ヤロスラフの治世(2)

キエフ・ルーシの短い夏


1、ヤロスラフの外交

 兄弟や甥との戦いに忙殺されていたヤロスラフも、ムスチスラフとの手打ち(1026年)によって内戦から解放されると、今度は逆にルーシ国家の拡張に取り掛かることになります。内戦が終わってからすぐ対外攻勢に出ることができた背景には当然ルーシの内的な成長があったはずで、法典の整備などもその一つの表れと見てよいでしょう。

 ヤロスラフの攻勢は主に西方、ポーランド方面へ指向されています。かつてヤロスラフに苦杯をなめさせたボレスワフ1世勇敢王は1025年に亡くなり、ポーランド国家は一時的に弱体化していたのでした。この機会を逃さじと神聖ローマ帝国やハンガリーなど近隣諸国の侵入が相次ぎ、キエフ・ルーシもその戦列に加わっていきます。
 1030年、ヤロスラフはまず西ブグ川上流にあるベルズの街を占領し、次いでバルト地方に兵を進めてユーリエフ(現・タルトゥ、エストニアの都市)を建設しました。こうして足がかりを築いておいてから、翌1031年には弟ムスチスラフと共同して出兵、国境付近のチェルヴェン地方を占拠しています。チェルヴェンはウラジーミル時代からの係争地で、かつてスヴャトポルクがボレスワフに奪われていたのを今また奪回したのでした。この時ヤロスラフとムスチスラフは捕虜とした多くのポーランド人を分け、ヤロスラフは彼らをキエフ南西のロシ川付近に入植させたとのことです。

 その後もヤロスラフは何度か西方へ兵を出し、ポーランド国境近くのプリピャチ川流域に住むヤトヴャギ族を従えました。ここは西方との交易ルートを確保するための要地にあたっていたのです。さらに1040年代にはポーランド北東部に進み、マゾフシャネという種族を討ってポーランド公カジミェシ1世(ボレスワフ1世の孫、在位1034〜58年)に服属させました。この時代にはすでにポーランドとルーシが和を結んでいたからなのですが、何となくヤロスラフ側の余裕すら感じさせる行動と言えます。
 一方、1042年にはノヴゴロド北方のフィン人に対する遠征も行われています。こうしてルーシは西方と北方へ進出し、ウラジーミル時代よりさらに勢力範囲を伸ばしたのでした。

 ところでヤロスラフ時代は、こうした征戦だけでなく活発な婚姻外交が行われた点にも特徴があります。まずヤロスラフ自身の妻がスウェーデン王の娘で、3人の息子にはそれぞれポーランド、ドイツ辺境伯、そしてビザンツ帝国から妻を迎えさせています。また娘も3人いて、こちらの方はハンガリー、ノルウェー、そしてフランスの君主に嫁がせました。
 一見して分かるようにヤロスラフの子供たちの配偶者は非常に華やかなメンバーで、しかもフランスのような遠国の君主とまで姻戚関係になっているのが目につきます。リューリク家がこれほどヨーロッパの諸王家と結びついたことはかつてありませんでした。ヤロスラフの下で国力の充実したルーシが、戦略的なパートナーとして認められつつあったことの証と言えるでしょう。
 「ロシア」というと他のヨーロッパ諸国から孤立しているイメージを持ちますが、それはより後代の話で、少なくともキエフ時代のルーシは西の隣人たちと活発な交流を行っていました。もちろんこれにはキリスト教という共通の前提が必要で、その意味でもルーシの歴史がウラジーミルの洗礼によって新たな可能性を与えられたことが分かると思います。

2、1036年

 先にも触れたように、かつての敵手であった弟ムスチスラフは1026年の講和を境に反抗を止め、それどころかヤロスラフの良き協力者という役割さえも演じるようになります。とは言ってもムスチスラフがルーシの半分を支配する大実力者であったことは事実で、キエフ政権にとっては油断のならない存在だったことでしょう。ところが1036年、このムスチスラフが急死してしまうのです。彼の息子エウスタフィーはすでに亡くなっており、後継者を失ったトムタラカーニ公領はそのままヤロスラフに接収されてしまいました。
 このとき、ヤロスラフが潜在的なライバルの消滅を喜んだか、あるいは血を分けた弟の死を悲しんだか、記録から知ることはできません。ともあれ、彼は晴れてルーシの国の単独支配者(原初年代記は「専制君主」と表現している)となったわけです。

