
「薬害・医療被害をなくすための厚生省交渉団」50回交渉を省みて
事務局 風間進
T.交渉団発足の背景と意味
1.厚生省交渉にいたるまで
1984年2月27日を第一回とする「薬害・医療被害をなくすための厚生省交渉実行委員会」の結成は、当時のさまざまな社会運動、とりわけ薬害・医療被害運動の状況に規定されたものであった。
1970年の安保闘争と時期を同じくして、サリドマイド、スモン、ストマイ、クロマイ、クロロキンなど、の薬害被害者の大量発生があり、更に、注射による筋短縮症患者、未熟児網膜症患者も発生していた。一方、水俣病や、四日市公害、田子の浦汚染、イタイイタイ病などの公害患者も多発し、社会は騒乱の渦中にあった。薬害、医療被害、公害がこの時期に集中、多発したことは偶然の一致とは考えられない。精緻な分析を必要とするであろうが、60年代に始まった高度経済成長の一方の側面であったことは否定できない。
こうした騒乱の中から、薬害や医療被害の個別団体は作られていった。その患者団体を支援した薬剤師や薬学生などが中心となって作られた「薬害共闘会議」また、医療機関内部から医療を告発しつづけた「青年医師連合」の存在があった。そして、それらが一体となって毎年一度開催された「日本の医療を告発するすべての人々のつどい」は、医学界が被害者の声に耳傾ける事なく、閉鎖的体質の医療界に汲々とし、医師仲間と製薬業界の利益擁護のみに腐心している者達を糾弾し続けた。その意味から4年に一度行われる「医学会総会」に対して同じ開催地において、この「つどい」を「反医学会総会」として開催し、闘いを先鋭化していった。
運動が盛り上がっていた時には、一つの集会を準備するにもそれほどの困難はなかった。
新聞に案内さえ出しておけば、期せずして薬害や医療被害者、そしてこの問題に関心を持つ多くの人々が集まってきた。しかし、その流れは70年代安保闘争が学生、労働者に深く重い心の傷を残しつつ終わった頃から、徐々に薬害被害者達の和解の動きに変わり始めていた。そしていくつかの薬害被害者団体は、和解を求める者、訴訟を主張しながらも和解せざるを得ないとする者、最後まで訴訟を主張する者に分かれていった。被害者の中で自ら運動に参加できなかったり、生活や介護の苦しさの中から和解を選択せざるを得ないと判断した人は多かった。だが、この事が国を追求すると言う形の運動の流れを変えてしまったことも事実である。こうした流れの中で、1980年に入った頃には、一つの薬害被害者団体では、厚生省との直接交渉すら出来ないといった事態にまで追いこまれていた。「これではいけない」という思いが、運動を担っていた人々の中に重く沈殿していた頃、新たな被害が発生した。一つは1980年9月20日発覚した「富士見産婦人科病院事件」。もう一つは、1982年厚生省に研究班が作られた「ライ症候群」(子供が風邪やインフルエンザの後、脳症に陥る原因としてアスピリンの副作用が疑われたもの)である。この二つの被害者団体の発足が、停滞していた薬害・医療被害者運動に新たな活力を吹きこみ、新しい運動の必要性を促したのである。
「ライ症候群親の会」代表本畝淑子は、愛娘を失くした後、同じ病気で死亡あるいは重い脳障害を残す子の親を探し出した。アメリカからの資料も取り寄せた。最も疑わしいアスピリンとの関係について、アメリカ小児科学会が1982年6月「〜軽い症状や熱の治療の為に、アスピリンないし他の解熱剤は使わないように」という警告を出したのに対し、厚生省は「因果関係が認められない」として、何ら対策を講じなかった。こうした事への怒りが、地元代議士への直訴状、各報道機関への直筆の手紙という行動となっていく。
2.第一回厚生省交渉
広島に住む本畝は、関西で薬害・医療被害根絶に取り組む人々に連絡し、関西の活動家の手によって全国の被害者から要求が集められ、まとめられていった。その際注意した事は、届けられた要求をそのまま厚生省にぶつけるという形をとり、特に精査していない。その要求内容は45項目に渡り、18団体の名前でまとめられた。その一方で地元代議士を介して厚生省との交渉を求め、漸く1984年2月27日に衆議院第一議員会館第一会議室において、交渉できる段取りとなった。
