月想



日記はこちらに変更しましたのでよろしくお願いします^^→Amity Moonきままブログ


『努力するから閃くのです』

何もせずに閃きは生まれません。
努力するから閃きが生ずるのです。
それを勘違いしてはいけません。
努力と閃きは、セットなのです。

行動しなければ何ごとも達成できません。
スピリチュアルな人は、
行動することなく、ただ前向きに思っていれば勝手にどうにかなると思っていて、
それで何年経っても同じ状態を続けていて、
成功法則はインチキだと言ったりしています。

例えば、

エジソンは、発明は努力が99%で閃きは 1%で、努力よりも1%の閃きが大切なのだと言いましたが、
その1%の閃きは何度も研究を重ねて努力したからこそ閃いたのです。
前向きにプラス思考でお空を眺めながら、なんか発明できないかな♪らんらんらん♪♪
とハミングしていたら突然閃いたわけではありません^−^;

ピアノが上手に弾ける人は、
何度も何度も繰り返しピアノを弾いて練習をしたから上手に弾けるようになったのです。
床に寝転がりながら、前向きにプラス思考でピアノが上手くなったらいいな♪るんるんるん♪♪
と思っていたら、突然弾けるようになったわけではありません^−^;

そして、閃きが生まれたとき、 行動するから成功するのです。
閃きが生まれても、 行動しなければ何ごとも達成できません。

何もしないところから、閃きが勝手に生まれると思うから、何年経っても成長しないし、何事も成せないのです。

閃きたければ、まずは努力しましょう。

成功法則の本の中には、何かを達成した人は努力していないという類のことが書いてあったりしますが、
決して何もしていないのではなくて、
自分はただ楽しんでやっていて、努力している気持ちが全くないけれど、
それが結果的に世間で言われる努力というものであるだけだったり、
ただ、謙遜しているだけなのです。

書いてある言葉をそのまま鵜呑みにしてはいけませんよ^−^;

閃きは努力して自らの力で手に入れるものであり、自らの力で手に入れるからこそに意味があるのです。
他人に教えてもらえるものではありません。

そして、努力できることも才能のうちかもしれないですね。

『シンクロニシティ』

10代の頃にシンクロニシティについての本を読んで以来、 シンクロニシティ現象にはまりました。
シンクロニシティとは、 日常で起こる意味のある偶然のことで、

例えば、

Bさんに電話したいと思っていたら、 Bさんから偶然に電話がかかってきて、
その偶然の電話が自分にとって、 人生を大きく変えるきっかけとなった

とか、

何か心配事が起こって悩んでいたら、 たまたまつけたテレビで、
心配事を解決する手段をタレントが話していて 思わず解決ができた

など、

自分にとって意味のある偶然であり、 必然とも言える現象を、 シンクロニシティと言います^^

自分の未来や、 今後どうしていけば良いのかなど、
日常に起こるシンクロニシティをキャッチすれば、 自ずとわかるんですよね★

わかるはずなんだけど、 わかってはいても、
確信を持つ自信がなかなか持てなかったり、 勇気がなかったりして、 チャンスを逃すこともたまにありますね

あはは^▽^;;

なので、

シンクロニシティを感じたら、 しっかりとキャッチしませう!!!

チャンス一秒 、後悔一生。。。


『成功者は見えないところで努力しているのです』

私はもう駄目という言葉を、はかないようにしています。
駄目だと思いそうになったら、 駄目にならないようにどうすればい良いのか、
いつも考えて行動しています。、
人から見れば、運が良いように見えるかもしれませんが、
運が良いように普段から努力している結果でもあります。
思いがけないラッキーも、
何もないところから突然ふって沸いたわけでありません。
いつも走っている結果としてふってきたものなのです。
誰かが魔法の杖を振って、自分の都合よく人生を変えてくれることはありません。
自分の人生は自分で変える以外ないのです。
いつもそう思っています。
誰かが何とかして欲しいなどと私は思いません。
自分で何とかするしかないのが人生なのです。
誰かが何とかしてくれることがあるのなら、
それは自分で何とかしようと行動した結果として、
起こる現象なのです。
甘い気持ちで、夢を叶えることはできません。

