ヤロスラフの治世(1)

「黄金時代」までの紆余曲折


1、ルースカヤ・プラウダ

 長い抗争の末にスヴャトポルクを逐いキエフへ入城したヤロスラフについて、原初年代記は「ヤロスラフはキエフに座し、勝利と偉大な功績を顕して自分の従士団とともに汗を拭った」と書き記しています。比較的あっさりした記述で、内容については別段見るべきものもないと思われるかもしれません。しかし原初年代記とは別系統のノヴゴロド第一年代記では、同じ箇所でかなり異なった情報を見ることができます。
 これはその名の通りノヴゴロド関係の記述を中心とする年代記で、原初年代記が全ルーシ的(=キエフ中心的)な色彩を強く持つのに対し、地方的な性格を持っています。またキエフと同じく古くから発展していたノヴゴロドでは歴史の記録が始められたのも早く、初期のルーシを知る上で貴重な史料を含む点でも重要です。とりわけ「第一年代記」は(ノヴゴロド系諸年代記の中でも)よくキエフ史研究に利用されており、原初年代記と並ぶ重要な史料と言えるでしょう。


 前置きが長くなりましたが、それではノヴゴロド第一年代記でヤロスラフの治世の始まりを見てみましょう。まず内戦関係の記述ではポーランドの介入など重要な事項が幾つか欠落し、更に決着も1019年ではなく16年とされていて、スヴャトポルクとの戦いはかなり短縮した形で伝えられているのが分かります。
 より重要な違いは、上記に示した原初年代記からの引用と同じ部分、すなわちヤロスラフの最終的な勝利が確定した場面で現れます。具体的に言えば、第一年代記のヤロスラフは「自分の従士団」ではなく「自分の軍勢」に報償を分け与え、その中には「ノヴゴロドの人々」も含まれています。更に公は「彼らを全て家に帰らせ」、そして彼らに「プラウダ」を与えてそれを守るように命じました。続いて「プラウダ・ルースカヤ(ルーシのプラウダ)」の各条項が記され、ヤロスラフ勝利の締めくくりとなっています(ただしプラウダの記事を含まない写本もある)。

 まずノヴゴロド人たちへの報償は比較的わかりやすいと思います。前章で見たようにヤロスラフ勝利のバックボーンとなったのがノヴゴロド人の全面的な支援であったことは間違いなく、これに対して公の側から返礼がなされても不思議はありません。そして原初年代記がこの記事を欠き、功績が公の従士団にのみ帰されているは、この年代記がキエフを中心として編纂されたためノヴゴロドの影響を好まなかったからとも考えられるのです。
 そして「プラウダ」です。この言葉はソヴィエト時代の高名な新聞の名前として耳にされた方も多いでしょう。現代ロシア語ではプラウダ(правда)といえば「真実・正義・正しさ」を意味するもので、日常会話の中でごく普通に使われています。新聞としてのプラウダは訳すと「真実」紙というわけです。ただしプラウダはまた歴史用語として「法典」の意味をも持ち、ヤロスラフがここで与えているのは言うまでもなくこちらの方です。すなわちヤロスラフは成文法を定め、それをルーシの人々に示した最初の支配者ということになります。

 おしなべて複数の人間が集団生活を行う場合、規則というものが全く存在しない状態はまず考えられません。それは文章の形で固定されるとは限らず、いわば「暗黙の了解」としてメンバー全員に認識されていることもありえます。ヤロスラフ以前のルーシについても然りで、ポリャーネ・ドレヴリャーネといった種族の段階ですでに何らかの掟が各集団を律していたと考えられています。また原初年代記にはヤロスラフの父ウラジーミルも「国の法規について彼ら(従士団)と相談していた」「父と祖父の定めに従って暮らしていた」との記述があり、法というものに配慮した公はヤロスラフが初めてではありません。
 しかしヤロスラフが「ルースカヤ・プラウダ」によって法を成文化したことの意味はやはり大きなものがあります。具体的な内容がほとんど刑法であることからも分かるように、プラウダは社会における紛争解決・調停の役割を持っていました。国が発展するにつれてルーシの社会生活が複雑化することは不可避で、何らかの基準を設ける必要があったのです。そしてそのためには、口頭で伝承される慣習法よりも文字の形で確定される成文法の方がはるかに確実でした。
 またルーシの統合を強める意味でも、成文法は有効でした。先にも述べた通りルーシの統一以前に各種族集団がそれぞれ固有の法を有していたことは充分考えられますが、それらの代わりに「全ルーシ的な」法典を定めて普及させるのに成功すれば、国家の一体性と公の威信は飛躍的に強化されるはずでした。かつてウラジーミルが数多くの「異教の神々」を追放して唯一の神を崇拝するキリスト教を導入したのと同じく、地方的な要素の廃止と中央集権化がここでもまた国家的課題として現れています。

