*** 異説古代史 (上巻) ***

  横 尾 恒 雄
                       '01-07-11(1.1)
                       '01-08-04(1.2)

** 目次(上巻)  
* まえがき
* 1.邪馬台国論争とその問題点
1.1 邪馬台国論争の概要
1.2 邪馬台国九州説に対する解答
* 2.石器時代と縄文時代
2.1 石器時代
2.2 石器時代から縄文時代へ 
2.3 縄文時代 
2.4 三内丸山遺跡
2.5 貝塚 
2.6 縄文時代の生活と文化 
2.7 日本人のルーツ(その1)
* 3.弥生時代 
3.1 弥生時代とその始まり
3.2 弥生時代の大陸の情勢
3.3 弥生時代の朝鮮半島と日本列島
3.4 戦争の時代
3.5 弥生時代の文化と生活 
3.6 北日本の続縄文文化
3.7 日本人のルーツ(その2)
3.8 日本語のルーツ 
* 4.邪馬台国と倭国連合 
4.1 邪馬台国から倭国連合への筋道 
4.2 北九州の繁栄
4.3 北九州と伽耶地域の利益の対立
4.4 神武東征と邪馬台国の誕生 
4.5 倭国連合による北九州の制圧
4.6 出雲の成立 
* 5.卑弥呼の遣使とそのいきさつ
5.1 卑弥呼の遣使前後の中国の情勢 
5.2 卑弥呼の遣使と魏の反応
5.3 卑弥呼とその性格 
5.4 太陽神と皆既日食 
5.5 魏志倭人伝とスパイ情報
* 6.神武王朝から崇神王朝へ
6.1 倭国連合の版図の拡大
6.2 崇神王朝の成立 
6.3 欠史8代 
6.4 出雲の征服
6.5 オオクニヌシの怨霊化
6.6 弥生時代から古墳時代へ
6.7 崇神王朝のその後 

* まえがき
 邪馬台国論争,とくにその所在地に関する論争は数百年も続いてきたが,最近になって畿内説が優勢になってきた.私はその邪馬台国論争に終止符を打つ新説「司馬仲達謀略説」に到達した.つまり魏志倭人伝は司馬仲達の偉大な謀略構想の結果生まれたという仮説である.この仮説によれば魏志倭人伝の疑問点はほぼ完全に解消できる.
 しかし,邪馬台国の成立前後についてはまだ論争の余地が大きい.そこまで突っ込まないと邪馬台国論争が終わったとは言えないであろう.そこで上記の仮説を元に日本の古代史に関する一つの資料をまとめてみた.その過程で幾つかの発見をした.例えば,
@東大寺三月堂は長屋王の怨霊鎮魂のために造られた(12.3参照).
A天智の皇位継承法の基本形は皇室典範の「男系の男子」である(14.3参照).
 魏志倭人伝の解釈以外の部分はまだ検証が不十分な点が多い.しかし,定説をまとめただけでは面白味がないので検証不十分な部分を含めてまとめてみた.「異説」と名付けたのはそのためである.なお仮説の設定と検証という問題については最後に補足する(16.参照).

* 1.邪馬台国論争とその問題点
1.1 邪馬台国論争の概要
 3世紀の日本に,女王卑弥呼が君臨する邪馬台国があったことは魏志東夷伝倭人の条(魏志倭人伝)に記載されている.邪馬台国の所在地に関する論争は江戸時代から続いてきたが,大別すれば畿内説と九州説に分かれる.論争が数百年も続いた主原因は魏志倭人伝の内容が不正確だったことである.
 吉野ケ里遺跡の発掘以来,「都に宮室,城柵,楼観あり」というような魏志倭人伝の内容の正確性が再認識されるような発見が続いた.魏の使者は軍事情報として重要な北九州を中心として倭国の実状を詳細調査したのだと考えられる.しかし,邪馬台国の所在地に関する内容は不正確で矛盾を含んでいる.それは次のような理由によると私は考えている(詳細については5.2参照).
@司馬仲達は対呉戦争の作戦研究の一環として,倭国の利用を考えたが,そのためには倭国に対する正確な情報を短期間に入手する必要があった.
A必要な軍事情報を入手するために卑弥呼を親魏倭王に叙し,懐柔を図った.また金印をとどけるという名目で大量のスパイ団を公然と送り込んだ.
B魏の使節団に対して邪馬台国側はその所在地について故意に不正確な(又は虚偽の)情報を与えた.それは当時の倭国が奇妙な形態だったからである.
C魏の使節団はそのことを察知したが,あえてだまされたふりをした.したがって本来の報告書には,使節団が調査した正確な部分と伝聞による不正確な部分とが書き分けてあったはずである.
D司馬仲達はこうして得た重要な軍事情報を機密扱いとせず,歴史編集のための資料としたことである.半公開の資料を盗むスパイはいないからである.だからこそ陳寿が魏志倭人伝の編集に利用できたのである.
E原資料の不正確な部分に対してはその後かなり正確な情報が入手できたが,原資料を歴史編集用の資料としたのは偽装だったから,誤りの訂正などはしなかった.
F陳寿は不正確な部分を自分の知識によって修正・編集したが,彼は倭国の位置に対して重大な誤認をしていたので,修正どころか混乱を大きくした.これが邪馬台国論争の原因になった(4.〜5.参照).
 こういう重大な誤りを含んでいては文献学的研究からだけでは解明不可能であって,考古学の立場からの検討が必要不可欠である.

1.2 邪馬台国九州説に対する解答
 最近の考古学的発見の結果からは畿内説が圧倒的に優勢になってきた.それにもかかわらず九州説がなお生き残っているのは,畿内説にも問題が残っているからで,特に九州説論者の次のような素朴な疑問に対して説得力のある解答を与えていないからである.
@「邪馬台国の時代に西日本全体をカバーするような大国があったとは考えにくい.」
A「文化後進地域の畿内が先進地域の北九州を支配していたとは考えにくい」.
B「内陸の邪馬台国が中国大陸の情勢を把握していて絶妙なタイミングで魏に遣使できたとは考えにくい」.
 この内@の疑問は特に重要である.魏志倭人伝では,倭はもと百余国・・・今は使訳通ずるところ三十余国とされる.北九州付近の国数は正確なことはわからないが20前後であろう.そうすると北九州以外の国数は10前後で,西日本という地域の広さとは釣り合いがとれないのである.この文章は簡単な算術で,「今使訳通ぜざるところ七十余国」と読めばよい.即ち,当時の倭国連合は倭国全体の1/3を占めるだけで,2頭型という異例な構造だったと考えればよい.大国だったと考えるのは司馬仲達に騙されているのである.
 Aは誤解である.弥生時代の前半には北九州が文先進地域だったが,2世紀末には畿内の文化水準は北九州に接近していたし,軍事的にはむしろ優位なったと考えられる.
 Bについては,絶妙なタイミングで遣使したのは司馬仲達の思惑による.なお詳細については後に示す(
5.2参照).

* 2.石器時代と縄文時代
2.1 石器時代
(1)旧石器時代→新石器時代→青銅器時代→鉄器時代と進化するのが世界の趨勢である.しかし,日本列島での進化の過程はこれとはかなり異なっている.概略的にいえば,
@青銅器時代が極端に短く,青銅器時代と鉄器時代とはほとんど同時に来た.
A生活文化に及ぼした影響は,旧石器時代→新石器時代の変化よりも新石器時代における土器の使用の方がはるかに大きかった.
 また世界では狩猟の時代→牧畜の時代→農耕の時代と進化した地域が多いが,日本列島ではむしろ狩猟・採集の時代→栽培の時代→農耕の時代と進化したと考える方がわかりやすい.
(2)テレビ放送大学の講義科目の「発掘された古代日本」では次のような時代区分を採用しているので,この資料では(古墳時代の途中までは)この時代区分を準用した.
 @石器時代;ほぼ旧石器時代に対応.
 A縄文時代;ほぼ新石器時代に対応.
 B弥生時代;ほぼ鉄器時代に対応.
 C古墳時代.
 D奈良時代以後は,歴史の時代区分による.
時代区分だけではなく,弥生時代以前については,「発掘された古代日本」を参考にした部分が多い.なお時代区分をどう考えるべきかについては3.1参照.
(3)宮城県上高森遺跡等での石器埋納捏造事件発覚によって,日本列島における石器時代の始まりの時点がかなり怪しくなった.
石器時代前期と呼ばれる他の遺跡から発見された石器にも疑わしいものが続々出てきたからである.この捏造事件発覚の影響は甚大で,石器時代については教科書か
ら歴史所まで修正を余儀なくされた.例えば,講談社の日本の歴史シリーズの第一巻は発売直後だったが店頭から回収されるという事態になった.
 更に栃木県葛生町で発見され「葛生原人」と命々されていた骨8点中4点は室町時代の人骨,残り4点は動物のものだとわかった.これらの骨を発見し「葛生原人」と命名したのは「明石原人」の発見者でもある直良信夫だったから,明石原人も疑わしくなる.もっとも,北京原人が生きていた数十万年前の時代から日本列島に先住人が住んでいた可能性を否定するつもりはない.しかし,彼らは先住人ではあっても現代日本人のルーツとはいえない(2.7参照).
(4)石器時代も中期になると生活の痕跡が出てくるから先住人が住んでいたことは確かである.例えば,宮城県ババダニ遺跡は13万年〜12万年前の遺跡である.石器は7カ所の穴に20〜30点ずつ埋納されている.炉跡があって,短期滞在型と見られる.なお,この頃第2波の渡来人があったと考えられる(2.7参照).
 石器時代も後期になると生活の痕跡が豊富になる.
 3万年前から氷河期になる.動物では南方系(生き残り)のナウマン象,オオツノシカ等と北方系のマンモス,ヘラシカ等が混在していた.しかし,狩猟は次第に困難になり,広域移動が必要になった.植物では亜寒帯性針葉樹林が主流になったが,南部には照葉樹もあった.
@宮城県トミザワ遺跡は地底博物館になっている.2万年前は亜寒帯気候で,湿地林の根株が状態よく保存されている.鹿の糞,昆虫の羽根,マツノミ等がある.
 近くの台地に短期滞在型の遺跡があって,使用済み石器,炭(焚き火跡),獣骨等が発見された.
A宮城県ヤクライ山遺跡は約2万年前の遺跡で,ナイフ型石器や石刃が発見された.
 石刃は切れなくなると先端を折って刃を出すというカッター的機能を持つ.また細石刃は骨などに付けて槍や銛を作る付け換え用の石器で,携帯,移動に便利である.激動する環境変化に対応する石器時代人のたくましさを示すものである.

2.2 石器時代から縄文時代へ 
(1)青森県蟹田町の大平山元1遺跡から約1万6千5百年前の土器片が発見された.無紋の土器だがが,これは日本列島で世界最古の土器文化が発達し始めたことの貴重な証拠である.
 1万5千年前に氷河期が終わった.1万3千年前から気候の温暖化が始まった.土器を煮炊きに使用するようになって食料の範囲が広がった.これが縄文時代の始まりである.つまり,食料採集の時代から食料獲得の時代への変化が石器時代から縄文時代への転換の特徴なので,縄文時代になっても石器は依然として使用されていた.
(2)1万年前頃までの日本列島はまだ寒冷で,花粉の出土は針葉樹の花粉に限られる.この時代には狩猟による非定住生活が一般的だった.
 1万年前頃から日本列島は温暖になって,花粉の出土は落葉広葉樹の花粉に一変する.初めはナラ類が多く,ついでブナが多くなる.ドングリ等食料になる木の実(堅果)が豊富になり,猪や鹿も増える.1万2千〜1万年前に始まった定住生活は全国的に広がり,集落の規模は次第に大型化する.
 6千年前頃には現在の日本よりはるかに温暖になり,また海面上昇によって内陸まで魚や貝などが入手しやすくなった.一方では海岸近くの集落は水没したので,海岸近くの住民は山側へ移住した.
 4千年前頃には寒冷化が始まり,3千年前頃には気温は現在の日本と同程度になった.その結果堅果が実らなくなり,猪や鹿も減少する.また海面下降によって内陸部では魚介類が取れなくなって食糧事情は悪化した.このため,逆方向の住民移住が起きた.

2.3 縄文時代 
(1)前節に示した傾向の代表的な例が八が岳山麓の井戸尻遺跡に見られる.この遺跡は約6千年前に始まり,約5千年前に集落数が大幅に増加した.山麓の寒冷地だったが,温暖化によって住みやすくなったので,多くの住民が移住してきたのである.
約4千年前になると集落数の減少が始まり,約3千年前には大部分の住民が脱出した.元の寒冷地に逆戻りして住めなくなったのである.
(2)温暖だった時代は典型的な雑食性で,四季によって食料が変化したという.例えば,春は山菜の芽生えの時期である.甲虫の幼虫も蛋白源だったし,冬ごもりから目覚めたばかりのクマの捕獲は容易だったという.夏は端境期で野生のサトイモが食料になった.秋は堅果がとれる.しかし,クリの実は野生で小型である.冬にはクマが冬ごもり用に埋めた堅果を発見し略奪したのではない過という.
 また酒も生産されたという.出土した有孔鍔付土器に山葡萄を入れておくと自然発酵して葡萄酒ができるのを確認している.ただし酒といっても呪術用の可能性が大きい.
(3)なお八が岳山麓よりずっと温暖な諏訪湖周辺には,温暖化時期に各地から集団で移住する者が多く,その結果多様な土器が出土する.つまり縄文時代中期は大げさに言えば民族の移動期だった.
(4)縄文時代の東北地方に三内丸山のような大規模集落が発達したのはこういう環境条件と密接な関係がある.三内丸山遺跡は約千5百年間繁栄するのだが,その時期が井戸尻遺跡の繁栄期とほぼ重なるのだが,両者の気温が類似していることに注目する必要がある.
 なお東北地方の大規模集落はその後分散化した.東北地方に幾つもある環状列石遺構は,分散した集落が共通祖先を祭るための祭の場所である.
(5)縄文時代の年代区分は縄文式土器の形式による編年から始まった.次のように6期に区分されるのが普通だが,各期の境界の年代についてはなかなか定説には至らないようである.下に示すのはきわめて概略の年代である.地域差も大きいので,歴史時代のように年代を厳密に決定するのは困難である.
 草創期 約1万5千年前〜 (寒冷期)
 早期  約9千年前〜 (気温上昇期)
 前期  約7千年前〜 (気温上昇期)
 中期  約5千5百年前〜 (最温暖期)
 後期  約4千年前〜 (気温下降期)
 晩期  約3千年前〜 (気温平常期)
(6)なお個々の出土物については,その物や地層から有機物又はその残骸があれば炭素の放射性同位体C14の濃度から年代を測定することができる.生物の生存中は生体内のC14の濃度は大気中の濃度と平衡状態にあるが,死後は半減期5千5百年で減少する.初期にはC14の大気中の濃度は一定として計算したが実際には宇宙線の到達量の影響を受けて変動するので,誤差が大きく時代によっては20%以上になる場合さえあった.しかし,サンゴ中のU234とC14の残存比を利用して宇宙線の影響を補正することによって推定誤差は大幅に減少したという.更に5千年前からは木の年輪によって補正するという方法が標準化的になって,推定誤差は一段と減少した.