今の現状をよりよくしたいなら、
出来ない言い訳を並べるより、とにかく行動していくことなのです。
行動できないなら、納得できない現状に甘んじるしかありません。
選択は、ふたつにひとつしかないです。

『天之光聖さんのメルマガより抜粋^^ 』

ある人から聞いた話しですが、
人間は「ちょっとだけ不幸」というポジションがとても心地よいらしいのです。
何故かというと、夢や願望を叶えるためには、努力とか行動とかと言われている行為が必要になります。
が、ちょっとだけ不幸は、死ぬほど苦しい訳でもなく、ちょっと我慢すれば良いし、
周りの人や環境の文句を言っていれば良いので、自分的には楽なんだというお話しでした。
私も、「なるほど」と言いながら自分の行動も似たようなところがあるね〜〜〜って恥ずかしくなりました。
そして、その人が私に言ったアドバイスを最後に載せて今週は終わります。
『人間、本気だったら、行動が変わるんだよ』


『一番怖いホラーとは』

一番怖いホラーとは、 ゾンビでもなく、 スプラッタでもなく、
人の心の闇(病み)だと、 曽野綾子さんの金沢八景という短編集を読んで思った。
その闇とは、 決して、 殺人や、強盗などといった、 わかりやすいものではなく、
一見わかりにくい、 だけど、 関わった人だけが理解して、 背中がぞくりとするような、
ある人物の、 性格のゆがみであるとか、 意味不明な思考回路というようなものである。
そして、おかしな人ほど、 自分のそういうおかしな部分を、 自覚していないものである。
自覚していないから、 改めるということもできない。
ただ、ただ、 まわりの人間は、ゆがんだ性格や、思考回路に、 おぞましさを感じるしかないのだ。
私は、自分の弱さや卑怯さやおろかさを、 常に感じる自分でありたいと思う。
光と影はいつもセットなのだ。
決してどちらかしか存在しないことはありえない。
愛と光と真善美さえ見つめていれば それで大丈夫なの〜 難しい考えなんかいらないの〜 という人ほど、怖い。。。
そして、スピリチュアルな人ほど、そういう人が多い。。。(汗)


話は変わるが、
人を傷つける人というのは、 むしろ善人と呼ばれる人だったりする。
悪人と呼ばれる人は、 こちらも認識しているし、 はっきりと拒絶もできる。
しかし。。。
この人、善意で親切でしてくれているんだろうな〜 と思うときは、
迷惑に思っていても、 むげに断ったり拒否することができにくかったり、 他人に相談しても、 理解してもらえなかったりする。
人に何か親切にしたいならば、 むしろ、
今からその人にしてあげたいと思うことは、 もしかしたら迷惑なのかもしれないし、 嫌われるかもしれない。
それでも、今は、その人にそうしたいから、 あえてそれを覚悟でする
という認識を持つことが大切なのではないだろうか。
これは、遠藤周作さんがおっしゃっておられたのだが、 私もそのように思う。
自分のやることは100%正しくて、 愛と光なのだと思った瞬間、 それは偽善につながると思う。
自分の中にある悪を自覚している人ほど、 他人に優しい人が多いとも思う。
自分には光しかないと思っている人ほど、 他人を恐ろしく傷つける人が多い。
自分の悪を自覚することから、 本当の光が見えてくるのだ。
自分の悪や醜さやおろかさを、 自覚することなく、 愛も光も優しさも思いやりもないのだ。