 ただし法を制定するに当たって、ヤロスラフが本当に兄への勝利という劇的な瞬間を選ぶことができたかは疑問です。いかに優れた支配者であっても、即位後すぐに新しい法を作り宣告するのは並大抵のことではなく、ましてやそれが長く続いた内乱の後であるならなおさらのことです。またノヴゴロド第一年代記の同じ箇所には、ヤロスラフの子供たちの世代に改訂されたプラウダの条文までもが収録されており、この記事全体が年代記編纂の時に挿入されたと見なすこともできます。
 とは言え、仮に勝利の直後ではないにしてもヤロスラフが法典を整備し、その一部が彼の名を冠して文書の形で残されたことは事実と考えられます。ルーシ国家は様々な要素を取り込んで複雑化しつつあり、公の支配を行き渡らせる上でも成文法の制定は有効な手段でした。ウラジーミルの洗礼に比べればいささか地味ではあるものの、ヤロスラフもまたルーシの発展に対応した重要な政策を行ったのです。

2、戦火止まず

 ところで「ヤロスラフの治世」の頭にプラウダの話を持ってきたのは年代記の記述に対応するためですが、これによってヤロスラフ時代はその当初から非常に安定していた、と思われるかもしれません。しかし実際には公位争いの終結後もルーシはいくつもの不確定要素を抱え、ヤロスラフはその対応に悩まされていきます。
 まず第一の問題は、公一族の数がウラジーミルの時代を境に飛躍的に増加し、かつまた一族内での人間関係を定める明確なルールがないことでした(これについては以前も触れたことがあると思います)。キエフ公と地方に分散した諸公との関係は絶対的な主従関係なのか、血縁を軸にした「長幼の序」なのか、それとも状況によって交替可能な実力主義なのか、はなはだ不明確なものと言えます。ヤロスラフ自身の公位継承にしてからが武力によるもので、一族内の野心家たちに対する危険な「先例」となる可能性を持っていました。

 まず最初に立ち上がったのはポロツクを治めていたブリャチェスラフ公です。彼はヤロスラフの同母兄イジャスラフの子で、更に祖母(イジャスラフの母)はあのログネダ、すなわちポロツクの旧支配者の末裔でした(第7章参照)。イジャスラフは早くに亡くなったためウラジーミル死後の内乱に関わることはなかったのですが、今やその遺児・ブリャチェスラフがルーシの支配者となった叔父に挑もうとしてました。
 ヤロスラフが勝利を収めてからわずか2年後の1021年、ブリャチェスラフは突如ノヴゴロドを攻撃してこれを占拠しました。ヤロスラフがキエフにいる隙をついた、鮮やかな攻撃と言えます。しかしブリャチェスラフはノヴゴロドに留まることをせず、捕虜と戦利品を伴ってポロツクに引き揚げようとしました。
 これに対し、ヤロスラフの対応も素早いものでした。彼は即座に軍を率いてキエフを出立し、7日の後にはポロツクの手前でブリャチェスラフを捕捉し戦いを挑みました。ブリャチェスラフ軍は多数の捕虜を抱えていたせいで動きが鈍く、容易に追いつかれたと考えられます。結局この一戦でヤロスラフは勝利し、捕虜を奪い返してノヴゴロドに帰すことができました。

 これ以降、1044年に亡くなるまでブリャチェスラフが原初年代記に現れることはなく、ポロツクの地も平安を保っていたように見えます。この事件はあまり注目されることもなく、単に跳ねっ返りの一地方公が起こした騒動と片付けられるのが一般的です。
 しかし長い目で見るなら、ポロツクの反抗はルーシのその後の歴史を予見しています。ブリャチェスラフは終始一貫してポロツクの公として振る舞い、キエフはおろかノヴゴロドの支配権にも手を出そうとはしませんでした。あくまで全ルーシの中心・キエフを追求した叔父たちとは違い、ブリャチェスラフの視野には父イジャスラフから受け継いだポロツクしか入っていなかったようにさえ思われます。これは全ルーシに対するポロツク地方の、またリューリク家内部におけるイジャスラフ=ブリャチェスラフ一門の遠心的・独立的な動きと言い得るでしょう。
 同じような動きはもう数世代を経ると普通に見られるようになり、ルーシの新しい潮流となっていきます。ブリャチェスラフの反抗はそれらの先駆けとして注目に値するものです。キエフ国家は広大な領土とは裏腹に最後まで不安定な印象を拭えませんが、その萌芽はすでにこの時代から現れていました。

