妙好人の言葉―5(才市)

(どんぐりへんぐり、ありがとう!)

 

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はじめに. 1

親のお慈悲. 1

トーマス・マートン. 5

機法一体. 7

なむあみだぶつ. 11

あさましーありがたい. 13

ぶつのなかから. 15

めにみえど. 19

角を生やす. 25

心は万境にしたがって転ず. 27

むねのむくむく. 29

 

はじめに

 

200〜2007年1月にヤフー掲示板に乗せたものです。才市の赤裸々な言葉が味わい深いです。大拙の言葉もまことにありがたい。困った時など力に成るかもしれません。何度も読むと感じが深まるのではないでしょうか。ちなみに、「ーー」マークの下には私なりのコメントです。小見出しは気のむくままにつけたものです。原書は鈴木大拙全集第10巻です。 

 

                              ―洲崎 清記

 

親のお慈悲

 

うれしや、浄土こいしや、なむあみだぶつ、
浄土の乳は、なむあみだぶつ、
才市や、この乳のんでおる。
わたしや、おやさまこいしい。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p。278

ーー

子がすべてを親にゆだねて、安心して乳を飲む。
親と離れたら親が恋しくなる。
いったりきたり、
でもふるさとは遠くない。
すぐそこ、つまり、いまここである。

 

==

 

だいひのおやは、じひばかり、
ごおん、うれしや、なむあみだぶつ

(大拙:他力宗の親は子供を罰することをしないのがそのもっとも特異性だといってよい。)

p。278

ーー

片一方に親様の慈悲がある。
これは絶対のもの、
有限の私はそれに包まれて、とけてしまう。

かといって、とけきらないところがあるから、とけることの有難さがわかるのだ。

(この辺を禅の言葉で、(仮に)悟りというのではないだろうか?その言葉がなんであれ)

 

==

 

わしの後生は、おやにまかせて、
おやに任せて、私は稼業
稼業する身を、おやにとられて
ご恩、うれしや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p。279

ーー

>わしの後生は、おやにまかせて、

わからぬことは親に任せて、ほっておけ、

>おやに任せて、私は稼業

私は目の前のことに集中する。

>稼業する身を、おやにとられて

ところが、その目の前のことに集中していると、それもまだまだ、おっとっと、があるから(とらわれがあるから)、それを親に取られる(直してもらう)ことと成る。

>ご恩、うれしや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

何処に行っても、何をしようと、ご恩うれしや、ありがとう!

 

==

 

かたれぬものがふたつある。
死ぬことにはかたらやせぬ。
大悲の親に、かたりやせぬ。

わたしゃ8億4千のちから、
これで相撲とっても、
みだがとてもかたれぬ。
大悲の親に自力我慢でかたりやせぬ。

こんなさいちまけてみなされ。
大悲の親に勝ちて、
地獄に落ちるより、負けて浄土にまいるがよかろ。

まして後生の御誓願、
親の慈悲にはからわれ、
なむあみだぶつ。

わが身のごとく、きるにきられぬ一つ身よ。
機法一体なむあみだぶつ。

p。280

ーー

さいちどん、一丁出来上がりだね。
でも、それは出来上がりでないことを知っているから、
出来上がりになれる、ということだろうね。

>わたしゃ8億4千のちから、
これで相撲とっても、
みだがとてもかたれぬ。

煩悩がたくさんあって、相撲をとってもとってもじゃあない。
ご苦労さん、なむあみだぶ、だ。

 

==

 

親子一体、機法いったいというのが他力宗の眼目である。そうして親の考えの中には少しも主が入ってない。。。

はじめから親と子としておくと、親は子でなくてかえって、子を包むものであるということになる。。。

親子に成ると、差別はあっても、その間に自然の親愛味がある。。。

他力宗はこの点においてキリスト教よりも純粋なものをもっているといってよい。

p。280

ーー

(慈愛、慈悲)につつまれる、ということかな。

もうひとつ、子の中に親となる種が入っているというのもあるかもね。

 