とりとめのない文章になってしまった。。。

『明けましておめでとうございます』

ヴォイス社のカタログに入っていた、ハガキより抜粋しました^^

天使の逆説は、静寂な真空のなかに突然現れる、真実の瞬間である。
今まで吹いていた陸風が凪ぎ、海風へと変わる一瞬の空白。
逆説の天使が地上に舞い降りるのは、そんな瞬間に違いない。
上り電車に乗ろうとしていた男が、下り電車を見つめているとき、
彼の肩には、天使がとまっているのではないか。
私をたすけてと叫び続けても、だれも来てくれない、と疲れ果てたとき、
逆説の天使は、あなたの耳元でこうささやいているかもしれない。
『ひとを』助けよ、それがあなたの救いのもっとも近道なのだ、と。
逆説にはチカラがある。
神が世界を創造したときに仕組んだ、パラドクスの深い力学。
次元の異なる高みに昇るには、意図して階段を降りなければならないときがある。
王子を待つ美しい眠り姫はいつも、獣の住む森の奥深くに眠っているのだ。
逆に進むことを怖れてはならない。それは天使に祝福された行為であるから。
逆行は長く続かず、それは必ず、新しい開かれた地平へとあなたを運ぶと
だれよりも逆説の天使は知っているのだから。

今年もよろしくお願いいたします^^
皆様にとって、幸多き一年でありますように☆’★。☆★’。。

『愛先生の土星祭に行って来ました』

東京にて愛先生のお茶会に行って来ました ^^
今回皆さんの手料理を持ち寄りでのパーティでしたが、 皆さんゴージャスで美味しかったです
私は大阪バージョンタコヤキとか持っていきますといいながら、時間がなくて、 東京の浅草でかりんとうを買って来ました★
今回は以前より歌や楽器のお披露目を多くの方がされて、 皆さんの以外な才能を知れて楽しかったです^^
私も来年は自分で作った歌うたいましょ〜かしらあ ♪
写真は、競馬予想している愛先生を写真に撮ろうとして、逃げられたところですw

『子供を信じてあげることが親の愛なのです』

子供を信じるとは、子供自身だけでなく、子供に関わる人や状況や物事や運の全てを信じてあげることです。
親がうちの子供は駄目なのではないか、何か心配なことが起こるのではないかと思っていると、
その思いのエネルギーは子供にも伝染して、
子供自身も、自分は駄目なのではないか、よくないことが自分に起こるのではないかと思ってしまいます。
そして、親と子供の心の中で作る心配のエネルギーが、外の世界に反映されて、
結果、子供に悪いことが起こるのです。
もし、子供が幸せになって欲しいと願うなら、子供自身と、子供に関わる全てが上手くいくと信じてあげてください。
そうすれば、親の大丈夫と思うエネルギーが子供にも伝わり、
子供自身も自分は大丈夫と思うことができて、
結果、子供に幸せなことがたくさん起こるようになるのです。
子供の心配ばかりする親は、子供にとって、疫病神でしかないのです。

『自然体のつくりかたってどういうこと?』

本屋をうろうろしていたら、『自然体のつくりかた』というタイトルの本を見つけて、疑問に思いました。
自然体って、つくるものなのでしょうか?
自然体に見えるように取り繕う方法なら分かりますが、
自然体をつくるというのは、おかしいと思いました。
この本、中身は読んでなくて、タイトルだけでつっこみを入れているのですが^−^;
自然体に、しかも人から伝授されないと、なれない世の中というのは、あきらかにおかしいと思いますが、
世の中というものはいつの時代に限らずおかしいものです。
形が違うだけで、いつも世の中は不完全だらけで、
それを宿命として生きるのが人間なのだと思います。
昔はよかったなどと言うのは、単に、昔だから良いところしか見えなくて、美化しているだけに過ぎず、ただの幻想にすぎないのです。
今と未来をよくするために、過去を振り返るのは良いと思いますが、美化して幻想に浸るだけなら、時間のムダです。
厳密に言うと、違うとわかりながら、趣味として美化して幻想に浸るのは良いけれど、それを正しいと思うなら、止めたほうがいいでしょう。


