留萌・増毛・小平の旅

「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」の三船の事件の地、北海道の留萌(るもい)・増毛(ましけ)・小平(おびら)に行ってきました。現在放送中のNHKの朝の連続テレビドラマ「すずらん」の舞台になっていることもあって、留萌本線はSL列車「すずらん号」も運行中。「明日萌駅」(恵比島駅)には多くの観光客が訪れていました。といっても、私は極力、連続ドラマは見ないことにしているので、(性格がまめではないので、見逃す可能性が高いのです)「明日萌駅」には立ち寄らず、留萌へ直行しました。留萌港は三船のうちただ一隻、沈没だけは免れた第二新興丸がたどりついた港です。留萌駅に着いて、「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」がある千望台へ。乗ったタクシーの運転手さんは、「留萌の観光地と言えば、千望台と◯◯くらいしかないからね」と言いながらも、千望台にこの碑があることを知りませんでした。碑にお参りして、市立図書館で事件の資料を見せてもらいました。多くの本や雑誌のほか、「泰東丸」の引き揚げ調査が、昭和56年から59年にかけて行われていて、その当時の新聞の切り抜きが保存されていました。

札幌に泊まったこともあって、増毛、小平には日を改めて、訪問。増毛町には、町営墓地に「小笠原丸殉難碑」があります。留萌のタクシーの運転手さんのように、墓地は知っていても碑のことを知らないかもしれないので、増毛町役場で墓地への道のりと「小笠原丸殉難碑」の場所を確認してから行くことにしました。役場で墓地を尋ねると、「私がご案内します」と厚生課長さん。予想もしていなかった対応に戸惑いましたが、ご好意に甘えることにしました。増毛町は毎年8月22日に町長、助役、教育長、消防団長まで、出席して慰霊祭を町が責任を持って行っているのです。町がこうした行事を行うことになった背景に一人の元町会議員さんの遺徳がありました。増毛の沖で沈んだ小笠原丸に残る遺体、遺品を私財を投げうって、引き上げた村上高徳さんです。増毛町の広報「ましけ」1995年9月号から、村上さんの成し遂げた仕事をご紹介します。父を語る村上唯行さんの話です。「昭和20年8月15日、父、高徳さんは稚内で終戦を迎えた。補充兵を教育していた軍人だった父は同地で増毛沖において小笠原丸が沈められたという話を聞いたらしい。その後、増毛に戻ってきた父は、雑貨商を営んでいたので、見慣れない人が、線香やろうそくを買いにくるのを見てどこからきたのかと尋ねると、小笠原丸の遺族だった。」(中略)「黙って見てはいられないと父は町会議員に出馬。当選はしたものの、町で何とか(遺体を…小林)収容をと議会に求めたが町のふところもそれまでの余裕がなかったためそれは実現しなかった。」(中略)「そこで、自分がお金をだして引き上げ船3隻、潜水夫5人を頼み、収容作業をはじめることにした。」

収容作業は昭和26年、27年の2年間。当時のお粗末な潜水服で、北の海、水深70メートルでの作業は困難をきわめましたが、収容された遺体を犠牲者の数629体分に分骨、遺族にお返ししました。「2年間にわたっての収容作業だったので徐々に家計を圧迫し、生活も苦しくなっていく。」潜水夫の最後の給料は逓信省から無償で小笠原丸を譲り受けることにしてもらって、引き上げたスクリューをクズ鉄として売って支払ったと墓地の帰りにに立ち寄った息子の村上唯行さんから伺いました。町からの資金援助はなかったものの、ニシンの親方からのロープの援助、遺体の供養は仏教会が無料で、遺骨の搬送も消防団が協力してくれました。こうした運動や歴史があって、慰霊祭を町が責任を持って今も行っているのです。「小笠原丸殉難碑」の隣には昭和57年に亡くなった村上高徳さんのお墓があります。