この場の実現は、その後に続く交渉の第一歩として重要な意味を持つが、その裏には大変な錯覚と偶然が重なっていた。一つは代議士が要請を受けたのは本畝からであった為、厚生省への要請は「ライ症候群親の会」からだけのものと、代議士は錯覚していた。一方交渉団の方は、2月26日の交渉前日まで、要求書が完成していなかったため、45項目の要求書をあらかじめ提出する事ができなかった。この二つの事が、別な思惑を持つ両者の顔合わせを実現させた。
第一回の交渉には交渉団側として、全国から80名を超える参加者があった。厚生省側は、池田医薬品副作用対策室長が一人出席し、衆・参両院から8人の議員が出席、秘書が他に数名参加していた。出席議員の中に前年12月初当選し、衆議院社労委員であった竹村泰子氏が参加していた事が、この運動の展開に大きな意味を持つ事になるが、交渉当日の動きに触れてみたい。交渉団を代表して本畝が、事前に渡せなかった渡部恒三厚生大臣(当時)宛の要求書を、ライ症候群で亡くなった47人の子供の想いを47本の赤いバラに託して、この時初めて池田室長に手渡した。参加者の何人かがこの質問・要求書の趣旨を説明したあと、質問書の取り扱いに議論は移った。交渉団が「回答をよこせ」と詰め寄ると、室長は「回答は文書では出来ない」とかわした。そこを仲介した地元代議士が強引に「回答してあげなさい」と引き取ると、室長は「はい」と答え、この日の交渉は終了した。
この要求書に、まさか文書で回答が出てくることになろうとは、この時は考えもしなかった。この年の3月10日、衆議院予算委員会で竹村泰子議員が質問に立った。予定した質問の最後に「先日市民団体から提出された質問書に対する回答はどうなっているのか」と質問した。予定外の質問に大臣は「質問があるなら回答します」と答えてしまったのである。こうして、3月14日付の竹村議員への回答という形で、質問の回答書が文書で出されてきた。回答文書は役人特有の答弁であり、見るべきものは無い。そこでこの回答に対し、直ちに「反論及び要求書」を書き、代表5名で竹村議員と共に当時の正木馨薬務局長に面談し、手渡した。この席上、薬務局長は「文書回答というのはもう止めにしましょう。本日のように静かな話し合いなら、担当者と直接話し合う場を作りましょう」と答え、直接交渉する場を保障したのであった。
3.交渉にかける想い
最初に交渉の形態について、経緯を説明しておきたい。薬務局長のお墨付きがあったとはいえ、交渉団はこの交渉がいつ打ち切られるか、その事に不安を感じていたし、できれば長い期間、長時間の交渉ができるスタイルを作りたいという気持ちが強かった。従って、これを確実なものとする事を意図して、一つは議員の仲介でなく交渉団と厚生省とが直接窓口を決めて交渉する方法を提案した。つまり、議員はいつ辞めるか分からないし、次に仲介してくれる議員が確実にいるという保障はないからである。これは、最初の交渉で案外すんなり了承された。二つ目は交渉時間である。当初は半日を単位に設定されたが、地方から多くの被害者が来ている事を訴え、交渉2年目から一日に変更させる事が出来た。ただ、一日に変更するにあたって、要求書の提出の仕方に工夫をした。それは、官僚サイドに担当部署の持ち時間を1時間〜1時間半程度にして欲しいという要望のあったこと。交渉団としても、多くの問題を交渉テーマとするためには、一テーマにその程度の時間を割く事で一日5テーマがやっと、という計算であったから、これは双方で合意したようなものであった。このことによって、2年目からは当初の45項目要求にとらわれることなく、その時点での問題をテーマに取り上げる今のスタイルが確立した。
交渉団はこの交渉に何を期待したのか。直接の被害者の中には、交渉の場で何か話しが付けられるといった期待を持って参加した人もあったであろう。しかし事務局としては、基本的にはそのような期待は持っていなかった。なぜなら、官僚と言う職業は、国会なり、法律なりで決めた事をどのようにか解釈して、説明したり、実施要領を作ったりする実務の人々であって、法的根拠の無いものを作れと言ったり、法律の趣旨を逸脱した解釈をせよと言っても、それは自分達には出来ないという回答が来るに決まっている。