『判断できなくて当然』

よく自分がして欲しいと思うことを相手にもしてあげなさいと言われます。
しかし、自分がして欲しいと思うことが必ずしも相手も同じように思っているとは限りません。
これは逆もしかりだと思います。
自分がして欲しくないことを他人も同じように思っているかといえば、そういうわけでもありません。
自分と他人は違う感性や考えを持っているものであるということを認識し、相手の性格をよく見極めて判断して行動したほうがいよいでしょう。
それでも判断しそこなうときがあり、間違えて接することもあります。
しかし、むしろそれであたり前なのです。
100%相手を理解できたり判断できるなんて思うほうが傲慢だしおかしいでしょう。
お互いに結局はよく相手のことをわかっていないものであるという大人な視点が大切なのではないでしょうか。


『マドモアゼル愛先生のお茶会に参加して来ました♪』


本日のお茶会では『倍音ワークショップ』を行いました。
倍音ワークショップとは何ぞいや?と、言いますと、
『あ〜』とか『い〜』というふうに、母音を発声しているうちに、語尾が震えてくるのです。
この語尾の震えを、倍音といいます。
そして、皆で母音を発声して、この倍音を合わせるというのが、今回の倍音ワークショップの内容です。
音楽をされている方なら非常に興味深いワークだったのではないでしょうか。
西洋音楽では、歌うときは語尾が震えることは駄目なものとしてとらえ、震えないように歌うのが基本ですが、
東洋音楽では、むしろ声は震えさせるらしいです。
声を震えさせて歌うほうが、実は、人の心により響くそうなのです。
倍音には、自他の境界を取り外し、共鳴する効果があるそうです。
今回の倍音のワークショップで、皆と倍音を合わせることにより、確かに不思議な一体感が場には漂っていました。
それは、場にいた人たちだけでなく、そこにあったテーブルや壁といったあらゆる物も一体だったような感覚がありました。
そして、皆で倍音を合わせていると、鳴るはずのない音が聞こえました。
キーンという金属を鳴らす音が聞こえたのですが、思わず誰かが鳴らしているのではないかと思うくらい、ハッキリと聞こえました。
この金属の音は、他の皆様も聞こえたようですが、実際には誰も鳴らしていないのに、鳴っているのです。
こういう不思議な現象が、倍音を合わせていると起こります。
非常に神秘的なひとときでした。
いつも色々な趣向がお茶会ではほどこされますが、毎回の奥深い内容に感動いたします。

『未来の運命はあなた自身で作るもの』

運命は、あなたが自らの意志を持って自分で作るものなのです。
あなたの持って生まれた性格や両親や兄弟といったものは宿命であり、変えることはできません。
しかし、それらを元にして、どのような運命を作ってゆくのかは、あなたが決めることなのです。
誰かが魔法の杖を振ってあなたの未来を都合よく変えてくれるわけではないのです。
それと、世の中の成功者は、苦労の多い星回りを持っている人が多いです。
苦労は決してマイナスのものではなく、それを乗り越える努力をした人には、豊かで大きな成功を約束してくれるものでもあるのです。
苦労の少ない傾向の星回りを持つ人は、安易な方向に流されやすく、ちょっとしたことですぐに挫折しやすい傾向があります。
どのような星回りを持っていても、それを生かすも殺すもあなたの意志次第なのです。

『本屋が好きです』

本屋の中にいて無数の物語に囲まれていると、自分の人生も無限にある物語のうちのひとつに過ぎないという安心感みたいなものが私の心の中で生まれます。

いろんな人がいて、いろんな感性や考え方があって、どれが正しいとかではなく、全て好みの問題であり、全てそれで良いのだという気持ちになれます。

映画も好きですが、どちらかというと本を読むほうが好きです。
活字が好きなのと、自分の中でイメージするほうが好き。
映画だと、映像で登場人物の顔や場面もイメージがそこに限定されてしまうけれど、自分の中で想像するとイメージが無限に広がって楽しい。

自分と感性や考え方の合う作家の紡ぐ物語やエッセイの中に身を漂わせているのは、非常に心地が良い。
同時に、全く自分と違う感性や考え方に刺激を受けるのもまた新たな発見があって良い。

