アジアの乗り物1 香港編

香港名物の乗り物といえば、まず「2階建ての路面電車」です。香港島の市街地の東端から西端までの本線と、競馬場(ハッピーバレー)を一周する支線があります。端から端まで乗ると1時間半くらいかかりますが、途中折り返しの運転ばかりで、直通する電車はめったにありません。85年に香港島に地下鉄が開通したとき、東半分が廃止になる予定でしたが、乗客があまり減らなかったので運行を続けています。でも、2両連結の親子電車はなくなりました。(1992年、天楽里分岐点にて)

西側の終点・ケネディータウン付近では海岸沿いを走っていました。夕暮れ時だと西側に広がる海に陽が沈んでゆく様子がとても美しく、2階席に乗っていた地元女子高生が夕日に感動し、「わー、きれい!」と窓から身を乗り出したところ、転落して負傷する事件も起きました。しかし今では海岸は埋め立てられています。この電車は旧型タイプで、90年代前半に1両を除いて新型タイプに替わりましたが、新旧ともに木造です。香港人は日本語の「の」の字の意味だけ知ってる人が多いけど、たぶん「味の素」が広告で長年普及に努めたおかげでしょうね。(1986年、ケネディタウンにて)

89年の天安門事件1周年の抗議デモ。参加者が10万人以上いて香港島の幹線道路はマヒ状態でしたが、電車だけはスイスイ走ってました。89年の100万人デモの時も電車はどうにか動いていたそうです。道路の上を走るとはいえ、専用レーンになっているので、渋滞に巻き込まれるバスよりは確実です。専用レーンにしても駐停車禁止にしても、香港のドライバーはかなりマジメに規則を守ってます。というか、日本の警察はそういう取り締まりをあんまり本気でやってないだけですけどね。自動車産業が強いのと、何か関係があるのかも。(1990年、コーズウェイベイにて)

専用レーンでスイスイ走ってると書きましたが、本数がとても多いので、分岐点のところでつかえてしまうこともしばしば。分岐点には櫓があって係員が電車の行き先を見ながらポイントを切り替えてましたが、95年頃に自動化されました。こんなに電車がいっぱい走ってたら、係員はトイレに行きたい時どうしてたんでしょうね?渋滞で車が並んでいる様子を中国語では「大排長龍」と形容しますが、2階建て電車が並んでいるとまるで「万里の長城」です。(1995年、コーズウェイベイにて)

香港のバスは域ごとに営業エリアが決まっていて、香港島は中華バス(CMB)、九龍側は九龍バス(KMB)が独占運行してましたが、98年にCMBが政府から運行権を取り上げられて、バス会社も増えました。かつては空港バスを除いて全てが2階建てでしたが、最近では市街地の人口ドーナツ化現象が進んで、日本製の1階建て(?)バスも増えてます。これはニュータウンを走るKMBの非冷房バス。団地の巨大壁画がユニークですね。(1992年、沙田にて)

香港のミニバスには赤と緑があって、緑は決まった路線を走って運賃も定額制、赤は運転手が好きな路線を設定してよく、運賃も勝手に決められます。競馬の開催日には「馬場」つまり「競馬場ゆき」が、お墓参りのシーズンになると「墳場」つまり「墓場ゆき」のミニバスが出現します。(1992年、柴湾にて)

   

ミニバスは原則としてどこでも乗り降りできます。しかし香港政府は「好き勝手な場所で停められて、交通渋滞の原因になる」と赤いミニバスを廃止したがっているので、市街地の主要道路はほとんどが駐停車禁止区域に指定されてしまい、最近では乗り降りできる場所がどんどん少なくなっています。で、結果として「終止」つまり「駐停車禁止区域おしまい」の標識がある場所が、ミニバスの停留所みたいになってしまいました。フロントガラスには行き先と運賃が表示されていますが、運賃は運転手が勝手に決めていいので、同じ行き先でも隣のミニバスのほうがちょっと安かった・・・ということもあります。まぁ、「相場」というものはありますが、台風上陸で2階建てバスが止まると運賃は10倍くらいに跳ね上がります。(1995年、湾仔にて)

香港名物の乗り物と言えば、香港島と九龍半島を結ぶフェリーもあります。スターフェリーは観光客にも有名ですが、これはライバルの油麻地フェリー。かつてはスターフェリーよりも航路がたくさんあったのですが、地下鉄の開通や埋めたてでフェリー乗り場が不便な場所へ移転したために乗客が激減し、ついに98年には全廃されて、石油タンクローリーを運ぶカーフェリーだけ細々と運航しています。10分たらずで向こう岸に着くフェリーなのに、船内でラーメンを売ってたりとか面白い船だったのに、残念。(1995年、セントラル沖合にて)

沿岸の小さな島には「街渡」という渡し船が運航してます。これは馬湾島への船。馬湾島は本土とランタオ島の中間にあり、新空港の完成とともに市街地と空港を結ぶ青馬大橋ができましたが、島には道路への出入口は作られず「橋桁の島」にされてしまいました。そんなわけで島の交通は相変わらず渡し船に頼っているのですが、間もなく島にニュータウンができて道路への出入口も完成する予定です。(1991年、馬湾島にて)

九龍半島のはずれに、「調景嶺」という国民党兵士の落人村があって、香港島の西岸から渡し船が出ていました。ここの国民党員たちは1949年秋に広州から人民解放軍に追われて香港へ逃げて来た人たちで、50年近く経った後でも「反攻大陸」を唱えてました。調景嶺ではどこもかしこも青天白日旗(台湾政府の旗)だらけで、船着場もこのとおり。しかし、香港の中国返還を目前に、落人村は取り壊されて海岸も埋め立てられ、今では高層マンションが建ち並ぶニュータウンに変貌しました。間もなく地下鉄も開通するとか。(1993年、調景嶺にて)

ランタオ島の大澳という街は水上家屋が建ち並んでいる場所ですが、両岸に張ったロープを手でたぐり寄せて進む渡し舟がありました。船頭のおばさんは舟で寝ていて、24時間声をかければ舟を出してくれました。現在では橋が完成して、この原始的(?)な渡し舟は消滅してしまいました(1994年、大澳にて)

  

中国との境界線に近い元朗の外れには、時代劇にでも出てきそうな手こぎの渡し舟があります。川の向こう岸はアヒルや魚の養殖場ですが、かなり荒れ果てていて、野犬がたくさん徘徊していて恐い目にあいました。ニュータウン開発の計画でこの渡し舟もなくなる予定でしたが、バブル崩壊のおかげで2002年春にはまだ残っていました。でも間もなく近くに鉄道が開通する予定なので、そう長くは続かないでしょう。(1995年、南生囲にて)
 

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