どこでも同じ?  

                     

私のドイツの舅、姑は既に他界しています。28年前に息子が日本人と結婚するといった時の姑の反応、結婚式、親戚、孫、誤解、あれこれ書き綴るつもりです。

 

嫁と舅、姑  

義理の両親との間で大きな問題があった訳ではありません。今振り返ってみれば、それ程大変だったとも思いませんし、最後にはああいう付き合いで良かったと確認できる言葉も姑から聞くことができました。それでも嫌だなと思ったことはあります。私は自分が嫌だと思ったことは、自分が姑と言う立場に立ったときにしないように心がけるつもりです。どこまでこれが実行できるかは判りませんが。

 

電 話

 

結婚して長女が生まれて半年で主人の実家の近くの大学に勤め先が見つかりました。350km離れた別の町に住んでいたので姑がアパートを探してくれました。

この時、義理の両親は家業の靴屋のお店を人に貸して、すでに悠々自適の暮らしをしていましたから時間はたっぷりありました。そこへ長男が初孫を連れて戻ってくる事になったわけです。舅は戦争で右足が不自由で車の運転はしませんが、姑は気楽に出歩いていました。

結局同じ町の中で主人の実家から歩いて20分ほどのところに住むことになりました。他に候補にあがっていたアパートは車で15分くらいかかる所でした。近いほうのアパートにしたときに「電話はつけないで欲しい」と言うのが私の条件でした。気楽に電話をかけて来て、出たり入ったりされたくなかったのです。

引越しの時、それまで家具付きのアパートに住んでいたので家具を持っていませんでした。姑が自分のや、知人の不必要な家具を集めてくれました。経済的に余裕があったのでカーテンが必要となればお店をやっていたとき使っていたところへ行って、「これが良い」「こうしなさい」と言って買ってくれたりもしました。私達が買うものでも「あれが良い」と言います。主人のおじいさんの机を貰ったのですが、私達のところへ来て「ここへ斜めに置くと良い」といいます。これは理由を言って壁際に置くことを納得して貰いました。

こんな調子で半年の赤ん坊のいるところへ向こうの気ままな時間にやってこられるのは堪りません。歩いて3分のところに公衆電話があり、昼間なら主人の勤め先へ電話してもらえば良いので、電話は要らないという私の願いが通りました。

引っ越したアパートには前の住人が使っていた電話が付いていました。電話局に連絡して取り外しを依頼しました。やってきた係りの人が応対した私に、「本当に要らないのですか? 外して良いんですね。」と信じられないという言うような顔をして念を押しました。

このアパートには約3年住みましたが、電話は無しで過ごしました。

 

 

孫の名前

 

二人目の子供が生まれる前に義理の両親の近くに引っ越しました。 土曜日は、舅たちのところへ車を駐車して、子供を預けて身軽に買い物に出かけました。義理の両親は他に孫はいないので、孫の相手ができるのを楽しみにしていました。

姑が私達の知らない間に写真館へ初孫を連れて行って、写真を撮ってもらったこともありました。孫がいるのがうれしいのはわかるし、祖母と出かけるのも良いだろうと思っていました。できあっがた写真は額に入れて飾ってありました。いまは写っている本人が大事にしています。

こんな風に適当な距離で生活していたのですが、次の子供ができるたびに「迷惑だな」と感じたのは子供の名前です。暇があるので、知り合いと週一回カードのゲームをする集まりに姑は参加していました。子供が生まれるまで後何ヶ月もあると言うのに、「名前は決めたの? こんなのはどう。こういうのもいいと思うけれど」とはじめるのです。そしてこの名前が行くたびに違うし、ただこんなのが気に入ったと言ったからと言う雰囲気なのです。

私たちは名前を探す時にRの音がはっきり出る名前は避けました。子供の名前を呼ぶのにいちいち苦手なRの発音を気にしていられません。
日本人の耳には濁音も余りきれいには聞こえません。私の日本の家族が普通に発音できて変に聞こえない名前を探しました。こんな条件がある中でこれはと思う名前を探して、土曜日に「こんなのが候補です」と言うと、これは年寄りくさい名前だとか言われます。

一人目が女の子だったので、二人目はこの時に考えていた男の子の名前はそのままで女の子の名前が話題でした。結局男の子でしたから最初の時に考えた名前になりました。女の子だった時の名前はもう忘れました。

