アラブ首長国連邦の謎之2

国境線錯綜地帯へ行く



 
 
 

クリックすると拡大します
こちらで詳しく書きましたが、アラブ首長国連邦(UAE)とオマーンとの国境線はゴチャゴチャと入り乱れています。世界地図を見るとわかるように、UAEの東側にあるムサンダム半島の先端部はオマーン領の飛び地になっていますが、ムサンダムとオマーン本土の間にも、ほとんどの地図には載っていないマダ(Madha)というオマーン領の小さな飛び地があります。そしてさらに、マダの中にはナワ(Nahwa)というUAE領の飛び地の中の飛び地も存在しています。

なぜUAEとオマーンとの国境線はゴチャゴチャしているかというと、現在のアラブ首長国連邦の一帯はかつてオマーンのスルタンの支配下にありました。オマーンは当時、北はパキスタン西部のグワダルから南はタンザニア沖合のザンジバルにかけて広大な海洋帝国を築いていましたが、19世紀に入ると衰退してしまい、遊牧民や海賊のリーダーたちがスルタンの支配から離れて、戦国時代さながらになりました。こうしてできたのが、日本で言えば藩のような首長国です。19世紀半ばには相次いでイギリスの支配下に入り、スルタン領はマスカットオマーン(首都がマスカットにあるから)、各首長国領はトルーシャルオマーンまたは休戦オマーン(イギリスには歯向かいませんと休戦協定を結んだから)と呼ばれるようになりましたが、イギリスはスルタンや各首長国の争いは放置していたので、陣取り合戦は20世紀になっても続きます。スルタンや各首長は各地に群雄割拠していた部族や氏族と同盟関係を結んで勢力範囲を広げようとしたので、領地はゴチャゴチャに入り乱れました。

アラビア半島の地図(1933年) 現在のアラブ首長国連邦やカタールも「オマーン」ということになっていました
世界地図(1971年) 「トルーシャルオマン」と「マスカットオマン」が載っています

戦後、この一帯では石油が出るようになったので、スルタン領や各首長国の領地をはっきり決めることが必要になり、イギリスの裁定でそれまで曖昧だった境界線が決められました。そして1970年代にスルタン領はオマーン(英語ではSultanate of Oman)、各首長国領はアラブ首長国連邦としてそれぞれ別々に独立しますが、例えて言うなら江戸時代の日本がイギリスの植民地になって、幕府の直轄領が日本国、各藩の領地がアジア首長国連邦として別々に独立してしまったようなものです。

そんな経緯で、UAEとオマーン、UAEの各首長国同士の境界線は今も飛び地だらけです。実際に、国境線が入り乱れている場所ってどんな様子なのか、ドバイへ行ったついでに現地を見てきました。

ムサンダム半島の東海岸にあるUAEの首長国の1つ・フジャイラからタクシーに乗ってナワへ向かいます。パキスタン人の運転手に「ナワへ行きたい!」と声をかけたら、「Nahwa!OK!OK!」と調子の良い返事。ナワは家が40軒くらいの小さな村のはずですが、この辺は村というものが少ないので、小さな村の名前を言っても通じるんでしょうね。片道30ディルハム(約900円)、往復なら60ディルハムだそうで、思ったよりも安い料金。

海岸沿いの広い道を北へ15分ほど走って内陸に入ります。

するといきなりオマーンの国旗が・・・。国境線を越えてオマーン領の飛び地・マダに入ったわけですが、検問所もなければ国境線を示す柵もありません。看板くらいは出ていたようですが、見落としました・・・。マダと周囲のUAE領との間の行き来は完全にフリーです。もっともオマーンの本土からマダへ行くには、オマーン人でも通行証の取得が必要とか。マダは実質UAE領のような扱いを受けているわけですね。

道路沿いに集落が点々としています。周囲のUAE領と特に異なることはありません。住民が話す言葉も同じアラビア語ですしね。サンゴを積み上げて建てた家が目立ちますが、これってドバイの博物館で日本語ガイド氏が、「昔の貧しいアラビア人の家です」と説明していたやつですね。

パキスタン人の運転手が「何だ、あれは??」と素っ頓狂な声を出したので、見てみたら建設中のダムでした。この辺の山には一本の木も生えてなくて、山肌全体に土砂崩れの跡があります。はるか昔の地殻変動でできた山が、熱と風に晒され風化して崩壊しているわけですが、ダムを作ってもすぐ土砂で埋まりそうな気がします。対策は採っているんでしょうか?