従って、交渉ですべてを決するのでなく、交渉、国会質問、マスコミへのアッピール、質問主意書、それぞれの課題を地域の中で地道に取り組む事など、さまざまな方法をトータルに駆使して問題の解決を図ることが重要と言う認識をもっていた。とすると、この交渉をどのように考えていたのか。まず、70年代の一団体が行っていた交渉と大きく違うのは、多くの団体が一同に会して対厚生省交渉をするというスタイルにならざるを得ない。とすれば、その事実に着目し、交渉参加者全員が、一団体が抱える問題を交渉を通じて共有化することこそが一つの目標になって良いと考えた。もう一つはこの交渉をずっと続けることによって、厚生省側に「国民をないがしろにした行政運営はできない」と思わせるような、鋭い問題提起と質問を準備したいと考えた。恐らくこの二つが今日までの交渉団の基本的性格といって良い。
U.交渉の課題別評価
1.富士見産婦人科病院事件
交渉団として取り組んだ富士見事件の最大のポイントは二つであった。一つは監査によって発覚した不正請求分の内、保険者には病院からの返金が義務付けられているのに、患者が負担した分については返金の根拠がなく、通知すらしなくても良いルールになっていた。この時点で返金を求めるとすれば、恐らく裁判という形にならざるを得なかったであろう。埼玉県、厚生省と何度も往復したが、交渉などによってはっきりした事は、不正請求があった場合、医療機関が保険者に返金しなければならない根拠は、「社会保険医療担当者監査要綱」に定められていたという事。ところが、被保険者(患者)への返金はこの監査要綱のどこにも書かれていなかったのであった。結局この問題は、1986年4月被害者同盟の意を受けた議員の、国会質問に対する当時の厚生大臣の次のような答弁によって決着するところとなった。「(不正請求で)患者の自己負担分に減額のあったときには、保険者から患者に通知することについては、当然行われるべきものと考えておりまして、このような方向で関係者を充分指導してまいりたいと思っております」。各都道府県への通達は、6月に『監査後の一部負担金の過払い金の取り扱いについて』(保険発第64号:昭和61年6月23日)が出され最終的な決着を見た。
ただ、ここでは重要な問題が課題として残された。それは、医療機関が仮に不正請求していたとしても、監査で引っかかった場合に限って医療機関から返金の通知は出されるが、引っかからなかったり、厚生省の「指導」という形で発覚しても、今回の通知では返金される根拠とはならないという事である。結局この課題は、その後の「診療情報問題」で再び取り上げられる事となった。
二つ目の問題は、1999年6月30日民事勝訴判決後、北野千賀子医師の医師免許剥奪を求めての交渉である。この問題は、医道審議会の結論と言う形をとりながら、厚生省が刑事罰を受けていない事を理由に医師免許剥奪の対象とはしないという、これまでの方針を踏襲した事にある。しかし、医師法は免許剥奪に刑事罰だけを根拠規定にしているわけではない。刑事罰は医師法4条の2であるが、4条の3では、「医事に関し犯罪又は不正の行為のあったもの」とある。又、7条の2では「〜医師としての品位を損するような行為のあったとき」も免許を取り消すと規定している。この問題での厚生省の態度は、法律を根拠とする対応でなく、医師会に配慮(刑事罰以外で免許剥奪という先例を作りたくない)し、慣行を優先した。今後は質問主意書及び国会質問で法律との関係を明らかにすべきである。
富士見事件では交渉そのものには乗せられなかったが、重要な検察対応の問題が残された。つまり、医療内容は検察が取り上げることになじまない、という認識が法務当局の基本姿勢にあるという問題である。もし、これが変わらぬなら、医療検察官(所)の設置運動をするしかない。だがそうなれば、ますます、専門家だけの議論となり、市民感覚が入り込む余地はなくなるのではないか。そのあたり、交渉団としても現時点では結論が出せない。
2.インフルエンザ予防義務接種廃止とMMR
(1)インフルエンザ予防義務接種廃止の闘い