三人目はまた最初からやり直しでした。

 

 

結婚式

 

主人と結婚することは親に知らせましたが、自分で親の援助無しでドイツに来る手はずを整えて、自分の道を選んで来たので、結婚式はドイツの主人の故郷でするだけと決めました。主人も教会から出ているし、私は一応仏教徒ですから役所での式だけで、後は義理の両親の方の親戚を中心に、舅と姑の友人を招待してのパーティをしました。日本からは両親が来ました。主人は当時はまだ大学のある町に住んでいて、出身地には住んでいませんでした。

結婚のための書類は郵送して、式の日は決まりましたが、パーティや招く親戚、友人の方は全部姑が手配しました。すでに引退して仕事をしていませんでしたから時間はたっぷりありました。長男が結婚するのですから体裁は整えなければと考えたようです。10ヶ月ほど前に主人が電話で私と結婚したいと言った時は、「何でそんなアジア人と」と言ったそうですが、息子二人だけだったので姑は結婚式までには義理の娘ができると言うことで受け入れた感じでした。

結婚パーティは親戚の集まりみたいで、私にとっては主人の方の親戚と知り合ったはじめての機会でした。親戚の方も姑が伝えたことしか知らないわけで、「見に来た」「品定め」という印象は免れませんでした。まあドイツ生活も2年以上経っていたので言葉のやり取りには一応困りませんでしたから、親戚と姑の友人は私に聞きたいことは聞いてきました。

姑は私の事をについてはミュンヘンオリンピックに参加したとだけ言っていたようで、この時もこれ以後も、「オリンピックに参加したんだって」と聞かれました。「ミュンヘンオリンピック委員会は若い人がオリンピックに協力できるようにと世界中からボランティアを募って、泊まるところと食事つきでいろいろな仕事をする機会を作りました。日本の旅行社が若い人を募って、ドイツ語講座とオリンピックを組んだのに参加したのです。ドイツ語が下手だったから会場の掃除をしてました。でもあの雰囲気が気に入ってもう一度ドイツへ来たいと思って奨学金に応募したら受かって、ドイツにまた来たのです。」と説明しました。姑は「掃除」とは言いたくなかったようです。パーティに参加した親戚にオリンピックの選手として出場した人がいたせいもあるのでしょう。

この時参加した親戚の1人が、私たちが銀婚式を迎えたと聞いて手紙に書いてきたのは、「結婚式の時はびっくりしたし、おやおやこれはどうなる事やら思ったけれど、もう銀婚式」。だいたい皆多かれ少なかれこんな風に思っていたようです。

 

 

ありがとう

 

私たちが結婚した時はすでに引退していましたが、義理の両親は靴屋をしていました。舅の家系で代々続いた靴屋で、店員さんがが何人かいて店主としてお店を切り盛りしていました。姑の実家は肉屋でお姉さんが11歳年上なのでみんなから大事にされたおてんば娘だったようです。

姑の私への対し方もお店の店員さんにはこうしていたのだろうなという感じで、「あれはこうするものです」「こうしなさい」。なにもあんなに命令調でなくても良いのにと思ったことがありました。まあ舅に対しても似たようなものでしたが。私は一緒に住んでいるわけではないので適当に言われた通りにしたり、望みどおりにしたりしていました。

長くお付き合いをしているうちに「ありがとう」を言う事を知らない人だ思うようになりました。姑の年代でお店をやっていたら店員さんには「ありがとう」を言わなかったのではないかなと。

私たちが結婚して6年で舅は肺がんで亡くなってしまい、その少し前に私たちは舅と姑の住んでいる町から車で20分ほどの所へ引っ越していました。そしてその4年後にはスイスへ引っ越しました。これだけ距離が離れているとこちらがたまにドイツへ行くか、クリスマスに姑がスイスへ来た時に顔を見るだけで、期間も限られているので言われたとおりにするのも気楽です。こちらも10年以上も経っているので「まあ良いでしょう」と受け流して怒らなくなったし、向こうも1人暮らしでだんだん動けなくなったりで、孫を含めて私たちのいる事が頼りになってきていることは感じられました。姑からのクリスマスプレゼントがだんだん豪華になりました。このころから「ありがとう」を使うことを知らないのではと思うようになりました。こう考えるようになってから、姑のあれが「ありがとう」だったのだろうなと思い当たることがいくつかありました。「ありがとう」といえば簡単だったのに。