小平町の鬼鹿海岸に重要文化財の鰊番屋「旧花田家番屋」があります。鬼鹿沖で泰東丸が沈められたのが午前9時55分ですから、泰東丸からはこの鰊番屋が見えたはずです。国道をはさんで、海岸に「三船遭難慰霊之碑」があります。樺太からの引揚者で組織されている「樺太連盟」などの陳情を受け、厚生省が泰東丸の捜索を自衛隊に依頼したのが昭和49年。49年、51年から54年と5回の捜索では手がかりがつかめず、捜索は断念されることになりました。小平町に「泰東丸の捜索をすすめる会」がうまれ、56年に地元の漁船が泰東丸らしい沈船を発見。(今でも、小笠原丸や泰東丸は魚群探知器に映るそうです。)57年、58年の樺太連盟の調査で、バッテリー、銃弾、茶碗などの泰東丸のものらしい遺品が引き上げられました。翌59年、厚生省が再調査を行いましたが、残念ながら一体も遺体を引き上げることができませんでした。外海の流れが40年近い歳月を経て、遺体を押し流したのでしょうか。「旧花田家番屋」の隣に小平町の歴史資料館があって、「泰東丸の遺品」が展示されていますが、私が訪れたのが月曜日。あいにくの休館日で遺品を見ることはできませんでした。

1999年9月記

誕生日に考える

私の誕生日は8月22日です。同じ日に生まれた有名人には、タモリ、みのもんた、土居まさる、菅野美穂、メーテルリンク(青い鳥の作者)、レオン・トロツキーらがいます。星占いでは獅子座。星占いは黄道(地球から見た、見かけの太陽の通り道)の上の12の星座に分けています。黄道十二宮と呼ばれていますが、このうち、一等星をもっている星座はいくつかあり、獅子座にもレグルスという一等星があります。一番暗い一等星ですが、獅子座のレグルスだけが黄道上にあり、したがって、太陽と重なる可能性があります。レグルスが太陽と重なるのが8月22日と23日の二日だけ。なにか、特別な日に生まれた気分です。快挙では、亡くなった冒険家、植村直巳氏が犬ゾリで北極点に到達したのが8月22日。

歴史上、どんなことがあった日でしょうか?1910年には、「日韓併合条約」が締結されました。36年間の朝鮮支配が始まった日です。1944年には、沖縄の学童疎開船「対馬丸」が悪石島付近でアメリカの潜水艦の魚雷攻撃で沈められて、774名の学童を含む1484名が亡くなっています。助かった子どもはわずか59名でした。「対馬丸」は絵本やアニメーション映画になっていますから、ご存じの方もあるでしょう。那覇には「小桜の塔」という慰霊碑があります。1945年には、樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」が北海道の留萌沖でソ連の潜水艦の魚雷攻撃をうけて、1708名の人命が失われています。犠牲者の大半は婦女子。ソ連軍の侵攻から逃れるため婦女子を優先的に乗船させたのです。吉村昭の短編小説「烏の浜」はこの事件を描いたものです。留萌増毛小平には、この事件の慰霊碑があります。

同じ1945年8月22日に青森の大湊を出港したのが「浮島丸」です。「浮島丸」には、青森県下北地方で働かされていた朝鮮人徴用工とその家族ら、約3700人(一説には、8000人)が乗っていました。釜山へ向けて、8月22日夜、青森県大湊港を出港。しかし、進路を突然変更して、8月24日舞鶴へ入港しようとした時、舞鶴湾内下佐波賀沖で、突然爆発、沈没しました。日本政府の発表では、米軍敷設の機雷への触雷が原因で、死者は日本人乗組員25人を含む549人。しかし、釜山へ向かうことを恐れた日本人乗組員の「自爆」とする説や、なぜ航路を変更して舞鶴に向かったのかなどの、謎が多い事件とされています。船体は、スクラップにする目的で1954年に引き揚げられれましたが、原因究明の調査は政府の手で行なわれてはいません。舞鶴市下佐波賀の沈没地点を臨むところに「チマ・チョゴリ」を着た母と子の像の慰霊碑があります。金賛汀の「浮島丸、釜山港に向かわず」という、ルポルタージュがあります。

8月22日には、戦争でそれも軍人でなかった人たちが大勢死んでいます。留萌沖の三船と舞鶴の浮島丸の犠牲者数は正確にはわかっていません。小笠原丸は稚内に寄港しており、そのときに下船した人、小樽まで向かうと聞いて稚内から乗船した人がいるからです。第二新興丸や泰東丸の乗客名簿もかならずしも正確とは言えないのです。浮島丸も、出航後に泳いで乗船した人までいるのですから、正確な乗船記録(乗客名簿)はありません。

沖縄と舞鶴の碑には、かつて訪ねたことがあります。今年の9月には、留萌を訪ねることにしています。

(1999年8月記)


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