3k 「宴桃園豪傑三結義」

「三国演義」は全巻百二十章から成る明の時代の歴史小説で、その第一回の題は“宴桃園豪傑三結義 斬黄巾英雄首立功”。黄巾の乱に対抗する兵を募集する為に劉焉が飛ばした檄を見て溜め息をつく劉備、そこに声をかけたのが張飛であった・・・。その場所が現在の河北省タク(さんずいに“豕”)州市にあると聞いたので、今回はそこに行ってきました。ここはタク州市のメインストリート(だと思う)。

2k 張飛酔

その後意気投合し、酒屋で酒を酌み交わす二人・・・そこに登場するのが関羽。と、話は進みます。そしてここがその酒屋“張飛酔”!・・・というのは、いくら何でも話が出来過ぎでしょう。

3k 三義廟

“念劉備、関羽、張飛,雖然異姓,既結為兄弟,則同心協力,救困扶危;上報国家,下安黎庶;不求同年同月同日生,只願同年同月同日死。皇天後土,実鑑此心。背義忘恩,天人共戮!”

と、三人が誓いを立てたのがこの場所。当時張飛は多くの“荘田”(領地)を持っており(原文:“頗有荘田”)、誓いはその裏の桃畑で立てられました。劉備が草鞋売りで、関羽が逃亡生活を送っていたことを考えると、張飛はリッチだったみたいですね(原文:“吾頗有資財”)。

3k 三義廟

何年か前までは屋根に草や木!?が生えていて崩壊寸前だったそうですが、最近になって修復されたという三義廟です。私達が着いたときは、どの門も堅く閉じられており全然中に入れませんでした。「せっかく来たのにどうしたものか?」と思案にくれていると、門の向こう側におじさんがやって来て「ここはテレビの取材であるとか、外国から偉い人が来たとき以外は公開しないんだよ。」と言い出す始末。仕方がないので乗ってきたタクシーの運転手さんに交渉してもらい、もめること約15分。結局入場料を払うと言うことで話は決着したのですが、渡された入場券の“壱”と“元”の間にはマジックで“拾”の字が・・・。

3k 関羽像 

お堂の中に見えるのは真っ赤な顔をした関羽の像です。「張飛は寝るときも目を閉じなかったが、関羽はいつも目が半開きだ。でもそれでいいんだよ。その目が開くとき、目の前の人は真っ二つになるんだから。」と、ガイドのおじさんが説明してくれました。

3k 赤兔馬と馬卒

「人中有呂布、馬中有赤兔」と呼ばれた赤兔馬とその馬卒です。赤兔馬の迫力がいまいちかな?

3k 三義廟

建築中の三義廟です。この中に粘土で作成中の人形があり、溶解人間みたいで面白かったので写真を撮ろうとしたら、「ここでは写真を撮らないように!」と釘をさされてしまいました。残念!門の前で座っている人がいますが、一応工事の人です。まさかサボって・・・(以下省略)。

劉備と諸葛亮 3k 「○○と×××」

この人形が誰と誰であるかは説明不要でしょう(分からない方は左の写真の上にマウスカーソルを重ねてみて下さい)。二人の顔が漫画っぽくていささか興ざめでした。中国では文化大革命の時に昔からの仏像や塑像の大部分が破壊されてしまい、たとえ古刹と言えども仏像はやけにピカピカしている場合がほとんどなのですが、もうちょっと力を入れて作れないものでしょうか。

3k 「黄忠(左)と趙雲」

蜀漢帝国五虎将の中で最も通好みの黄忠(字は漢升)と「三国演義」きっての人気者、趙雲(字は子龍)です。超雲は常山真定(現在の河北省正定)の人、公孫[王賛]に仕えたのち、劉備の下につき、二度も劉備の息子阿斗(後の蜀漢後主劉禅、字は公嗣)の窮地を救った名将です。黄忠は南陽(現在の河南省南陽)の人、劉表傘下から劉備に下りました。演義での趙雲は永遠の若武者のイメージ、片や黄忠は老いてなお壮ん、好対照の二人です。

3k 三義廟

三義廟の本堂、三義堂に鎮座する劉関張義兄弟像。真新しい像のせいか今一つ迫力に欠ける気がします。劉備の玉のような顔、関羽の棗のような顔、そして張飛の・・・。

3k 孫氏像

甘夫人(阿斗、つまり後主劉禅の生母)死後、政略結婚で呉から輿入れした孫夫人、孫尚香という名が伝わっています。実の兄の孫策や孫権を相手に薙刀の腕を磨いた姫で、劉備とは親子ほど歳が違っていました。それでも夫婦仲は悪くなかったらしく、後年政策の行き違いから呉に連れ戻されてからも嫁がず、劉備の白帝城での崩御を聞いて、長江に身を投げたといいます。