義務教育を受けている子供達に、インフルエンザ予防接種を義務付けていた予防接種法。この義務接種を法律から外すべきだ、というのが要求内容であった。厚生省の義務接種に対する説明では、インフルエンザの流行は学童が最初に罹患し、それが家庭内に感染し、社会全体に感染していく。従って学童に予防接種を義務付け、学童をして社会の防波堤とするという「社会防衛論」に依拠していた。この理論の意図は、子供を社会の防波堤にすることによって、社会経済活動を停滞させないことにあった。だが厚生省は、「社会防衛論」は述べるものの、接種に流行予防の効果があるという根拠を交渉団に何も提示できなかった。
交渉団が義務接種を法律から外すべきだとした理由の一つに、前橋医師会の調査『ワクチン非接種地域におけるインフルエンザ流行状況』(1987年1月)がある。健康な子供を特定し、5年間に渡り自然感染させた地域と、予防接種をした地域とを比較し、どちらが感染を防げるかという疫学調査をした。この結果「流行状況は接種地域と非接種地域に有意差は無い」との結論が出された。むしろ、予防接種の効果が半年程度であるのに対して、自然感染の免疫の有効率は1年で80%、2年で70%、3年で50%と述べている。
交渉団が義務接種を外すべきだとしたもう一つの理由は、副作用の強さであった。死亡例だけを見ても、1986年度接種で厚木市8歳の学童が接種翌日死亡。同年気仙沼市で4歳の保育園児接種2日後に脳炎となり痙攣、ひきつけにて入院、88年1月7日死亡。1987年度接種では、笠岡市の小2の男児が、接種後2時間半で発作を起こして死亡。同年玉名市の中2の女子が接種後、持病の気管支喘息を悪化させて死亡。1988年度接種では、和歌山県橋本町の小6が接種後意識不明となり死亡。その他、重度の障害を負った子供,一時的に障害があったが回復したものを合わせると年間数十件を数える。更にそれより軽度の場合はほとんど厚生省に報告されない。
厚生省は1986年9月「インフルエンザの流行防止に関する研究班」を発足させ、交渉団の予防接種効果への疑問に答えようとした。この結果「特定の集団に対して接種することにより、社会全体の流行を抑止することに関しては、これを判断できるほどのデータは存在しない」「重症化の危険の少ない学童に、画一的に接種を行う必要性は低いのではないかと考えられる」として、初めて集団義務接種の効果に疑問を呈したのであった。しかし、続けて「完全ではないまでも個人防衛効果はある」と結論付け、義務接種は続けるとしたのである。ただ、これでは集団接種効果に疑問を呈したこととの整合性がない為、従来のような一方的な接種ではなく、親への同意で接種する「同意方式」を採用することにした。
研究班報告を見た交渉団は、交渉団以外でこの問題に疑問を持つ人々にも呼びかける、全国的な運動展開の必要性を認識した。つまり、同意方式であれば、運動によってこの接種率を下げさせることで、この義務接種を廃止に追い込むことが出来ると考えたのである。この為、1987年2月21日「インフルエンザ全国ネットワーク」結成を全国に呼びかけ、結成した。この時交渉団はTシャツとウエアーに接種反対のプリントを施し、販売した。運動の成果は着々と上がっていった。1986年の全国平均接種率は60%。87年度40%、90年度24.1%、91年度22.5%まで落ち、以降交渉団に厚生省は接種率を明らかにしなくなった。
交渉団の運動だけでなく、各地の被害者が起こしていた裁判が、この時期原告側全面勝訴が相つぎ、廃止への後押しをした。92年12月25日東京集団訴訟で東京高裁判決は23億円の支払いを命じた。93年8月10日福岡高裁が3億3千300万円の支払いを命じた。94年3月16日大阪高裁が19億2千480万円の支払いを命じた。これで、既に和解が成立していた名古屋集団訴訟と併せ、すべての訴訟が決着した。
このような流れの中で厚生省は決断せざるをえなくなった。1994年6月「予防接種法」が改正された。これまで義務接種とされていたさまざまな予防接種は、「努力義務」に変えられ、役所からの通知が来れば受けさせたい人は病院に連れていくことになった。肝心のインフルエンザ予防接種は、通知すら来ないことになった。交渉団だけでなく運動を担ったすべての人の勝利であった。法律は1994年10月1日から実施された。