ところで妙好人の才市は日常で会う気づきの内容を、こつこつこつこつ、メモしたようだ。

彼の書いたものを読むと、こつこつ、の音が聞こえてくる。

それは永遠のこつこつだろう。

それがありがたいのである。

そこにそういう人がいる・いたということ。

人に見せるでもなく、ただただ、内面の生活をよく反省し、言ってみれば親様との対話をつづけたのだ。

なんと、心強いものではないか。

 

==

 

トーマス・マートン

 

ふと見たら、こういうのがネットに乗ってました。
トーマス・マートンも妙好人のような気さえしてきます。
投げ出しなさい、といってるようであります。
こつこつこつこつ。。。

ーー

善と悪のどちらかを選ぶ事の出来るのは、自由の最低限度である。

何故なら、それがが自由と言えるのは、まだ《善を選ぶことは出来る》からである。

私達が《悪を選ぶ自由》がある限り、私達はまだ真に自由ではない。

悪を選ぶこと、それは自由を破壊することである。


私達は、悪と悪として選ぶことは決して出来ない。

《表面的にはそれを善として》選ぶのだ。

本当は善でないのに、自分の目から見て善と見えることをやろうとするとき、

それは、自分が真にやりたくないことをやっているのだ。

従って、私達は実際に自由ではない。


完全なる霊的自由というものは、《いかなる悪も、全く選ぶことが出来ない》ことである。

自分の望むものが、本当に善ならば、

また、自分の選ぶものが、その善を熱望するだけではなく、

実際にそれに達するならば、その時こそ私達は自由である。

何故なら、そこにおいて自分のやりたいことは全部為されることになるので

私達の意志からでるすべての行為は、完全成就される。

          ....................................


ただ、神の聖旨だけが、あやまちを犯す事がない。

神の聖旨をのぞいた他の自由はどれも、誤った選択により自分を傷つける。

真の自由は神の超自然的な賜として、

また神は私達の霊魂に注ぎ込む愛によって、

神ご自身の本質的な自由への参加として、私達にやってくる。

          .........................................

人間の本性が持っている自由と言われているようなものは、

善悪の選択には無関係である。

それは、恩寵や聖旨、それに神の超自然的愛によって達成される能力や

可能性以外のなにものでもない。


             「観想の種子」ヴェリタス書院 トマス・マートン

==

 

機法一体

 

さいちこころをなむあみだぶにしてもらい、
機からでるのか、なむあみだぶつ
法からでるのか、なむあみだぶつ、
機法一体のなむあみだぶつはここのこと、
わけてゆうたら、このとうり。
機法一体の味は、字にもかかれぬの。
ご恩うれしや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p.282

--

ピタット決まる時がある。
とはいえ、決まらない時があるのもわかっている。

そうでなければ機法一体ということばさえうまれない。

A:仏法とはなにか?
B:御前、飯は食べたか?
A:はい。
B:では、皿をちゃんと洗っておきなさい。

 

==

 

臨終待つことなし、
今が臨終。
なむあみだぶつ。

p。282

ーー

臨終が有難い。

重荷をしょって歩くことはない。

臨終=解脱、ありがとう、である。

年がら年中臨終である。

(というのも、臨終から生き返る者=意識、我、があるから、臨終するのだ。)

 

==

 

かれの自力の機は、、、
他力の法に生き返って、新たな生涯を営むことになった。

p。283

ーー

臨終、即新たな生涯である。

見事なひっくり返りである。

煩悩が菩提にうって変わるのである。

 

==

 

わしの機の潮、慚愧の潮で、
あなた御慈悲は歓喜の潮で、
これが一つのなむあみだぶつ。

p。286

ーー

二つが一つにぴったりと決まる!