3、ムスチスラフの挑戦
 

 ともあれブリャチェスラフを退けてノヴゴロドに平和を回復したヤロスラフでしたが、しかし新たな戦いはすぐそこまで迫っていました。ヤロスラフの数多い兄弟の中で比較的事績がはっきりしているムスチスラフ、内乱の最中にも姿を見せることのなかったこの弟が恐ろしい敵となってキエフに襲いかかろうとしていたのです。

 ムスチスラフは父ウラジーミルによってトムタラカーニの地に派遣されています(地図参照)。これはご覧の通りルーシの中でも東南に位置していた街で、ドン川の河口を押さえると同時にカフカース(コーカサス)地方と関係を結ぶ上でも重要な場所を占めていました。トムタラカーニの歴史ははっきりしませんが、元来は黒海を北上してきたビザンツ勢力の拠点であったと考えられ、また東方からステップを通じて西進する遊牧諸民族にとっても魅力的な土地であったはずです(ハザール汗国がこの一帯を支配していたことを思い出して下さい)。要するに周辺諸民族との衝突が常に予想される「辺境」で、この地を治める公には並々ならぬエネルギーが必要だったと思われます。
 しかしムスチスラフは充分に強く、精力的な支配者でした。1022年(つまりブリャチェスラフの挙兵があった次の年)、彼はまず北カフカースに攻め入ってカソギ人を攻撃しています。ルーシの公としては実に965年のスヴャトスラフ以来となるカフカース遠征でしたが、ムスチスラフはこれに勝利してカソギの地に貢税を押しつけることに成功しました。原初年代記は彼がカソギの公・レデジャを一騎打ちの末に討ち取ったと伝え、戦いと冒険を好む若い公の面影を描き出しています。


 この遠征でトムタラカーニの力は強まり、1023年にムスチスラフはカソギ及びハザールの残党からなる軍勢を率いてキエフを目指しました。この後の経過を見れば、彼はキエフを手にするのに充分な力を持っていたと考えられます。ところが翌1024年、キエフに到達したムスチスラフは「キエフの人々」に受け入れられなかったという理由であっさりとこの街をあきらめ、ドニエプル対岸のチェルニゴフに居座りました。チェルニゴフもキエフと同じくドニエプル水系に属する重要な都市で、彼にとっては充分な獲物だったのでしょう。


 この1024年はヤロスラフにとって多難な年でした。彼はそもそもこの時キエフではなくノヴゴロドに滞在していましたが、これはヴァリャーグ傭兵を集めに行っていたのか、あるいはブリャチェスラフの再度の襲撃に備えていたのか、両方の理由が考えられます。ところが折悪しく北東ルーシのスーズダリ地方で飢饉を契機にキリスト教以前の異教が息を吹き返し、大規模な反乱が起こったのです。このためヤロスラフは自らスーズダリに向かってこれを鎮めねばならず、その直後にノヴゴロドに戻りヴァリャーグ傭兵を集めてからムスチスラフに立ち向かうという苦しい行動を強いられました。
 この時ヤロスラフに味方したのは「盲目のヤクン」なる公に統率されたヴァリャーグ軍団で、彼らはムスチスラフの座するチェルニゴフに向かって進撃しました。これを聞いたムスチスラフは座して敵の攻撃を待つより迎撃策を選び、セーヴェルセヴェリャーネ)で補強された軍を率いて出陣しました。セーヴェルとはチェルニゴフ付近で暮らしていた種族で、キエフによる統一が進んだこの時代に旧来の種族名が現れるのは珍しい例と言えます。彼らが実際に古い種族形態を守り続けていたかは不明で、ことによると単にセーヴェルの故地に住んでいた人々をそう呼んだだけとも考えられます。しかしこの名が現れること自体、キエフの覇権下でなお種族時代の伝統が生き続けていたことを物語るものです。キエフを追われたムスチスラフが受け入れられたのも、そのような反中央志向の故かもしれません。