2.4 三内丸山遺跡
(1)青森市の郊外にある三内丸山遺跡は縄文時代中期の代表的な遺跡であるが,縄文時代についての過去の認識を塗り替えたという点で特筆に値する.20年前頃までは,縄文時代は未開野蛮の時代と考えられていたのだが予想外に高度の文化があったことがわかってきたのだ.それを裏付ける証拠は散発的には出ていたのだが,三内丸山遺跡の発掘によってそれらの証拠が再確認されて,ついに定説を全面的に覆すに至ったのだ.
(2)縄文時代には,特に東北地方で大規模開発が行われ,生態系にも大きな影響を与えた.三内丸山遺跡はその代表的な例である.
 竪穴式住居跡が8百棟あるとかいう.一口に竪穴式住居跡といっても,必ずしも原始的ではなく,柱が6本のものや,2階建てのものも多く,中には大規模なものもある.
 6本の太い栗の木の柱根本は有名になったが,元は6本脚の高層神殿だったという見方が有力である.しかし,下に示すように神殿の他に望楼・航路標識(灯のない灯台)という機能も持っていたと考えられる.
 集落の入り口付近には広い道路の両側に,多数の土坑墓が列状に並んでいる.これは成人の墓で,祖先の霊に守られるという信仰によるのだという.なお子供の死体は土器に入れて集落中に埋葬されている.
 広場があるが,盛り土を繰り返した遺構で使用済み祭器の捨て場と見られる.又生活ごみの捨て場は谷筋にある. 
(3)三内丸山遺跡では,翡翠,黒曜石,琥珀,アスファルト等が量的にまとまって発見されている.本州中部,北海道などの産物である.翡翠は半製品も発見されているから,船による広域交易の拠点だったことは確実である.
  縄文時代前期にはすでに東北地方北部,北海道南部,及び大陸の東北地区との間に活発な物資の交流があったし,文化の交流もあったというから,三内丸山はそういう交易の拠点の一つだったのである.
 三内丸山は宗教の聖地だったという説がある.宗教的色彩の強い環状配石遺構の下層から土坑墓3基が発見されたことや,翡翠の副葬品を伴う人骨が1体だけ発見されたことは,当時の三内丸山集落に宗教的支配者階級が存在していたことを裏付ける.また,高度の工芸品の発見は支配者階級の豊かさを示している.支配者とはいっても弥生時代以後の王とはかなり異なる.宗教的指導者という方が近いかもしれない.しかし,家系的に階級を構成していたと考えられる.いずれにしろ集落内の人員を共通目的のために使用することができた. 
 しかし,宗教の聖地と交易の拠点とは両立可能である.宗教の聖地ならば多数の人間が集まる.これは交易の拠点として有利な条件である.支配者が直接交易をしなくても交易の利益の一部を吸い上げることができるから,支配者にとっても有利である.これは中世の寺と門前町の関係に似ている.
(4)三内丸山遺跡では広い面積にわたり計画的開発が行われたのである.以前の集落から集団移住したのだという.なぜ集団移住したか.その理由について私は次のように考える.
 海面上昇によって以前の集落は一部は水没し,また交易の拠点としては不適当になったので,集団移住することにしたのだ.以前の集落の時代から支配者階級は強力で,大規模な計画的開発が可能だった.もちろん交易の拠点としての適性も十分考慮された.以前の集落はおそらく日本海沿岸にあったのだろう.日本海沿岸よりやや涼しく,海が静かな内湾を選んで「遷都」したのである.
 6本の太い栗の柱はわずかに内側に傾斜していること及び底の粘土の水分が低いことから高さ10m以上の建物の跡と推定されているが,復原された建物は想像の域を出ないようである.
 6本脚の高層神殿はその宗教的価値だけではなく,交易上の利用価値も十分考慮された.灯台的な航路標識は交易の拠点として必要不可欠であるし,望楼は来航船の早期発見に効果的である.古代の航海は目視によった沿岸航路が普通だったので,航海者は目標になる岬や山(独立峰)を神として祭ったというから,航海者の便利な目標というより大きい宗教的意味を持っていたのであろう.
(5)集落中で発見された多数のクリの実は野生のものよりはるかに大型で,その遺伝子は良く揃っていて,計画的栽培を裏付けている.なお6本の太い栗の柱の遺伝子はバラバラなので野生である.
 三内丸山遺跡では広い面積にわたり地区別・年代別の花粉調査が行われ,その結果次のようなことがわかった.
@ここでは広い面積の計画的開発が行われたが,とくに幾つかの区画ではクリだけが計画的に栽培されていた.谷筋の林も自然林ではなく2次林だった.
A三内丸山ではクリの栽培は5千2百〜5千百年前に始まり,4450年前に最盛期になり,その後は衰退に向かい,3千8百年前に放棄されたと見られる.
 人手をかけて管理しないとクリ林は比較的短期間に自然林に戻るのだが,三内丸山遺跡ではクリ林は長期間人為的に維持管理されてきた.この点では後世の里山と類似している.なお周辺には今でもクリ林がある.
B谷筋の林も自然林のままではなく,伐採された後2次林になった.その後また自然林に戻っているが,その盛衰はクリとほぼ同様である.
 クリ以外にもエゴマ,ヒエ,ヒョウタン,豆類の栽培の跡がある.
 当時の食料の7割は,クリ,ヒエなど植物性だったという.クリの比率は高いがそれでも雑食性の範囲内である.
・ またニワトコの栽培の跡がある.発酵物に集まるキンバエが多くいた.酒が生産されていたと見られる.酒といっても発酵ジュース程度かもしれない. 
(6)三内丸山遺跡は千5百年の継続後放棄されたのである.なぜ放棄されたか.その理由については諸説があるが,私は次のように考える.
 第一の理由は寒冷化だ.その結果堅果,特にクリが実らなくなった.計画的栽培によるクリの遺伝子の均一化は,温暖期には野生種より大型で多収量だったが,
寒冷期には野生種より冷害に弱かった.その遺伝子は良く揃っていて,計画的栽培を裏付けている.なお6本の太い栗の柱の遺
雑食性だったとはいってもクリに対する依存度が大きかった三内丸山では寒冷化の影響は井戸尻より深刻だった.
 第二の理由は海面下降によって,交易の拠点としての価値を喪失したことである.支配者はおそらく別の適地に再遷都したのだろう.遷都先はより温暖な日本海沿岸だったのだろう.

2.5 貝塚 
(1)貝塚は縄文時代を代表するような遺跡である.通常の貝塚は生活ごみの捨て場で,貝殻が主体であるが,貝殻以外に多様なものが発見される.例えば,
@骨:日本は酸性土壌が多く骨は保存されにくいが,貝塚では屈葬人骨をはじめ各種動物,鯨,魚の骨等がある.魚の骨には1m級までのマダイ,サメ,フグ,イワシ,アジ,サバ等があって,当時の漁労の状態を推測させる.
A多量の土器以外に,鹿の骨製の大型銛,犬の糞(犬の寄生虫)等が出ることがある.
(2)福井県鳥浜貝塚(縄文時代前期)は川の中の貝塚で,土砂の堆積によって有機物がよく残っている.木製品(漆塗りのものを含む),漆塗りの土器,弓の破片,栽培植物とその実・・・.
(3)縄文時代中期には温暖化が進み,大幅な海面上昇が起きたので,関東地方ではかなり内陸の方まで貝塚が見られる.また寒冷化の影響は貝塚の内容にも見られる.関東地方の貝塚の貝殻の断面から貝の採取季節を見ると,春から夏に集中している(潮干狩りの時期である).貝の大きさは小型化していて食料事情の見当がつく.
 貝塚には動物の骨も多いが,主要なのは猪と鹿である.骨から動物の年齢がわかる.佐渡では猪の骨は3歳以下のものが多いので,弥生時代には絶滅したと考えられる.
(4)東京都北区の中里遺跡は縄文時代の貝の加工施設の遺跡で,周囲は貝塚である.浜辺に大きい穴(1.5m×1m×深さ0.5mとか)があり,底には粘土が敷いてある.中に焼けた跡のある礫が多数あった.海水が引き込める構造で,貝を入れ海水を引き込んでから焼けた礫を投入して貝の蓋を開かせてむき身にし,干し貝にして,交易用の保存食品に加工した施設で,個々の集落には隣接していないので複数の集落で共同使用されたものと見られている.この種の貝塚は縄文時代の産業廃棄物処理場といえる.

2.6 縄文時代の生活と文化 
(1)縄文時代には食料とする木の実の加工,貯蔵が始まった.やや特殊な例としては;
@大分県竜頭(リュウズ)遺跡では谷に1mぐらいの穴を掘って,かますに入れた木の実を地下水に漬けて加工,保存をした.
A栃木県寺野東遺跡では,谷にクリ材で枠を作り,トチの実等のあく抜きやさらしをした.また加工途中の木製品を水に漬けて加工しやすくした.
(2)縄文時代の主な狩猟獣は鹿と猪だった.狩猟には弓矢と落とし穴を使用した.
 鏃の刺さった獣骨が多数出土しているが,刺さり方から見ると,後方から矢を射たものである.
 落とし穴は底に尖った杭をたて,獣を負傷させたもので,獣の通路や水場に設置するなど,生態に対する知識をもとにしている.
(3)最近のニュースによると,縄文時代中期の遺跡から布目の跡がある土器破片が発見された.破片の底部から発見された布目の跡は明瞭で,縦糸が太く,横糸が細い.日本列島に織物の技術が入ってきたのは弥生時代で,縄文時代には織物は存在しなかったというのが定説だという.これはアンギン(編布)という技法によるもので,すだれのように太い縦糸に細い横糸をからませるのだから,織物ではなく編物に属するというのだ.しかし,素人が編物という名前から連想するのは糸が1本だけのニットで,編布は織物ではなくても文字どおり布である.
 更に,私は以前から縄文時代にも原始的織機が存在していたのではないかと予想している.現代民芸用に使用されている折り畳み式織機は,小型軽量でしかもきわめて原始的である.こういう原始的な織機さえ縄文時代には存在しなかったと証明するのは困難である.縄文時代の定説は次々に覆ってきたのだ.この問題についても定説と対立する素人の予想があたることを私は夢見ている.
(4)黒曜石は切削工具用材として,また鏃材として必需品だった.黒曜石の産地は限定されているが,流通範囲は広く,数百kmにもなる.出土した黒曜石からその産地がわかる.旧石器時代には産地から直接入手したらしい.が,縄文時代になると,流通ルートは複雑になる.信州産の場合には,産地の山を下りた所の村々に素材が貯蔵所がある.川筋の拠点的村には大型素材や半製品がある.神奈川県には大型素材と製品がある.千葉県には製品だけがある.
 また秋田産の天然アスファルト(鏃の接着剤)は北海道まで流通していた.
 黒曜石が交易対象の実用品の代表格ならば,翡翠は非実用品の代表格だったといえる.翡翠は勾玉等に加工されて,もっぱら首長層の権威・権力の誇示に使用された.日本における翡翠の産地は新潟県の糸魚川上流地区に限定されているが,流通範囲はほぼ全国に及んだ.なお翡翠は硬いので加工には高度の技術が必要だが,産地には加工工房の遺跡も出土している.なお翡翠の加工に使用する研削材としては,大和の二上山に産するガーネットが最適だろうという.
(5)縄文時代後期には多様なものが流通している.保存食品(塩乾魚など),一部土器・・・.流通ルートの主流は,尾根筋から,川筋,海へと変化した.
 運搬には丸木舟が多用された.標準的長さは7mで,百隻以上が出土している.また係留設備も出土している.
 多様なものが遠距離まで流通していたということは,流通・交易を専門とする集団の存在を示唆する.特に海路による遠距離の交易は危険が大きかった代わりに利益も大きかったはずである.弥生時代に活発になった海外交易の前身は縄文時代に既に存在していたと考えるのが自然である.
(6)縄文時代にも大型集落は存在し,大型土木工事も実施されていたから首長層が存在していたことは確実である.しかし,縄文時代の首長は祭祀の主催者の傾向が強く,権力基盤が弱かったので,縄文時代にはまだ社会階層は未発達だったというのが定説らしい. 
 縄文時代は戦争がない平和な時代だった.反面,生まれた子が4人に1人しか生き残れない,また15歳の平均余命が16年というきびしい時代だったという説があるほどだから,怨霊に対する恐れも大きかった.また定住の軋轢防止は重要な課題だった.祭はこれらの問題に対する有効な手段だった.
 縄文時代には東日本と西日本の文化の違いはかなり大きかった.実用土器でもかなりの差があったが,非実用の祭器・呪具は東日本では発達,西日本では未発達というように大差があった.東西文化の差は弥生時代には増幅されたので,中部地方の西部を通る東西文化の境界線は現在でもなお痕跡以上のものを残している.