私に対する扱いが店員さんと同じだったのか、家族の一員として「当然」と言う扱いだったのか判りません。姑と「ありがとう」を思い出すと、私は家族内でも「ありがとう」がたくさん使って、子供たちに大しても「ありがとう」をたくさん言おうと思います。

 

 

好奇心

 

私たちは主人の仕事の都合でドイツからスイスへ引っ越しました。引っ越した先はスイスのドイツ語圏とフランス語圏の境で、70%がフランス語を使うところです。アパートの周りの住人もほとんどフランス語を話します。

引っ越したとき長男は幼稚園でした。学校へはスクールバスがあることを教えてもらって、長女はバスで通っていましたが、幼稚園の長男は午前と午後で、一日往復2回を私が車で送り迎えしていました(後ななって、申請すれば幼稚園児もバスが使えることが分かりました)。

引っ越してから2ヶ月後、姑から連絡があり、訪ねて来て泊まると言うのです。引越しの片付けも済んだかすまないか、フランス語は習ったことがないのでちんぷんかんぷん。子供たちは新しいい環境で、アパートの子供たちとも意思の疎通ができなくて外から眺めていて、「行ってみれば」と言っても「フランス語が分からないから」とバルコニーから遊んでいるのを眺めていると言う状態でした。

姑がやってきました。子供がバルコニーに出ていると、「危ないくないの、見ていなくて良いの」。家の中の家具の配置やら、「あれがいるでしょう、これはこうしたら」。来てから2ヶ月にしかならないくて、おまけにフランス語で事情が良く分からない私に「あれはどうなっているの」。

ついに、全く誰からも何も言われたくなくなって子供部屋に閉じこもって中から鍵をかけてしまいました。 外から声を掛けられても返事をする気になれませんでした。

主人と、姑は子供たちを連れて外食しに行きました。

帰ってきた後は主人が何を食べて来たかを話てくれましたが、どうして閉じこもったかと言うことは聞かれませんでした。そして数日たって姑は帰っていきました。

姑は、息子達がどんなところに住んでいるのか見たいと言う好奇心が先にたって、全く知らないところ言葉の分からないところへ引っ越してくたびれているということまでは考え付かなかったようです。行っても大丈夫かどうか、いつ行ったらよ良いか位のことは聞いて欲しかったです。学校が休みなら私にも時間的に余裕があったでしょう。

スイスで4人目ができてアパートに泊まってもらえなくなったので、姑が訪ねて来てもこれ以後は近くのホテル。こちらもフランス語圏との境での生活にも慣れたのでこれ以後はこういう場面は起きませんでした。

別居して近くに住んでいる長女のところへは、向こうの都合を聞いてから出かけていきます。

 

外人としての生活

新聞の広告のDoktores

 

長男が生まれた時は夫の郷里に住んでいました。家族の知り合いも多いので町の新聞に長男出生の広告を載せました。

その広告には長男の両親の名前(つまり私たち)の前に博士号をつけましたが、この時には主人と並んで私も博士号を取っていました。ドイツ語で博士は『Doktor』ですが二人とも博士なので複数形『Doktores』と書きました。夫が「こういう表現は普通の人は知らないだろうね。でもラテン語ではDoktorsではないから」と言っていました。

舅の友達が私に「やっぱりDoktorとは違うんだね。」と言いました。私がDokorを取ったとは聞いていたのですが、半信半疑だった訳です。ドイツでも医者でなければ博士号まで取るのは大学に残る人くらいですから。そこへ新聞にDoktorではない称号が載っていたのでこういうコメントになったわけです。

 

 

旅行社

 

知人の息子さんが来て、ライン河の船に乗りたいと言うことで私が予約を取りに旅行会社へ行きました。カタログをみて船で一泊の旅を予約しました。

予約が取れて書類を受け取ってきました。そして良く見ると個室になっています。私はカタログの標準の二人部屋にして、同室の人とドイツ語の会話ができれば良い経験になるかと考えていました。旅行社の方で日本人が1人だから個室としたようです。主人が電話でこの点を説明しました。向こうは私の言葉が達者でないための間違いだろうと言ったそうですが (外国人だとこういう風に言われがちです)、博士号を取るだけの能力があると主張して、旅行社のほうの責任と認めさせました。