
| ● 伏見・大坂街道・3 | ||
| 枚方宿〜高麗橋 | ||
10月19日、晴天。9時半ごろ枚方市駅に着いた。街道歩きを始める前に、淀川の治水や環境などのテーマを紹介する淀川資料館に寄っていく。淀川には、仁徳天皇による茨田(まんだ)堤、豊臣秀吉による文禄堤など古くから堤防の建設が行われ、明治になってからはオランダ人ヨハネス=デ=レーケによる河道整備と水制の設置、1885(明治18)年の大洪水後の堤防の嵩上げと新淀川の開削などが行われている。現在は、町ごと堤防の高さまで嵩上げしたスーパー堤防を建設したり、河川敷に生き物が棲みやすい池(ワンドという。)を整備したりしているそうだ。
「ふねははや、ひらかたといへる所ちかくなりたると見へ、商ひ船、こゝにこぎよせ、あきん人『めしくらはんかい。酒のまんかい。サアサアみなおきくされ。よふふさる[伏さる=寝る]やつらじやな』ト此ふねにつけて、ゑんりよなくとま[(三十石船の屋根にかかっている)苫]ひきひろげ、わめきたつる。(中略)北八『いかさま、はらがへつた。爰(ここ)へもめしをたのみます』あきん人『われもめしくふか。ソレくらへ。そつちやのわろはどふじやいやい、ひもじそふな頬(つら)してけつかるが、銭ないかい』(中略)弥次『イヤこいつらアいわせておきやア、とほうもねへやつらだ。よこつつらアはりとばすぞ』のり合[客]『コレコレおまい、腹たてさんすな。アリヤこゝのあきなひ舟は、あないに、ものをぞんさいにいふのが、めいぶつじやわいの』」 「東海道中膝栗毛」で上のように描写される「くらわんか舟」は、もともと大坂夏の陣の際に物資輸送で徳川方を助けた柱本村(現在の高槻市)の民が、淀川での商いを特別に認められたことに始まるもので、幕府の威光をかさに着て「飯くらわんかい、酒のまんかい」とがさつな物言いで商売を行うのが名物となっていた。広重画伯もこの「名物」を「京都名所之内 淀川」に描いているが、「くらわんか舟」の商人の人を喰ったような表情と、三十石船の中でまずそうに汁をすする乗客の表情が対照的でおかしさを誘う。「くらわんか舟」の飲食代は回転寿司のように茶碗一杯いくらで決まっていたらしく、中には茶碗を川に沈めて勘定をごまかす客もいた。今でも何かの折に江戸時代の客が沈めた茶碗が発見されることがあり、その「くらわんか茶碗」が鍵屋資料館でも展示されている。鍵屋資料館を過ぎると間もなく枚方宿西見附で、延長1.5kmにわたる枚方宿はここでおしまいとなる。1909(明治42)年にこの先にも旅籠が移転してきて「桜新地」という花街を形成したため、もうしばらくは古い町並みが続いているが、枚方大橋につながる国道170号を渡ると普通の住宅と田んぼが入り混じる風景になった。
用水路を渡って堤防の上に出る。稲刈りの終わった田んぼから稲わらを燃やす煙が立ち昇る。この先、東海道の道筋は、豊臣秀吉が毛利・吉川・小早川の三家に命じて築かせた文禄堤の上に引かれている。文禄堤は1595(文禄4)年の大洪水後、長柄(大阪市)から枚方まで築かれ、江戸時代を通じて京阪間の治水と交通に寄与してきた。ただし明治以降、堤防の嵩上げや河道の変更が何度も行われたため、当時の文禄堤は今はほとんど原型をとどめていない。寝屋川市に入り、今度ははるか昔、仁徳天皇の時代に築かれたと言われる茨田堤の碑が立つ。『日本書紀』によれば、茨田堤の建設中どうしても堤防が途切れてしまう「絶間」が2箇所にあり、天皇の夢枕に立った神のお告げによって「河内の茨田連袗子(ころもこ)」と「武蔵の強頸(こわくび)」の二人が川の神への人柱としてささげられることになった。強頸は水中にその身を投じられて命を絶ったが、袗子は一計を案じ、川にヒサゴ(ひょうたん)を投げ入れて、もしこのヒサゴを沈められないのならば、偽の神であるから自分は人柱にはならないと宣言した。当然のことながらヒサゴは沈まず、袗子は人柱にはならなかった。袗子と強頸が人柱にささげられることになった場所をそれぞれ「袗子の絶間」「強頸の絶間」と呼び、それはこの「茨田堤」の碑が立っている場所(絶間にちなみ「太間」という地名がつけられている。)と、この先、大阪市旭区千林付近だと伝えられている。 ここから5kmほど堤防の上を歩く。右側は河川公園。左側は古い家が多く、中には洪水に備えて土台を高くした段蔵も見える。淀川大橋、続いて鳥飼仁和寺大橋の下をくぐる。鳥飼仁和寺大橋は大阪府道路公社の管理する有料道路で、普通車は100円、自転車は10円、歩行者は無料で通ることができる。1975(昭和50)年まではこの場所で淀川最後の「鳥飼の渡し」が運航されていた。「仁和寺」の地名は京都の仁和寺の所領であったことに由来する。12時を過ぎていいかげん腹が減ったので守口市に入ったところで堤防を下り、国道沿いの「ザめしや」で昼食をとる。佐太というこの町は菅原道真が大宰府に流される前に立ち寄った場所といい、佐太天神社が祀られている。淀藩から美濃加納藩に転封となった永井氏の陣屋跡や後村上天皇の勅願寺である来迎寺も近くにある。1860(万延元)年に立てられた「もり口一り 京はし三里」の道標や「淀川筋佐太渡舩場」の石柱が道筋に立つ。遠くに生駒山が見えてきた。