インフルエンザ予防義務接種廃止の運動は、実際の被害者が交渉団に参加した訳ではなく、被害者が問題を直接つき付けたものではなかった。このように全国的な問題であるにも関わらず、被害者が運動に参加しない(あるいは出来ない)テーマはこれまでもあったし(小児成人病問題、血液濾紙流用問題など)、今後もさまざまな問題で取り上げていく事になろう。その意味でインフルエンザ予防義務接種廃止運動の進め方(全国での地域運動と厚生省交渉とが連動するという形)が一つのスタイルを示したといえる。
(2)MMR(新三混合接種)
従来は単独で接種していた麻疹(はしか)・おたふく風邪・風疹の三種類を一度に接種するという計画は、それ以前1982年と86年に試作のMMRワクチンとして作られたことがある。厚生省は、この混合接種を1989年度から実施したいと計画を公表した。
交渉団はこの公表にワクチンの効果、副作用を予め公表させ、これを検討する中で納得できない公表内容であれば、直ちに中止に追い込むことを申し合わせ交渉テーマとした。これを取り上げた最大の理由は、効果がきちんとなく、副作用が強いとすれば、インフルエンザの二の舞になってしまう。厚生省の効果と副作用についての説明は次のようなものであった。一つはMMR接種による免疫の持続期間は10年間である。二つとして副作用はアメリカでは20年間実施し、一件も報告されていないので問題ない。というのである。そこで交渉団は、日本で行われている単味による死亡者数及び副作用認定数を問うた。回答は「これまでの副作用としては麻疹しかなく、死亡が2名。障害1級相当が9人、2級相当が2人である」という。こうして厚生省は1989年度から強引にMMR(新三混)の接種をスタートさせた。
接種を開始した1989年、早くも数多くの無菌性髄膜炎患者の報告があり、厚生省は慌てた。各県からの副作用をまとめると、数千人から三万人に一人の割合でこの副作用が発生していると言う。ところが、副作用報告は後をたたず、1990年4月13日の交渉では「無菌性髄膜炎の発生頻度は数千人に一人」と言い直さざるを得なくなった。更にその原因として「おたふく風邪の株に問題がある」と発表した。そして1991年度でも副作用報告は続き、公衆衛生審議会の伝染病部会から1200人に一人と発表され,発生頻度は益々高くなっていった。そして1992年度には、死亡ケースが発生した。3例の死亡報告に対し、2例を認定、1例を却下した。死亡事例まで出したことに厚生省は不安を隠せず、1993年4月27日各県に次のような通達を出した。「公衆衛生審議会伝染病予防部会より別紙のとおり意見が出されたので、これに基づき、乾燥弱毒性麻疹、おたふく風邪、風疹混合ワクチン(MMRワクチン)の接種について、本日付けでその実施を当面見合わせることとした」と。実施から4年で中止となったのであった。交渉団としては、スタートから廃止までに関わった珍しいケースとなった。現在は単味で希望者が医療機関で受ける形となっている。
3.救急医療体制の問題
日本の救急医療体制は「告示」体制と「一、二、三次救急」体制の二本立てで運営されている。交渉団が直接取り組んだのは「告示」救急体制の問題であった。
神戸市内である夜、交通事故が発生した。同乗していた女性は痛みを訴えていたものの、外見上特に被害がひどくないと判断され、救急告示の有床診療所「小柴診療所」に搬送された。搬送後、医師も重大な障害はないと判断、全治一ヶ月の診断をした後近くの自宅で就寝してしまったのである。ところが、かけつけた家族は彼女の痛みと嘔吐に医師の診察を求めたものの、来院せず、血圧の低下で慌てて医師がかけつけることになった。これに対して医師は酸素吸入と輸血を指示して再び就寝しに自宅に帰ったのである。翌朝診察した医師は腹部の膨隆に気づき、慌てて神戸市民病院に転送した。結果は脾臓が破裂しており、一時的な輸血ではどうしようもなかったのである。転送先で無理やり手術を依頼したが時期が遅く、帰らぬ人となってしまった。交渉団のメンバー長尾クニ子の娘さんである。
裁判をし、勝訴した長尾は、このような診療所の「告示」を取り消すように行政に訴えた。ところが、帰ってきた返事は「自分で告示の申請をしているので、自分が取り下げる手続きをしない以上、行政として取り消しをすることは出来ない」というものであった。これに納得いかない長尾は交渉でこの解決を求めたのであった。
