<書評>
寺山修司「サザエさんの性生活」
『家出のすすめ』(1972年発表)より。本稿では『ちくま日本文学全集 寺山修司』(筑摩書房、1991)をテクストとして利用した。


 長谷川町子の名作「サザエさん」は、よく考えてみると不思議な作品です。実はサザエさんという人物は主人公ではなく、磯野家のメンバーそれぞれが主役であるといえなくもありません。このパターンは植田まさし「コボちゃん」(現在「読売新聞」朝刊に連載)なんかにも受け継がれているわけですが。
 まあ「天才バカボン」の真の主人公はパパなのだし、そういうのもありかな、ということもありますが、「サザエさん」においては主役が分散しているように見えるのです。つまり、磯野家自体が主人公なのではないか?と。
 そんな点に斬り込んだ作品が、今回紹介する寺山修司のエッセイ「サザエさんの性生活」であります。寺山修司という人はずいぶんとセクシュアリティにこだわる人だなあ、というのが私の感想なのですが、この作品においてもそうした傾向は遺憾なく発揮されているといっても間違いないでしょう。
 この作品は、

サザエさんはパジャマを着て寝ます。ネグリジェを着て寝ることはありません。夫のマスオはいささか欲求不満で、電車の中で、ばあさんを若い女と勘違いしたり、うしろ姿のシャンな女の子のあとをつけて行って、ふりかえると実は長髪ヒッピー男だったりするのです。

というみもふたもないようなパラグラフで始まります。著者寺山修司は、最近ならともかく当時としてはちょっと斬新な視点で「サザエさん」の世界への疑念を表明します。すなわち、「サザエさん」の世界には、セクシュアリティが描かれていない

「サザエさん」のマンガは一種の大河漫画ですが、その夫婦生活のカリカチュアの中でも、性に関するものはほとんど無く、二人がふとんを並べて寝ている描写などは、全五十六巻までの中でも希有のものです。

もっとも、「毎日新聞」の朝刊に連載されていた「サザエさん」で朝っぱらからサザエさんとマスオさんの閨房術を展開されても困ると思います。金瓶梅でもあるまいし。
 それはともかく。なぜ性が描かれていないのか、という問いに対して、寺山は単に(リスペクタブルな)新聞に掲載するため、という以上の背景を「サザエさん」というテクストそのものの中に見出します。それは、

漫画「サザエさん」では主人公はサザエさんでも、マスオでもなくて、「磯野家」そのものなのです。マードック〔アメリカの社会学者…カネキウス注〕は「家族は短命であるのに<家>は永続を願望され、この両者は根本的に相容れないものである」と書いていますが、その両者の歪みがもっとも具体的なかたちで反映されているのが、他所からこの「家」へ入りこんできたムコ(つまり、もっとも純粋な意味で「家」と血のつながりをもたぬ家族)のマスオです。マスオが、サザエと結婚しながらついにその性生活を十年間ものあいだ、暗示だにされないというところに、この漫画の呪術的おそろしさが感じられます。…ここではマスオの性欲は「家」の力によって去勢されかけているからです。

ここから寺山は「家」制度と性の問題をめぐる考察を展開していきます。一夫一婦制を自明のものとする「家」の支配ゆえに、マスオは「家」の外で性欲を処理しない(できない)。しようとすると必ず失敗するという「きわめて理解しがたい倫理観」が存在している。マスオはカツオが成人して家督を継ぐまでの中継ぎだから、性的主導権を握ることは「家」が許さない、という事情もある。そして彼の行き着く主張は、

私は、こうしたサザエさんのエロチシズムへの無関心と「家」への忠誠が、一夫一婦の死ぬまでのものだとするあきらめから出発していることが、この漫画の最大の特色であると考えます。…こうしたことから、結婚そのものが「社会の生産手段の私有化としての経済基盤だけを問題にする」ようになっていき、形骸化したサザエさんとマスオの夫婦生活を作り上げるにいたったのである。

つまりは、家族制度こそが夫婦間のセックスの豊かさを奪いとる元凶である、というような主張のようです。カネキウスは結婚しておりませんが、話に聞いたり読んだりするところでは夫婦間の性交渉というのはどんどん減っていくしまた義務化(儀式化?)し貧困化していくとか。とすれば、寺山の分析も結構鋭いんじゃないかという気がします。
 が、こうした貧困な性生活を打破するための処方箋として、彼は二つの突拍子もない提案をいたします。
 その一つは、「家」内部での性解放です。
 どういう意味でしょうか?答えは以下の引用文をどうぞ。