 

フジャイラから40分ほどでオマーン領の中にあるUAE領の村・ナワに着きました。マダとナワの間にも、検問所や鉄条網はなく、どこが国境線だったのかわかりません。入口には立派な警察署がありましたが、看板を見るとここはUAEの中でシャルジャ首長国に属しているようですね。

 

きれいに整備された広場を囲んで20軒くらいの家があります。道路も家も周囲のオマーン領より立派な感じがします。さすがUAEは金持ち国ですね。もっともオマーンだって産油国で金持ちですが・・・。

 

小さい集落ながらも警察署のほか、モスクと学校がありました。学校の入口の雰囲気からすると、幼稚園も併設してるのかな?

ナワの広場から先の道は砂利道です。道路工事中の人に運転手が聞いたら「この先にまだ2つ村があるよ」とのこと。「ナワはマダある!」ということで、嫌がる運転手をせかして先に進みます。1つ目の村はすぐの所にありました。小さなオアシスがあってこちらにも20軒くらいの家があります。本来のナワの村はこちらだったようですね。

 

そこから先、行けども行けども2つ目の村は見えてきません。周囲は瓦礫の山で、アップダウンの連続です。ここは実は道ではなく、ワジ(涸れ川)の河床で、雨が降ったら通行できなくなる様子。運転手は「こんなハズじゃなかった・・・」と泣きが入ってきましたが、引き返そうにもUターンできる場所はなく、前進あるのみです。

デコボコ道を20分走ってようやく2つ目の村に着きました。ここにも小さなオアシスがあります。

村の入口で日向ぼっこをしていたオヤジさんがやってきました。このオヤジさんはおそらくただ者ではありません。東ティモールのゲリラ支配地区でも、タイ北部の少数民族村でも、香港のスラム街でも、村の入口にはたいてい日向ぼっこをしているオヤジがいて、怪しい闖入者をチェックする役目を果たしていました。このオヤジさんもたぶん私たちを怪しんで誰何しに来たのでしょう。

こういうオヤジさんに対しては、「ニコニコと微笑みながら煙草を勧める」に限ります。昨今は嫌煙権なんてものもありますが、田舎ではまだまだ通用するわけで、いっぺんにフレンドリーになれます。そういえば、インドネシアの警察に不法入国者として拘留された時も、タバコを勧めたおかげで優しく強制送還(?)してくれました。

そういうわけで、運転手(右側の人)も含めて3人でタバコを吸った後は、「マイフレンド」ということになり、村に入り込んで写真撮影するのもどうぞご自由に。

これはオヤジさんの家ですが、例によってドバイの博物館で「昔の貧しいアラビア人の家」として復元・展示されてたものと似てますね・・・。

アラビア風の段々畑もありました。2月は雨季のはずなんですが、畑は完全に干からびています。いかにも貧しそうな村でした。まぁ産油国なんで生活は保障されてるんでしょうけど。

 

丘の上には崩れかけた砦がありました。現在ではヤギの放牧場に使われていますが、よく見ると銃眼が・・・。

UAEの首長国同士やオマーンとの境界線は1950年代まではっきりしていなかったのですが、国境線がはっきりしなければ国家権力による保護もアテにならないわけで、部族や氏族ごとに武装して自衛していました。アラビア半島では数十年前まで遊牧民のベトウィンがオアシスの農耕民を襲撃して略奪するなんてことが日常茶飯事に続いていたのです。1930年代の南アラビア(現在のイエメン南部)にあった首長国の様子をこちらに書きましたが、当時のUAEの各首長国の様子も、当時は似たり寄ったりだったと思われます。

オヤジさんによればこの先には家がまだ3軒あるとのことですが、「ナワって広いんですね〜」と感心したら、「ん?ナワはおまえさんたちが通ってきたシャルジャ領じゃよ。ここはオマーン領だ」。あれれ、いつの間にかUAEを突き抜けて再びオマーン領に入ってしまったようです。例によって国境線を示す検問所も鉄条網もなければ、看板1つありませんでした。

まぁ、そういうわけで、国境線が入り乱れているといっても現地に住んでいる人は外国を行き来しているようなつもりはなく、隣りの町や村へ行くのと同じで、何の不便もないようです。よく観察してみれば、オマーン領よりUAE領の方が道路や公共施設などが立派なような感じですが、日本でも市町村境を越えると道路が良くなったり悪くなったりはありますよね。

タクシーの運転手には「ナワまで往復60ディルハムという約束をしていましたが、ナワを突き抜けて先まで行ったので結局100ディルハム払うことにしました。まぁ、あれだけのデコボコ道(というか川底)を爆走してくれたのですから、それくらい追加しないと悪いですもん。。。
 
 

Part3へ行く

『野次馬的アジア研究中心』へ戻る