 この同じ年、ルーシを襲った衝撃はこれだけではありませんでした。ステップの民・ペチェネグ人が攻め寄せて来たです。ヤロスラフの治世に入ってからペチェネグが表立った動きを見せることはなく、何らかの事情で彼らの勢力が弱まっていたとも考えられるのですが、この年に至って奮起したのか、大挙してキエフを取り囲みました。
 ノヴゴロドでこのニュースを聞いたヤロスラフはすぐさまヴァリャーグとスラヴ人の軍勢をかき集め、キエフ郊外でペチェネグと激突しました。戦いは激しいものでしたが、夕刻に至ってヤロスラフの軍勢は辛うじて敵の攻撃をしのぎ切り、ペチェネグの部隊を粉砕しました。これが実に、長年に渡ってルーシの好敵手であったペチェネグ人との決着をつける戦いだったのです。
 事実、これ以降ペチェネグ人の姿はルーシから消えます──彼らは南ロシア平原を逐われてバルカンへと移動していきました。もちろん住み慣れた故郷にとどまった者もいましたが、彼らはやがて他の遊牧民と混ざりあい、「ペチェネグ」というアイデンティティを失っていきました。


 この勝利は、ヤロスラフの治世において一つの頂点であると言えます。ステップの遊牧民対策は歴代のキエフ公にとって最も重い課題の一つだったのですが、ヤロスラフはそれを鮮やかに解決して見せました。少なくとも彼の存命中、新たな遊牧民がキエフを襲うことはありません。またルーシが西方進出に専念できるようになったのも、この勝利のおかげと言えるでしょう。当時、ヤロスラフの威信はいやが上にも高まったことと思われます。

 ところで、栄光ある1036年にはもう一つ、それほど注目されてはいないある事件が発生しています。ヤロスラフが自分の弟スジスラフを逮捕し、プスコフの街で投獄したのです。
 原初年代記は何者かがスジスラフについて中傷を行ったからと記すだけで、詳しい原因については何一つ説明していません。実際に何が起こったかは推測するより他ないわけです。ただし、ヤロスラフはかつて親族にして功臣・コスニャチンを粛清したとされ(補説29参照)、今回もイニシアティブをとったのは彼だったのかもしれません。
 この場合、事件がムスチスラフの死の直後に起きていることに注目してよいでしょう。強大な勢力を誇ったムスチスラフの没後、兄弟間の微妙なバランスが崩れ、ヤロスラフが誰はばかることなく身内の粛清に乗り出した可能性があるからです。もともとヤロスラフは親族との権力争いを厭うような人物ではありませんでした(父ウラジーミルへの反抗以来この姿勢は一貫しています)。
 ただし、ヤロスラフにしてみれば「きれいごとではすまされない」と言いたいところでしょう。何度か指摘してきたように、当時のルーシには権力の継承に明確なルールはありませんでした。もしヤロスラフが急に倒れた場合、彼の子供たちとスジスラフがキエフの公座をめぐって戦う可能性は充分あったのです。だから彼は、自らの権力欲・子供たちへの愛情、及び内乱を回避しようとする為政者としての理性を優先して、哀れな弟を犠牲にしたのかもしれません。非情なまでの政治手腕の冴えが見受けられます。
 ともあれ、反対勢力を一掃したヤロスラフの治世の後半は見事なまでの安定を見せており、後にキエフ・ルーシの「黄金時代」と呼ばれることになるのです。

3、大いなる建設の時代

 これまで、ヤロスラフの戦いについて少し詳しく書きすぎたようです。悲しむべきことに、歴史においては戦争と破壊の方がより大きな印象を与えがちなのですが、しかしもちろんヤロスラフ時代が内乱の克服と外敵への華々しい勝利につきるものではありません。彼の治世はまた、キエフ・ルーシ史上において特筆すべき建設の時代でもありました。