2.7 日本人のルーツ(その1)
(1)数十万年前の時代から日本列島に先住人が住んでいたとしても不思議ではないが,彼らは先住人ではあっても現代日本人のルーツとはいえない.最近の定説では,現代人(新人類)のルーツは15〜20万年前のアフリカの1人の女性(愛称ミトコンドリアのイブ)であるということになったから,原人類や旧人類(例えばネアンデルタール人)は日本でも絶滅したはずである.
 新人類はその後世界各地に分散して,ニグロイド(黒人),コーカサイド(白人),モンゴロイド(黄色人)へ分化した.
 なおミトコンドリアは動物に共通な細胞内小器官で,そのDNA(遺伝子)は,細胞核のDNAと違って母系のものしか残らないが,突然変異がおきやすく,系統追跡に便利である.したがって,ミトコンドリアDNAの一致の程度は近縁の程度の良い目安になる.
(2)現代日本人のルーツとして,考古学,古生物学,分子生物学,人類学,言語学,地球科学など広範な分野で定説と両立し得る説とは次のようなものである.
「先住の南方系モンゴロイド(縄文人の主流)を後続の北方系モンゴロイド(弥生
人の主流)が征服した.」 ここに南方系モンゴロイドの主力は南方から来たので
はなく,日本列島が大陸と地続きだった頃北方から(朝鮮半島やサハリン経由で)歩いて渡って来たというのがちょっとわかりにくい所である.
(3)初期のモンゴロイドは背が低く,その形質は東南アジアの現在の住民と非常に近いので南方系モンゴロイドと呼ばれるが,彼らは数万年前には広く中国北部から朝鮮半島にまで分布していた.
 日本列島は3万年前頃まではアジア大陸と陸続きだった.ナウマン象の化石は野尻湖の3万年前の地層から発見されているが,マンモスはサハリンから北海道までしか来なかった.南方系モンゴロイドは,数万年前から何波かに分かれて大陸から象を追うような形で移動してきたと考えられる.これが縄文人の主流である.一方アイヌはサハリン経由で北海道まで移動してきたと考えられる.ただし縄文人のDNAはアイヌとも非常に近い.両者の形質の差は食習慣など生態学的相違によると考えられる.なおベーリング海峡が陸続きの頃,大量の南方系モンゴロイドがアメリカ大陸に渡り,南下して後にインカ,アステカやマヤの文明を築いた(6千年前のアンデスのミーラのミトコンドリアDNAは,北海道アイヌのものとほとんど一致する).
 最後の氷河期(2万年前頃)の時には,また海面が大幅に低下したが,対馬海峡も津軽海峡も陸続きにはならなかった.
 南方系モンゴロイドといってもこの他に島嶼系(ポリネシア系)もいて,琉球から日本列島の太平洋岸を中心に住んでいたが,彼らは少数派だった.
(4)北方系モンゴロイドは,南方系モンゴロイドよりずっと遅く,シベリアのような極寒気候に適応して6千年以上前に出現した人種と考えられているが,生物学的な差は亜種以下という程度である.その形質は弥生人と非常に近く,背が高い.身長差は数cm程度だが,顔の彫りが浅いなど南方系モンゴロイドとはかなりの差がある.
 北方系モンゴロイドは元来は狩猟民だったが,その一部先発組は数千年前から南下して,南方系モンゴロイドから畑作農耕を学び,南方系モンゴロイドを中国北部から追い払った.そして5千年前には黄河中流域(中原の地)に黄河文明が発達した.ただし中国北部でも山東半島や海岸部には南方系モンゴロイドが残っていたようである.
 一方,5千年前には南方系モンゴロイドによっ水田稲作を基礎とする長江文明が発達していた.黄河文明と長江文明が融合するには3千年以上を要した.
(5)北方系モンゴロイドの別のグル−プは3千年前頃から朝鮮半島でも同様に南下して,南方系モンゴロイドを南方に追い払った.このグル−プは朝鮮語を話し,馬にもなじんでいなかったから,漢語を話し,馬にもなじんでいた漢民族とはやや違う民族だった.なお2千5百年前の朝鮮半島南岸部にはまだ南方系モンゴロイドが残っていた.
 北方系モンゴロイドの後発組は遊牧民・騎馬民族として発達し,後に中国及び朝鮮半島の歴史に大きい影響を与えることになった.
 縄文時代には北方系モンゴロイドが日本列島にまで大量に渡来して来た形跡はない.しかし,弥生時代になると,多数の渡来人が朝鮮半島から日本列島に渡来して日本の古代史に決定的な影響を与えた(3.3及び3.7参照).

* 3.弥生時代 
3.1 弥生時代とその始まり
(1)食料獲得の時代から食料生産の時代への変化,すなわち農耕の開始が弥生時代の始まりである.
 弥生時代は従来は紀元前3世紀から前期・中期・後期の3期に区分されてきた.区分のしかたには3等分法と非等分法とがある.更にその前,紀元前4〜5世紀に早期をおくべきだという意見が出ている. これは「中生代の終わりに恐竜やアンモナイトが絶滅したというのはおかしい.恐竜やアンモナイトが絶滅した時期を中生代の終わりとするのである.」という考古学の時代観の変化に対応するものである.即ち時代の境界の判定基準を,地層や土器という無生物から生物の営みに変えるというものである.しかし,政治情勢を見れば,弥生時代の始まりは従来通り紀元前3世紀の初めと見る方が良さそうである.
(2)2千4百年以上前の遺跡(福岡県板付遺跡,佐賀県ナバタケ遺跡)から基盤整備型水田と呼ぶ高度な水田跡が発見されている.
 広い面積を凹凸を修正して平坦にする.畦には矢板があり,取水溝,排水溝もある完成度の高いものである.
 基盤整備型水田は5千年以上前の中国江南で発達したもので,いうなれば当時のハイテクであった.このハイテクはおそらく山東半島を経由して朝鮮半島南岸及び西岸に持ち込まれ,更に日本に持ち込まれたものであろう.
このハイテクは収量の飛躍的増加を招いたので,急速に日本列島に広まった.例えば,高知県南国市の田村遺跡から弥生時代中期の基盤整備型水田跡が発見されているが,この田村遺跡は集落の規模が吉野ケ里遺跡より大きく,妻木晩田(ムキバンダ)遺跡に匹敵する弥生時代最大級の遺跡である.また5〜6百年後(弥生時代中期後半,千9百年前頃)には青森県(津軽平野)まで達した.このハイテクの東北地方への伝搬は日本海経由の交易ルートによる部分が大きかったと見られる.即ち,基盤整備型水田というハイテクがそっくり普及したのではなく,自然地形利用型水田というロウテクの形で普及した面もあるし,収穫用石器など普及しなかった面もあるという.
(3)水田稲作が急速に普及した原因の一つには,縄文時代に既に焼き畑のような粗放な稲作各種植物の栽培が広範囲に普及していたことがある.例えば長崎県ヒエタバル遺跡では,3千6百年前の地層の下からイネのプラントオパールを発見している.ただしこれは畑作である.
 日本のコメは温帯ジャポニカ(水稲)に属するというのは定説だったが,最近日本各地のコメの遺伝子を調べると熱帯ジャポニカ(陸稲)特有の線を持つものがかなり見つかった.平城京跡から発見された炭化した米粒の遺伝子を調べたら,15粒中1粒は熱帯ジャポニカだった.
 熱帯ジャポニカの遺伝子は南西諸島から九州にかけて見られるだけではなく,東北地方の縄文時代末期の遺跡からも発見されている.しかし,朝鮮半島のコメには熱帯ジャポニカの遺伝子は見られない.即ち,日本のコメのルーツは,朝鮮半島経由のものと大陸から直接持ち込まれたものと2種類がある.おそらく自然交配によって温帯ジャポニカの遺伝子中に熱帯ジャポニカの遺伝子が含まれるようになったのであろう.この交配は日本で起きた.

3.2 弥生時代の大陸の情勢
 縄文時代から弥生時代へのこういう大変化は,当時の中国や朝鮮半島の情勢と密接な関係がある.
 中国では紀元前403年から戦国時代になり,その頃から鉄器の使用が普及したという.紀元前221年に秦の始皇帝が統一するまで中国では戦争の時代が続いた.その影響は朝鮮半島に波及した.更に紀元前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし,平壌に楽浪郡を置くに至って,朝鮮半島北部は漢の直接支配下に入った.朝鮮半島南半は,馬韓・弁韓・辰韓に分かれ,それぞれが多数の小国に分かれていた.漢の直接支配下には入らなかったこれらの小国も次第に楽浪郡や漢に朝貢するようになった.これは朝鮮半島にとっては大変動だった.とにかく紀元前2世紀(とくにその後半)頃には朝鮮半島は戦乱多発の状態になっていたのである.
 なお水田稲作技術は朝鮮半島南岸及び西岸に伝わったが,朝鮮半島では南岸以外への普及は遅かった.雑穀の畑作は普及していたし,高緯度の地域は南方系のイネにはあまり条件がよくなかったためと考えられる.

3.3 弥生時代の朝鮮半島と日本列島
(1)縄文時代には朝鮮半島からの渡来人はほとんどいなかった.しかし,縄文時代後期になると交易が目的の往来が始まったと考えられる.大陸の先進的文物の渡来は西日本に大きい影響を与えたらしい.それまで東日本より遅れていた西日本の縄文文化とくに祭器が急に発達するからである.
 弥生時代になると,朝鮮半島との貿易は活発になった.初期の大型貿易船は朝鮮半島から来たのであろうが,やがて日本から朝鮮半島に向かうものも出てきた.その内に,相互に駐在員を置くようになるなど人間の交流も活発になったのであろう.
 朝鮮半島との交易は,航路の安全性の点で北九州から壱岐・対馬経由,朝鮮半島南岸地区のルートが圧倒的に有利だった.壱岐の原(ハル)の辻遺跡は弥生時代の遺跡だが百万平方米という広さで,石積みの立派な船着き場があ発掘されているのはその証拠である.しかし,朝鮮半島東岸と日本海沿岸諸国の間の交易も活発になっていた.
(2)縄文時代の舟の構造は石器を使用して製造した単材の丸木舟だった.弥生時代には,大陸の技術を参考にして,製造に鉄器を使用した準構造船(複材の丸木舟に舷側板を立てて耐波性を高めたもの)が使用されるようになった.
 海事史学会の専門家の見解によると,単胴複材の丸木舟(長さ20m)に高さ1mの舷側板を立てた準構造船の場合には,積載量15t程度,漕ぎ手30人の他に兵30人とかなりの資材を積んで朝鮮半島との間を航海できるという.ただし,これでは幅が狭く,馬を載せると不安定になる.馬を載せるには双胴複材の準構造船にすればよい.長さ25mの場合には,積載量25t程度,漕ぎ手40人で時速4kmで航海できるという.しかし,実際には騎馬民族軍団の渡海は困難だったと考えられている.[14]
 ただし,帆は固定式で,手漕ぎの補助にとどまり,使用できたのは順風時のみだった.また竜骨はなく,脆弱な構造だった.したがって,弥生時代には朝鮮半島との往来は旧暦4月から6月までの海況安定期に限られていた.

3.4 戦争の時代
(1)上記(3.2)のような不安定な情勢下で,多数の渡来人が朝鮮半島から日本列島に渡来した.初期の渡来人の中にはボートピープル(避難民又は漂着民)も多かったが,やがて馬韓・弁韓系を主流とする計画的集団移住者も増加してきた.
 先駆者が持ち込んだ水田稲作が好成績を収めたという情報が伝わるにはあまり長期間を要しなかっただろう.朝鮮半島よりは緯度が低く,黒潮の影響下にある北九州やその周辺地域は,朝鮮半島よりはイネには条件がよかったのである.しかも,縄文人は台地に住む傾向が強く,水田に適した低地は無主状態だった.こういう状態では計画的集団渡来人が増加するのは当然だった.
(2)馬韓・弁韓地域からの集団渡来人達の主力は北方系モンゴロイドだったが,既に自分達のものにしていた水田技術を本格的に持ち込んだ.一応の生活基盤が安定すると,次には支配範囲の拡大に着手した.こういう渡来人達は,権謀術数に長じ,統治と戦争の経験を持ち,しかも鉄製の武器は強力だったので,戦争経験がない先住人との間に戦争が起こればその結果は明らかで,渡来人が先住人を征服し支配するようになったのは当然の成り行きだった.彼らは先住人を奴隷に近い状態で使役し,水田の拡大を図った.こうして,渡来人系の国は水田の普及より少し遅れて主として瀬戸内海沿いに東方に広まったが,弥生時代中期にはまだ近畿地方どまりだった.
 もっとも先住人の集落でも出雲のように渡来人との共存に成功し,彼らの技術を活用できた集落には生き残れる国もあった.日本列島でも日本海側に渡来した辰韓系のグル−プは水田技術の発達が遅れ首長の権力も弱かったので,先住人との融和を図ったからである.
(3)基盤整備型水田の開発には広い面積の土地の平坦化や潅漑用水路の掘削など大型土木工事が必要だった.そのためには多大の労働力を要した.一方ではその地区の水田面積が一挙に拡大し,収量が飛躍的に増加した.また一旦開発した水田は長期間使用できるので,水田そのものが資産価値を持つようになったので,その争奪戦も始まった.更に水利権の調停の必要が生じるなど,主長に権力が集中する条件が揃ってきた.
 縄文時代は平和な時代だったが,弥生時代は戦争の時代になったのである.この時代には山地性集落が出現するが,日本で山地性集落があったのは弥生時代と戦国時代だけである.
(4)佐賀県吉野ケ里遺跡の発掘が進み,大量の建物跡が発見されたが,その結果「都に宮室,城柵,楼観,邸閣あり」というような魏志倭人伝の内容の正確性が再認識された.
 城柵,楼観は発掘初期からわかっていた.邸閣は軍用食料等のための大型の倉庫であるが,吉野ケ里遺跡では邸閣に相当する他所より大型の建物跡が発見されている.また,宮室の室はムロで宮室は竪穴式住居を意味するという説があったが,宮室に相当する大型の竪穴式住居跡(柱穴は116個)が発見されていて,当時の支配者が大型2階建ての竪穴式住居に住んでいたと考えられる.
 吉野ケ里遺跡の南部から青銅製の武器やその鋳型が出土している.玄界灘沿岸のものは祭祀用だが,ここのものは実戦用である.場所は外側環濠の中だが内側環濠の外なので,吉野ケ里は生産が主目的の集落とはいえない.生産された武器は北九州各地で見られる.
 吉野ケ里遺跡の周辺からは水田跡は発見されていない.環濠集落は国の拠点集落で,そこを中心に,環濠のない衛星集落(平地的集落,山村的集落,漁村的集落)がある.国の大きさは現在の郡程度である.拠点集落(都)は宗教,政治,軍事の中心と見られる.
 北九州には渡来人が多かったが,彼ら埋葬は丁寧で甕棺を使用する風習だった.したがって人骨の保存状態がよかった.甕棺には支配者のシンボルである大量の副葬品の発見例も多い.先住人には埋葬に甕棺を使用する風習はなかった.土中に直接埋葬した場合には,人骨の保存状態が悪く,酸性土壌では数百年もたつと人骨は消失しがちである.
(5)初期の戦争は環濠集落同志の戦争だった.環濠集落と一口に言っても,北九州のものは環濠に出っ張りがあるが,これは横矢による防戦のためである.一方,近畿では同心円形で3重の環濠があるが,環濠間の距離は百m近く,これは矢の有効殺傷距離20mをはるかに越えるという効果があった.首長は環濠集落の中に住み,戦争の時には,自身も銅剣などを持って戦った.軍隊といえるような組織はなかった.山口県ドイガハマ遺跡では矢の刺さった戦士の骨が出土しているが,貝の腕輪をしているから,首長かそれに近い身分だった.世界的には,集落の組織が強化されると白兵戦が増えるとされるが,この意味では北九州の方が近畿より集落の組織が強かったことになる.
(6)地域差は大きかった.東日本と西日本では遺跡の状態も異なる.政治形態の相違によるのであろう.
 吉備では弥生時代後期に周溝墓が見られる.個人のための墓で,古墳時代につながるものである.畿内では王墓ははっきりしない内に古墳時代に移る.
 関東地方には水田跡が少ない.集落は小さく環濠がない.雑穀が多く,稲作も畑作中心だったと見られる.
 弥生時代中葉になると,関東地方南部では集落が急増する.集落から少し離れた所に周溝墓がある.
(7)西日本でも出雲をはじめとする山陰地方には北九州とはかなり異なる文化圏が存在していた.
 鳥取県の妻木晩田(ムキバンダ)遺跡は弥生時代後期後半の遺跡で,吉野ケ里遺跡に匹敵する国内最大級の遺跡である.標高千m前後の4つの丘陵群にまたがっている.
 神殿と見られる建物の基礎は,直径約90cmの柱穴が,9個田型に配置されている.柱の直径は40〜50cmではないかというが,これは小さいとはいえ出雲大社の本殿と共通な配置である(4.6参照).
 これ以外に発見されたものは例えば,竪穴式住居跡など建物跡7百カ所以上,環濠のある防衛施設,首長の墓を含む墓地群などである.首長の墓である大規模の四隅突出型墳丘墓から日本でも最多の鉄器が発見されている.これは首長の権力の強大さを示している.なお四隅突出型墳丘墓墓というのは当時の山陰地方に特有な形式である.