本なしで生きる人生など、私にはありえないのあります。



『7月14日土曜日、マドモアゼル愛先生の夕食会に参加しました^^』

白金にあるイスラエル料理店で愛先生の夕食会は行われました。

イスラエル料理は初めて食べたのですが、あまりしつこくないあっさりした味でとても美味しかったです^^

愛先生が披講をされたのですが、歌っていらっしゃった間、居空間に連れていかれるような、不思議な雰囲気があり、威厳があって、神聖な空気が流れていました。
私も披講をやってみたいという興味がわいたのですが、あまりにも神聖すぎて、私にどこまでやれるだろうかと思います^−^;

中国語での朗読をされた方もいらっしゃったのですが、味わいのある素敵な朗読でした。
言葉や音には人が考える以上に力があることを新たに感じました。

パワーストーンの本を何冊か出していらっしゃる、森村あこ先生も来られました。
とても華のある方ですね^^
愛先生と一緒にいらっしゃると、お二人のところだけ、パッと光が放っているような感じがしました。
やはり、世に出て成功を収めていらっしゃる方は、オーラが違いますね^^

いつも愛先生の会でご一緒させていただいていた何人かの皆様ともよりお近づきになれて嬉しく思っております^^

嵐が接近していて、激しい雨が降っておりましたが、きっと浄化の雨だと思います。

皆様の夢が願いが叶いますように。

その後、愛先生とあこ先生と数名の方とで、ホテルでお茶をしました。
これは思いがけないラッキーでした^^



『人生を楽しいと思うということ』

悲しみも苦しみも受け入れて、それでも人生は素晴しいのだと肯定する気持ちを持つことこそが、人生を楽しんでいると言えるのです。
いつも嬉しく心地よく、自分の都合のよい状態が続くことだけが、楽しい人生ではないのです。

よく苦労は買ってでもしろと言いますが、私は苦労を買ってまでする必要はないと思います。
度の超えた苦労は人間をゆがませるだけです。
人を成長させるのは、苦労と同じくらいかそれ以上の喜びがあるからなのです。
しかし、いつも喜びしかない状態は、うすっぺらで精神の弱い人間を作るだけです。
電車が二つのレールがないと走れないのと同じように、喜びと苦しみとどちらも経験をして、初めて人は成長できるのです。

『元々は一つだった』

ずっとずっと前の話。
友人と飲みに行って、もともと私たちは一つだったのだとしたら、
なぜ、私たちはばらばらになったのかと友人が投げかけてきた問いに、
私はこんな想いが浮かんだ。

きっと、一つとしているだけじゃ、何もわからないから。
何も成長できないから。
だから私たちは、ばらばらになった。
いろんなことをもっと知るために。
いろんなことを学ぶために。
一つでいて学ぶには限界がある。
でも、たくさんいれば、もっともっといろんなことが学べるよ。

だから、気のあう人たちはもしかしたら一つだったとき、近い場所にいたのかもね。
体に例えるなら、私が手だったとしたら、あなたも同じ手だったんだよ。
気のあわない人は、きっと遠い場所だったのかもね。
私たちが手なら、気のあわない人は足だったのかも。
でもね、一つでいるだけなら、手は足と一生話をすることができない。
だから、お互い遠くいたものたちとも交流をするために、ばらばらになったとも言えるね。
お互いを知るために。

もともとは一つだったのだとしたら、あなたは私で、私はあなたなんだよ。
面白いね。
あのおばさんも私。
あのお兄さんも私。
私はあのおじさん。
私はあのおねえさん。

そして、学び終わったとき、また一つに戻るんだよ。

いつか一つに戻ったとき、隣合わせになったら、あんなことあったよねって、笑って話そうね。

『完璧などえありません』

人間のやることに完璧などあるわけはありません。
今の時代は駄目だなんて言う人は、
どの時代に生まれたって同じことを言っているでしょう。
もちろん完璧を目指すことは大切なことですが、
同時に、完璧ではない状態の中で、いかに折り合いをつけて生きるかということと、
完璧ではない状態にいかにユーモアの精神を抱くかということが大切だと思います。
そして、不完全だからこそ、世の中は面白いのです。
完璧な世界に生きる意味などありません。