 原初年代記によれば、1037年にヤロスラフは「大きな街キエフの基礎を」築いています。もちろんキエフそのものははるか昔からあったわけで、彼が造ったのは「ヤロスラフの街」と呼ばれる新しい街区でした。それより以前からあった「ウラジーミルの街」と比べてはるかに広い面積が新しい城壁に囲まれ、都市キエフに編入されています。
 それに続いて一連の建設ラッシュが記録されています。新しい「ヤロスラフの街」は「黄金の門」と呼ばれる壮麗な門で飾られ、最も格式の高い聖ソフィア教会は新たに石造のものに建て替えられ、また聖母告知教会が、聖ゲオルギー修道院が、聖イリーナ修道院が次々に建設されていきました。
 たかが教会と思われるかもしれませんが、これらは当時ビザンツから伝えられた最新鋭の建築で、その豪壮華麗な姿は人々の耳目を驚かせ、建設を押し進めた公の威信をいやが上にも高めるものでした。特筆すべきは、「黄金の門」やいくつかの教会が石で造られていたことです。木造建築が圧倒的多数を占めていた当時のルーシに突如出現した堅牢な石造教会は、東方正教会に特有な内装の豪華さと相まって、素朴な民衆にはこの世の奇跡と思われたことでしょう。
 ただし、こうした建設事業は公の威勢とともにキエフの繁栄ぶりをも証言してくれます。ステップの遊牧民が撃破され、ドニエプルを通じた交易ルートの安全が保障されると、遠距離貿易から多くの富を得ていたキエフの発展はよりめざましくなりました。ヤロスラフが新たに城壁を築いて市域を拡大したのも、ふくれあがるキエフの人口に対処するためだったはずです。農村人口が大多数を占めていた当時のヨーロッパでは例外的な巨大都市で、事実外国の旅行者が驚きとともにキエフの繁栄を伝えている記録も残されています。

 ところで、ビザンツからキエフに入ってきたのは何も教会の建て方だけとは限りません。主に教会の文献を通してですが、多くの書物が輸入され、ギリシア語からスラヴ語に翻訳されています。そして教会建設が建築一般をレベルアップさせたように、聖なる書物もルーシの知的水準を押し上げていきました。ヤロスラフ自身も多くの書物を読むことを好み、後世「賢公」というあだ名を得るほどでした。血気盛んな武将が多かったそれまでの公と違い、文化人という新しい性質を有した支配者であったわけです。
 先に述べたようにヤロスラフの娘アンナはフランス王アンリ1世に嫁いだのですが、そのとき自分の名を記した署名が今でも残されています。教会関係者を除いては識字率が極端に低かったこの当時、文字を書けるなどは、大げさに言えば超能力を使うよりも驚くべきことでした(事実、夫のアンリは自分の名をサインできなかった)。これをもって、ヤロスラフの宮廷が持っていた好学の風の一端を理解できるかと思います。
 このほかにも、絵画・音楽等々ビザンツから得た文物は多岐に渡っています。こうした、主にキリスト教を中心とした輸入文化と在来のスラヴ文化とが混交して、独自のキエフ・ルーシ文化が花開いたのでした。

 残念ながら、キエフ以外の都市について分かっていることは多くありません。しかしヤロスラフが「町ごとに、また土地ごとに」教会を建てさせた、という記述から、キエフほどではないにせよ建築熱は地方にも及んでいたと考えることができます。もちろん、教会だけでなく都市そのものも発展を続けていったことでしょう。ルーシの都市の多くはキエフと同じく大河川沿いにあって遠隔地商業の恩恵を受け、従ってキエフと同じ理由で繁栄することができたのでした。


 都市を取り巻く農村地帯となると、分かっていることはもっと少なくなります。もともとルーシでは、キリスト教化といい文化の発展といい明らかに都市を中心に展開していました。都市から一歩外に出ると、滅び去ったはずの異教の神々や伝統的な非キリスト教文化に惹きつけられた農民の世界を見ることができます。ルーシの文化は二重性を持っていたとも言えるでしょう。
 と言っても、農民たちがヤロスラフ期後半の「黄金時代」から何の恩恵も受けていなかったとは考えられません。何よりもまず、平和でした。異民族の襲来や諸公の内戦があると、真っ先に狙われるのは城壁で守られていない農村の住民だったのです。彼らは戦争の度に家を焼かれ、家畜や食糧を奪われ、そして自らが奴隷として連れ去られることを恐れていました。ヤロスラフ時代の「平和の配当」を最も多く受け取っていたのは、華やかな文化を楽しんでいた都市の人々より、意外と名もなき辺境の農民であったのかもしれません。

(00.08.30)


キエフ史概説へ戻る

ロシア史のページへ戻る

洞窟修道院へ戻る