3.5 弥生時代の文化と生活 
(1)馬韓・弁韓系の渡来人の支配する国が最初にできたのは北九州だったと考えられる.彼らの祭器は剣と鏡だった.剣と鏡の文化圏は北九州が中心であった.
 一方,銅鐸は先住人の祭器だった.銅鐸は本来は中国の楽器だったから,辰韓系の渡来人によって日本海側から持ち込まれたと考えられるが,水田稲作の普及と共に広まった.その過程で銅鐸は楽器としての機能を失い,大型化して豊作や繁栄を祈る祭器になった.銅鐸の文化圏は剣と鏡の文化圏よりずっと広く,畿内付近に中心があったらしい.出雲は2つの文化圏の重なる地域だった.
(2)銅鐸渡来の時期はBC1世紀頃と見られる.2世紀頃の青銅地金の保有量は銅鐸が主力の畿内の方が剣が主力の九州よりはるかに多いと見られる.
 大和における銅鐸の出土例を見ると複数の集落に1カ所埋納された場合が多い.複数の集落といっても当時の国よりはるかに狭い地区である.また大和政権は大型銅鐸についての知識がなく,大型銅鐸が出土したのを見て怪しんだと扶桑略記に見える.これは大和政権が馬韓・弁韓系の渡来人の末裔であり,また大和を支配下におさめた時期があまり古くはない(2世紀頃)ということを意味する.
(3)水田稲作が急速に普及したといっても,弥生時代の主食がコメに変わったということではなく,民衆は雑食でその内容は縄文時代とよく似ていて,コメは2割以下程度という. 
 要するにイネは租税用なのである.吉野ケ里遺跡の周辺からは水田跡は発見されていないが,支配者層の主食はコメに変わっていた可能性である.
(4)渡来人と共に犬を食べる習慣が渡来した.壱岐のハルノツジ遺跡でバラバラになり,食肉加工の痕跡がある犬の骨が
大量に発見されている.この習慣は短期間に日本列島に広まった.なお縄文時代は犬は狩猟用で死ぬと埋葬されていたので,犬の骨は1体単位で出土する.

3.6 北日本の続縄文文化
 縄文時代までは,北日本の文化は本土と共通だった.しかし,水田稲作は津軽海峡を越えなかった.続縄文時代が奈良時代まで続いた.
 気候の問題も大きいが,豊富なサケマス漁も重要な要素だった.サハリンや沿海州の影響も見逃せない.独特の続縄文土器が発達した.4世紀には北海道の勢力は東北北部まで拡大した.6〜11世紀に青森県に防御性環濠集落を作った.前9年〜後3年の役の期間を含むが,蝦夷との関係についてはまだわからない.
 オホーツク文化を持った民族がサハリンから南下して,一時期オホーツク沿岸の流氷海域に広まったが,その後千島やサハリンへ逃げたようだ.アイヌの熊祭イヨマンテと関係はありそうだがそれ以上はわからない.
3.7 日本人のルーツ(その2)
(1)現代日本人のルーツが「先住の南方系モンゴロイド(縄文人の主流)を後続の北方系モンゴロイド(弥生人の主流)が征服した.」ということは前章で述べた(2.7参照).
(2)縄文人は出生率は高かったが,死亡率(特に若年死亡率)が高かったので,縄文時代の間の人口増加率はわずかだったとされている.渡来人の方が若年死亡率が低く人口増加率は高かった.更に渡来人と共に伝染病も渡来した.免疫力の乏しい先住人は死亡率が高く,その人口比率は急速に減少した.この変化はスペインによる占領後の南米の原住民の人口比率の急減とよく似ている.
(3)平安時代初期(弘仁年間)に作られた新選姓氏録(分派を含む有力氏族のリスト)では,諸蕃の氏族の数は324で,全体の数1059に対する比率は3割強である.ただし,諸蕃とは渡来人の中でも主として4世紀以後の新規渡来人を意味するので,渡来系氏族の累計比率は絶対多数と考えられる.
(4)日本人のルーツは,マクロに見れば南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの2大系統ということになるが,ミクロに見れば数種類の南方系モンゴロイドと数種類の北方系モンゴロイドとから成るという複雑なものになる.
 現在の日本人の中の渡来人系の比率についてはいろいろな説があるが,半数を大幅に超えると見るべきである.
 本州の日本人には,固有のミトコンドリアDNAを持っている人は4%強しかいない.一方,韓国,中国系のミトコンドリアDNAを持っている人は半数近い.これに対して,韓国や中国では,固有のミトコンドリアDNAを持っている人は半数近い.

3.8 日本語のルーツ 
(1)日本人のルーツが南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの2大系統だということになれば,日本語のルーツも南方系モンゴロイドの言語と北方系モンゴロイドの言語の組合せだと考えるべきである.ただし,言語の場合にはDNA程簡単ではない.
(2)ある地域が異なる言語を持つ他種族によって支配される状態になった時には,被支配者の言語は早晩消滅するのが普通である.生き残る場合もあるが,それは次のような例外的な場合である.
@被支配者の文化レベルが支配者よりはるかに高い場合.
A被支配者の数が支配者よりはるかに多い場合.
 例えば中国北半は北方異民族の支配下にある時代が長かったが,この条件を両方とも満足していたので中国語は消滅せず,逆に支配者の方が中国語を使用することになった.
 倭国の場合には,先住人の文化レベルが支配者である渡来人よりやや低かったので,先住人の言語の文法の消滅は当然の成り行きだった.ただし,先住人は絶対少数ではなかったし,文化レベルもかなりのものだったので,単語と発音については先住人の言語の影響が色濃く残った.
(3)具体例を示そう.
@戦後の米軍占領期に大量の英語が流入した.しかし,流入したのは単語だけでそれもほとんどが名詞だった.しかも,発音はすっかり日本語的になった.米軍は日本語の使用すを禁止しなかったので,日本語の文法には英語の影響はなかった.
Aノルマンによる英国の占領期には英語の使用を禁止したので,英語は屈折語としての文法上の特徴の大半を失って,異なる系統の孤立語に近づいた.
 屈折語とは動詞や名詞などに複雑な語尾変化を伴う言語で,単語の文章中の配置は自由度が大きい.(屈折とは発音変化による活用,例えばwrite wrote written). 孤立語とは中国語のように語尾変化を持たず,主語,動詞,目的語などは文章中の配置によって判断する言語である.
 単語も動物の名前はcow, pig, henのように英語が残ったが,対応する肉の名前はbeef, pork, chickenのようにフランス語流になった.飼う人と食べる人とが分かれたからである.
(4)古代日本語の場合には,支配者の言語はどんなものだったか.それは古代朝鮮語,しかも南岸地域の方言だったと考えられる.この方言は百済や新羅による征服によってほとんど消滅状態になった.
 朝鮮語と日本語は共に膠着語の中のウラル・アルタイ語族に属し,その中のツングース語が共通の祖語だとされている.ツングースは古代満州にいた種族で,南下して高句麗を開いた.ツングース語と日本語が分かれたのは6千年前という.膠着語では助動詞や助詞を使用して文章を記述する.
 現在では朝鮮語と日本語は一見全く異質のようにみえる.しかし,これは単語も発音も大幅に違うからであって,文法的には共通点がきわめて多く,逐語訳が可能である.日本語と逐語訳が可能な主要外国語は他にはない.
 また奈良時代までの日本語には母音が8種類あった.イ,エ,オはそれぞれ2種類ずつあったのである.現代朝鮮語には母音がやはり8種類ある.2種類ずつあるのはウ,エ,オで全く同じとはいえないが,かなりよく似ている.
 また遣唐使には専門の通訳が同行したが,百済や新羅との交渉には専門の通訳は不要だったという.もともと方言程度の差だったからである.
 万葉集を古代朝鮮語を使用して解読できるという説があるが,鹿児島弁を使用して青森弁の書を解読しようというようなものだから,あながち荒唐無稽とは言い切れないだろう.
(5)古代日本語の場合には,被支配者の言語はどんなものだったか.それはまだ定説がない.しかし,古代日本語は古代アイヌ語と類似していたという説[12]は説得力がある.
 縄文人は朝鮮半島経由で日本列島まで来たのだし,アイヌはサハリン経由で北海道まで来たとはいっても,南方系モンゴロイドとしては近縁である.象は津軽海峡を越えなかったが,縄文時代には本州と北海道の間には活発な交易があったのだ.
 言語学的にはアイヌ語は抱合語に属する.抱合語とは例えばエスキモー語やインディアン語など原始的狩猟生活民に共通的な言語である.抱合語には,人称接頭語というものが1人称,2人称の主語,動詞,目的語などにつくという特徴がある.こういう文法的特徴は現代日本語では完全に失われている.
 ただし,日本語の助詞「が」が主語を示すのに対して,助詞「は」は強調を示すものとされ,文法的には面倒な性格のものである.これはアイヌ語の強調語尾haに近い性格のものだという.
 一方では単語の方はかなり類似しているものがある.例えば,
  カムイ:神,強力なもの,オオカミ,カミナリ 
  ピト :人,ただし霊能者 
  タマ :魂,cf玉→魂 
  イノ :命 
  アパ :入口,戸→阿波,安房,淡路 
  トネ :湖 
  キソ :山の岩の多い所 
  フジ :噴出する所 
 発音も類似している.母音は5個で,子音も類似している.日本語ではハ行音はp→F(fに近い両唇音)→hと変化したが,アイヌ語ではpのまま残っている.

* 4.邪馬台国と倭国連合 
4.1 邪馬台国から倭国連合への筋道 
 弥生時代の大陸の情勢については概略を示した(3.2参照).
 倭国大乱の末期(2世紀末近く)に邪馬台国と瀬戸内海沿岸諸国の倭国連合が九州を制圧したというのが考古学の主流説になりつつある.しかし,邪馬台国が生まれ,倭国連合が成立するまでの状況については未確定の要素が大きい.ここでは古事記の内容の中で次の2項目は対応する事実があったものとして,その時期に対する私なりの仮説を提案する.
@天孫降臨(皇室の祖先は海外から渡来した)
A神武東征
 古事記の内容が事実を大幅に曲げていること,及びその理由については後述する..しかし,古事記の内容が全部架空だというわけではない.そもそも架空の人物や架空の事件を作り上げるというのは作家の特異才能であって,古代にはそういう人間はいなかった.つまり,モデルなど何かしら元になるものがあって,それを編集(増幅,隠蔽,歪曲,組合せ,入れ替え等)するのが素人の限界なのである(10.及び11.参照)..

4.2 北九州の繁栄
(1)57年(光武帝の没年),倭の奴(ナ)国王が後漢に朝貢して金印を授けられた.この金印は江戸時代(天明年間)に福岡の志賀島で現物が発見され国宝になっているので有名である.なお奴国が直接洛陽に朝貢したのは当時の楽浪郡太守サイボウが自分の名前を歴史に残すための工作だという陳舜臣説[13]は説得力がある.古代の中国には歴史に名を残すために行動した人物が少なくなかったという.彼は次のように考えた.漢の版図は武帝の時に最大になったが,それでも海を越えなかった.後漢になって版図が海を越えれば歴史に残るはずだ.確実を期するためには倭国が漢の属国になる必要がある.そこで彼は叙任の根回しをした.奴国の使者に対して金印まで授けられたのはその根回しが成功したためであろう.とにかく,奴国は朝貢貿易によって大きな富を蓄積した.
(2)井沢元彦はは倭国の倭は表音文字だと主張する[17].しかし,これが間違いである.
 倭が表音文字ではなく表意文字であることの確実な物証は,漢委奴国王の金印である.この金印については素人でも知っている.この金印について本物説と偽物説との間に百年論争があって,決着がついたのは,奴国の位置についての後漢書のミスの原因が魏志倭人伝にあったことを発見してからだったということも古代史マニアだったら多くの人が知っているだろう.なぜ倭の代わりに委を使用したか.私はせっかく金印を授けるにはチビ国王では気の毒だから同義でも別の意味がある委の字を使用した,つまり外交儀礼だったと考えるのだが,少なくとも百年論争の期間中こう考えた人はいなかったらしい.
 もし漢側が倭を表音文字と認識していたのなら,当然同音異義字を使用したはずである.
(3)107年(安帝の永初元年),倭の面土国王等が後漢に朝貢しているがこちらは有名ではない.何しろ面土国とはどこの国かわからないし,金印はおろか称号さえも授けられていないからである.そもそも何のために国王等自身が出向いたのか定説がないのである.しかし,面土国王等とは伊都(イト)国や末廬(マツロ)国など玄界灘沿岸諸国の王たちと見られている.[1]
 私はこの事件を次のように考える.伊都国王等は奴国を服属させたので挨拶に行ったのである.朝貢貿易によって大きな利益を独占していた奴国に対して利益の分配を求めた玄界灘沿岸諸国は,拒絶した奴国を武力で制圧したのである.その証拠に,漢委奴国王の金印は支石墓中に隠してあったではないか.漢はその保護国を無断で制圧した伊都国王等に対して不快感を示し,称号さえも授けなかったのである.
しかし,奴国は滅亡したのではなく,倭国連合に参加しただけだという言い訳が認められて,伊都国などは朝貢貿易に直接参加することになったので,十分目的を果したのである.朝貢は有利な貿易だったので,貿易の利益は玄界灘沿岸の伊都国などの数カ国が半独占的に確保することになった.
(4)この頃玄界灘沿岸諸国は6カ国連合を結成したという[21].その6カ国とは,玄界灘沿岸の伊都国,末廬国,奴国,不弥(フミ)国及び壱岐,対馬だという.伊都国は石器生産,奴国は青銅器生産などという分業体制を敷いて結束を図ったという.
 特に伊都国における石器生産は種類は多様ではないが大規模で,百km圏内に流通していた.即ち,玄界灘沿岸諸国は経済的に強力だったので,軍事的にはむしろ周辺諸国の中に強力な国があった.