 両軍はチェルニゴフ北方のリストベンで接触しました。ムスチスラフはセーヴェルからなる部隊を中央に、自ら率いる従士団を両翼に配置し、夜になるのを待って兵を進めています。折柄リストベンを襲った暴風雨の中、戦士たちは雷光に白刃を煌めかせながら激しい戦闘を繰り広げました。
 まずセーヴェルの前衛がヤロスラフ軍のヴァリャーグ勢とぶつかり、押し合いになりました。ヴァリャーグたちは苦戦しながらも徐々にセーヴェルを圧倒していきますが、そこにムスチスラフ直卒の従士団が両翼から襲いかかり、これで戦局は逆転しました。戦局不利と見たヤロスラフは戦場から離脱し、同じく逃走した盲目のヤクンは身につけていた黄金のマントを失うという有り様で、かつてボレスワフに破れたとき以来の大敗北であったと言えます。ヤロスラフはキエフを家臣に委ねてノヴゴロドへ去り、ヤクンはバルト海の向こうに帰っていきました。


 こうして勝利者となったムスチスラフですが、どういうわけか兄を追撃しようとはせず、使者を送って和睦を呼びかけています。交渉は長引き、最終的な決着がついたのは1026年のことでした。
 二人はルーシの地をドニエプルに沿って分け、ヤロスラフはキエフのある西側を、ムスチスラフはチェルニゴフとトムタラカーニを含む東側を自らの領土として保持することになりました。もともとムスチスラフはキエフをあきらめる代わりにこれらの土地を要求しており、彼の要求が通ったわけです。ともあれ、こうして「二人は平和と兄弟愛のうちに暮らし始め、内紛と反乱は止み、国内には大きな平安が」戻りました(原初年代記による)。

 全体を概観して、やはり印象に残るのはムスチスラフの活躍だと思われます。ヤロスラフがムスチスラフの軍事的才能を率直に恐れていたことは確実で、リストベンの敗戦から和睦が成立するまで、彼は弟をはばかってキエフに行こうとさえしませんでした。
 しかしそれだけになおさら、なぜムスチスラフが最終的にキエフを得られなかったか(または得ようとしなかったか)が大きな問題となるでしょう。少なくともリストベン以後の2年間、あるいは戦いの前にもヤロスラフ不在のキエフに入城するチャンスがあったわけで、ムスチスラフがキエフの主にならなかったことの方が不思議なくらいです。
 これらを考えあわせると、最初にムスチスラフがキエフに接近したとき「キエフの人々」の反対でチェルニゴフへ退去した事件に注目する必要があるでしょう。いかに公が強力な軍事力に支えられていても、市民の支持なしには街を保持できなかった(あるいは保持は困難だった)、という重大な事実がここで明らかとなるからです。これまでも何度か述べてきたように、当時のノヴゴロド市民は大きな力を持ち公の政策に干渉することさえありました。同じように、キエフ人もはっきり自らの意志をもってムスチスラフを拒否したのです。
 逆に、チェルニゴフがムスチスラフを受け入れたことも都市全体の意志の表れと言えるかもしれません。先にも書いたようにチェルニゴフ地方では反中央(=反キエフ)的傾向が生き残っていた可能性があるからです。チェルニゴフとキエフの暗闘はこの後の時代にも見られ、ルーシの歴史に大きな影響を与えていきます。
 ヤロスラフ時代は主に公権の強化が注目されますが、同時に都市が明確な意志を持ち、公と並んで重要な役割を果たす事例も目立ち始めます。キエフ人によるムスチスラフの拒否は一見ささいなようですが、ルーシ全体の歴史を考える上で無視できない重要な出来事と言えます。

 しかし別の見方をするなら、キエフの人々はヤロスラフを進んで受け入れていたわけで、短期間でこれほど安定した支配を作り上げたヤロスラフの政治力は驚くべきものがあります。ムスチスラフとの勝負は、キエフに関する限り戦う前から決着がついていたと言えるかもしれません。実際、リストベンでこそ苦杯を舐めたものの、弟と和してからのヤロスラフの治世は安定し、キエフ国家の発展を軌道に乗せていきます。ルーシの「黄金時代」はここから始まったのでした。

(00.05.20)


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