義天寺の先で文禄堤を下り、三洋電機の本社の手前を左折し、さらに右折して国道1号に出る。国道479号内環状線を横断すると大阪市。市境には地下鉄谷町線太子橋今市駅があり、内環状線の下では新しい地下鉄8号線の建設が行われている。いったん国道の北側に出て国道を横断し、南側の旧道に入る。大阪市内の東海道(京街道)は路面に目印が埋め込まれているところが多く、ところどころに「京かいどう」「京街道」と記した標柱も立っている。ダイエー発祥の地として知られる千林商店街のアーケードを通り、阪神高速道路の下を流れる城北川を渡る。地下鉄関目高殿駅付近では大坂城防衛のためくねくねと曲げられた野江の七曲りという旧道を行き、都島通の上にかかる城東貨物線をくぐる。野江内代(のえうちんだい)駅を過ぎ、むかし刑場があったという野江の町を行く。「リブストリート」「ビギン京橋」というアーケードのかかった賑やかな商店街を通り抜けると大阪環状線の高架橋にペイントされた「京街道」の文字が目に入る。左手はJR京橋駅である。 大阪の繁華街は梅田周辺の「キタ」、難波周辺の「ミナミ」に代表されるが、近年開発の進んだ京橋周辺を「ヒガシ」、ベイエリアに近い弁天町周辺を「ニシ」と呼ぶこともあるのだそうだ。京橋駅には大阪環状線・学研都市線・JR東西線・京阪電鉄本線・地下鉄長堀鶴見緑地線が集まる。放置自転車だらけの駅前広場を横目に京阪モールというショッピングセンターに沿って歩く。かつて東海道は、現在の京阪電車の線路の位置に流れていた鯰江川の北の道を進み、野田橋で川を横断していた。JR大阪城北詰駅近くにある「のだばし址」の碑を過ぎ、土佐堀通をしばらく行くと、秀吉時代に京街道の起点とされた京橋に着く。
明治維新後、大坂城の跡は大阪鎮台、のちの第4師団司令部など陸軍の諸施設の置かれるところとなり、隣接地には大阪砲兵工廠という大軍事工場が造られた。現在、OBPや大阪城公園、地下鉄やJRの車庫となっている一帯がかつての砲兵工廠跡地である。 東海道に引き返す。府立女性総合センターの敷地にはセンター建設時に発掘された豊臣時代の大坂城三の丸石垣が復元されている。城内の整然とした切石とは異なる自然石の野面積である。土佐堀通りに戻ると、京阪天満橋駅ビルの中に入る松坂屋大阪店が見えてきた。松坂屋大阪店は、もともと明治時代にえびす屋という別の呉服店を松坂屋が買収したものである。1966(昭和41)年に日本橋(現在の島屋東別館)からこの天満橋に移転しているが、商業地というよりはビジネス街というべき立地のためか、移転後一度も黒字になることなく、来年(2004年)5月にはあえなく閉鎖されることになってしまった。
難波三橋の一つ・天神橋からゆったりと流れる大川を眺め、東横堀川にかかる高麗橋へと足を向けた。1929(昭和4)年架設のコンクリート製アーチ橋。東京の日本橋同様、橋の上には高速道路(阪神高速道路環状線)が覆いかぶさっている。親柱に櫓の形の灯篭が乗っているのは、橋西詰の両側の建物に櫓があったことに由来するという。橋東詰には「里程元標跡」の碑が立つ。現在は梅田新道交差点に置かれている大阪市道路元標が7本の国道の起終点となっているが、1922(大正11)年まではここ高麗橋の里程元標が諸街道の起終点となっていた。 ここから先は豊臣秀吉が開発した船場の市街地である。高麗橋から伸びる高麗橋通は江戸時代には呉服店が多かったところで、三井越後屋の大坂店もこの通りと堺筋との交差点にあった。三井越後屋呉服店の後身にあたる三越大阪店と、その向かい側に建つ三井住友銀行大阪中央支店(旧三井銀行大阪店)には、東京日本橋の三越本店と三井本館のミニチュアのような建物が建っている。なんだか振り出しのお江戸日本橋へ舞い戻ってきてしまったような、そんなおかしな気分になった。 【完】 |
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