親子の関係とはうまく言ったものだ。

手を取り合っていれば、
そこに、行き来があれば、
こわいものなしだね。

 

==

 

わけてみると、引き潮とさし潮になるが、それが一つに成るとき、それをなむあみだぶつ、という。。と言う思想は才市の覚書の全部にわたってながれているのである。

潮を波とすれば、波と水との二つにして一、一にしてニである。。。

p。286

ーー

あたかもそこに何かのコミニュケーション・連絡のあるようなもの。

全然別のもの、あるいは矛盾しているものが、ぱっと、つながるという不思議である。

それをそうさせる、「きっかけ」・境遇、境地、と言うものは、実はそこにも此処にも、あるのだ。

臨済のいうように、それを見てないものは、見よ、見よ、なのだ!

 

==

 

もろた、もろたと、あなたをもろた、
あなた、もろたが、なむあみだぶつ。

p。287

ーー

もろた。。。。
受けた、こちらを進めなかった、
むこうからすくいがきた。

そのとき、すべては、なむあみだぶつでみちみちていた。

ああ、そういうことなのか!

そうそう、

もらいなさい!

もらいなさい!

うけとりなさい!

いろいろなものにかかわらないで、

つまらんものをすてさって!

 

==

 

抽象的に言うと、わしとあなたが一つに成る、その一つが「なむあみだぶつ」だという事に成るが、才市その人の己身の上での体験では、あなたをもらうのである。また「そだてられる」のである。「まるでとられるのである」

p。287

ーー

吸い込まれちゃうのかもしれない。(有限が無限にね、あるいは煩悩の穢れが光の中に。)

それが原点での体験、人として生きているということの根本の所、なのだろう。

 

==

 

まるでとられる
南無阿弥陀仏のなかにおる
煩悩ぐるみにこころとられる
みなとられる、のである。

むこうからあたってくる
ながれてくる
のせられる
やきつけられる
てらしとられるたすけられる
ぬくめとられる
とりしめられる、のである。

p。287

ーー

なくなっちゃうんだね。
おきかわっちゃうんだね。
涅槃寂静だね。

 

==

 

なむあみだぶつ

 

「なむあみだぶつ」はむこうから発願し、むこうから回向して「われらが往生すべき他力信心のいわれをあらし給える御名」ということになる。。。

果たして然りとすれば「なむあみだぶつ」の体は、他力信心決定の姿で、これを文字に表して「なむあみだぶつ」の名号にしたものといってよかろうか。

つまり、「なむあみだぶつ」は今は本来の字義に解せられなくなって、信心決定または正覚の事実そのものをさす事になったのである。

p。289

ーー

そうだね、

すると、臨済の喝も、にたようなもの、といえるかもしれない。

道元の只管打坐だってそうだ。

外見を見るか、内=信心決定または正覚の事実、を「わかる」か、の違いがそこにあるのだね。

 

==

 

この事実即ち体験そのものに名をつけて、「なむあみだぶつ」ということになったのである。六字の名号は即ち信仰確立の事実がそれだというのだとすれば、名号の繰り返しは、この事実を意識の上から取り去れぬようにする事だといってもよかろう。

「一流安心の体をいうこと、なむあみだぶつの六字のすがたなりとしるべし」(御文章)

p。289

ーー

やはり道元の只管打坐も(臨済の喝も)同じ事を意味しているようだな。

それをはたからいうなら、「それ」は主客合一の不思議な体験という事かもしれない。

 

==

 

六字はもはや単なる名号ではなくて、安心そのものの姿である。

さらに言い換えれば、才市の場合にすれば、才市のその人に外ならずである。

p。289

ーー

なんでもピタットきまると、きもちがいい!