愛されない者の傷 ペーター・シェレンバウム著 島田洋子訳

もし私たちが愛を広義に解釈して、相手の人格のあらゆる細部を、
頭のてっぺんから足の爪先まですべてを愛することだと考えると、
愛は解決不可能な課題となって私たちは絶望するしかない。
その量を考えても一人の人間のなにもかも全部を愛することはできない。
人間はあまりに多くの独自性、理解できない面、他者性、魅力に欠ける点を持っていて、
とてもたった一人の愛がそのすべてを受け入れることはできない。
シラーが『抱き合おう、幾百万の人よ』と呼びかけたように、
たとえ何百万の人が私を抱擁したとして、
彼ら全部合わせても私のすべてを愛することはできないだろう。
なぜなら私は、まぎれもない私だけの独自な配合を持つ人間であって、
多くの部分で理解されも愛されもしないのだから。

この理論は、人生や世の中というものに対しても当てはまるのではないでしょうか。

『皆違うことに意味があり価値があるのです』

様々な国があって、様々な人がいて、皆それぞれ違うからこそ、
人間は、生きるということは、面白いのだと思います。
国境をなくなくすとか、皆同じになろうとするよりも、
お互いに違う国であり、違う歴史があって、
その中で当然違う価値観を持って生きているという、
お互いは、全く違う個性を持つ人間なのだという、
その個性を理解し合うことが大切ではないかと思います。
そして、お互いに違う個性を理解し合い、
大切にしようという気持ちをお互いに持つことこそが、
真の平和ではないのかと思います。

世界共通語を作り、言葉を一つにしようという発想がありますが、それも違うと思います。
お互いに違う文化ゆえに生じた言葉は、その国のかけがえのない宝であると思います。
そのような、その国の様々なエッセンスの詰まった宝である言葉を全て一掃して、
世界共通語を作るなどという発想こそが、差別を生むのではないかと思います。
私は日本語が大好きです。日本語が話せない世の中など、考えられません。

金子みすずさんも皆違って皆いいと言っているではありません。
全くその通りだと思います。

お互いに競いあうことも必要です。
時に争うことも必要です。
もちろん犯罪までいくのは間違っているけれど、
時に奪いあうことで、かけがえのない何かを学ぶこともあります。
何が正しいとか何が間違っているかは、
最終的には誰もわからないことではありますが、
皆同じ、皆一つと思うよりも、
皆違うという認識こそが、
真の平等と平和につながるのではないかと思います。

宗教もその国の文化であり、言葉と同じように、その国の宝であると言えます。
私自身は無宗教ですが、宗教を持つ人に対しても、それはそれで認めています。
天国はないと考えることも素晴しい思想ですが、
天国はあると考えることもまた素晴しい思想です。
どちらが正しいとか間違っているとかではなく、
どちらも素晴しく、そこには、その個人の好みがあるだけでなのです。
それをお互いに、自分の考えこそが正しいのだと、自分の思想を押し付けるのではなく、
お互いの思想を認め、どのような考えであったとしても、
お互いに尊重し合う気持ちこそが、真の平等を生むのだと思います。
皆でお手手つないで同じことを考えましょうという発想に、
真の平和など生まれません。
皆お互いに違う思想を持つからこそ、生きている価値があるのです。
皆同じでいいのなら、全員死ねばいいとさえ言えるのではないでしょうか。

