阜新の旅

「大馬路」で中国のファーストフードの店で朝食をとり、車で阜新へ向かいました。阜新までは、約2時間。道の両側は行けども行けどもトウモロコシ畑。地の果てまでもトウモロコシ畑。途中の義県にある「古塔」を見て行こうと提案されたのが、小宮孝喜さん。中学に通っていた錦州から、両親の住んでいる阜新へ帰る列車の乗り換え駅が義県。駅前に「古塔」があったのを鮮明に覚えていました。義県には、さほど高い建物はなく、「古塔」はすぐに見つかりましたが、近くまで行くのに多少手間取りました。錦州の「ラマ塔」は修復工事が終わって、きれいになっていましたが、この塔は荒れ放題。昔の錦州の「ラマ塔」のようだと、懐かしく想われたようです。寄り道をしたかいがありました。

義県を過ぎ、阜新に近づくにつれて、畑の向こうに山が見えるようになります。景色の向こうに山が見えるとなぜか落ち着きます。日本人の心にある景色には、必ず山が見えるのでしょうか?ボタ山が見えてくると、阜新はもうすぐです。

阜新で泊まったホテル「西山賓館」は、旧満州炭鉱の男子独身寮「富士寮」を改造したものでした。隣には、女子寮「桜花寮」も残っていて、現在の阜新炭鉱の招待所として使われていました。「桜花寮」には、母、松熊(小林)つや子が住んでいたことがあり、建物の感じがよく似ていたいたので、仕事が終わって、あわてて風呂に飛び込んだら、「富士寮」の脱衣場だったという、失敗談を話してくれました。かつての「都玄街」、西山路をはさんで「富士寮」の斜め向かいは「海州小学校」で現在は阜新工業学校(短期大学)になっています。55年前の校舎も一部残っており、現在は学生寮として使われていましたが、この建物は近々取り壊す計画があるようです。冬、夜に水を撒くと翌朝には凍って、スケートができたという校庭はそのまま残っていました。

続いて、炭鉱病院へ。現在も炭鉱病院として使われていますが、当時の建物は残っていません。1943年12月31日に母の姉が結核で亡くなった病院です。母の話では、「明日は正月だから、おぞうにを作ってあげようか?」と話したら、「明日でいいから」と言って、大晦日に死んだそうです。母にとっては、悔いの残るおぞうにの話でした。阜新には、炭鉱(現在は駅の南側で、東西4キロ、南北2キロの露天掘りがあり、年産500万トン)があり、当時から、市内には大きな火力発電所もありました。空気も乾燥していて、風の強いところです。緯度は函館と同じくらいですが、冬には、気温はマイナス20度を下回る日もありました。二重窓に目張りをしても、部屋に侵入してくる黄砂や煤煙、微粉炭、乾燥した空気など、呼吸器系の疾患のマイナス要因の多い街です。もともと体の弱かった母の姉には、厳し過ぎた環境であったのかも知れません。亡くなった姉が産んだ男の子は祖母がひきとりました。産後の肥立ちがよくなかったので「お宮参り」に行かなかったことに気付いた祖母は翌年の正月に「お宮参り」に行きました。そうしたら、風邪をひいて肺炎になり、祖母にとっての初孫はわずか一年で生涯をとげました。

午後は、海州の満炭社宅へ。給水塔が残っていて、これを目印に、矢野(別府)緑さんと陣内(前田)宏子さんの住んでいた社宅探し。矢野(別府)緑さんの住んでいた社宅はホテルから西山路を少し西にいったところにありました。周囲の様子や建物の感じでこの家に違いないと確信したとき、懐かしさのあまり涙がこみあげてきました。陣内(前田)宏子さんの社宅は、矢野(別府)緑さんの社宅の裏手。ガイドさんと歩いて、探しあてました。ガイドさんが、60年くらい前にここに住んでいたことを現在の住人に話してくれたのですが、けんもほろろ、写真を何枚か撮って、退散することにしました。確かに、現在の住人にとっては唐突な話でびっくりするのも、しかたありません。もと、来た道に戻ると矢野(別府)緑さんたちの姿が見えません。ガイドの金さんがもう一人のガイドの谷さんに電話連絡すると、「家の中にいる」という返事。さっき見つけた矢野(別府)緑さんの住んでいた社宅の中にいたのです。現在住んでいる人が、家に上げてくれていたのです。矢野(別府)緑さんの部屋にも上げてくださって、記念撮影もできました。

続いて、阜新神社跡へ。こうした宗教施設は、最初に壊されるもの。残っているとは思ってもみなかったのですが、社が残っていました。神主さんがいて、神道を信心している人がお参りに行っているというわけではありません。現在は倉庫として使われています。阜新神社跡を探す目印はテレビ塔です。日本は、神社を町の中心の高台に作っていたのです。