救急告示は、昭和38年頃から自動車の普及によって交通事故が多発するようになり、これに対処するため、制度化されたのであった。39年2月20日、全国の市区町村に設置されている消防本部から救急車が出動することを捉え、消防法の改正によって救急体制を整備することにした。これが「救急病院等を定める省令」(省令8号)である。ここでは、救急告示病院となる条件を4つ定めた。救急告示病院を希望する病院は、その旨を病院所在地の保健所に申請し、この申請を受けた都道府県が4つの条件を満たしているか否かを審査し、承認するかどうかを決定する。そこに行政としての補助金は一切介在しない。4つの条件とは次のようなものである。
@ 相当の知識及び経験のある医師が常時診療に従事していること。
A 手術室、麻酔器、エックス線装置、輸血及び輸液のための設備、その他事故の負傷者の医療を行うために必要な施設、設備があること。
B 救急車が入りやすいこと。
C 空きベッドがあること。
この内、「医師が常時診療に従事していること」とは、必ずしも医療機関にいなくても、住居が敷地内にあり、そこで仮眠する形でも診療に応ずることができるのであれば、それでも良いとする解釈が出されている。(これは「医療法16条」の病院に医師の当直義務を課している部分で、病院の敷地内に居住する場合は知事の許可を受ければそれでも良いとする規定に準じている)又、告示救急医療機関を増やす為に、病院だけでなく有床診療所(医療法で19床以下を診療所と称している)も告示救急医療機関として認めている。しかし、診療所は医療法13条において、診療上止むを得ない場合を除いて、患者の入院期間を48時間と制限している。
さて、長尾の求めた「告示取り下げ」問題であるが、交渉では解決がつかなかった。ただ、厚生省もこれが問題であることは承知しており、この解決のために日本医科大学救命救急センターの大塚敏文氏をキャップとする「救急病院・診療所検討委員会」を作った。当時の救急医療担当の官僚の仲立ちで検討委員との話し合いの場を持ったのは、昭和61年6月22日、東京都文京区日本医大においてであった。
この時交渉団は、各被害者毎に事例を含めて問題点を整理したものを提出した。委員会は昭和61年10月17日、『今後の救急病院・救急診療所のあり方について』という報告書を提出した。これを受けて厚生省が新たに通達を出したのは、救急告示については、3年毎に更新し、その時点で問題があれば告示の指定をしないということだけであった。そもそも委員会が何故、告示の認可基準そのものの変更に触れなかったのか疑問である。恐らく、大幅な変更をしたくなかった理由は、不適切な告示病院を排除してしまうと、全国的な救急体制が維持できなくなるという判断があったものと考えられる。
救急医療では重要な問題を課題として残した。一般的に救急病院に行けば、すぐ診察してくれるものと考えている。しかし、必ずしもそうはならない。その病院の入院患者が急変すれば、診療に当たるのは医療法13条を根拠とする当直医である。実はその当直医が、急患室に来院する救急患者への診療にも対応するのである。つまり、当直医が兼務しているという事だ。従って、病棟に急変があれば、来院した救急患者は待たされることになる。優先権は医師の当直が医療法にある以上、病棟患者にあるからだ。これを入院患者対応の当直と来院する救急患者対応とに分離できないか、と考えたが、これを詰めることが出来ていない。
もう一つの救急「一、二、三次体制」は、昭和52年に国の要綱に基づいてスタートした。法律に基づいたものではない。従って、告示救急とはいろいろな点で異なっている。その目的の一つは救急状態に一括して対応するのでなく、状態に応じて対応する体制を作るという点。第二が救急対応の空白時間をなくすということ。そして、これ他を実現するために行政サイドから医療機関にお願いをしてこの体制を作ったということが告示との最大の違いである。お願いをする以上は当然、行政から医療機関に一定の費用が支払われることになる。従って、一次(初期)救急は、入院は出来ないが、地域の中で夜間及び休日に救急患者を診療してくれる診療所を指している。行政からの補助金は医師一人いくらという形で支払われる。多くは、医師会などが行っている夜間・休日救急診療所を指している。