面公の支配の拠点でありかつ教会の建設された都市を中心に広められ、周辺の農村地帯にまで完全に浸透するのはもっと後のことになります。ウラジーミル時代のルーシのキリスト教化は、確実な、しかしながらあまりにも遅い歩みで進められていきました。

3、外交面での変化

 キリスト教受け入れによるルーシの変化は、何よりもまず国際関係の分野に置いて顕著であったと考えられます。すなわちルーシは公式にキリスト教世界の一員となり、他のヨーロッパ諸国と対等とは言わないまでも同じ土俵の上での交渉ができるようになったのです。
 ルーシのキリスト教化の元締め(?)であるビザンツ帝国との絆がこれまで以上に堅くなったことは言うまでもありません。元来ウラジーミルがビザンツ教会を選択したのも当時の世界で最高レベルの権威を持つこの帝国との関係の強化を視野に入れてのことであったのは確実ですが、彼の期待が裏切られることはありませんでした。
 ビザンツは教会を通じて様々なものをルーシに与えています。初期の聖職者もその多くはビザンツ出身のギリシア人でしたが、彼らと共に教会の建築家、イコン画家、聖歌の歌手など多くの芸術家たちがルーシに渡りました。また教会で使われる聖書や典礼書、聖職者の書いた書物(その中には年代記など歴史書も含まれる)もまた輸入されたのです。一方で当時帝国に編入されていたブルガリアからもたらされたものも大きく、その中にはロシア語表記に欠かせないキリル文字も含まれていました。
 要するにキリスト教化を通じてルーシはビザンツ世界の豊かな文化を受け入れ、それを糧として自らの文化を形成していったのです。

 一方で西方カトリック世界とルーシとの関係はより微妙なものになりました。正教とカトリックとの最終的な分裂はもう少し後のことですが、ルーシは東西の伝統的な敵対関係を意識せざるを得なかったのです。西方の隣人たち、例えばカトリックを奉じるポーランドとルーシの間には緊張状態が生じ、時としてそれは公然たる戦争状態にまで発展していきました。また文化的な断絶も大きなものでした。カトリック世界ではラテン語を基調とした文化が国境を越えて広がっていましたが、それがルーシに及ぶことはなかったのです。後年の西欧世界とロシアとの文化的対立はこうして用意されたとも言えます。
 しかし当時のルーシとカトリック世界を完全に対立的なものと描くのもまた誤りと言うべきです。教会は異なるにせよ同じキリスト教という土台の上に立ったことで、ルーシは西方世界と外交関係を持つことができました。富裕で強大、そしていまやキリスト教を奉じるに至ったルーシの支配者は西方の王侯の注目の的となったのです。ウラジーミル以降、リューリク家とヨーロッパ諸国(ポーランド・神聖ローマ帝国・フランス・イギリス・北欧など)との婚姻関係は盛んになりますが、これは「異教徒」であったスヴャトスラフ以前にはあり得なかったことでした。

 このようにキリスト教の導入はルーシの文化を豊かにし、そして外交的な威信をも飛躍的に高めることになりました。ウラジーミル公は聖なる洗礼を成し遂げたものとして後に聖人として扱われ、「亜使徒」(ラヴノアポストル、「使徒に等しい者」)と呼ばれるようになります。これは教会当局による純粋に宗教的な評価ですが、しかしウラジーミル時代のルーシに訪れた変化の大きさを考えると、彼の治世の持つ重要性はいくら強調してもしすぎることはないでしょう。

(99.07.29)


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