3k 張苞像

張飛の息子、張苞ですが、何も顔色まで親に似せなくても、と思いませんか?この人は若くして無くなったせいか、字をはじめ詳しいことは伝わっていません。劉禅像、関興像と一緒の堂に祭られています。

3k 劉禅像 

後主劉禅、字は公嗣、幼名阿斗です。名将超雲に二度も助けられたのに、結局は国を滅ぼしてしまう、ということで助け甲斐のない人の代名詞のように言われてちょっと可哀相な気もします。きっと苦労知らずで素直に育っちゃったんだろうなと、同情を禁じ得ません。生まれた時代と家が悪かった、国なんか背負わされなきゃもっと気楽に暮せたのに、と本人は思っていたかもしれませんね。魏に下ってから安楽公に封じられたのは、とてもお気楽な人柄だったから、と言うのはまっかな偽り、正しくは安楽県公、地名からきています。で、安楽県公、后は張飛の娘です。父が張飛で兄が張苞、うーん、顔の色が心配です。

3k 陳さん

向こうに見えるのが三義堂の第一堂、関羽像と赤兔馬・的廬の駿馬像一対があります。ところで、手前に写っている人はメルマガでおなじみ、ベトナムの陳さんです。この時はちょうど研修で北京に来ていました。

3k 的廬

赤兔馬が名馬ならこの的廬も名馬には違いありませんが、こちらはいわくつきの名馬です。なにしろ乗った人に祟るというのですから穏やかではありません。徐庶が劉備の人柄を試す為に「まず恨みのある人物に贈って祟らせてしまうのは如何?」と問うと、劉備は「他人を陥れる策なんて」と怒ってみせます。でもこの馬、祟る祟るといわれながら乗り手に祟っという記載がないばかりか(私が無学で知らないだけかも)、絶体絶命の劉備を乗せて壇渓の急流を越えているくらいですから、凶馬と言うのはただの言いがかりかも・・・。その時劉備は「ついにおまえは祟るのか」と言ったそうですが。

3k 管理人のおじさん

何度も何度もお願いすると、中に通して案内してくれます。もちろん入場料を払ってからですが。この村(楼桑村)の出身の人で、史跡の管理をしているようです。

3k 三義廟正門

明の時代に建てられて、最近修築された正門です。昔はこの脇に桑の巨木があって、楼桑村の名前はここから来ているそうです。「この木くらい大きな車に乗ってやる」と少年の日の劉備が叔父に語った、あの桑の木のことでしょう。上の写真のおじさんは桃園の誓いの場所もこの門の前の桃林だと言うのですが、演義の第一回には張飛の家の裏と書かれているのでおじさんの身びいきかも・・・。張飛の家はここから数キロはなれた所にあります。

3k あひる

車がやけに目立ってしまいましたが、本当は車の後ろのアヒルを追っているおじさんを撮りたかったのです。「グワッ、グワッ!」と鳴きながらピョコピョコ走るアヒルとそれを追っているおじさん・・・農村ならではののどかな風景でした。上のおじさんの話によると、三国演義の時代にもこの辺りにはたくさんのアヒルがいたとか・・・。

2k 智度寺碑

三国の時代よりは後の建築でしょうが智度寺というお寺があったらしく、北塔と南塔、煉瓦の塔が二基建っていました。お寺自体は残っていませんし、北塔の方は工場の中にあって見学は難しいそうですが、南塔はなんと野ざらし手付かず、囲いもなしのまま残っていました。石碑の台や仏像が地面に散乱して荒れ放題、中国は文化遺跡が多すぎて全てに保全の手が回らないのが現状です。判っていてもいざ目の当たりにすると残念です。

3k 智度寺南塔

こちらがその南塔、五層八角形の天空の城です。荒れ放題で崩壊が始まっており、大きなひび割れが入っていました。それでも意を決して中にはいってみると・・・

2k 南塔内壁画 

鮮やかな仏画が塔のあちこちに残っていました。名前も判らない仏様、飛天、高僧の背後には後光が差していました。画面では分かり難いかもしれませんが表面をはがして持ち去られています。最初は一体どれほどの絵が描かれていたのでしょうか。想像もつきません。

2k 南塔内壁画

天井には龍が描かれていました。なにしろ今にも崩れてきそうで、こんな公衆トイレみたいな所で生き埋めになるのは嫌だ(足元には至る所にうん○やお○っこが・・・)、ということで二階までしか昇らなかったのですが、上の方にも様々な壁画がありそうでした。もしかしたら仏像もあったかもしれません。

3k 南塔

骨組は木、煉瓦を漆喰のような物で固めて積み上げただけ、これじゃ保存が難しいのもわかります。むしろ今まで建っていたのが不思議な位かもしれません。




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