河南の社宅や火力発電所をバスの中からみて、河南と海州を結ぶ細河に架かる橋「海州大橋」を通って、ラマ廟へ。

翌日は、新邱へ。新邱へは、市内から東へ1時間弱。間に内蒙古自治県があって、看板に漢字と並んで、モンゴル文字が書かれています。新邱での目印は、炭鉱の事務所とその前のロータリー。陣内(前田)宏子さんの住んでいた社宅はロータリーから二軒目。陣内(前田)宏子さん一家は阜新で三度引っ越しをしています。当時、炭鉱の職員はその役職によって、住む社宅が変わるのです。炭鉱の技師をしていた陣内(前田)宏子さんの父親は最後は次長。鉱長に次ぐ地位だったので、ロータリーから二軒目が社宅だったわけです。簡単に見つけることができたのですが、現在は空き家で、庭に入ることもできません。塀越しに写真やビデオを撮影していると、隣の家(旧鉱長宅)の庭越しの方が家の様子がわかりそうだったので、家人に断わって、見せていただきました。建物も部屋も60年前そのままに残っていました。10万元(約150万円)売りに出されているとガイドさんが説明してくれましたが、冗談かもしれません。隣家の住人のお礼を言って立ち去ろうとしたら、身なりのいい人がガイドさんを連れて、家の中へ。実は、この家は現在、炭鉱の招待所として、使われており、会社に事前に断わりもなく入ったと怒っているとのこと。入り口に招待所の文字がないので、ガイドも含めて、みんな個人の家だと思っていたのです。「責任者に連絡もなく、勝手なことをした」のは、事実ですが、悪意はなかったのです。ガイドさんは、なかなか招待所から出てきません。どうやら、「責任者」の体面を損なったことが許せなかったようです。戻ってきたガイドさんの説明は一言。「官僚主義ですよ。」

鉱長さんは、敗戦直後、「責任をとって」自殺されました。社宅は放火されたという噂が流れたのですが、どうやら全焼ではなかったようです。10数年前に奥さんがお子さんと一緒に訪ねてこられたそうです。

新邱小学校」はロータリーから歩いても2、3分のところ。現在は阜新炭鉱の技術学校となっています。三階建の校舎が残っていましたが、陣内(前田)宏子さんの父親が倒れたという講堂のあとは見つけられませんでした。陣内(前田)宏子さんは、父親が亡くなられたので、敗戦より前に日本に引き揚げてこられたのです。

新邱を後にして、海州露天掘へ向かいました。「海州露天掘」と呼ばれていますが、場所は河南や太平と呼ばれていた地域より南です。炭鉱の会議室のある建物の屋上から見ることができます。露天掘は私にとっては、懐かしい風景です。通っていた中学校の隣に、当時は日本一といわれた、「貝島中央露天坑」があり、給食時間の直前に発破作業があったことをおもいだしました。

午後は、郊外にあるラマ教のお寺への観光。ちょうど、お祭りがあって、参拝の人達でにぎわっていました。上から7番目の位のお坊さんが見えていて、私たちもお参りをすることにしました。

「城内」という言葉について

今回のツアー参加者の半分は私の母も含めて、かつて、阜新に住んでいたことのある人たちです。時々、「城内」という言葉がでてきました。瀋陽や錦州は城壁があった街(文化大革命の時に紅衛兵の手で破壊されました)ですが、阜新は城壁都市ではありませんでした。阜新で「城内」という時は、日本人街を指すようです。塀をつくって有刺鉄線の鉄条網(電気が流れているから注意しなさいと子どもたちには、教えられていたそうです。)と関東軍の兵隊に守られた「城内」で、私の母は過ごしていたのです。

阜新のレストランでの食事について

中国東北部の味付けは一般的に塩辛いそうですが、阜新では特にそう感じました。その中で、日本人の口に合いそうなレストランを一つ、ご紹介します。人民公園の入り口の脇にある「薛家大酒店」です。また、阜新には多くの蒙古族の人達が住んでいますが、蒙古族の料理で、「羊肉火鍋」はおいしく食べました。本来、冬の料理だそうですが、ヒツジの肉のしゃぶしゃぶです。春菊などの野菜、春雨、豆腐などといっしょに、胡麻味噌をベースにしたタレで食べます。阜新の地ビールがこの料理にぴったり。阜新にお越しになる機会があれば、「羊肉火鍋」の看板のお店でぜひお試しください。冬季限定のお店の方が多いようですから、ご注意を。

阜新はSLファンには、たまらない街

阜新を始め、遼寧省には、今も多くの蒸気機関車が走っています。私たちのガイドの谷満春さん(もちろん中国人ですが、私たちは、たにさんと呼んでいました)は、SLファンとしても有名で、日本の鉄道雑誌にその写真が何度も掲載されています。冬には、自らSL祭りを企画し、三重連、四重連の蒸気機関車も走らせていて、日本からも多くのマニアが訪れているとのこと。雪の中を重連の蒸気機関車がまっ白い蒸気をあげながら、走る姿はSLファンでなくても胸が躍る光景ではないでしょうか?できうれば、日本のSLファンには、少し歴史の勉強のおさらいをして、阜新に残る風景の中から、戦争の歴史や日本と中国の関係などについても、心に刻んで帰ってほしいと思います。

本を探しています

「阜新大観」という本を探しています。1943年頃に阜新で発刊された本です。戦前の阜新の街の様子が多くの写真で描かれています。お譲り願えればうれしいのですが、貸していただけるという方がいらっしゃれば、それもありがたいです。

(1999年8月記)


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 連絡先  kihei-koba@geocities.co.jp(小林 喜平)