この気持ちがいい、の気持ちが、あたかも泉がいつまでも、どこからか、わいてくるというように、新鮮な働きとして、流れている、ということ。

そして、その流れを妨げるものを、そのままに通り抜けて流れるという事。

「そこ」に、なんというか、、、うむをいわせぬ、絶対のものがある。

 

==

 

あさましーありがたい

 

あさまし、あさまし、
夜昼なしの、あさまし、あさまし、
ありがたい、ありがたい、
夜昼なしの、ありがたい、ありがたい、
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ

p。289

ーー

あさましが、有難いにひっくり返っちゃう。

あさましが、そこなしの慈悲にあって、消えてなくなる。

子供が泣くのが、いつの間にかないている事を忘れて、けろっとしている。

あさましがあって、有難いがある。

あさましがあるからこそ、有難いがある。

ちゃんとひっくり返るように出来ているのだ。

 

==

 

二つの相容れないものがそのままで存立する。
これが「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」である。
信心決定の体である、姿である、名である。

ほかの場合はとにかく、才市の場合では、なむあみだぶつ、は絶対の一句である。

p。290

ーー

「そこ」で絶対に抜けられないものが、ぬけっちゃった。

それはこっちから進めて、ぬけられるものではない。

だから絶対の不可能だ。それがそのままで、可能に成るというところを才市は知ったのである。

いな、才市が知ったのでなく、才市がなくなって、宇宙全体がそれを知ったのである。そこでこの知る、は人間世界でいう知るでなく、まあ、宇宙全体が覚する、という風にでもいっておこうか。

 

==

 

対象を持った念仏ではないのである。
念仏が念仏をもうするのである。
機も法も一体も何もないところから迸り出ずる一句子である。

p。290

ーー

宇宙の意が、
宇宙の生が、
ほとばしりでる。

有無、善悪、なし!
喝!!!

「なむあみだぶつ!」

 

==

 

あなた、わしにきて、念仏もうして、なんまんだぶ

p。290

ーー

ピタットあう。

そのとき、あなたもわしもない。

とはいえそこから離れることもある。

そこに妙がある。

感謝、祈りがある。

 

==

 

ぶつのなかから

 

おのずから、わきでるぶつは、
ぶつの中から、ぶつをもろおた。
ぶつのなかから。

p290

ーー

>おのずから、わきでるぶつは、

宇宙の意は、

>ぶつの中から、ぶつをもろおた。

もともと宇宙そのものの働きところに、その働きに気づくわしがある。

>ぶつのなかから。

そのわしはぶつの中からきたものなのだ。(親に対する子)

 

==

 

なむあみだぶと、みださまは
ひとつのもので、ふたつがないよ。
なむあみだぶがわたしで、
みださまがおやさまで、
これがひとつのなむあみだぶつ。
ごおんうれしやなむあみだぶつ。

p。290

ーー

これはうれしい、ありがたい。

ふたつがなけりゃ、

絶対だ。

ピタット決まって、

ハイご苦労さん。

 

==

 

ほどけから
ほどけもろをて
なむあみだぶつ
南無阿弥陀が、わしのほどけよ。

p。291

もともとのほどけが、ほどけをはなれたので、
またほどけの有難さをかんじることができる。

なむあみだぶつがその機法一体つまり再会である。

 

==

 

才市が何かいうと、「才市よい」、と呼びかけて何らかの自問自答をやってから、最後に、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」で結んでいる。

これはただ名号を唱えるという事ではなく、才市自らが自らを呼ぶのである。

p。291

ーー

昔のある禅者が、自らに向かって、主人公とよんで、はいはい、騙されるでないぞ、はいはい、と答えたというのと、おなじだろう。

そこの体験が身にしみてわかると、そうしざるをえないのだろう。

どうか?!

はいはい!

