キエフ・ルーシ前史1(最古の時代から9世紀まで)

もしくは記録がなくても記録に値するものがない訳ではない、という話


1、最古の時代

 どうでもいいことですが、「です・ます」文体と「だ・である」文体とではどちらが読みやすいものでしょうか?自分で書いていてもよくわかりません。とりあえずこちらの書き方でやっていきます。

 それでは、始めることにしましょう。

 ロシア(ルーシ)人自身が自らの歴史を記し始めたのはキエフ国家が成立して後のことであり、年代にすると11世紀以降になります。それまでの長い期間、例えば地中海世界でギリシア・ローマの文明が栄えていたころ、現在のロシアに当たる地方で何が起こっていたか、については、周辺民族からの観察による限られた史料しか残っていません。
 これはロシアのみならず全てのスラヴ民族についても同じことで、彼らは歴史に登場することの遅かった、いわば若い民族であったのです。

 さて、スラヴ人は当時の記録者であったギリシア人やローマ人から非常に離れたところに住んでいたため、その記録はしばしば具体性を欠き、不正確なものでした。また僻地に住む「野蛮人」への偏見ゆえ、記述が歪められた可能性もあります。
 例えばギリシアの歴史家である有名なヘロドトスは、「黒海の北にネウロイと呼ばれる民が住んでおり、彼らは一年に一度狼に変身する」という情報(うわさ話?)を伝えています(紀元前5世紀頃)。これはスラヴ人のことだと考えられています。ほとんど怪物扱いです。もっとも、スラヴ世界に広く存在する「人狼伝説」を研究する上では貴重な証言になるのですが。

2、草原の住人たち

 ここで強引に時代を下らせましょう。ローマ帝国末期、いわゆる「民族大移動」が始まると、ロシアの地も大きな変動に見舞われることになります。それにはロシアの地理的条件が大きな意味を持っていました。

 ロシアのランドスケープというと「地平線まで広がる広大な草原」を思い浮かべる人も多いと思います。実際、南ロシア・ウクライナ(つまり黒海の北岸地方)には険しい山地もなく、また温暖な気候にも恵まれて、さえぎることのない草原が広がっていました。
 この草原地帯はまた中央アジアのステップと連続しており、それゆえ昔から東方の遊牧民たちの活動の舞台となってきました。この事実は記憶しておいていいと思います。後にヨーロッパ世界へ進入した遊牧民たちは、皆この地を通過して西方に進んでいます。つまり南ロシアの草原は、東方の遊牧民たちにとって恰好の通り道であるか、または西へ進む前に力を蓄える休息地であったのです。

 さて、「民族大移動」のきっかけとなったといわれる有名なフン族の西進(4世紀)以降、南ロシア平原は騒がしさを増すことになります。フン族に続いてアヴァール人、そしてマジャール人などといった遊牧民が次々にこの地に現れました。しかし彼らはいずれも西方に戦いを挑む道を選び、南ロシアに定着することはありませんでした。
 ちなみに、その状況を地図で表すと下のようになります。黒の矢印が遊牧民の流れだと考えて下さい。彼らはこうして、南ロシアのステップを横切り、西の彼方、ヨーロッパ世界へと向かっていったのです。

 キエフ国家成立前夜(8〜9世紀)において、南ロシア平原を支配していたのはハザール人でした。「ハザール」とは耳慣れない民族名かもしれません。彼らは完全な遊牧民というよりは半定住民で、商業をも営んでいました。また彼らは、支配層の宗教としてユダヤ教を選択するという、世界史上まれな民族としても知られています。

 しかしながら、彼らがロシアの北部にまでやって来ることはありませんでした。ここには鬱蒼たる森林が広がり、遊牧生活に慣れた彼らの行く手を阻んでいたからです。森林と草原、この二つはロシアの歴史にそれぞれ異なる影響を与えた二大元素であると言えます。
 キエフ国家を築いた東スラヴ人が生きていたのはこのような森林の中でした。元来農耕民族であるスラヴ人は、森林を開墾し、耕地に変えることで、自らの生活空間を広げていきました。彼らが「ルーシ」の名で歴史に登場するのはもう少し先のことです。


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