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文京区の香りがするページ |
文京区はそもそもなぜ文京区と呼ぶ様になったのでしょうか?
筆者の独断と偏見で推測するに・・・旧小石川区には御茶ノ水大学と教育大学そして旧本郷区には
東京大学と正に教育の最高峰が密集する文教地域なので文京区としたのではないかと思われます。
間違っていたらご指摘ください。ご指導を大歓迎いたします.
文京区は江戸の町の中心からは北側に当たり、「本郷も兼安までが江戸のうち」と言われるとおり、本郷三丁目に今でも存在する「兼安」より北側は郊外で、ご用の済んだものの廃棄場所として神田近辺にあったお寺がたびたびの火災の都度、谷中、本郷地区に引っ越してきたものと思われます。
私は文京区向丘二丁目に住んでいますがこの町名は昭和44年の町名改正で出来た新しい町名で以前は蓬莱町と呼ばれていました。
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| 写真左は海蔵寺 |
蓬莱町とは何となく仏教的な香りのする町名ですね!
本郷通りは日光へ向かう岩槻街道のことであり、この街道は向丘1丁目(旧追分町)から中仙道に分岐して信州へ向かうのである。
岩槻街道と、中仙道沿いに無数のお寺が存在するお陰でこの町はしっとりと落ち着いた京都風の佇まいをかもし出しているのかもしれません。
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お寺も最近は住職が現代人に引き継がれてて近代的なデザインの建物に変化してきました。
下の左二つのお寺は光源寺とその大観音像・浄心寺とその門に飾られた布袋さんはお寺の広告塔のようです。
向丘地区は東京大学に近いので大学教授、研究者が多く住む町でもあります。
森鴎外が住んだ「観潮楼」跡には森鴎外記念図書館が開設され、その裏庭には斉藤緑雨、
幸田露伴と3人で記念写真を撮った「三人冗語の石」がそのまま残されて居ます。
鴎外は、三人冗語と言う創作批評を行っていて、この合評で樋口一葉の「たけくらべ」が絶賛され、一躍文壇に躍り出たのです。
「観潮楼」とはこの辺りから東京湾の潮が見えたことから名付けられ文壇仲間が鴎外を慕って訪れたようです。
写真右側は10メートルほどの切り立った崖になっていて、明治時代は見通しの良い高台でした。
通りの左手が「観潮楼」の入口で今でも門・礎石が残され取り当時の面影を偲ぶことが出来ます。
「観潮楼」から東へ数分歩くと夏目漱石の旧居跡があります。この写真の藪下通りを300メートル戻って昼尚薄暗い急階段を右に上ります。
夏目漱石のはロンドン留学から戻り、友人の斉藤阿倶氏から一軒家を借りました。
現在は日本医科大の同窓会館となって「橘桜会館」となっています。
平成14年1月3日同窓会館の新装オープンを期して猫の像も新たに配置されました。
筆者が学生時代には旧居宅を見ることが出来ましたが、いつの間にか犬山の明治村に移設されてしまいました。当時の建物は
こちらで見ることが出来ます。
漱石が借りたこの貸家は以前にも森鴎外が住んでおり、二大文豪が住んだ大変貴重な価値ある文化遺産です。ここで、東京大学の英語の教師を勤める傍ら朝日新聞の仕事をこなしながら「倫敦塔」「坊ちゃん」「草枕」「我輩は猫である」を次々と執筆、文壇に彗星のごとく躍り出たのです。
この地は漱石文学発祥の地として文京区の誇りとなっています.
因みにこの石碑の題字はこれまたノーベル文学賞の川端康成氏の直筆です。
「吾輩は猫」の中では、この自宅の西側に隣接する郁文館高校の生徒と野球のボールをめぐって大喧嘩をする場面が出てきます。
仕舞いには棚橋校長をも巻き込んで大騒動になりますが、当時は四つ目垣と言う高さ150cm程度のフェンスしかないため一日に何度となく漱石の庭にボールが飛び込んでくるのです。
胃潰瘍を患っていた漱石には大変なストレスらしく庭に入ってくる学生を捕まえては
説教を繰り返していました。
写真に写ったフェンスの向こう側で毎日、騒ぐ学生には手を焼いたことでしょうね!
ところで、皆さんは漱石の「漱」は訓読みでなんと読むかご存知ですか?
・・・・・・そのとおりです。「くちすすぐ」と読みます。漱石の本名は金之助ですが中国の故事から漱石と名乗りました。
古代中国では隠遁生活に入ることを「石に枕し、流れに漱ぐ」と言います。
或る官吏が国王に向かって誤って「流れに枕し、石に漱ぐ」と言ってしまいました。
咄嗟に、流れに枕するのは俗世で汚れた耳を洗い流し、石に漱ぐのは小石で歯を磨く生活をするのだと巧く言い逃れました。
爾来、屁理屈をこね回す人を「石に漱ぎ、流れに枕する」と言うようになりました。
漱石の屁理屈や偏屈な生き方は正に「石に漱ぐ」と言うにピタリのペンネームでした。
後世の人はさすがに巧く言い逃れた官吏を賞賛して「流石」を「さすが」と読むようになりました。
先般、筆者は或る会合で流石サンと言う人から名刺を受け取り「さすがサンとお読みするんでしょうか?」と言うと・・・「さすがですねえ〜!」とほめられました・・・
(関係ないか?)
漱石の家から本郷通りに出て南へ約400メート行くと左手に東京大学のレンガ塀が見えてきます。このレンガ塀の中が東京大学のキャンパスです。その向側一帯が幸田露伴、徳田秋声、二葉亭四迷、石川啄木などの文人が住む本郷地区です。
石川啄木は「東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて蟹とたわむる」と歌ったのが
この蓋平館と言う下宿屋です。
現在は大栄館という旅館になっていますが・・・・
ここの看板には「東海の・・・」は失恋の歌ではなく啄木の小説を新聞社に売り込みに失敗して挫折感に打ちのめされて、下宿の三畳間で詠んだ歌だそうです。
太栄館は現在修学旅行生対象の旅館となっていますが、この辺には修学旅行生対象の旅館が多いのは何故なのか分かりません。
この太栄館の左手にはかなり勾配の急な下り坂があります。
この近辺には二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声らが住んでおりこの坂を散歩していたと記されて居ます。
この坂を下ると菊坂下に出てゆきます。菊坂は樋口一葉の住む町です。
樋口一様は24才の若さで亡くなりましたが,生活はかなり追い詰められていたようで
着物を質屋に入れたり出したりの生活を強いられていたようです。
一時、台東区竜泉に住んでいた時もこの本郷5-9-4の伊勢屋にお世話になりました。
この質屋さんは現在廃業していますが土蔵は明治40年に塗装をし直したが、内部は当時のまま残されて居ます。いずれ取り壊しの運命にあると思いますのでこの写真が撮り収めになるかもしれません。
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