 

==

 

キリスト教の人は神を純粋な存在だというが、ただそれだけでは、色も香もないことになって、人間としては手のつけようがない。

それでただの存在が言葉(ロゴス)に成る。声に成る。これで神は人間になったといってよい。また神はその自らの中にあるものをことごとく言い表したといってよい。

それは何かというに、神が言葉になり、声に成る事によって、みずからに向かって立つものを作る事になり、ここに対峙の世界が成立する。これが「はじめに言葉ありである」。

p。291

ーー

うまく言うものだね。まさにそのとうりだろう。

動物の鳴き声のようなものいつしか言葉になって生きるということの手助けをするということになった。そう云う変遷の中、神というものが生まれ、神をあらわす言葉ができた。

却ってややっこしい様でもあるが、

(そう、なむあみだぶつあるいは只管打坐というのはそのややっこしさを原点に戻すというような役割があるように思う。)

まあ、そうなったのだから、それはそうとして、そのところをわきまえるという智慧が大事というわけなのだろう。

発展はいいけど、おおもとの原点を知れ、というようなものだろう。

 

==

 

言葉が太初そのものであり、言(ことば)が神である。
存在は第一人称である。これが言になって第二人称が出来る。

神は第二人称を持つことによって第一人称にかえるのである。
神は言になって、みずから出る、そしてこの出ることによって初めて自らに帰入する、即ち自覚の世界がある。これを霊性的自覚という。

霊性的自覚これが「なむあみだぶつ」である。
「なむあみだぶつ」は神の言葉である。

p。291

ーー

回互だね。
空即是色、色即是空だ。
なむあみだぶつだ。

その云ったりきたりに、まばゆい光がみえるのだろう。
光だけでは光の存在はわからないからね。

煩悩なしには菩提はないというようなものだ。

このことを「そのものがそのものを知る」というようにいってもいいだろう。

 

==

 

ぶつの念仏みだの声
さいちになりて
なむあみだぶつ

声もただ聴くということにとどまると、受動性を持ってくるが、話をするということに成ると、相互関係が出る、即ち動くものがでる。声はこの点で受動であり、能動であるということになる。

目で見るときは、即ち姿にならないと、鏡に照らし出されないといけない。照らし出されても話しを交わすのと違って、静態性を帯びる癖がつく。

p。292

ーー
そうは云うけど、鏡も、大円鏡智なら、智慧が還ってくるということじゃあないかな?

 

==

 

めにみえど

 

めにみえど、親と話しをするごとく。

p。292

ーー

あたかも鏡を持って自らを照らすかのように、
親様との回互関係、自問自答が続く。

いつまでも、いつまでも。

智慧、慈悲の光に照らされるものは幸せなり!

 

==

 

親子二人で、はなしをすれど、
見えぬお顔が、なむあみだぶつ。

p。293

ーー

自(子)問自(親)答をしていて、
その境涯になむあみだぶつ(親の慈悲)が、みちあふれている。

子供が外で遊んでいて、家に帰って、安心の境涯を感じ、
そしてまた外に遊びに行く、といったものだろう。

生命(創造)の原点の確認はありがたいものである。

 

==

 

阿弥陀はこれここにおる。
なむとあみだが、なむあみだぶつ。
如来さん、わしがこのようなことかきます。
うれしいな。

p。293

ーー

ぴったり合うのはうれしい。
機法一体。
なむあみだぶつ。

書かせていただいて、
気が付かせていただいて、
ありがとう。

いったりきたりで、ありがとう。

いったりがないと、きたりがない。
きたりがないと、いくということもない。

そしたらありがとうもない。

ああ、ありがとう、
ありがとう。

気づきのたびに、ありがとう。

 

==

 

南無と阿弥陀がなむあみだぶつ
そうしてこのなむあみだぶつが、南無と阿弥陀であるという。
ーこれが才市の安心の基本であるといってよい。

p。293

ーー

くっついたり離れたり。
離れたりくっついたり。
離れてもくっついている。
けれどくっついていても離れている。

一体どうなっているんだ。
なむあみだぶつ。
なむあみだぶつ。

 

==

 

頼ませて、頼まれたもお
みだのよびこえ、
なむあみだぶつ。

p。293

ーー

やってやられる、
ひっくり返り。

一緒になったり、
離れたり。

なむあみだぶつ、
なむあみだぶつ。

 

==

 

