「塩の道・千国街道」

「塩の道・千国街道」は、新潟県糸魚川から長野県松本まで(約130km)の旧道です。 この道の魅力にとりつかれ、年に数回行っているわたしが、歴史やコースなどをご紹介します。



■ 「塩の道・千国街道」の概要
■ 「塩の道・千国街道」を歩こう(ルート・画像と装備、注意点)
■ 「塩の道・千国街道」の神話・伝説・民話
■ 子ども向け「塩の道・千国街道」を歩くツアー(財団法人 育てる会の紹介)
■ 「塩の道・千国街道」に関する文献の紹介
■ その他参考になるホームページへのリンク
■ 8月10日道の日とは






写真:戸土集落に伝わるなぎ鎌の神事で神木に打ち込まれた鎌(平成15年11月撮影)




「塩の道・千国街道」とは

 「塩の道・千国街道」は、新潟県糸魚川から長野県松本まで(約130km)の旧道です。現在では、国道147・148号線、そして鉄道ではJR大糸線がその役目をひきついでいます。
 「千国街道」の歴史は、無土器時代にまでさかのぼると言われています。長野県和田峠で採掘された黒曜石(やじりの先に使われた)が日本海側の遺跡で発見されたり、新潟県糸魚川市の姫川流域でとれる翡翠(ひすい・勾玉の原料)が長野県の遺跡で発見されますが、これはこの時代から日本海側と長野県を通じる道があって運ばれたからにほかなりませんし、中間の長野県大町市から翡翠を加工する工房跡が発見されたことからも、この「千国街道」によって物資が流通していたことがわかります。
 また、古事記によれば、大国主命(おおくにぬしのみこと)と奴奈川姫(ぬながわひめ)の子、建御名方命(たけみなかたのみこと・諏訪神社の祭神)が出雲国(いずものくに・現在の島根県東部)から逃げて州羽(現在の長野県諏訪)に行ったのも、この道を使ったと考えられています。これは神話の中の話ではありますが、出雲の医薬の知識と金属文化、そして姫川の玉の交流、さらに新潟県と諏訪がすでにこの道によって結ばれていることを物語っているのです(時代的には4世紀と考えられるそうです)。(詳細はここをクリックしてください)。
 さらに、安曇野に入りその地方に稲作をもたらしたと言われる安曇族は、もともと北九州を根拠地とした海女(あま)をひきいる豪族で、古事記にその名が見えますが、この一族も、日本海を北上して糸魚川からこの道を通って安曇地方に入ったと考えられています。
 それから近世となり、海側からは塩・魚、山側からは麻・たばこ・生薬・大豆などの生活必需品の流通路として使われました。これが「塩の道・千国街道」とよばれるゆえんです。
 本来「塩の道」というのは岩塩のない日本では海でとれた塩を内陸に運ぶための道のことを言い、海岸から内陸にむかって無数の「塩の道」がありました。信州では、太平洋側から入る塩のことを「上塩」とか「南塩」と言い、岩淵(富士川)、吉田(豊橋)、名古屋、江戸から運ばれました。日本海側から入る塩のことは「下塩」とか「北塩」と呼ばれ、富山(針ノ木峠経由)、糸魚川、直江津、新潟から運ばれました。そして、上塩と下塩との移入路のターミナルには「塩尻」という地名がつけられたと言われています。有名な塩尻市をはじめ、上田市塩尻、下水内郡栄村、その他各地にあります。
 このように各地にある「塩の道」ですが、千国街道は信州でもっとも代表的な海岸と内陸部を結ぶ街道であり、歴史もあり、川中島の合戦のときに「上杉謙信が敵である甲斐の武田信玄に塩を送った」という逸話の舞台でもあるから有名で(詳細はここをクリックしてください)、「塩の道・千国街道」と呼ばれているのです。
 物々交換の交易の道であったほか、「ごぜ」(盲目の歌や三味線の芸能集団)が往来したり、長野の善光寺への参詣の人が往来するなど、参勤交代の列が往来した五街道のようなメジャーな存在ではなく「庶民の道」であったわけです。
 現在では国道147・148号線そしてJR大糸線(昭和32年全線開通)にその座をゆずって、太平洋戦争後しばらくは生活物資を運んでいた「歩荷(ぼっか)」もいなくなり、旧道は地元の生活道や林道、ハイキングコースとして使われています。