『優しさは想像力と比例する』

ホームレスに暴行を加える少年は多く、
そのほとんどが泣き寝入りで終わり、表面化しないことが多いそうです。
親が犯罪者だということで、子供は全く何の関係もないのに、
入学を拒否する大人がいて、そういう大人が子供を教育しているのだから、
そのような子供が増えても何もおかしくはないかもしれないですね。
優しさや思いやりとは、相手の立場をどこまで想像することができるかだと思うのですが、
その想像力が欠如している人が増えてきているように思います。
すぐに、むかつくとか、うっといとかいう言葉を吐くその裏側には、
相手の立場を想像するというイマジネーションが貧困であることが原因です。
想像力を養うには、多くの読書とあらゆることを経験することが大切です。
いくらよい経験をしても、その経験から学ぶための力がないと意味がありません。
その力を養うには、本を読むことが一番です。
かといって、本を読んでいるだけでは、
結局知識だけが上滑りして、何の役にも立ちません。
数多くの読書と経験を積むこと。
そういった機会を与えずに、ただ、勉強する時間だけを与えるだけでは、
恐ろしく優しさの欠如した人間を、これからも作り出すだけでしょう。

『悪の認識と死の教え 曽野綾子 青萠堂』

一人の人、一つの事件の背後に、膨大で広大で屈折した人間的な理由があることを、
理解することのできる人になることは、実に大切なことのように思う。
そのためには、表向きは常識を守りつつ、常識という名の下に行われる思考放棄には決然と抵抗して、
すべてのことがらを根本から疑い、自分の視点で判断することを習慣づけねばならない。

『あなただけの星座』

星と星を線でつなげてひとつの星座を作るように、
私達の人生には、あらかじめ通るべき点というものがあって、
その点と点をつなぎ合わせてゆくことが生きるということなのだろうか。
もちろん様々な点の中からどの点を選ぶかは、自分で選択できると思うのだが。
どのような星座を人生の最後に完成させるのかは、あなた次第だ。

一人の決断や何気ない行動が、様々な人の人生に運命に影響を与えてゆく。
それらは全て必然で起こっているのだ。
最初に意志があって、その後でチャンスは必然として起こり、そのチャンスを努力でつかんでゆくのだ。

そして、やがてあなただけの、ひとつの星座が完成する。

『プラス思考とは』

よくある例え話にこんなのがある。
今、自分の目の前に、水の入ったコップがあるとして、
それを見て、もうこれだけしかないと思うか?
それとも、まだこれだけあると思うか?
後者のほうが、プラス思考で良いとされるのが通常だ。
確かに、そういうふうに前向きにとらえることはいいことだ。
しかし、別にもうこれだけしかないと、マイナスにしか思えなくても、
それそれでいいのだと、私は思う。
ただ、物事には、いろんな角度から見ることができるのだということは、
知っておいたほうがいい。
いろんな角度から物事を見て、それでもやはり、
もうこれだけしかないとしか思えないのなら、
その気持ちを今はただ感じて、そう思う自分を受け入れればいい。
いつかやがて、時が経てば、
その時はマイナスでしか考えられなかった出来事が、
プラスでも考えられる時が必ず訪れる日がくる。
でも、ずっとマイナスでしか考えられなかったとしても、
それはそれで、いいのだと思う。
などと言えば、何でもありかという話になるが、
私に言わせれば、
何でもありでいいのだ。
何を感じ考えたのだとしても、
その人にとって、そう思うことが、
何より必要だったのだと思う。
何が正しいかに囚われるのではなく、
自分が今思うこと、感じることを大切にすることが、
一番大事だと思う。
それこそが、
真のプラス思考だと私は思う。

『何かがおかしい世の中で』

何かがおかしい世の中で、
人間不信だったり、うまく生きられなかったりするほうが、
むしろ、まともな神経と言えるのかもしれません。
何かがおかしい世の中で、
普通に笑い、何事もなく過ごせるほうが、
ゆがんだ神経と言えるのかもしれません。
何が普通とか、何が変とか、
何を基準に言えるのでしょうか。
純粋であるほど、いろんなことに敏感になりすぎて、
純粋であるがゆえに、いろんなことにとまどって、
気がつけば、世界から歯車が合わなくなって、
狂わざるを得なくなる。
そんな人が一人でもいる限り、
この世の中は、まだ美しさを保っていられることでしょう。