みだたのむこころも
みだのこころなり。
なむとたのますみだのこころを。

p。294

ーー

南無とたのます

みだのこころにきずいたら、

二つが一つでぴったりだ。

 

==

 

よろこびは機のもとで、
法をよろこぶ、機のもとよ、
なむあみだぶつともうす機のもと。

p。294

ーー

むずかしいな。

機とは衆生の信心(=南無)とすると、、、

>よろこびは機のもとで、

機の元は弥陀ということになるかな

>法をよろこぶ、機のもとよ、

弥陀が法が展開しているのにそれ自身がよろこぶ、か?

>なむあみだぶつともうす機のもと。

それが、なむあみだぶつともうす機のもの、、、

ということはすべてが機のもとで丸く収まっているという事かな。

前出の、

みだたのむこころも
みだのこころなり。
なむとたのますみだのこころを。

こいつの中味を書いたものかもしれない。

 

==

 

あなた、わたしがたより、なむあみだぶつ
わたしや、あなたがたより、なむあみだぶつ。

p。294

ーー

それで、こっちとあっちがつながっている。
めでたしめでたし。

 

==

 

なむさんと。あみださんと、はなしを、しなさる。
これがおやこのなむあみだぶつ。

p、294

ーー

ああ、そうだそうだ。
読んでもほっとするね!

 

==

 

わたしや8万4千でも、おやさまも、
親様も8万4千。
これがひとつのなむあみだぶつ。

p。294

ーー

わたしや8万4千で、8万4千の煩悩と同じ数だけの菩提があるということだろう。一つ一つピタットあって、ちゃんとひっくり返るようになっているのだろう。

感謝、感謝。祈り、祈り!

 

==

 

なむあみだぶの不思議力、
わが愚痴が、なむあみだぶと、
かわるうれしさ。

p。294

ーー

ほら、ひっくり返った、ひっくり返った!

おめでとう、おめでとう!!!

 

==

 

わしの心は、くるくるまわる。
業のくるまにまわされて。

p。295

ーー

それが見えているかどうかで、
かなり違うのだろう。

またそれが見えて、そのたびに、
なむあみだぶをみているかどうかで、
かなり違うだろう。

 

==

 

回らば回れ、臨終まで、
これからさきにくるまなし。

p。295

ーー

ご苦労さん!

いつまでもいつまでも、ご苦労さん。

回って回って、眼が回る。

ご苦労さん、ご苦労さん、ご苦労さん。

ご苦労さん、ご苦労さん、ご苦労さん。

 

==

 

角を生やす

 

心も邪険、身も邪険
角を生やすが、これが私。

p。296

ーー

いくらでもでてくる角!
邪険邪険。

とはいえ、泣いていた子供がすぐ笑うように、
ひっくり返っちゃう。

あっけらかん、の素直!

だから、角との付き合いがうまくないとね。

 

==

 

わたしのこころは、せかいのたから。
なむあみだぶになるたから。

p。296

ーー

ああ、いいね、才市どん。

すっかりぬけておるようだのう。

いえいえそうではありません。

抜けてないからこうなのです。

なむあみだぶなむあみだぶ。

 

==

 

如来さん、あなた、わたしにみをまかせ、
わたしゃあなたにこころとられて、
なむあみだぶつ。

p。296

ーー

法があって機ができて、
機があって法がある。
それがぴったりなむあみだぶつ。

不思議ありがたいね。
あ、そうか。不思議ありがたい=なむあみだぶつ、か。

また一本とられたわい。

 

==

 

わたしがこころはちってどうもならん。
ちらばちれ、なむあみだぶつ。
ちるこころ、みだにとられて、
なむあみだぶつ。

P。296

ーー

ああそうか、才市もそういうところがあるね。
ちゃんと書いてくれている。

なんというか坐禅してなかなか心が収まらない、というか、飽きてもういい加減、という時ににているな。

自暴自棄ではないが、

>ちらばちれ、なむあみだぶつ。

そのままほおっておけ、

>ちるこころ、みだにとられて、

いじらないと、どこかにすいこまれて。。。

>なむあみだぶつ。

きがつけば、不思議ありがたいということになる。

 