ここに、その例としてオランダから出ている地下新聞「SUCK」にのった「JOE BLOW」という漫画を引用してみましょう。…パパのジョーが娘の勉強部屋にたずねると、ルイスは手淫の最中です。それを見て父親はイキリ立って自分の男根を娘に示し、「さあ、キャンディーだよ」と言ってしゃぶらせます。

さすがショーウィンドーの国、阿蘭陀としかいいようがない。
 もっとも、硬いこと(男根ではない)を言ってしまえば、父と娘の性行為というのは家父長的な関係を背景にしている可能性が高いから解放とはいえないような気がしますが。アメリカのフェミニスト史家であるリンダ・ゴードンは、インタビューの中で20世紀はじめのアメリカのソーシャル・ワーカーが出会った父と娘の近親相姦の事例を紹介しています。その娘の母親はこんな風に娘を弁護したのだそうです。

この人〔娘の母親〕が実に鋭い、いわばフェミニスト的な分析をしています。「考えてもごらんなさい、あの子は、関係を持てば暴力をふるった上に養ってもくれない夫と、関係をもてば面倒をみて、お金もくれて彼女とその子供たちの安定を保証してくれる父親と、二人のうちどちらかを選ばなくちゃならなかったんです」と。
(『歴史家たち』名古屋大学出版会、p.144より)

ゴードンはこの母親の主張に「受け入れがたい、ひどい見解ですが…」とコメントしていますが、ここには扶養による(ある種の家父長的な)保護‐被保護の関係とセックスが結びついていることが表されています。それを考えれば、ジョーとルイスの関係はそれほどリベラルで解放的なものかどうか。実際寺山の上記引用には、父が娘に「キャンディー」を与えると書いてありますが、キャンディーは男根でもあり、一方で本来のキャンディー=食事つまり扶養をも示唆しているとも言えますし(考えすぎか)。
 さてもう一つの処方箋は、というと…

たとえば、しのびこんだ痴漢によって強姦され、性の快感にめざめたサザエさんが、しだいに磯野家の構造に不満を持ちはじめ、留守番と家事と買い物だけだった人生に、充足した他の何かを求めて家出する。そして、次々と男を変えてゆくうちに、真の女の自由というのが何であるのかを体得する。

だそうです。
 でもって、寺山はアリストファネスを引きながら、サザエさんが「ベッド入りを拒むことが全世界の平和と釣合うほどの重厚な性生活をもってほしい、というのがサザエさんへの期待です」「しからずんば、娼婦にでもなるほかにはサザエさんが現代に生きる資格など、ないと私は言いたい」と結びます。

 最後にカネキウスの感想を述べるならば、全体として、寺山修司が過度にある特定の「リスペクタブルな」夫婦間性生活(まるでヴィクトリア時代の夫婦生活についての公式のイデオロギーのような…)を想定しすぎているために、それを打破するための処方箋がむちゃくちゃであると言わざるをえません(まあ、これが寺山流のギャグであるならば相当の傑作ですが)。
 もしかすると、サザエさんとマスオさんは家の中でいつ見つかるかわからないという緊張感を楽しみつつ性行為をしているので、セクシュアリティが紙面に表れないのかもしれません。だとしたら相当マニアックな夫婦です。
 しかしそれはともかくとしても、「家」と「性」の関係というややこしい問題に踏み込んだ点は興味深い小論であった、という感じです。

 なおマスオは婿養子ではなく、サザエさんがマスオの「フグタ家」へ嫁入りしたことになっているのでその点についての寺山の分析はちょっと間違っているということは、指摘しておくべきでしょう(それは大筋の分析にとってはそれほどの影響はありませんが)。

 しかし、新聞を開くと四コマ漫画で朝っぱらからファックシーンが展開されていたら、そりゃまあびっくりするでしょうねえ。朝からズボンの前がぴんぴんになったりして。
 そのうち新聞にも袋とじが添付されるようになるかもしれません。
 ジャーナリズム革命。

(Canecius Magnus)

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