4.3 北九州と伽耶地域の利益の対立
 玄界灘沿岸諸国に利益が集中することは,中継貿易による伽耶地域の利益の減少を意味する.伽耶地域の一部(釜山付近の国)には玄界灘沿岸諸国に対する対抗意識が生まれ,伽耶地域の復権を志すものが出てくるのは当然だった.復権というよりはむしろ倭国に新天地を求めるものも出てきた.とはいえ,いきなり玄界灘沿岸諸国と戦争することはできない.そこでまず北九州に前進基地を設置することにした.こうして選ばれたのが東北九州の豊前の地である.ここは伽耶地域の王族を含む第2波渡来人(征服者)の拠点になった.

4.4 神武東征と邪馬台国の誕生 
(1)豊前の地は前進基地以上のメリットはなかった.貿易の利益の分け前は得られなかった.玄界灘沿岸諸国による6カ国連合は予想よりはるかに強力で,戦争しても勝ち目は薄かった.そこで東方に新天地を開拓することを考えた.
 しかし,山陰側は先住人の国でも大国が多く,割り込むことは困難そうだった.瀬戸内海沿岸には小国が多く,まだ割り込む余地がありそうだった.しかし,有望な沿岸地域は既に先着の渡来人たちによって押さえられていた.折りから起こった倭国大乱の時期に,神武は瀬戸内海沿岸の幾つかの国の戦闘を援助する形で滞在し,連絡拠点を残しながら逐次東方に移動し,ついに瀬戸内海東端の河内にたどりついた.
(2)神武は一旦は河内におちついたが,そこは彼が目指した新天地としては狭すぎた.河内で大型化した石鏃の量産など軍事力を増強しながら再検討したところ,沿岸地域と限定しなければ隣接の奈良盆地が有望だという結論になった.そこはまだ小国分立の状態で残っていたが,内陸の盆地ながら面積も十分広く,水田開発の余地が大きい.そこで奈良盆地を最終目標地とすることにした.
 奈良盆地に攻め込んで先住人を制圧し,王権が安定するまでさらに数年を要した.こうして神武による邪馬台国が誕生した.北九州を出てから邪馬台国が誕生するまで実に20年近くを要した.文字通りの大東征だった(11.1参照).
(3)邪馬台国が大和にあったという表現は適切ではない.邪馬台国は誕生した時には,大和の南部と河内の一部を支配していたのである.もちろん邪馬台という国名は首都が大和にあったからこそつけられたのだが.蛇足になるが,なぜ大和をヤマトと読むか.古事記ではヤマトに対して夜馬登など幾種類かの表現をしているが,大和は使用していない.ヤマトは国名としても首都圏としても使用されたが,河内を含む拡大首都圏に対してはオオヤマトといって区別し,大倭と表記することがあった.倭の字は嫌われて表記は大倭から大和に変わった.オオヤマトとヤマトとの区別も次第に曖昧になった.後に国名表記が2字に統一された時に,ヤマトに対して大和という表記が採用されたと考えられる.

4.5 倭国連合による北九州の制圧
(1)弥生時代後半には鉄器の使用が広まってきたが,日本には当時の製鉄遺跡がない.少なくとも大規模な製鉄は行われず,鉄源はもっぱら朝鮮半島(伽耶地域とその周辺)からの輸入に依存していた.鉄器の普及に伴って,鉄源の輸入利益は巨大化しつつあったので,玄界灘沿岸諸国に対する不満が高まってきた.一方,後漢をバックに繁栄してきた玄界灘沿岸諸国は後漢の衰退によってその権力基盤が弱体化しつつあった.
 鉄器の普及は石器需要の減少を招いたが,石器生産に重点を置いていた伊都国は鉄器の生産体制への切り替えが遅れて経済的優位を失っただけではなく,分業体制によって維持されてきた6カ国連合の連帯性にも打撃を与えた[21].
 玄界灘沿岸諸国に対する貿易上での復権を忘れていなかった邪馬台国にとっては,願ってもないチャンスがめぐって来たのである.鉄源の安定供給を確保したいという点で邪馬台国と瀬戸内海沿岸諸国の利害は一致した.これら諸国が連合して玄界灘沿岸諸国を攻めようという提案は簡単にまとまった.東征の時期に,瀬戸内海沿岸の幾つかの国と良好な関係を築いてきたのがこの交渉をまとめるのに役立った.邪馬台国がこの連合の中心になったのはいうまでもない.
(2)落ち目になっていた玄界灘沿岸の6カ国連合は周辺の諸国からさえも支持を得られず,北九州諸国の中にさえ倭国連合に参加する国も出てきた.衆寡敵せずという状態になったので,6カ国連合は大規模な戦闘をすることなく降伏した.邪馬台国側は戦争に勝利し,北九州を含む半永久的な倭国連合が成立した.倭国連合は「卑弥呼を共立して王とした」.卑弥呼は貿易を統括した.占領地支配と貿易管理のために伊都国に一大卒を置いた.一大卒に対応する組織が後に太宰府になった.
(3)なお前漢鏡の出土は北九州が圧倒的なのに,後漢鏡や魏鏡の出土は畿内に集中している.これは,この時期(2世紀の終わり頃)の倭国に政治勢力の大変化があったことの証拠である.
 一方では,倭国連合が北九州を制圧してから卑弥呼の魏への遣使まで40年以上も倭国連合の形はほとんど変わっていないと考えられる.つまり2世紀末頃に倭国大乱は終わったのである.しかし,これは平和な時代の到来を意味するのではなく,むしろ冷戦の時代への突入を意味するのであろう.例えば,邪馬台国はこの期間に支配地域を大和の大部分にまで広げ,周辺地域に対する影響力を強化したと見られる.
(4)松本清張は邪馬台国九州説の最後の旗手だったといえよう.かれの主張は「文化後進地域の畿内が先進地域の北九州を支配していたとは考えにくい」というのが原点らしい[21].畿内による北九州の占領はあり得ないと考えるから,一大卒は占領地支配者ではなく,帯方郡の派遣官という奇妙な結論になる.何しろ邪馬台国九州説に不利な証拠は考古学的証拠でもすべて無視するのだから科学的態度とはいえない.文化後進地域が先進地域に勝った例は幾らでもあるし,また畿内が北九州より文化後進地域だったとは断定できないのである.

4.6 出雲の成立 
(1)邪馬台国の成立の頃の山陰,特に出雲の状態について考えてみよう.
 私は,出雲は先住人系の国に分類しているが,実際はかなり複雑なようである.即ち,日本海側特に山陰では,先住人の国と辰韓系の渡来人の国とが混在していたと考えられるからである.一口に渡来人といっても朝鮮半島東岸の辰韓系は水田技術を持たず首長の権力も弱かったので,先住人の国との共存を図ったのである.
 出雲の王だったスサノオには辰韓系の渡来人という伝承がある.一方では古事記神話のスサノオは矛盾に満ちている.即ち,
@スサノオは父イザナギの怒りにふれて高天原から追放された.
Aまたスサノオは姉アマテラスのいうことをきかず,天つ罪を犯してまた高天原から追放された(天つ罪とは水田稲作に対応する妨害行為などをいう).
Bスサノオはヤマタノオロチを退治して出雲の王になった.
Cスサノオは娘のスセリヒメをオオナムチ(オオクニヌシ)を婿にする時に,蛇のムロに閉じこめるなど一連の過酷なテストを課した.
 これらの内,@とAはヤマト王権の出雲支配の正当性の主張のための意図的な捏造と考えられる(10.8参照). 
 正確なスサノオ像をっつくるのは困難だが,ここでは次のように仮定して話を進める.
・スサノオは辰韓系の渡来人で,先住人の集落多数を征服して,出雲を建国した.征服したのは蛇を神として祭る集団であろう.なお蛇を神として祭る集団は畿内にも幾つかいた.
・出雲は渡来人の国から先住人の国になった.オオクニヌシは先住だと考えられる.彼がスサノオの婿になる時に過酷な資格試験を課せられたのは,このためである.スサノオには息子がいなかったのでオオクニヌシが王位を継承した.
(2)一口に出雲といっても東出雲と西出雲では事情がかなり異なる.東出雲には流路が短くて穏やかな川が3本あって,小さい沖積地で平和な農業を営む小集落が多数できた.一方では西出雲の大河ヒイ川は中国山脈の急斜面から平地に流れ込むという典型的な暴れ川で,上流で大雨が降ると氾濫し,屡々流路を変えた. 
ヤマタノオロチは氾濫の度ごとに流路を変えるヒイ川の荒荒しさを示したものだともいう.また国引きの神話はオオクニヌシがヒイ川河口付近のデルタを開発して農地を開いたことを示すという.
(3)西出雲のこういうきびしい自然環境(荒ぶる神)の下では,自然を受容するだけではなく,自然と戦うために強力な祭祀権をもつ首長が必要になった.こういう事情でオオクニヌシは超高層神殿の建設に着手した.三内丸山遺跡からもわかるように,縄文時代人は高層神殿に対する関心が強かった.もちろん宗教的関心だけではなかった.実用的用途は航路標識と望楼だった.神殿の高さは16丈という信じられないほどの高さだった.
(4)昨年出雲大社境内から3本の杉丸太を束ねた直径約3mの柱にした古代神殿の柱根本が発見された.
出雲大社の神殿は高さ16丈(48m)という伝承がある.これは東大寺大仏殿の46mより高く,長期間日本一の記録を保持していたと見られる.なお飛鳥時代に建てられた百済大寺は法隆寺よりずっと大きく,九重塔は高さは百m近かったと見られるが,この塔は短期間で姿を消した.日本一の高さだということは平安時代の数え歌にも残っている[17].伝承だけではなく,江戸時代の図面がある.しかし,従来の常識とはかけ離れていたので,想像図だろうとされていた.今回再検討の結果,実体図と判明した.また出土した柱根本3本から古代工法による復原の可能性を検討した結果,古代工法で可能と確認された.
 柱は直径約1.3m,長さ約8mのの杉丸太を3本を束ねて直径約3mの柱にしたもので,束ねるには鉄製金環を使用している.重さは約50tもある.その年代は1228±13年で鎌倉時代である.
 古代神殿の構造は3本×3=9本脚で,田型配置である(妻木晩田遺跡と同じ配置).ただし,従来の常識に反する点が多い.
@掘立柱なのに穴の深さ約2mで,これでは風で倒れるはずだ.
 基礎に特殊な構造を使用する[石塊(人頭大〜拳大)+土+盛り土].
A50tの柱をどうして立てるか.
 穴の一方に20゜の傾斜+穴の縁に杭→引っ張り力低減+ロクロを使用.
B金環の締め付け方法,長い釘状の楔を使用.
 なお耐震性はマグニチュード7.3に耐える柔構造で,振動周期が長く,現在の超高層ビル並みである.
(5)近代技術の粋を集めて検討した結果でさえ,古代工法で建設可能と確認されるまでにはかなりの試行錯誤が必要だった.当時ははるかに多くの試行錯誤が必要だったに違いない.また建設に着手してから完成までには長年月を要したであろう.出雲がこれだけの大工事に着手したのは,それなりの経済力の裏付けがあったからである.出雲は碧玉の産地だった.碧玉は翡翠ほど貴重品ではなかったが,翡翠よりは多く産出したので交易上有利だったという.
 オオクニヌシはその在世期間に大出雲連合の成立に努力した.出雲が東出雲,伯耆を含む大連合国になった裏には,オオクニヌシとスクナヒコナの緊密な関係があった.スクナヒコナは粟の神とされるからやはり辰韓系渡来人である.出雲は先住人の国とも北九州の国とも交流があり,独特の文化圏を形成していた.オオクニヌシはスクナヒコナの知恵を借りていろいろな施策を実行にうつした.超高層神殿の建設もその1つである.また毎年10月に周辺の諸国の王達を集めて,収穫祭兼宴会を開いて結束の強化を図った.これが後世の神無月の原形だった.

* 5.卑弥呼の遣使とそのいきさつ
5.1 卑弥呼の遣使前後の中国の情勢 
(1)卑弥呼が魏に遣使したのは239年であるが,その前後の中国の情勢はきわめて流動的だった.
2世紀の終わり頃,漢は衰微し,群雄割拠の時代になった.公孫度が襄平太守に任命されたが,間もなく独立し,楽浪郡を含む朝鮮半島北部を支配下に収めた.更に京城に帯方郡を開いた.
 公孫度は曹操から襄平太守に再任命された時に,「独立国の王に対してこんなものを送ってよこすとは」と文句を言いながら送られてきた印綬を叩き返すでもなく,捨てるでもなく,武器庫にしまいこんだという.
(2)正平という年号付の鉄剣が奈良県天理市の東大寺山古墳から発見されている.初期の前方後円墳で盗掘されているが,粘土郭から鉄剣数本が出土したが,その中の1本に正平□年・・・という金象嵌がある.正平は後漢の年号で184〜190年である.
 金象嵌がある鉄剣の出土は中国でもきわめて稀で,製作は特殊な場合(遠征将軍や遠地太守の任命など)に限られるという.正平年間の末期には,公孫度が襄平太守に任命されている.しかし,自立した時にこの鉄剣は不要になった.倭の懐柔のため,公孫氏が卑弥呼に与えて廃物利用を図ったという可能性は十分大きい.しかし,公孫氏が滅び,卑弥呼が親魏倭王になって,この鉄剣は再び不要になった.そこで,美術品として和珥(ワニ)氏に与えられたのであろう.とにかく金象嵌があるこの鉄剣が北九州ではなく,和珥氏の地元から出土したのは邪馬台国大和説の有力な証拠である.
(3)220年に曹操が死んだ.曹操は姦雄として悪名が高いが,生前は魏王にとどまり後漢の臣下という形式を保っていた.しかし,曹操の死の直後,長子の曹丕が後漢を滅ぼして魏の皇帝になった.こうして,魏・蜀・呉の三国時代が始まった.
 魏も呉も公孫氏の懐柔に努めた.
 公孫氏は魏に服属の姿勢を示しながら,呉と同盟して魏を挟み撃ちにするという秘密工作をしたのだが,この秘密工作は呉の公然行動によって露見した.諸葛孔明の死後蜀は衰退し,兵力を西部戦線から東部に移動できるようになった魏は公孫氏の討伐に着手した.これが237年で,その年帯方郡や楽浪郡は魏の影響下に移ったが,公孫氏の討伐そのものは失敗した.代わりの将軍に選ばれたのが司馬仲達である.彼は翌238年夏に公孫淵を攻め,首都襄平で20万人という大虐殺の上,公孫氏を全滅させた.
 公孫氏の滅亡後も,司馬仲達を西部戦線に向かわせてその影響力の増大を防ごうという工作のために一波乱があった.その政争にも勝利して司馬仲達が洛陽に凱旋したのは翌239年(景初3年)即ち,卑弥呼が魏に遣使した年である.この年司馬仲達は即位直後の幼帝を擁して魏の実権を握り,十数年後に子の司馬炎が魏を乗っ取って晋朝を開く基礎を作った.
(4)魏の曹操は人材の発掘・登用に非常に熱心だったが,それだけに多数の危険分子を抱え込んでいたことになる.曹操は死期が近づくと,創業の功臣でも危険分子は容赦なく粛正した.2代目の曹丕は曹操よりも猜疑心が強く,弟まで殺そうとしたぐらいだから,粛正の危険は大きかった.司馬仲達が粛正を避けられたのは彼の保身術による所が大きい.五丈原の戦の時に「死せる孔明生ける仲達を走らす」という評判を立てさせたのも,彼の保身術だったという陳舜臣説[13]は説得力がある.猜疑心の強い王者の下ではあまり有能と思われるのは危険なのである.