二次救急は、入院を要する救急患者さんを入院させる事の出来る病院を意味している。これには二種類あって、一つは固定的に行政との契約で夜間ベッド数を救急患者さん用に確保している病院の形である。もう一つは特に土・日の夜、救急患者さんを入院できる病院を地域の中で,順番を決めて受け入れる体制のことで、これを輪番制と称している。共に一ベッドあたりいくらという補助金が支払われることになっている。三次救急は救命救急センターとも言い、同じ入院を要する患者さんでも、特別な状態にある患者さんを入院させるところである。特別とは、意識不明の状態にある人、火傷の人、交通事故で脳外科や外科,整形外科などの医師が同時に診療に従事する必要があるような人等である。この場合も一ベッドあたり、いくらという補助金が支払われる。全国的には告示救急と二次救急を同時に取っているような病院もあり、二つの制度の整合性が問題となっている。これまでの交渉では、厚生省は未だ、二つの制度を一、ニ、三体制に一本化出来ないとしている。最大の理由は、医療の過疎地(特に島嶼)では、一、ニ、三次体制を確保できず、告示なら有床診療所を含めて可能であると言う認識に立っているためである。
交渉団の交渉は、告示救急に関する事であったが、一二三体制でも被害は起こっている。ただ、直接の被害者の参加がなかったため、交渉は行われないで来ている。
4.薬害救済基金について(ライ症候群問題を含む)
薬害救済基金の存在は、発足時の交渉団内において、これを否定的に評価する立場とそれなりに使いかってを改善すれば、もう少し利用可能になる、という立場があった。もともと薬害救済基金は、スモンの薬害被害者の訴訟に対して和解された人への支払い窓口として作られた部分もあるが、一方で製薬企業が、多発する薬害に裁判に訴えられるよりも、保険システムを作ることによって、そこで支払うことが出来れば面倒がなくて良いという判断から作られた面がある。議論のあったのは、この保険システムによって、製薬企業の責任が曖昧になり、お金だけが支払われていくことの問題点を指摘してのことであった。つまり、これは薬害隠しであり、薬害を防止する何ら機能を果たすものでない、という主張である。むしろ、裁判などに訴えられる事によって、企業としても、薬害防止に積極的になるはずという考えがそこにはあった。
一方、裁判をやることは評価するが、実際には不可能な人たちがいる事も事実であるという点に立脚する。従って、裁判をせずとも、補償金が出るならそれに越したことはないという人の立場から、もっと身近に申請できる場所を作るべきだということ。更に、申請のシステムが受診した医療機関全ての証明書を求めるスタイルになっており、二度とその医療機関には行きたくない、という人もいることから、証明書の代りにカルテ等で代行できないか(裁判に訴えている場合はこれが可能)という意見が出されていた。
これらの二つの意見を踏まえながら、実際、後者の立場の交渉をして来たのが交渉団の実態であった。それは、救済基金への申請をしているが、なかなか結論が出されないのは何故か、が交渉テーマとなったり、一度却下され、異議申し立てをしているのに、何年経っても結論が出ないと言う問題が交渉テーマとなってきた為である。
交渉によって獲得できたものは、これまでは異議申し立てをした場合、最初の審査した医師たちがもう一度審査するシステムとなっていた。このおかしさを指摘した結果、別なグループの医師が再審査をすることに変更された。
この交渉団のスタート時牽引車となったライ症候群の本畝の主張してきたアスピリンとの因果関係が認められたのは、平成11年度において2件が初めてであった。
今後は既に議論のあった、地域の中に申請窓口を作る問題。救済対象外としている血液製剤、抗がん剤、免疫抑制剤などの薬剤も対象とすべく課題が残されている。
V.新しいテーマについて
今後の交渉テーマを考える時、一番難しいのは、先端技術の問題、特に遺伝子診断及び遺伝子治療の問題である。その問題とするところとは、次のようなことである。一つは、私たち自身が先端技術の持っている功罪を知るのに知識の上からも、時間的な面からもかなりの時間を要するだろうということ。二つ目は、これからの事を予測の中で問題にしていく為、その道の専門家が必要とされていること。