==

 

心は万境にしたがって転ず

 

「心は万境にしたがって転ず、転ずるところ実によく幽なり、
流れにしたがって性を認得すれば、喜もなければ、また、憂もなし。」
ということがあるが、才市はこの性を「なむあみだぶつ」にしてしまっているのである。

p。297

ーー

喜もなければ、また、憂もなしで、よく幽なり、だと、
やはり、これは妙だね。

 

==

 

さいちやしあわせ、
悪趣をのがれさせてもろうたよ。
いかに才市が悪趣でも
親のお慈悲にかなわんよ。
なむあみだぶにとりしめられて、
才市やしあわせものだよの。
弥陀の成仏、わしが成仏。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p。297

ーー

ひっくりかえれ、ひっくりかえれ、
煩悩、悪趣、何でもござれ、

>いかに才市が悪趣でも
親のお慈悲にかなわんよ。

すごい、すごい!

>なむあみだぶにとりしめられて、
才市やしあわせものだよの。

安心安心、逃げ場がない!!

>弥陀の成仏、わしが成仏。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

弥陀の仕事が、わしが成仏されることによって完成される。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

 

==

 

此処にもられてある思想および感情は自力宗のなかには見られぬところのものである。弥陀の成仏がわしの成仏であるということは浄土系思想の中心をなすものである。自力宗はむしろこれを逆にして、わしの成仏は一切万物の成仏であるという。それで自力宗のなかには人間的温かみが感ぜられない。なんとなく冷たい哲学的な出世間的な超絶性がにじみ出るので、かえってちかずきがたいものを覚える。まして親子の関係のごときものは自力宗の何処にもないといってよかろう。

p。297

ーー

そうだね、知は角(かど)があるからね。

知ると言うことは知らないということ、といっても、時にはひっぱたいても、やはり、知のにおいがなかなかとれない。

そこで、そのにおい・臭みを取るのに、また座ったりするわけだ。

まあ、業の話しだから、とことん引っこ抜くのはなかなか難しい所なのでしょうね。

 

==

 

むねのむくむく

 

うれしよろこび、むねのむくむく、
なむあみだぶつ。

p。298

ーー

禅者もこういうのを公案ととって、調べてみたらいいと思う。

胸のむくむくとはなにか?

なむあみだぶつはなにか?

わかるかな?

 

==

 

ありがたいな、
わしゃ覚えず、知らずに暮らす。
自然の浄土にこれがいぬのか。

p。298

ーー

覚えるとひっかかる。
ほおっておくと、黙って座ればぴたりとあたる、というようなものだ。

それがいわば自然の浄土であろう。
「これがいぬのか」はよくわからない。。。が、
こういう才市がいるのかいないのかもわからないということではないかと思う。

というのも、そうなったら、いようがいまいが、(知ることないので)関係ないからね。

そうすると、面白いことが起こる。

つまり、同じことをやっても、同じでない。
いつも新鮮、また、うれしいのにきりがないのだ。

覚えず、知らずは、荷物なし、というようなものだ。
だから楽ちん、ありがとう!
いつまでも、いつまでも、ね!

 

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さいちは一念慶喜はいつすんだ。
私が一念慶喜はとおにすみました。
私が知らぬうちにすみました。
私がしらぬうちに、如来さんの、
さきにすましておいてくださった。
わたくし、よい如来さんにあいました。

p。299

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知らないうちにすんだというのがいいね。

そこでちゃんとその如来さんと会ってるというのが、
いってみれば悟の体験だろう。。。

信でもいいけど。そんなのは何とよぼうがどうでもいい。

ようは安心・くつろぎ、ご苦労さんだ。

 

 

 

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