5.2 卑弥呼の遣使と魏の反応
(1)卑弥呼が魏に遣使した景初3年というのはこういう激動の年だった.これは絶妙なタイミングだった.倭の使者が帯方郡に着いたのは景初2年という記録と景初3年という記録が見えるが,玄界灘沿岸諸国から帯方郡への朝貢貿易を引き継いでいた卑弥呼の使者は毎年帯方郡に来ていたのである.
 景初2年には帯方郡は魏の影響下に移っていた.そこで魏は倭の使者に対して翌年には使者を洛陽に送れるように準備して来いと指示した.来年は戦勝祝賀の年になるはずだから,遣使すれば莫大な恩賞が期待できると知恵を付けたのだ.しかし,景初3年に倭の使者が帯方郡に着いた頃司馬仲達は戦勝後の政争に巻き込まれて倭国対策どころではなかった.司馬仲達が洛陽に凱旋して魏の実権を握った後,倭の使者が帯方郡の役人に付き添われて洛陽に到着したのはその年の12月のことである.
 当時の倭国は大陸の微妙な情勢を的確に把握していたから絶妙なタイミングで魏に遣使したという見方をする人が多い.しかし,これは卑弥呼を過大評価している.重要なタイミングという認識がなかったからこそ,貢物の内容が非常識なほどお粗末だったのである.
(2)公孫氏を滅ぼした魏の次の目標が呉だったことはいうまでもない.対呉戦争遂行の準備として倭国を懐柔するのが最初のねらいだった.そもそも周辺の蕃夷を懐柔して戦争遂行の円滑化を図るというのは魏の国策だった.
 しかし公孫氏を全滅させた後,司馬仲達の気が変わった.対呉戦争の作戦研究の一環として,倭と同盟して逆に呉を挟み撃ちにするという戦略の可能性が検討され始めた.そのためには倭国に対する正確な情報を短期間に入手する必要があった.何しろ当時の魏では邪馬台国は九州よりはるか南方にあると誤認されていたので,
倭と呉の間には過去にかなりの接触があったはずと思っていたのである.現実には,倭と呉の間には公式の接触はなかった.呉の年号入りの鏡が少数出土しているが,これは公孫氏経由などで渡来したものだろう.
(3)司馬仲達のすごい所は大量のスパイ団を公然と送り込み,軍事情報を短期間に入手するという方法を考えたことである.諸葛孔明と五分で戦った司馬仲達のことだから,これくらいのことを考えたとしても不思議ではない.
 そのために卑弥呼を親魏倭王に叙し,金印の他に銅鏡百枚など卑弥呼の喜びそうな品を下賜するという破格の待遇をした.更に使者の難升米(ナシメ?)にまで銀印を授けて信用させた.そもそも親魏倭王とは属国ではなく対等に近い立場を意味する.非常識なほどお粗末な貢物しか持ってこない蛮夷の国の酋長に対して,その喜びそうな品を選んで下賜するなどというのは破格を通り越して異常である.政治的思惑が見え見えなのである.
 魏が卑弥呼を倭国連合の実質的な女王と認識していたかどうかは不明である.実質的な女王であろうとなかろうとどちらでもよかった.親魏倭王の印綬は直接卑弥呼に手渡す必要があるとして帯方郡から大型使節団を派遣したのに,その使節団が邪馬台国まで行った形跡がないのである.しかも彼らの報告は詳細すぎる.統治体制や食糧自給度など占領して軍政を立案・実施する時に役に立ちそうな情報が満載されているのである.伊都国にいる一大卒を懐柔すれば戦わずして北九州を制圧できるというのは軍事上の目玉情報である.質問に対するyesの回答の発音の記録は軍政を実施する時に役に立ちそうである.民俗学的情報も含んでいるが,それはこういう話題性の大きい記事は皆の関心を引きつけ,スパイ活動という実体隠しに効果的だったからである.
(4)難升米は邪馬台国側の外務大臣格で魏の使者に応対したが,彼は邪馬台国の正確な場所を必死に隠そうとしした.なぜかというと,当時の倭国連合は倭国全体の1/3を占めるだけで,しかも2頭型というような異例な構造だったからみっともないと考えたのである.
 魏志倭人伝を復習してみよう.「倭はもと百余国・・・今は使訳
通ずるところ三十余国」である.北九州付近の国数は20前後と考えられるから,北九州以外の国数は10前後で,西日本という地域の広さとは釣り合いがとれない.この文章は簡単な算術で,「今使訳通ぜざるところ七十余国」と読めばよい.即ち,邪馬台国は近畿と北九州という2つの膨らみと,瀬戸内海沿岸諸国という軸から成る2頭型構造だった.もし軸が丈夫ならダンベル型構造と呼べるが,軸はつながっていたという保証はない.もし出雲国連合傘下の地域の一部などが瀬戸内海沿岸にまで達していたとすれば,2分割構造ということになる.
 北九州から邪馬台国に行く道程について,もし「まず水行十日でx地点まで行く.(途中に倭国連合に未服属の国があるから陸行は困難である.)x地点から陸行すれば一月かかる.(道が悪いから陸行は大変だ.おすすめルートは水行二十日,陸行三日なのだが.)」というのを()内を省略して説明したとすれば,「水行十日,陸行一月」という魏志倭人伝の記事は必ずしも嘘ではなく,不適切なだけだということになる.
 もちろん魏側には情報が嘘だということはわかったが,あえてだまされたふりをした.作戦研究に必要ではない情報を深追いしてスパイ団という実質に感づかれるのを避けたのである.
(5)対呉戦争の際に,倭と同盟して呉を挟み撃ちにするという戦略の実現可能性が少ないと判断した魏は倭に対して次第に冷淡になる.247年卑弥呼が狗奴(クナ)国と交戦中であることを帯方郡に報告し援軍の派遣を要請した.しかし,魏はすでに授けてあった黄幢(コウドウ,錦のみ旗と考えればよい)で十分として,その要請を拒否した.かわりに帯方郡の役人張政を派遣した.彼の表向きの顔は軍事顧問だが裏向きの顔はスパイだった.彼も邪馬台国まで行った形跡がない.邪馬台国に対する重要な意志表示は檄とか告諭という文書によっている.この時も倭国の窓口は難升米だった.翌248年(正始9年)卑弥呼が死んだ.
 狗奴国の位置については四国とか関東とかとんでもない説があるが,もちろん中部九州である.肥後説が有力だが,私は肥後だけではなく,肥前も含む大連合国だったと考えている.張政は倭国と狗奴国の講和交渉を仲介した.狗奴国より南方の情報を入手するためである.その結果,狗奴国は名目上は倭国連合の1員になったが実質的には半独立状態を維持し,しかも玄界灘沿岸に私貿易の拠点を獲得した.これが6世紀の磐井の反乱の遠因になった.
 張政は卑弥呼の死後台与の擁立にも1枚かんだ.軍事顧問としての介入だが,スパイとしての時間稼ぎのためでもあっただろう.数年の滞在期間の間に,張政は十分な情報をえた.狗奴国の南にクマソという小国群があり,その南にハヤトという地域があるということはすぐわかったが,その先の情報入手には苦労した.それは偶然わかった.首長たちが身につけている貝の腕輪の出所を聞いたら大いばりで南西諸島だと説明してくれた.更に調べたが,南西諸島から先まで行った人はほとんどなく,その先に中国大陸があると思っている人もほとんどいなかった(なおその当時は北西九州と南西諸島と間には貝の道と呼ばれる交易ルートがあったことは考古学では定説である).任務を遂行した張政は台与の使者に送られて帯方郡に帰った.張政の活動の結果は魏志倭人伝にはあまり反映されていないが,その理由については後に述べる(5.5参照).
(6)挟み撃ち戦略の実現可能性がゼロと判断した魏は倭に対してすっかり冷淡になる.それでも魏の時代はまだよかった.新王朝の晋は更に現実的で,倭は懐柔の必要さえもないと判断して,多数の東夷の中の1国という取り扱いになる.これは中国の史書の記事を分析すればわかる.

5.3 卑弥呼とその性格 
(1)倭国連合が卑弥呼を女王としたのは,男王だと邪馬台国の発言権が大きくなり過ぎるのを嫌ったという面もあったであろうがそれだけではなかった.卑弥呼は有能なシャーマンだったが,反面倭国連合の貿易を統括する実務能力も持っていた.卑弥呼の周辺には貿易のノウハウを持つ人材が多かったからである.
 魏志倭人伝によれば,卑弥呼は「鬼道を事としてよく人を惑わす」という.鬼道とはオカルト的新興宗教を指すという.人を惑わすというのは,インチキ臭いということであろう.
(2)魏志倭人伝によれば卑弥呼は老齢で,王宮の奥深く似いてめったに顔を見せなかった.これでは人を惑わすのは困難だ.卑弥呼が人を惑わしたのは若い頃の話である.卑弥呼はもちろん邪馬台国の王族の1員で,神武の孫娘ではないかと考えている.しかし,箱入りのお姫さまではなかった.卑弥呼は神武の東征の途中で生まれ,東征軍と共に東方に移動した.この旅は卑弥呼の見聞を広め,その人格形成に大きな影響を与えた.
 卑弥呼は日御子又は日巫女で,自分を太陽の化身と称し,太陽を信仰すれば世の中は治まるが,もし太陽が怒ればこの世は暗黒化し,破滅すると唱えたのであろう.その教義を受け入れる背景があったのである.卑弥呼は布教に鏡を活用した.太陽の威力を信じない者に対しては光を顔面に当てて目をくらませるという恐怖を体験させた.鏡を2枚使用する簡単な手品だが,鏡を見たことのない古代人に対しては効果的だった.
 奈良盆地で先住人を服従させる時に,卑弥呼の貢献は大きかった.こうして卑弥呼の知名度は飛躍的に増大した.
 なお鏡は中国では貴族の化粧用具だったが,弥生時代の倭国では祭器になったのである.オーム真理教ではハルマゲドンという世界の破滅の予言を狂信のバネに利用した.卑弥呼も同様な恐怖を狂信のバネに利用したと考えればわかりやすい.

5.4 太陽神と皆既日食 
(1)日本人は太陽が最高神であることに何の違和感を感じないが,世界的に見ればこれは異例なのである.天を神とするのは北方系モンゴロイドに共通な特徴であって,中国でもその影響を受けて天を祭るのは皇帝の仕事になった.太陽を神とする民族は多いが,その場合でも,太陽神は天空神の支配下の多数の神の1員にすぎない.エジプト・インカ等太陽神が最高神である例もあるが,これらは文明(特に天文学)が高度に発達した国に限られている.特に太陽神が女神であるのは異例中の異例である.こういう異例な現象は,文明の幼児期にその民族が体験した異常な事件によっておこるという.その異常な事件とは皆既日食だった.それはアマテラスの岩戸隠れ神話として残っている.弥生時代が文明の幼児期だったという見方には異論もあるだろう.しかし,狩猟採集の時代から農耕の時代への転換期で,太陽信仰が幼児期だったのは確かである.[17]
(2)皆既日食は天体現象である.地球の公転軌道と月の公転軌道とは少し傾いているが,朔(新月)の時の昼間に月が地球の公転軌道面上に来れば皆既日食になる.周期的とはいえないが条件は簡単なので,2千年前でも皆既日食の時期は計算できる.ちょっとやっかいなのは地球の自転周期が伸びていることである.4億年前には1年は4百日だった.潮汐力によってブレーキがかかっているのである.2千年ぐらいでは自転周期のずれは無視できるが,時刻のずれは無視できず,数時間に達する.これは皆既日食の起きる地球上の場所の移動をも意味する.したがって,プログラムは複雑になるが,一旦プログラムさえできればパソコンで皆既日食の年月日を計算できる.
 卑弥呼の時代の前後の日本列島で皆既日食があった年は,紀元前138年,紀元158年,248年,454年・・・であるという.この内卑弥呼と関係があるのは,158年と248年の2回である.158年の方は卑弥呼の生まれる前だが,倭国大乱の初め頃である.3百年ぶりの皆既日食が倭国大乱の直接原因だったとは断定できないが,集落間紛争多発の状態だった倭国は人心が動揺し,大乱という状態にまでなった.大乱は必ずしも大規模戦争を意味しない.文字どおり大いに乱れたので,小規模戦争が同時に各地で多発したと考えればよい.卑弥呼が倭国の女王にまでなれたのはこういう人心の動揺を巧みに利用したからである.そして248年は卑弥呼の死んだ年なのである.
(3)軍事顧問の張政が卑弥呼に与えた檄とは叱咤激励であろうが,「告諭」とは何か.「陣頭指揮できないようなら若手と交代しろ」とでも言ったのではなかろうか.80歳近かったはずの卑弥呼は落胆して体調をくずした上,皆既日食にあって神の心まで自分を離れたと思いこみ,ショック死したのであろう.
 卑弥呼の死後,男王が立ったが国内は治まらず,多数の死者が出た.卑弥呼の宗女である13歳の台与が立ってようやく治まった.これは皆既日食の後遺症であろう.男王では太陽神の怒りを鎮めることができないからである.台与は266年に西晋に朝貢しているがその後の消息はわからない(6.2参照).
(4)女性の太陽神は異例中の異例なのだから,こういう神話が卑弥呼と無関係に成立したとは考えられない.即ち卑弥呼はマテラスとして神に祭られたのである.
神武王朝のシンボルだったアマテラスは崇神朝には煙たがられたのだろう.最初大和にあった神社は崇神の次の垂仁の時代に伊勢に移されたという.大和の東方にあって,何時も東の海から日が昇る伊勢の地は太陽神にふさわしいと考えたのであろう.初めから格式は高かったが,伊勢神宮が大和王朝から本格的に尊崇されるようになったのは天武の時代からである.伊勢神宮が現在のような構造になったのもその頃のことであろう.吉野に隠遁していた大海人が難行苦行の末近江朝廷の監視網を脱出して壬申の乱の旗揚げをしたのは伊勢だった.天武にとって伊勢神宮は霊験あらたかだったのである.更に持統は自分をアマテラスになぞらえた形跡がある(10.8参照).