『ジグゾーパズル』

夢が叶うときは、決して一人だけの想いだけでなく、いろんな人の、いろんな想いが絶妙なタイミングで、シンクロして起こるのだなあと思いました。

例えば、歌手になるという夢を叶えたAさんという人ががいたとして、
そのAさんが歌手になるにあたって、
こんなキャラの歌手がいたらいいなあと願うB君やCさんがいて、
こんな歌を作る人がいたらいいなあと思うDさんやE君がいて、
こんな歌手を売り出したいと思っていたFさんがいて、
主題歌にこんなメロディを作ってくれる誰かがいなかなあと思うGさんがいて
。。。etcetc
そんないろんな人の思いや願いが、絶妙なタイミングで交じり合ったとき、夢というものは叶うのではないかと思いました。

と、考えたら、私が考えたり感じたり願うことの全ては、実は、誰かの夢の一つとして組み込まれており、そしてまた、誰かの考えや感じたことや願いも、
私の夢の一つのパーツの中に、入っているのかもしれないと思いました。
と、考えると、私たちは、あるがままを感じて考えて行動していいのだ、という理論にもつながるのではないかと思いました。
正しいことだけでなく、過ちや失敗さえも、実は夢を叶えるためのパーツにすぎず、実は、お互いが夢を叶えるために、全ては必要で起こっていて、
私たちが感じたり考えたり願う全ては、自分のためだけでなく、誰かのためにも必要で、良いことも悪いことも全て、必然で起こっているのだと思いました。

私たちは、お互いに、大きなジグゾーパズルなのですね。

『愛してあげようかな』

悲しみに打ちひしがれている時、少女はふと思いました。
神様は寂しいんだ。
だから人に悲しみや苦しみを与えた。
幸せにしてくれるから愛するのは当たり前だから、苦しみや絶望を人に与え、それでも愛して欲しいんだと、神様は言っているんだ。
より愛して欲しい人間にほど、お前なら理解ってくれるだろうと思う人間にほど、苦しみをより多く与える。
私が絶望を味わうほどに、「それでも愛しておくれ」と叫ぶ神様の声が聞えるようだ。
しょうがないな、愛してあげようかな。。。少し、笑って、つぶやいた。


『選ばれし者』

神様は常に孤独だ。
なぜなら、神様と同じレベルのものは、存在しないから。
天使は神様に限りなく近い存在だが、しかし、天使は天使であり、神様ではない。
天使も人間にも同じレベルの仲間がいるが、全てを創った神様は最高のレベルであり、同等のものは存在しない。
だから、神様は人間に孤独を与えられた。
より魂のレベルの高い人間にほど、孤独を多く与える。
神様自身の孤独を理解できるものと思われた人間に程、より多くの孤独をお与えになられる。
だからもし、あなたが、誰にも理解されずに、孤独に打ちひしがれているのなら、
あなたは神様に、より理解を求められた選ばれし魂のレベル高き人。
その孤独を乗り越えた時、その報いは天の国への道しるべとなる。

『この俗世界こそが修業の場所』

だいぶ前のことですが、NHKの番組で、ギリシアにある修道所を特集していて、
綺麗だったので、思わず見たのですが、 その中で、修道女の方が、
『世界中の人々を愛している』
というようなことおっしゃっていたのですが、
作家の曽野綾子さんがエッセイの中で、
「自分と何の利害関係のない人間を愛することは誰にでもできることである。しかし、自分と利害関係を持つ人間を愛するとこは難しい。」
というようなことをおっしゃしていたのを思い出しました。
確かに、修道所のような世間から隔離されているところから、 皆の平和を願うことは簡単だけれど、
例えば一緒に働いていて、尚且つ、自分にとって腹立つ上司をそれでも愛せて、その人の平和を願うことは、誰にでもできることではありません。(^^;;
本当に世の人々を平等に愛そうと思うならば、隔離した場所へ行くよりも、
とことん、自分にとって嫌な奴と付き合うことのほうが、よっぽど「愛」というものを知る勉強になるでしょうね。

それと、滝に打たれるとか座禅を組むとか、どんな修業よりも、この俗世間で、もまれて生きることのほうが、よっぽど修業になります。