5.5 魏志倭人伝とスパイ情報
(1)以上に示したスパイ作戦の目的は魏の内部でも機密だった.司馬仲達のすごい所は苦労して得た重要な軍事情報を機密扱いとせず,後日の歴史編集のための資料としたことである.機密は洩れるおそれがあるが半公開の歴史編集用資料を盗むスパイはいないからかえって安全なのである.だからこそ晋の史官だった陳寿が魏志倭人伝の編集に利用できたのである.原資料には直接調査による正確な部分と伝聞による不正確な部分とが明示されていたはずだ.
 原資料を歴史編集のための資料としたのは偽装だったから,誤りを含んでいたことがわかっても訂正などという無駄な作業はしなかった.ただし,卑弥呼の死など最小限かつお座なりの追加はした.
(2)陳寿は不正確な部分を自分の知識にもとづいて修正・編集したが,彼は邪馬台国の位置を九州のはるか南方と誤認していたので,修正どころか混乱を大きくした.これが邪馬台国論争の原因になった.ただし,陳寿を笑うことはできない.元の代の地図でさえ日本列島については同じように誤っているからである.
 しかし,司馬仲達謀略説によれば,魏志倭人伝の正確な部分と不正確な部分とを区別することができる.直接調査の対象だった軍事情報(主として北九州に関する部分)は基本的には正確で,伝聞によるそれ以外の部分は不正確だということになる.ただし「基本的には正確」というのは常識的な意味である.例えば「牛馬なし」というのは家畜としての牛馬がいないということである.当時の九州には野生の馬はいたのだが彼らには発見できなかったのだろう.また顔や体に入れ墨をしたり,潜水して魚を取るなどは海南島などの習俗だから疑わしいという意見があるが,そこまで疑う必要はないだろう.北九州の海岸部にはそういう習俗のグル−プが実際にいたという.珍しい習俗だから記録したのだ.ただし陳寿が編集した際に倭人全体の習俗らしく表現したと考えればよい.そもそも原資料には,支配者の北方系モンゴロイドと被支配者の南方系モンゴロイド(倭人=チビ)についても書き分けてあったと考えられるが,陳寿は倭人=倭国の住民と誤解していたのだろう.
(3)卑弥呼が死んだ年も正始年中という曖昧な表現であって,正始9年というのは一般的な推定である.魏志倭人伝には卑弥呼の死後大きい冢を造った,その径は百余歩とある.しかし,これも伝聞であるから,単にかなり大きい墓という程度であって前方後円墳の可能性は十分大きいのである.
 奈良県桜井市の勝山古墳の周濠から発見されたヒノキ材の木製品の伐採時期は3世紀初頭と見られる.小型の前方後円墳だが,3世紀前半のものであることがほぼ確実になった.なおこの古墳は大和でも最も古くから発展していたマキムク地区にあり,近くにはやはり3世紀前半のホケノ山古墳がある.これは卑弥呼の生前から前方後円墳が築造されていたことを意味する.
 以前は3世紀後半の築造と見られていた箸墓古墳の築造時期が3世紀中葉に繰り上がって,卑弥呼の墓の有力候補として再浮上している(7.1参照).

* 6.神武王朝から崇神王朝へ
6.1 倭国連合の版図の拡大
 卑弥呼が親魏倭王になって舞い上がった邪馬台国は,それが魏の謀略だったとは夢にも思わず,倭国連合の版図の拡大を図った.当面の目標は当時の倭国の2頭型という奇妙な形態の解消だったことはいうまでもなかろう.その手順は次のようなものだったと考えられる.
 その第一段階は,倭国連合に参加していなかった国の連合への参加の交渉だった.親魏倭王という肩書きの重要性を理解できた渡来人系の国の中には平和裡に参加する国もあった.しかし,言語も統治体制も異なる先住人系の国には連合への参加を拒否する国が多かった.
 第二段階として,連合への参加を拒否する国に対しては軍事力を背景にした交渉が始まった.交渉が決裂して戦争になることもあった.狗奴国の場合には,倭国内だけでは片づかかなかったが,魏の介入によって何とかメンツのたつ形で収拾することができた.一方では出雲は未解決のままだった.

6.2 崇神王朝の成立 
(1)魏志倭人伝によると,卑弥呼の死後男王が立ったが国内は治まらず,内戦による死者は千人にもなった.卑弥呼の宗女の台与が立ってようやく治まったという.これでは簡単過ぎるので,古事記などによる説[21]を多少編集して紹介しよう.骨子は次の通りである.
@卑弥呼の死後,邪馬台国の王朝は神武王朝(葛城王朝)から崇神王朝(三輪王朝へ移行した.卑弥呼の死後卑弥呼を補佐していた開化が男王になったが,崇神は開化を攻めて王になった.
A卑弥呼の候補はヤマトトトヒモモソヒメで,開化の兄とされる.また台与の候補はトヨスキイリヒメで,崇神の皇女である. 
B箸墓の被葬者はヤマトトトヒモモソヒメである.
即ち,卑弥呼の墓は箸墓である.
(2)こういう説は昔からあった[2].しかし,問題点が多くて支持されなかった.箸墓古墳は形状による編年からその築造時期が3世紀末以後と見られていたのだ.これでは年代が合わない.しかし,特殊器台型埴輪の発掘によって箸墓古墳の築造時期が3世紀中葉に繰り上がってきた.また大和には3世紀前半から前方後円墳が幾つか築造されているという事も確認されてから,卑弥呼の墓の有力候補として再浮上している.
 もう1つの問題は箸墓の位置である.被葬者が葛城王朝系のヤマトトトヒモモソヒメなのに,三輪王朝の根拠地である三輪山の近くにあるのはおかしいということである.しかし,古事記によると,ヒメは三輪の神の妃で,神が蛇の化身であることを知って驚いたので神の怒りを買い,やがて死んだという.これは葛城王朝から三輪王朝への権力移行を正当化するための工作で,その一環として箸墓を三輪王朝の根拠地に造ったというのである.
 卑弥呼の権威を受け継ぐにはやはり女性が必要で,そのために台与が選ばれた.
卑弥呼の宗女というのは血縁ではあるが直系ではないという意味だろう.卑弥呼はシャーマンなので直系の子孫がいるはずはない.しかし,13歳の台与は所詮お姫様で,海千山千の卑弥呼のような政治力はなかった.崇神王朝の権威が固まると台与はお飾りになってしまう.
(3)卑弥呼の死後の内乱は死者は千人にもなったという大規模なものだった.しかし,崇神と開化の間の内乱は同系王族間の権力闘争に過ぎなかった.開化は戦争に負けて北へ逃げる途中で死んだらしい.
開化の子孫は攻め滅ぼされたわけではなく,山背の南部に逃げてそこに根拠地を設けて内乱と服属を繰り返す.
 しかし,崇神と開化の間の内乱は強硬派と穏健派との路線対立という要素を含んでいたのである.強硬路線の例が出雲の征服である(6.4参照).

6.3 欠史8代 
(1)邪馬台国は神武王朝の支配下にあったが,倭国連合の王権(大王権)は卑弥呼が保持していた.卑弥呼の死後邪馬台国で起きた内乱は邪馬台国の国内問題のはずだったが,倭国連合の王権がからむ複雑なものになった.結局,大王権の方は台与が継承することでまとまった.しかし,これは邪馬台国には男王がいなかったという意味ではない.
(2)神武と崇神の中間,いわゆる欠史8代の時代は事績がほとんどなく,王名さえ後世風である.例えば孝元の和風諡号はオホヤマトネコヒコクニクルである(11.4参照).だからこれらは架空の人物だという説は採らない.
 例えば徳川将軍15代の名前を明確に覚えている人は少ない.まして歴代の続柄まで覚えている人は更に少ない(鎌倉時代の歴代執権の続柄まで覚えている人はむしろ例外的である).しかし,初代家康の名前や関ヶ原という地名はよく記憶されている.事件性がなければ簡単に忘れられるが大事件は後の時代まで記憶される.もし「7代将軍は事績もなく名前さえ明確には記憶されていないから架空の人物だ」といったら正気とは思われないであろう.彼は夭折したので事績などないのである.しかし,古代史になると歴史の記憶の性質を無視した同種の議論がまかり通っているのである.
 神武は家康に対応し,東征は関ヶ原に対応するからよく記憶されていた.しかし,そのあと数代の出来事は卑弥呼との連想でしか記憶されていなかったから,男王の方は名前さえもあやしいのである.しかし,欠史8代の王名は2種類に分かれる.私は神武系5代(コウショウ〜開化)と崇神の祖先3代(スイゼイ〜イトク)ではないかと考える.神武系5代といっても,当然兄弟間の王位継承があったはずだから,世代数にすれば2〜3代ということだろう.王間の続柄などは簡単に忘れられてしまう.
 神武の建国年代は大幅に繰り上げたが(11.1参照),その繰り上げを吸収するために5代+3代の並列から8代直列に切り替えたというわけである.それにもかかわらず,年代の繰り上げが大幅すぎたので,矛盾は吸収しきれなかった.日本書紀では神武から後は歴史時代という立て前なので,架空の人物の挿入はできなかった.止むをえず歴代の在位年数を延ばした.その結果,現実とかけ離れた長命の大王が続くことになった.もっとも4世紀以前の倭国には本格的な暦はなかったので,年代の正確な記録はもともとなかったのである.

6.4 出雲の征服
(1)邪馬台国は出雲国連合の大王オオクニヌシに服属を迫って交渉したが,交渉は進展しなかった.その状況を示す古事記の神話を現代風に翻訳して見よう.
@最初の交渉使節はアメノホヒだったが,彼からは3年たっても交渉経過の報告がなかった.
A第2の交渉使節はアメノワカヒコだったが,彼からは8年たっても交渉経過の報告がなかった.そこでナキメという調査員を派遣したが,ワカヒコはナキメを殺した.寝返りの姿勢を明示したので,ワカヒコは邪馬台国側の手で殺された.
B平和的交渉は断念された.3番手のタケミカヅチはイナサの浜に上陸して,軍事力を背景に降伏を要求した.
Cオオクニヌシの子の1人コトシロヌシは抵抗をあきらめて自殺した.もう1人のタケミナカタは抗戦し,負けて諏訪まで逃げてそこで降伏した.
Dオオクニヌシは黄泉(ヨミ)の国の王になるといって,キヅキの宮で死んだ.
(2)最初の交渉使節が3年かかったのはともかくとして,2番手が8年かかっても報告しなかったのを放置していたというのはあまりにも長すぎる.これには何か異常な事態が発生したと考えるのが自然である.そこで異常な事態を探索してみた.その結果次のような経過を仮定すれば無理なく説明できることがわかった.
・240年 親魏倭王の印綬が伝達された. 
・241年頃最初の交渉使節を各国に送ったが,交渉はなかなか進展しなかった.
・244年頃交渉が進展しない国に2回目の交渉使節を送り,錦の御旗の授与を魏に要請した.
・246年頃狗奴国との交渉が決裂して交戦中という状態になった.
・248年頃卑弥呼が死に,狗奴国との講和交渉がまとまった.
・248年頃邪馬台国に内乱が起こった.この内乱は尾を引いた.
・250年頃台与が女王になった.
・251年頃台与が洛陽に遣使し,台与の地位が確認された. 
・252年頃邪馬台国がタケミカヅチを出雲に派遣した.
 年代は不正確だから丁度8年だとは言えないが,8年前後は邪馬台国が出雲に手を出せなかった時期があったことがわかる.
(3)交渉は進展しなかったので,邪馬台国側は軍事力を背景に強行策に転じた.出雲の国論は降伏派と徹底抗戦派とに分かれた.オオクニヌシの不幸は知恵袋のスクナヒコナが数年前に死んだことだった.そもそも最初の交渉使節アメノホヒと第2の交渉使節アメノワカヒコの懐柔を提案したのはスクナヒコナだった.彼は邪馬台国が脅しをかけているだけだと判断したのだ.情勢が緊迫したのに,オオクニヌシは国論をまとめることができなかった.もともと出雲国連合はは辰韓系渡来人の国と先住人の国とを含む弱い連合だった.東出雲と西出雲とでは首長の権力にも差があった.傘下各国はそれぞれの判断で行動するしかなかった.しかし,抗戦派の国も次々に鎮圧された.狗奴国との実戦経験をもつタケミカヅチは強かったからである.
 傘下各国が分裂し,特に西出雲で抗戦が続いたために,講和条件は悪化した.それだからこそなおさら,オオクニヌシは出雲国連合の大王から一小国の王に転落するのを拒んだのだが,しびれを切らした邪馬台国側は彼を暗殺したのだろう.
 オクニヌシは完成が間近になっていた超高層神殿の完成に未練を持っていた.超高層神殿の完成を条件として,自分は祭祀権だけを保持し,政治的支配権を邪馬台国に譲っても良いと提案したのだろう.これがクニユズリの説話である.「オオクニヌシは黄泉の国すなわちあの世の大王になった」という話を邪馬台国側はでっち上げた,オオクニヌシが完成した超高層神殿で祭る側ではなく,祭られる側になったのはかなり後のことである.出雲の国造はアメノホヒの子孫とされるからアマテラス系である.すなわち高圧的な占領地行政が行われたのである.
(4)島根県(西出雲)の神戸荒神(カンドコウジン)山遺跡で,近畿圏の銅鐸と北九州圏の銅剣,銅鉾が同じ場所から大量に出土した.特に,銅剣358本は,それまでの全国での出土銅剣の合計数より多い.近畿圏の銅鐸と北九州圏の銅剣,銅鉾が同じ場所から出土するのは珍しい.こういう大量の祭器が同時に埋納されたのは,この時期(3世紀の後半頃か)に出雲で支配権の大移動と従来の祭祀に対する干渉があったことの有力な証拠である.
(5)歴代の天皇の代替わりの時の行事の一つに出雲の国造のヨゴトがある.これは出雲の国造がその祝詞の中で出雲の服属を再確認するもので,出雲以外の国にはない特別な行事である.この行事のことは続日本紀や延喜式にあるから,奈良時代以前には成立し平安時代にも続いていたはずである.この行事の意味するものは次のようなことである.
 @出雲の服属は大和朝廷にとってはきわめて重要な出来事だった.
 A出雲の服属は奈良時代より余り古い昔ではなかった.

6.5 オオクニヌシの怨霊化
(1)なぜオオクニヌシは古代随一の大怨霊になれたか.単純な質問のようだが,これには2種類の解釈がある.第一は,なぜ怨霊と認識されたかということである.もちろん大いに崇ったからである.どんな崇りだったかは推定する他はないのだ.しかし,当時の祟りの第一候補は疫病の流行だった.
 どんな疫病か.天然痘の出現はもっと後の時代らしい.そこで崇神紀の内容からインフルエンザのようなものと仮定する.
 縄文時代の先住人は多くの病原体に対する免疫を持っていなかった.朝鮮半島から渡来人が持ち込んだ病原体によって大量の死者が出たことは間違いない.スペイン人によって征服された南米先住人の人口減少とよく似ているはずである.ただし北九州では主として馬韓・弁韓系の渡来人がやって来たのだが,一度に大量に来たわけではないから先住人にも持ち込まれた病原体に対する免疫が徐々に普及していた.出雲でも辰韓系の渡来人はいたが少数だったので免疫は普及していなかった.タケミカヅチの敵前上陸軍の規模は不明だが,出雲相手の全面戦争ともなれば最低数千の軍隊が応援に駆けつけただろう.占領後軍政を敷いたとしても,不穏な情勢下では大規模の軍隊の駐留が必要だった.駐留軍が先住人に女性の提供を求めたのは当然である.そしてセックスこそが伝染の最大の機会だ.こうして先住人にはインフルエンザの大流行が起こった.また駐留軍には風土病に対する感染者も出た.
 駐留軍にとって先住人の大量死は大問題ではなかったが,自陣営の死者は問題だった.駐留軍側は民心の動揺を防ぐため,次のような噂を流した.
「オオクニヌシ様はあの世の大王になるといってあの世に行ったのだが,大王になるには家来の数が少なすぎるので必要な人数を呼び寄せているのだ」.クニユズリという大本営発表を信じなかった先住人たちでも,今度の噂を信じる者は多かった.こうしてオオクニヌシは大怨霊になる第一歩を踏み出したのである.
(2)なぜオオクニヌシは怨霊になれたか.この質問の第2の解釈は,なぜ怨霊になるのを予防できなかったかということである.それは人種差別と考える.つまり先住人は怨霊にならないという「迷信」があったからである.家畜を殺しても怨霊になると思う人はいない.渡来人にとって先住人は奴隷並で,家畜に近いという「迷信」があったのである. しかし,
@先住人でも王者であれば怨霊になり得る.
A特にその子孫が絶えれば強力な怨霊になり得る.
ということがやっとわかったのだ.
(3)崇神紀には注目すべき記事がある.疫病が流行したので占ったところ,オオモノヌシの祟りだから神に祭る必要があるというので神に祭ったが効果がない.もう1度占ったところ,オオモノヌシの子孫に祭らせる必要があるというので,子孫のオオタタネコというのを探し出して彼に祭らせたところようやく収まったというのである.これは出雲占領軍のメンバーが風土病を持ち帰ったからだと考えられる.
 怨霊鎮魂のために子孫に祭らせるというのは中国古来のノウハウだが,これが倭国に伝わった時期は250年台,魏との交渉が増えた頃ではなかろうか.
(4)出雲では,先住人達の人心が動揺して,一旦服属しても反乱を起こすものが多かった.困った邪馬台国は,出雲大社という形で怨霊の鎮魂を図ると共にクニユズリの説話の裏付けを図った.
 出雲大社の宮司は出雲の国造の直系の子孫で現代に至っている.本来ならオオクニヌシの子孫に祭らせる必要があるはずだが,オオクニヌシの子孫は死に絶えたので征服側が祭ったのである.
 現在の出雲大社の社殿はまことに奇妙な構造である.本殿が横向きである.しかも主祭神であるオオクニヌシは西向きで,その前にアマテラス系の5客神がいる.オオクニヌシが黄泉の国からこの世に戻ってこないように監視する国境警備隊の風情である.参拝者はオオクニヌシを拝んでいるつもりなのに,肝心のオオクニヌシはそっぽをむいていて,国境警備隊の5客神を拝まされているという状態だ.[17]
 もっとも,出雲大社の社殿は平安時代末頃まではまだ日本一の高さだったが,その内部配置はずっと古くから現在の配置に近かったのだろう.即ち,邪馬台国はオオクニヌシは名目上の祭神,5客神が実質上の祭神と考えたのである.主目的は戦病死した5人の武将の鎮魂である.そもそも武将にとって戦死は名誉だが,戦病死は不名誉である.恨みを残して死んだのだから怨霊になる可能性がある.あの世でも仕事を果たせるように,国境警備隊の幹部に起用したのだ.任務に忠実ならばこの世に迷いでることはない.しかも,オオクニヌシの怨霊が黄泉の国からこの世に戻ってこないように監視してくれるのだ.
(6)タケミナカタが抗戦したのはわかるが,諏訪まで逃げてそこで降伏したとは考えられない.おそらく少し後の頃諏訪でも類似の出来事が起こって,類似の対策が取られたので混同されたのであろう.
 諏訪大社では,今でも7年毎にオンバシラという太い柱を立てる.太い柱を運ぶのに毎回負傷者が出る(時には死者が出る)勇壮な神事である.最近出雲大社境内から古代神殿の柱根本の他にご神体と見られる心御柱(シンミハシラ)が発見された.出雲大社でも13世紀頃までは諏訪大社と同様な神事が行われていたのであろう.

6.6 弥生時代から古墳時代へ
(1)卑弥呼が親魏倭王になってから,邪馬台国が版図の拡大を図ったことは上述した.
 邪馬台国はそれと共に中央集権の強化を図った.その手法の1つが画一的な葬送儀礼の採用であった.弥生時代の王墓は吉備,出雲,北九州などの地域差が多かったが,3世紀前半には大和で出現していた前方後円墳を基本として,各地域の墓制や副葬品の特徴を織り込んで統一を図ったのである.
 竪穴式石室,割竹式木棺,大型天井石,鏡・玉・剣の副葬など,共通の形式の前方後円墳はその結果で,後円部は埋葬に,前方部は祭祀や王位継承の儀式に使用したという.古墳の大きさは連合内での地位によって数段階に決められた.
 こうしてできた大型前方後円墳の第一号が箸墓古墳と考えられ,年代的にも卑弥呼の墓にふさわしい.
(2)弥生時代には拠点集落は環濠集落が普通だったが,古墳時代になると集落の周囲の環濠が消失する.弥生時代には首長は環濠集落の中に住み,戦闘があれば陣頭で戦った.古墳時代になると首長は環濠集落の外に住むようになった.集落の付近にある首長居館又は豪族居館と呼ばれるもので,周囲に環濠や城柵等の防御施設を持つ政治の場であった.戦争がなくなったわけではなく,集落間戦争から地域間戦争へと質が変化したのである.

6.7 崇神王朝のその後 
(1)崇神と開化の間の内乱は開化の死後も尾を引いて開化の子孫は内乱と服属を繰り返す.
 そういう状態にもかかわらず,崇神がハツクニシラスという称号を贈られて,建国初代の王という扱いになっているのは倭国連合の版図の拡大と中央集権の強化を図ったためだった.崇神による版図拡大の例が出雲の征服であることは上述した(6.4参照).また四道将軍の派遣というのは中央集権の強化を象徴するものであろう.四道将軍というのは律令時代的な名前であるが崇神の時代に倭国はゆるやかな連合から中央集権国家へのささやかな第一歩を踏み出したともいえよう.
 中央集権の強化には多様な方法が採用された.葬送儀礼の統一(6.6参照)以外に祭祀の方法にも干渉した.例えば崇神紀には出雲から宝器を献上させたので,出雲で内紛が起きたという.各地で銅鐸など祭祀用の宝器の埋納が始まったのは,こういう体勢が強化されたからだろう.
(2)強硬派といっても崇神の方策はある程度の柔軟性も残していた.
 平和裡に服属をした王は国造(クニノミヤツコ)としてその支配権の大部分を維持できたし,隣国からの攻撃を受けずにすむので,倭国連合に参加していなかったた国の中には平和裡に服属する国も多かった.
 服属儀礼の例が幾つか記紀に見えるが,それには鏡と剣と珠の使用が共通的である.鏡と剣と珠といえば三種の神器を連想させるが,これはまさに馬韓・弁韓系渡来人の国の祭器である.こういう服属儀礼を採用するのは渡来人の国が多かったのである.一方,先住人の国には平和裡の服属を拒むところが多かった.コトムケと呼ばれた服属交渉には言語の相違による意思伝達の困難性が避けられなかったし,支配体勢も違っていたからである.そういう場合には,暗殺や謀殺が屡々行われた.
(3)崇神と開化の間の内乱は開化の死後も尾を引いた.開化の子のヒコイマス王は山背の南部に逃げて,そこに根拠地を設けてその一族は内乱と服属を繰り返す.例えば垂仁の代にもサホヒコ,サホヒメ兄妹の内乱がある.なおサホヒメは開化の孫だが垂仁の妃になるなど両系統は婚姻関係を重ねる.
 ヒコイマス王の母は和珥(ワニ)氏なので,その縁で近江に進出し,近江の豪族,息長(オキナガ)氏と和珥氏から妃を迎え一大勢力になった.
 息長氏は琵琶湖東岸の豪族,和珥氏は琵琶湖西岸の豪族で,共に辰韓系渡来人との混血系と考えられる.当時の近江は琵琶湖北岸から越前敦賀までわずか7里という近さで辰韓からの先進文化の流入ルートとして有利な場所を占めていた. 
 和珥氏は各地に進出し,和珥16氏という用に発展したが,大和の和珥氏が最も有名である.
 息長氏は近江に定着していたようだが,鉄器生産・水運・水軍を傘下に持ち持つ大豪族だった.琵琶湖は水軍の演習場でもあったから,内航だけではなく,敦賀経由の海外航路まで手を伸ばしていたらしい.後に神功皇后(オキナガタラシヒメ)が出現する可能性は数代前から存在しているたのである.
(4)垂仁の妃のヒバスヒメは景行の母だがやはり開化系である.景行は活発に征服活動をしたが,この時に息長氏と和珥氏など近江の豪族の水運・水軍力の貢献が大きかったという.景行は数十人という多数の子女を設け,各地に封じたという.最も有名なのがオウス(ヤマトタケル)である.
 この時期の征服の主対象は西日本だった.出雲の情勢は不安定で小反乱続出という状態だった.また狗奴国は一応服属したがその南方にはクマソがいた.クマソは八十タケルというように小国分立の状態だったので,征服しておかないと何時又狗奴国が叛くかわからなかったのである.東日本は中部地方の一部までだった.
 景行は近江タカアナホ宮で没した.成務,仲哀もタカアナホ宮にいたので,この3代を近江王朝と呼ぶべきだという説がある[21].和風諡号を見ると,
 崇神 ミマキイリヒコイニエ 
 垂仁 イクメイリヒコイサチ 
 景行 オホタラシヒコオシロワケ 
というようにイリ系からタラシ系へスタイルは変わるのだが,三輪王朝から近江王朝へという王朝交代があったわけではない.
(5)ヤマトタケル説話は英雄に対する叙事詩的性格が強きすぎる.おそらくヤマト側の多数のタケル(勇者)の伝承を1人の業績としてまとめたものであろう.そういう勇者たちの中には,戦死や戦病死によって故郷へ帰り着けなかった人も多かったであろう.倭建命の陵墓の伝承地は,有力なものだけでも数カ所,あやしげなものまで加えれば数十カ所あるというが,このことも上記の見方を支えるものであろう.しかし,オウスを架空の人物とすることには賛成できない.彼は多数のタケルの内の1人と考えればよい.
 なお倭建命の西征と東征とは時代背景が1世紀ぐらい違うという.東征の方は5世紀の伝承をもとに編集されたのであろう.
ヤマトタケルが古事記では倭建命,日本書紀では日本武尊と表記されているのは両者の編集方針の差による(11.参照).また古事記の倭建命は東征を命じられた時に天皇は自分を殺すつもりかと嘆いたというように人間的なメンを含んでいるのに対して,日本書紀の日本武尊は勅命を受けて勇躍出発したというように天皇の権威の絶対化を意味するものになっている.古事記の編集には柿本人麻呂が参加していたが,日本書紀は藤原不比等によって大幅に書き換えられたからだという(10.8参照).
(4)この時期の倭国は中国や朝鮮半島に対する関心が低下して行った.空白の4世紀といわれるように中国の歴史書から倭国の名前が消えるのはこういう国内情勢に加えて国際情勢にも大きい変化があったためである.
 280年には西晋が呉を滅ぼし,統一帝国が成立した.しかし,早くも316年には西晋が滅びて華北は五胡十六国の時代が始まった.また東晋が成立して南朝では六朝時代が始まった.
 4世紀の朝鮮半島は高句麗,百済,新羅の3国時代になり,3世紀とは状態が激変し,戦争多発の時代になった(7.2参照).
(5)三角縁神獣鏡はヤマト王権ブランドの鏡として,その支配権強化と支配地域拡大の過程で,重要な諸国及び傘下の豪族に対して積極的に配付した.
 三角縁神獣鏡には景初三年という年号入りのものがあるので,卑弥呼が魏から下賜された百枚の銅鏡の一部と考えられていた時代が続いた.しかし,最近は次のような理由で国内製という考え方が主流になった. 
@三角縁神獣鏡は,中国,朝鮮で1枚も発見されてない.
A三角縁神獣鏡は,大型で重すぎる(重さは約1.5kg,肉厚は薄い所で約1mm).実用性が乏しく,祭祀用,呪術用又は権力の象徴用に使用されたのではないか.中国では鏡は祭祀用には使用されてない.
B三角縁神獣鏡には,景初四年という実在しない年号入りのものがある.中国産ならこういうことは考えられない.
C銅鐸等の技術があったので,小数の渡来人技術者がいれば鏡も製造できたはずである.
D三角縁神獣鏡の発見総数は370数面.内訳は,奈良県80面,京都府56面等,近畿地方が過半数である.
D三角縁神獣鏡は裏面のパターンによって年代の異なる数種類に大別される.初期のものはパターンが精緻で,後期のものはパターンが粗雑だという.
 卑弥呼とは違う王朝で,卑弥呼の鏡を連想させる三角縁神獣鏡を王権ブランドの鏡として使用したのは「万世一系」という旗印を重視したからである.しかし,三角縁神獣鏡は舶載品よりも一段低い評価しか与えられなかった.例えば,黒塚古墳で棺内(頭部)に納められたのは舶載品1面だけで,33面の三角縁神獣鏡はすべて棺外におかれた.

上巻終わり(
中巻に続く.参考文献等は下巻にある.
 (中巻;7.〜11. 下巻;12.〜16.)